風人日記 第三十九章
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ウズベク色の空
  2011年10月2日〜12月31日







このページは日記であると同時に日々のエッセイ集、さらには世の中への自分なりの発言、時には創作かもしれぬジャンル不分明な文章を含めた自在な場所のつもりです。とにかく勝手に書きますが、時折は感想を掲示板なぞに書き込んでいただくと、こちらも張り合いが出ます。どうかよろしく。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)

『文学2010』(日本文芸家協会編)に短篇「行きゆきて玄海灘」が選ばれる

 発行は講談社、2010年刊。
 石原慎太郎、河野多恵子、辻原登ら18編の昨年度日本の短篇代表作アンソロジー。

 何と小生が年齢では上から3人目で、川村湊氏の解説ではわざわざ「ベテラン」として「他はみな新しい世代の作家」と区分けされています。私がそんなに歳とったのか、他の同世代以上が元気をなくしたのか、微妙な気分です。


 
なお、「ゆきゆきて玄海灘」は「季刊文科」45号(昨年8月刊)掲載作で、下記『オキナワ 大神の声』の番外篇とも言うべきものです。対馬・壱岐を舞台に、芭蕉の同伴者であった曽良の死をめぐって書いたもの。曽良の墓は何と壱岐にあります。
 未読の方、ぜひどうぞ。


『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社 2009年刊 2200円+税) 


 
              


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集で、境界地域としての奄美や沖縄の人の出入り、歴史と現状、そしてウタキ信仰や創世神話に象徴される神秘主義を描いたつもりです。
 もう一つはそれらを通じての人々の人生、そして私自身のインド以来の旅人生を描いたとも言えます。写真に出した宣伝チラシでは、編集者はそっちに注目しているようです。

 大手書店およびアマゾンなどネット書店にあります。毎日新聞9月20日に書評(川本三郎氏)、週刊朝日8月7日号に著者インタビュー、沖縄タイムス8月28日に紹介記事、ほかに図書新聞(中沢けい氏),mixiレビュー欄等に書評があります。この日記30章の中の日記からリンクしているものもあります。御覧ください。


脱原発を望む

 本年3月11日の東日本大震災とそれに伴って起った福島第一原発での大事故は、世界的に見てもチェルノブイリ原発事故と並ぶ大事である。
日本としてはまさに1945年の広島、長崎原爆以来三度目の国民的被爆体験といえる。

事態は1号機から2号機3号機と3機同時に起り、チェルノブイリの三倍以上の規模であるうえ、原因が活性化してきた地震列島上の地震である点も深刻にとらえざるを得ない。日本中の原発54基全部に同じ可能性がありうるのである。

加えて、この福島原発を含め日本の原発は絶対安全でありクリーンなエネルギーであると、東京電力始め各電力会社、政府、原子力学者の多く、そしてマスコミの大半が言い続けてきた。
だが、今回の事故においてメルトダウンはしていないと三ヶ月間も言い張ってきた東電や原子力保安院等の言が、すべてウソであり、事故の収束・被曝危険の無化には今後数十年の歳月をかけてもなお完全とは言えない事実が明白となった。

今、我々は本来、原子力というものが人間の力でコントロールできる類いのものではないことを深く認識すべきである。そうして我々が今後とるべき道は、すべての原子力からの撤退を目指し、ドイツが選んだと同じく20年程度のちには全原発の廃炉を目標とすることである。

しかるに目下の日本は、政治家も官僚も財界人もマスコミの半ばも、現状維持、産業・経済重視の曖昧な非理念的選択をする趨勢にある。

その中にあって、菅直人首相はひとり、「脱原発」の方針を鮮明にし、おのれの退陣と引き換えにその道筋をつけようとしている。菅総理の事績、行為、能力すべてを評価するわけではないが、私は上記の一点において菅氏を支持し、脱原発が国是として日本に定着していく契機になるよう心から切望する。

                               2011年7月15日
                                               夫馬 基彦


                        *これより日記                      
12月31日 いよいよ2011年も終り

今年は何と言っても3月11日の地震とそれに伴う原発事故が大きかった。

地震はああいう規模の被害の恐ろしさを目の当たりに見せたばかりか、同種のものが今後とも東海沖その他で実際に起きうることを実感させた。場所次第では名古屋や静岡など太平洋沿岸部の都市群が大被害を受けようし、それによってまた原発事故が起きる可能性大であることも痛感させた。

原発事故に関しては自然災害としての地震や津波よりはるかに深刻である。何しろ放出された、あるいは今も放出し続ける放射線は、半減するまでにセシウムで今後30年間、ストロンチウムにいたっては100年というから、それらを大量に浴びたらもう健康な人生はなしとなろう。それが東京や名古屋、大阪などで起きたら、平たく言ってもう日本はおシャカである。

昔「日本沈没」という小説やその映画化があって、ひとしきり日本が海中へ消滅滅亡していくさまを多くの日本人がフィクションとして思い描いたものだが、今後は沈没による消滅はないものの、地上でかつての原爆病と類似した放射線障害の重症者たちがそれこそ幽鬼のごとくひしめくさまを想像せざるを得ぬだろう。

本職小説家である(と自分では今でも思っている)私にしろ、そのさまは少し想像を開始するだけで呆然としてしまい、そこでどんな物語を紡ごうなどと考えられなくなってしまう。

まことに呆然自失、思考途絶、絶望、諦め、虚無、……。他に何か生き生きしたことなぞ生じようはずもなかろう。

そういう暗黒の淵のようなものを、少なくともチラと垣間見させられたのが今年だったという気がする。

そうして同時に感じさせられたことは、そういう事態になった日本および日本人がなんともはっきりせぬ、だらしない、いや、ひょっとしたら当面自分の周囲さえ大した異変がなければなにごとも別にさほどのことと感じない、鈍感な、あるいはひょっとしたら慌てず騒がず、悠然たる、本質的に諦念を身に着けた、大人の、いや実はどこか本能的に小狡く、利にさとく、最後まで経済観念だけを優先させる、不可思議な民族なのではとも思えてきた……。

いや(逆説ばかりだ)、いかんいかん、こういう否定的、暗い考えはもってはいかん。年末の総括として最悪だ、明日の新年巻頭は希望をもってこそ迎えねばならない、今日の大晦日はそのためにこそある、さあ明るく行こう!

とも思えぬ薄ぼんやりした夕方である。私としては午後以来、玄関から庭先、門のあたりまでせっせと竹ぼうきで掃き清め、水を撒き、どう見ても豪壮には見えぬ小さな鉄骨製の門と車庫の扉へ、1個150円の注連飾りに近所の道際でちょっと失敬してきた赤い南天の実を縛りつけたものを計2個、祈りを込めて結わえつけた。松の緑と南天の赤、小さな御幣の白が彩りよく目に鮮やかだ。これでいい、これで正月が来る。さあ、酒にしよう。


12月28日 昨日は終日家から出ず

朝から少し風邪っぽかった。肩が凝り、少し喉がひっかかり、やや微熱があった。前日から足腰のストレッチを強めにしていたので、そのせいかとも思ったが、やはり症状としては風邪だろう。

というより、この3,4日最高でも零下1,2度、最低は零下8,9度という厳寒日が続いたので、体が本能的に悲鳴を上げたというのが真相だろう。実際、この2日ほどは太平洋側育ちの身にはいささか恐怖を感じるくらいの寒さだった。

しかも日が照っている限りは、外へ出てしまえばそれなりに過ごせる点が怖い。なんだ、大丈夫じゃないか、なぞと思っているうち、それでも零下2度くらいの底冷えは体の芯まで冷やし切り、なかなか回復しないのだ。

一日大事をとったのと早寝でたっぷり10時間睡眠をとったせいで、今朝はほぼ回復したが、まだ怖くて外へ出る気にならない。家に籠って佐々木基一全集の解説準備に専心するつもり。

浅間連峰は白濁色の見るからに寒そうな雲に覆われている。


12月25日 ついに雪積もる

目分量では積雪2センチぐらいだが、視界は四方真っ白だ。木の枝に積もった雪が木々をきれいに見せている。浅間連峰は先ほどまで曇っていたが、急に晴れてきた。中腹あたりに薄めの棚雲が横に長くたなびいている。

気温は零下だが、日が照っているのでたぶん外気温はさほど寒く感じないのではないか。この日記を書いたら長靴をはいて外に出てみよう。

きのうのクリスマス・イブは何年振りかで(ひょっとしたら10年以上)、何曲か歌を歌った。ジングルベルから始まってサイレント・ナイト、赤い鼻のトナカイさん、最後がホワイトクリスマスだった。たぶんそのせいで、今日はホワイトクリスマスとなったにちがいない。

さて、外へ出るか。


12月23日 予報では最高マイナス2度最低マイナス7度

つまり終日零下ということだ。天候は晴れなのだから相当な厳冬ぶりということだろう。

おかげでこのところ外へ出る度合が減っている。敷地内でも焚き火のついでに畑なぞを軽く一巡したぐらいだし、これでは運動不足になると懐古園まで久しぶりに出かけたら、噴水の周りが凍っていた。最厳冬期だと噴水自体までがほぼ凍るから、まだ一歩手前ではあるが、ぼつぼつ池は凍るだろう。

連れ合いも買い物に行くのが減っており、おかげで常備しているリンゴまでがなくなった。信州のリンゴはうまくて必需品だから、これは異常事である。

世間では今日から3連休だそうだが、こっちはとっくに冬休み体制だ。きのうは冬至の柚子湯を夕方明るいうちから沸かし、のんびり入った。北信信濃町の一茶関係の地への取材行ももう年内は諦めた。

ゆったり感は出たが、気がついたら前々から頼まれていた原稿がある。佐々木基一全集第6巻の解説だ。先だって催促を受けたし、さあいい加減かからねばあとがない。


12月20日 北朝鮮の軍国体制よ倒れよ!

金正日の突然の死による報道は、もったいぶった講談師みたいな喪服の女アナウンサーによる「逝去告知」から始まって、大量の泣き女や泣き国民の動員という大仰で無様な芝居がかった状景が続いている。

そうして、国民が世界一の貧困と呼ばれるほど飢えているのに、一人だけぶくぶくに太った28歳のおたふくかぜ青年が「偉大な領導者」として後継者になるそうだ。

恥ずかしく、あほらしくて涙が出るが、この国の体制がもしそれで揺らがず成り立っていくとしたら、100万人の軍を始め官僚や役人、国民全体が情けないとしか言いようがない。

この国は何がどう作用し、とんでもない暴発も起りかねないから、単純にけしかけられないけれど、しかしやはり各部門でこのさい改革機運が勃興し、クーデタの一つも起るべきであろう。可能なら国民は総デモに立ち上がるべきであろう。

北朝鮮軍国主義よ倒れよ。民主化し、飢えをなくせ。これは隣国から長年、唇を噛んであの独裁体制を見つめてきた者の、心からの叫びである。北朝鮮軍国主義よ、倒れよ!


12月17日 目下零下8度

今日夕方、丸5日ぶりに小諸へ帰ってきた。駅を出るなり頬に空気がビンと刺すように寒かった。たぶん1度Cくらいだったと思う。
そして目下午後9時、外に出て測った訳ではないが多分零下8度くらいのはずだ。

さすがに寒い。屋内は床下暖房のせいで快適な温度だけど、食品庫へ入ると、体が瞬間的に締まる。ビールは冷た過ぎて飲めず、冷蔵庫へ2時間ほど入れてから飲む。つまり冷蔵庫は冷やすためではなく、あたためる場所なのだ。

ワインなぞも食品庫から出して飲み始めたら冷た過ぎ、おかげでどうも腹具合が悪くなった。

こんな寒い所へなぜわざわざ来なければならぬのか。今日の午前散歩した埼玉県柳瀬川土手は実に暖かく快適だったことを思うと、寒い冬は埼玉で過ごせばよいではないかという気がせぬでもない。

だが、小諸に来てしまうのは、自然の中の静寂、快適な屋内(埼玉のマンションは南側と北側の温度差がひどく、北側の書斎は北極と呼んでいる)、広さ、そして庭仕事や畑仕事の楽しみ、等があるからだろう。庭仕事類は木が殆ど落葉してしまっているから、枯枝の整理くらいしかないのだが、それでも明日になったらきっといそいそと庭に出るだろう。

こうしてあとはもう学校に通う必要もなく、年末年始をのんびり過ごせるかと思うと、つくづく疲れが取れてゆき、いい気分だ。

ただ代りに新たな心配もわいてくる。一茶の里信濃町へ行きたいと思っているのに、ニュースでは雪が相当降っているようで、果たして車で行けるかどうか、もう本当に「雪五尺」となっていないかと気が気でない。車でなく行く方法でもあればいいのだが……。

どなたかいい方法を知りませんか。


12月12日 結石、最短完治?

前回10日に書いた結石と思しき症状が、同日午後2時ごろから全く痛まなくなり、ひょっとしたら夜か翌明け方あたりぶり返すかと思っていたのに、それもなし。そして丸2日目の今朝に至るも何もない。

つまり常識的には完治、だが石自体は出ていない気がするので、ほぼ完治というべきか。それにしても石は小さくて見過ごしたのか、いや、かなり注意を払ってみていたからまずそういうことはないはずだし、いつもの右側の時と違って痛みの度合もさほどではなかったし、血尿も目に立たなかったし、もしかしたら結石ではなかったのかという疑念さえ生じたりする。

私の症状を見慣れている連れ合いは、「でも、やっぱり結石だったようよ」と言うが、だとするとこれから石が出るのかしら。どこも全く正常だし、はてフシギ、というところ。

考えられるのは左側は石が小さく、それで従来も出来てはいたが自然に流れており、今回はやや大きめだったから少し痛んだ、ということか。気になるのは結石でも胃でもなく、左腹部が痛くなる病気がほかにないかだ。これからネットで調べてみよう。


12月10日 またしても結石痛撃!

今日の未明3時ごろから何やら腹部に異常があり、トイレに起きたりしたが一向好転せず、どころか5時ごろからは次第に強い痛みが襲ってきた。

場所が私としては初めての左腹部だったため、しばらくは理由が分らなかったが、6時過ぎこらえきれずに起き出したころから、ひょっとしたら持病の腎臓結石が初めて左側に発生したのではと思った。そういえばこの8月の人間ドックで腹部超音波検査時に「左腎臓に結石の疑い」と出たのだ。

これは去年もそうだったし、その何年も前からそうだったのだが、一向具体的結石の痛み症状は出ず、出るのはいつも右ばかりだったため、私は長年、石が出来ていたとして大したものではない、自然に流れてしまう程度だろうと軽視していたのである。

それを今朝の痛みの中で思い出し(人間、やはりわが身に危害が及ぶと考えもめぐるものだ)、そうか、あれがやっと本当になったのかと閃いた。となれば対策はお手の物だ。要するに鎮痛剤を飲み、尿路拡張剤を服用、あとはなるべく水分をとって尿を多く排出するしかない。腎臓尿路結石というのは要するに物理的なパイプつまりみたいなものなのである。

で、ただちにそれを実行し、しかしまだ痛いので10時ごろ大宮駅で2錠目のロキソニンを飲み、鈍痛を抱えつつ小諸にたどりついた。すぐいつもの「ときそば」に飛び込み、「ビール!」と注文し、「結石が出てねえ。こういうときはビールを飲んで流すのが一番」と講釈しながら飲み始めたら、マスターが「ははあ、半年ごとに出るんですねえ」とのたまう。

「えっ?」「だって6月の時も同じようにビール飲みましたよ」。その通りなのである。私は6月にも結石が出来、ここで同じようなことを言いつつビールを飲んだのだった。うーむ、マスター、よく覚えてる。

感心しつつ飲み、ここまでひとにも知られているぐらいだから、まあ今回も大丈夫、と急に無根拠な元気が出、パクパクそばも食べ、帰宅して一寝入り。2時ごろ起き出してみたら、全く痛くなくなっている。まだ石は出ていないからおそらく膀胱に押し流され、中でぷかぷか泳いでいるのだろう。小さければそのままやがて流れて行き、小さくなければ夕方以降もう一度痛がらせるだろう。いたづらな奴である。


12月6日 一茶の本

小林一茶のことだが、彼の本をずっと読んでいる。元来は彼の句集だったが、ついで彼を主人公にした小説、そして今は彼および彼の句についてのエッセイ、という具合だ。

きっかけは私自身が信州に住みだしたこと、それも北国街道のある町だったことが大きいかもしれない。一茶の故郷にして終の栖(すみか)となった地は、信州ではだいぶ北端に近いが北国街道沿いの村だったのである。我が家の近くの北国街道を見つめていると、このずっと先に一茶が住んでいたのか、この道を彼は江戸から柏原へと何度も往復したのかと、その姿が浮んでくるような気がするからだった。

そしてこのごろでは、12月の寒さを感じるにつけ、50歳を過ぎて江戸に別れを告げこの道を北上して死に所に赴いた彼の句が身に迫ってくる。

  是がまあつひの栖(すみか)か雪五尺

雪五尺といえば1メートル50センチである。今はさすがにそこまではもう降らないだろうと思うが、しかしある程度は積もるはずだ。私は車の運転を心配しながらも、なんとか雪のある時期に柏原に行ってみたいと思っている。


12月3日 めでたさも中くらいなりおらが誕生日

満68歳になったのである。これくらいになると、ついにオレもそんな歳か、と情けないような気分も伴い、嬉しいのかどうか定かでない。連れ合いも一向何も言わないから、「あの、何か忘れてない?」と言ったら、「あ、そうだった、そうだった、おめでとう」なぞと慌てて言った。

でも、ちゃんと祝ってくれる人もおり、一昨日は卒業生3人がケーキを持って現れ、寿司屋で一献やりながらケーキ上にろうそくを立て、「先生、さ、吹き消して」と言ってくれた。他にオールドパーを贈呈してくれた人もいる。

授業では言ったのだったか言わなかったのだったか。連句の時間にちょうど花の座で、「花爛漫歳経つごとに咲き誇る」という句が出たので、よほど今日がぼくの誕生日だと言おうかと思ったが、なんとなく言わずじまいになった。「花爛漫」とか「咲き誇る」がさすがに身にそぐわぬ感がしたのかもしれない。

がまあ、このところ毎週忘年会やゼミ飲みが続く予定なので、おいおいつい述懐しそうな気がする。「いやあ、ぼくもとうとう68歳でねえ。信じられんねえ」なぞと。

ウズベキスタンにいる娘からも、日本語を教えている大学で学生から「お父さんの歳は?」と聞かれ数えてみてびっくり、だいぶ年寄りねえ、なぞとメールが来た。気づくのが遅いのである。この9月その年齢で遠くウズまで行ったのだ。くたびれたわな。

これで定年(70歳)までのありようもだんだん予測がついてきた。大学院修士課程の指導教授資格は2年間継続が前提だから、来年度入学生からはもうそのコマに関しては持てないなど、具体的な影響が早くも現れたりする。おのずと今後の授業の組み方も変わってくるのである。

先に同じ道をたどっていったはずの年長の知人たちの様子が思い浮び、なるほど、あの時、あの人はこういう気持だったのか、今はどうだろう、などと考えたりもする。

ふーむ、だいぶ述懐になってきた。「述懐」は俳諧では「無常・述懐」と言って老年とか死に近づく含意の用語である。


11月29日 レントゲン検査異常なし

8月下旬の日大健診センターでの人間ドックの結果、「3ヶ月後左肺のレントゲン再検査をされたし」の書き込みがあったので、訝りつつ今日、小諸の医院にて検査を行った。訝ったのは思い当ることがなにも何もなかったし、10年近く前同じように左肺の再検査をされたしとされたが、検査の結果、「何ら問題なし。なぜ健診センターはそんなことを指示したんでしょうね」と首をひねられたことがあったからだ。

だから、訝るというより、またか、の気分だったが、しかし言われれば気になるものだし、兄が57歳で肺がんで死亡している事実もあるから、無視するのもなんだと思ってホームドクターに行ってみたのだ。

レントゲン結果はすぐ出、医師は「きれいなもんです、私が見る限り何も問題はないと思いますがねえ」と首をひねった。以前とほとんど同じ反応だ。

で、私はその類似性にかえって安心した。何しろ二つの再検査の間の10年間ぐらいは毎年のドックの結果が一貫して「異常なし」だったし、それを挟んだ2回の再検査結果がほとんど同じということは、まさに異常なしということであろうと思えるからである。

おまけにもう一つ「再検査されたし」とされていた血清CRP値なるものも、今回の医師によれば「この数値は全く正常値ですよ。だいたいこの検査表の基準値は0.19とされていますが、通常は0.3とされています。なぜこういう基準値になってるんでしょうね」とまたしても首をひねった。

そしてCRPについて詳しく説明を聞いたが、よく分る内容だった。かつては基準値が0.5だった時期もあるという。私はそれを聞いていて、なんだか最近の放射線量許容量の数値が短期間にあれこれ変動したことと似ている気がした。何だ、医学的基準値なるもの自体がそもそもその程度のものかという気さえした。

白血球など他の要素との関連からいっても、少なくとも私の数値がそんなに再検査を要するものとはどうも思えない。よって、私はこれにもかえって安心し、むろん再検査などせずにさっぱりした気分で医院を辞した。

医学的数値というものは一体何であろう?


11月27日 90歳の死

つい10日ほど前、近所で事故死があった。90歳のおばあさんが柿をとろうとして落ちて死んだのだ。

自宅の母屋の前の木で、樹令も古そう、今年は界隈一帯が柿の生り年らしく、どこの木もあふれんばかりに実が生っているが、このお宅のも同様だ。丁度私の書斎から見える位置にあるのだが、やや小ぶりの実がざっと見るだけで200個やそこら生っていそうである。

おばあちゃんははしごで屋根に上ってそれを採ろうとしたらしい。そして木からか屋根からか落ちた。落ちた体の近くには小鋸と枝も落ちており、木の上方には枝を切ったばかりの跡が残っていた。

出かけていた娘さん(といっても60歳過ぎ)が帰ってきた時はまだ息はあったそうだが、救急車で病院に運ばれまもなく亡くなったという。

近所ではしばらくこのことが話題になったが、みんな話しながらなんとなく少し微笑んでしまう。「90のおばあちゃんが柿の木からおっこったんだって」「まあ、元気なこと」「なんだかいい死に方よねえ。誰にも迷惑かけず、寝込みもせず、好きな柿とって」、などといった具合だ。

実際、看取った娘さんの第一感想も「母はずっとおてんば娘だったんです」ということだったから、聞く方もやはりいい死に方だったんだと納得できる。近所がひとしきり和やかな気分に包まれたし、昨日あたりは新聞の集金人さんまでが「いやあ、90のおばあちゃんが柿の木から、ねえ!」とやはり嬉しそうに喋っていった。

私は3年前植えたばかりの我が家の柿の木は、落ちて死ねるくらいの大きさになるにはあと何年かかるだろうとしばらく考えた。目下樹高1メートルである。



11月26日 歌仙、まもなく満尾

先ほどの連句の授業で今週の授業も終りとなってほっとした。そして研究室に帰ってノートを見直していたら、歌仙満尾まであと3句である。授業としてはあと1、2回だろう。

私は挙句(36句目)まで行ってから、「総括」として全体を見直すのを常としているから、挙句即終了とはならないものの、ともかく歌仙36句満尾とはなる。今年は前期頃やや遅れ気味だったのが、いつの間にかスピードアップして、例年通り12月半ばにはブジ満尾という次第だ。

4月からの授業ではじめの何回かは連句の歴史や解説、歳時記や暦の基礎説明などもするから、歌仙の実践開始はだいたい5月の連休明けとなる。従って、歌仙満尾までは毎週1回で実質半年となる。

5、6月頃は今年ははたして無事に巻き終えられるかと心配になったりするが、後期の今頃になると、不思議に落ち着くところに落ち着くから不思議だ。ずぶの素人だった学生諸君も今頃はすっかり堂に入った作り方をしてきたりする。前期はまるきり採用されなかった者もいつしかちゃんと句が採用されている。全く未採用は一人だけとなった。

それでちょっと満足感も出て考えていたら、年間を通して歌仙を巻く授業を始めて今年で丁度満20年になることに気づいた。大学で歌仙を巻く授業は、国文科の俳諧や芭蕉の先生などが何時限かをあてる程度はあっても、1年ずっと歌仙を巻く実践的なものは殆どないはずだ。だから、始めた当初はかなりの冒険でもあったのだが、私も学生もいつしかすっかり馴染んでしまった。

実践中心の日芸文芸科という場所がうまく水にあったのかもしれない。おかげで、この授業は私の持っている何コマかの授業の中でも、楽しんで出来る貴重なものとなった。ほかの授業はいい加減やめたい気も時にふっとするが、連句だけはやめる気は全く生じない。

あと何年続くことになるか、自分としても楽しみなことである。


11月23日 海野(うんの)宿のふれあい祭り

海野宿は北国街道にある古い宿場町で、現在では東信州の東御市のうちだが、そこで祭りがあったので、祭り好きの私はさっそく出かけてみた。

午少し前に着いた宿場は、街道筋1キロほどの間が人でいっぱいだった。車も、千曲川沿いの各駐車場どこもほぼ満杯の盛況である。街道は両側とも黒っぽい古い家並が連なり、道の中ほどをきれいな用水がさらさらと流れているのが印象的だ。

宿は元来養蚕で発展したらしく、がっちりした黒い建物の2階部分は蚕室になり、屋根上には空気抜けの桟がついた櫓とか小屋根と呼ばれる部分があるのが目立つ。卯建(うだつ)も多く、何種類かあるようだった。

家の前には町の人が出店を出して、野菜やおやき、自家製パンやケーキ、玄米のおにぎり、みたらし団子、などの食べ物を出しているほか、衣類や民芸品なども並べている。

地蔵寺跡の公民館風建物ではほうとうを2種、一杯200円と100円で売っている。お神酒もタダでふるまっているが、私はむろん飲めない。代りにあれこれ試食品をちょこちょこつまんだのち、大きな座敷でやっているそば屋であったかいかけそばを食べた。出汁もほどよくなかなかうまかった。

宿場の東入口にある白鳥神社が樹齢数百年の大欅が3本もあって、寂びた風情がなかなかいい。そこで小学生の女子4人と男子青年たちの雅楽隊による浦安の舞が演じられたのだが、巫女たちは紅一つつけない素顔そのものなのが珍しかった。普通こういうときは頬紅や口紅などいかにもかわいらしく化粧をするものなのに、この宿の伝統なのだろうか。

私と連れ合いはこのあたりではねずみ大根と呼ばれる辛味大根や太くて長い牛蒡、野沢菜や胡桃入りおやきなどを買い込んで帰った。


11月20日 日大芸術学部創設九十周年記念式とパーティー

昨日は東京新宿のハイアット・リージェンシー・ホテルで、正午から式、ついでパーティーが行われた。

九十年というのは1921年に日本大学法文学部美学科として神田で出発して以来の意で、24年に文学科文学芸術専攻と改称、39年に芸術学部の紋章(目玉のマーク)を制定、板橋区江古田町(現在の校地)に移転、ほぼ今の体制となったそうだ。

学科も当時は文芸、映画、音楽、演劇、美術の5科だったが、その後写真、放送、デザインが加わって8学科となった。デザインが出来たのは1996年だから、そんなに古いことではない。

所沢校舎が出来たのも1989年のことだから、いわば平成とともに出発したわけだ。これも新しい。

式では来賓等から「日本における唯一の総合大学」とか「唯一の芸術総合大学」などとずいぶん褒められた。前者は東大にしろ早稲田大にしろ芸術学部なぞないだろうという意味、後者は今や大阪にもあるしちと違う気もするが、少なくとも国立の芸大などとは違って8学科ジャンル全部あり、という意味であろう。

手前みそ的要素はこの際大目に見るとして、確かに何十年も前から芸術各科をそろえ、実践的教育をして来、多くのアーチストを育ててきたのは確かなことであろう。今の日本ではどのジャンルでも、たいてい日芸出身者が活躍しているのは事実である。

というわけで、私なぞ脇からの参入者としても威儀を正し(年に3回くらいしかつけないネクタイを着用)、背筋を伸ばして、うなづきながら歴史・経過等に聞き入った。

来賓には中国伝媒大学学長も来られていたが、その伝媒大に私も8年前には3週間交換教授でお世話になったし、他に大学派遣でニューヨーク・サンフランシスコに3ヶ月間行かせてもらったこともある。そして現在に至るまで、客観的には相当のロートルになった身にかかわらず、若い学生諸君と気分よく接していられるのはなんとも有難いことだと思った。

パーティーでは、すでに退職されている伊藤礼さん、横川眞顕さんほか何人もの懐かしい人と会えたのもよかった。私はパーティーの類はあまり好きな方ではないのだが、こういうことは他ではないだけにパーティーの効用もまた感じた。


11月15日 寒くなった

予報通り今朝は寒くなった。明け方は2,3度C、今でもたぶん6,7度。着替えの時、長いズボン下というか股引を出してはき、上もウールのシャツを着た。むろん今冬初めてで、あったかい。

おかげで空は真っ青に晴れ、浅間連峰も清澄に見える。雲は遠景にあり、白馬連峰などが見えないのが物足りないが、だんだん見えるようになっていくだろう。

ただし、今のところ浅間はどこも冠雪の気配がなく、中腹の落葉松の黄葉がまだ残っている。あの黄葉が消え、頂上部が雪で白くなれば完全に冬である。山麓の我が家界隈もそうなれば連日零下の気温となろう。

厳しい冬はつらくもあるが、ピリッと引き締まっていい面もある。問題は高血圧への影響だが、汗をかかずにすむ夏の涼しさを思えば、こちらは我慢しかなかろう。

明日からまた東京界隈となるが、この時期になると向うの暖かさにホッとする。体は確かにラクになる。代りに新たな問題は衣類だ。こちらを出るときは冬装束、大宮に着くと途端に一枚くらい脱ぎたくなる。

今日は懸案だった短篇原稿が上ったので、気分がいい。昼食に馴染みの「久兵衛」へ行こう。ここの昼ランチは手ごろで旨い。


11月11日 どこもかも

暖かかった。埼玉もあったかかったし、小諸に着いてもあったかかった。着替えて庭を歩いてもあったかかったし、夕方懐古園を歩いてもあったかかった。
木立の間はすきすきで、下に千曲川のダムや流れが見えるのにやはりあったかかった。

おまけに湿度も高い。我が家は一種の床下暖房なので、乾燥度が高く、去年までは除湿機が必要なほどだったのだが、今年は秋になってもまだ必要を感じない。今も湿度約60%である。

これは一体なぜだ?

明日からは冷えるらしい。霜柱が立つか。


11月8日 オリンパス不正経理問題

日本らしい、日本人らしい、とつくづく思った。アホらしくてあれこれ細かくいかる気にもなれない。日本は各所でおそらく似たことをしているのだ。

(この間にあれこれ書いたのだが、虚しくなって消した。)

何も言いたくない。黙って早く寝る。


11月6日 静寂と闇

きのう小諸へ帰って、次のような「つぶやき」をしたら、早速何人かの人から「イイネ」マークがついた。

「小諸へ帰ると静寂が身を包んでくれる。これは本当に得がたい。埼玉にいるときは窓を閉め切りカーテンを閉めていても、どこかから音が来る。真の静寂と闇(これも東京界隈ではめったにない)は人間の安寧にとって必需品である。」

これは小諸にいると当り前なことになってあまり意識しなくなるが、東京界隈から戻るとしばしば痛感する。逆に小諸からあちらへ行くと、ああ、音と光がいつもそこらじゅうにあるなと思う。どちらも深夜外に出ても絶対どこかにある。

私は若いころ伊豆の山中の集落に一人住まいしたことがあり、そのとき東京人からも地元の村人からも「物好きだな」と言われたりしたが、あえてそういうことをした理由の一つは静寂と闇にあった。

いや、正確にいえば当初はもっぱら静寂にあったのだが、だんだん闇も得がたいものに思えてきた。

しかも田舎にいても真の闇というものはそう滅多にあるわけではなく、月光もあれば星の光もある。遠くの家の軒灯が鈍く光っていたりする。つまり真の闇のためには天体の光も人為の光も何かの理由ですべて消えた時以外ないわけで、これは年にほんの何回かしかなかった気がする。

だから、そういう時私はわざと室内の光もすべて消して、じっと闇を見詰めたりした。まさに闇なのだからほんとに何も見えないのだが、何も見えないことそのものがえらく新鮮で、フシギなものだと思ったりした。

その意味では、小諸には実は真の闇はない。ここらは夜通し軒灯を付ける習慣の家が多いし、街灯も所々にある。夏、樹木に包まれていてもどこかに光はあるし、今頃の秋から冬になると、木の間から遠くの町の灯まで見える。

静寂も実を言えば真にはなく、虫なぞはかなり鳴いている。だが、それがかえって静寂を際立たせ、その静寂がまた闇を増幅させているような気がするのである。


11月1日 ドジ

今日は午前中書きかけの短篇原稿がうまく行っていたのに、明日から数日は都合が悪くなるからという理由で隣町御代田町の2か所に昼過ぎ出かけることにした。

1か所はメルシャン美術館。ここは11月6日をもって閉館するので、最後の展覧会をぜひ見ておこうと思ってのことだ。昨日は月曜日だったので、美術館は休業だろうと考え、わざわざ今日にしたのである。ところが行ってみたら門に「本日火曜日は休業です」の掲示が出ている。言っておくが日本の美術館の90%は月曜が休業日なのだ。ムググ、ゲヘッとはこういう時に出る言葉にならぬ言葉だ。

2か所目は9月に初めて行ったばかりのギャラリーはやみでの「山本宗スケ(衣ヘンに甫)写真展」である。前回の「東日本大震災展」に次ぎ今度は彼の100歳近い母君や90歳ぐらいの叔父を始め田舎の老人たちの顔を撮った展覧会だ。ところが、これも出てきた妹さんがあっさり「あ、あれはもう終りました」。なんでも半月前までだったそうだ。

私は期間は1カ月と思いこんでいたが、それは前回の展観と半月づつで合せて1カ月の意だったという。

一体大事な時期に何のため出てきたのかとしばし声もなかったが、気を取り直し妹さん経営のフリーマーケットに入ってみたら、掘り出し物を見つけた。私の好きな小鹿田焼にそっくりな小石原焼なる物の中鉢が1個800円で売りに出ていたのだ。妹さんによれば同じ場所のほぼ同じ物とのことだ。

私は勇躍2個を買い求め、すっかりいい気分で帰路についた。帰宅後眺めてみてもなかなかいい。結構なドジだった。


10月29日 マンズワイン収穫祭

今日初めて参加してみたが、楽しかった。小諸ワイナリーは近くにあるのに、高級品中心でたいてい1本3000円以上するから、日ごろはさほど利用していなかったのである。たまに付属レストランでグラスワイン1杯程度を飲みながらイタ飯を食べる程度だったのだ。

今日の収穫祭はブドウの収穫という意味かワインの収穫という意味か確認しなかったが、要するに秋の収穫に合わせてワインを安く飲んでもらおうという催しのようで、小諸周辺の人たちにはえらく好評らしいと知って、私も連れ合いと連れ合いの娘ともども初参加した。

会場はブドウ畑脇の広場で、マンズワインのマーク入りワイングラスを1個300円で買うとお好みワインが1杯無料、以降はどれでも1杯50円というシステムである。食べ物はチーズセット500円、ビーフステーキ500円、かけそば200円、焼き肉300円といったふうに、地元の人たちが出店しているものが中々旨い。

私は上記のものを3人で分け合いながら一通り食べ、ワインは3杯お代わりし、加えて普段は入れない地下セラーで高級ワイン「ソラリス」(1本5000円)をグラス1杯200円で飲み、最後は日本庭園内の茶室でお薄1杯200円をいただいて締めた。

いやあ秋晴れの青空のもと、近来にない気分のいい2時間余だった。そば売り場では売り子役の市役所の土屋課長および客の町屋館勤務「小諸ヒナ」さんとまで会った。

残念だったのは会うのを楽しみにしていたツイッター仲間「山麓人」さんとうまく行き合えなかったことだ。あまりの賑わいに出会うのを途中から諦め、私はブドウ園の中で草の上に座って飲んでいたせいかもしれない。
まあ、そのうち別の機会もあるだろう。


10月24日 権力と人間ーリビアとロシア

このところ二つの事象を見ていて、表記のようなことがずっと頭に淀み続けている。

一つはリビアのカダフィの末路である。
シルトの下水道菅の中にいるところをつかまり、若い民兵たちに殴ったり蹴ったりされ血まみれになりながら、ついに自身所持の黄金の拳銃なるもので撃ち殺されたと、そのケータイ映像の一部を見せられると、哀れさとともにかつての栄光の革命家・独裁者の像も同時に浮んで来て、ウームとうならざるを得ない。

実際、若き日の彼は貧困から身を起した革命的青年将校の趣きは明らかにあったし、権力掌握後の反アメリカ帝国主義、非欧米的物質主義・資本主義の様子は少なくとも注目に値するものだった。砂漠のテントに暮しながら米軍の空爆何するものぞの気配は痛快でもあった。

だが、40年にわたる権力の座の間にどう変質していったのか。そのテントなるものも世を欺くカモフラージュで、彼と家族の館は金銀きらめく秘密宮殿の装いだったとか、各地の秘密刑務所敷地からは膨大な白骨死体が発見された等と聞き、実際その映像を見せられると、なぜこういうことになってしまったのかとつくづく哀しい。

もう一つはロシアにおける次期大統領にプーチン復活、メドベージェフと大統領・首相を交代するらしいというニュースだ。

つまりプーチンは2期大統領を続けたあと、3選禁止の憲法条項のためメドベージェフをいわば代理大統領に立てておき、1期終ったから改めて大統領に復帰、今度はメドベージェフを自分に変って首相にするという話だ。

これは要するにこの間の4年間もメドベージェフはプーチンの傀儡だったことの証明であり、今後もそうであり続けるということだろう。しかも今度は大統領任期は6年と改訂しての上のことだから、それが2期続けば今後12年間はプーチン独裁体制になる可能性大であろう。これまでの2期8年プーチン大統領時代、1期4年メドベージェフ傀儡時代を足せば、計24年間のプーチン権力体制というわけだ。

しかも、彼はもともとソ連時代から過酷をもってなる秘密警察KGB長官だったから、秘密警察長官が以降24年間大国ロシアの権力を掌握し続けるわけである。

こういうことは一体何なのだろうか。単にリビアとロシア2国の特殊状況というわけでもなかろう。しばらく前のイラクのサダム・フセインもそうだったし、私が先日訪れた中央アジア・ウズベキスタンのカリモフ大統領(共産党第一書記時代から体制変化にもかかわらず20年以上権力を握り続けている)しかり、北朝鮮のどうやら近々3代目襲名らしい金王朝は言わずもがな、今や世界第2の資本主義経済国家中国の共産党独裁権力・個人崇拝傾向まで含めれば、なにごとかが浮んでくる。

人間というものは権力が好きというか、どうやら権力というものが人間を頽廃させる魔物なのだろう。


10月22日 雨の中、これから小諸へ向う

雨が降っていて寒い。チョッキを着、上着を着るつもり。先週までは8時すぎに家を出ていたが、今日は9時にする。

軽井沢あたりはもう紅葉で真っ赤だろう。小諸も今日から懐古園紅葉まつりだから雨さえやめば散歩しよう。

今日明日はマンズワイン小諸ワイナリーの「収穫まつり」で、うま酒が安く飲めるのだが、会場は屋外のブドウ園脇だから雨では無理かな。ま、明日に期待する。

さあ、ぼつぼつ出よう。

23日付記 
今日、出かける直前に収穫祭は来週だと人から知らされた。いやあ、あぶない、あぶない、ボケの始まりかしら。


10月18日 懐古園の朝の散歩

小諸城址は明治になって士族会(旧小諸藩士の会)の所有となり、懐古園と命名された。いまだに所有者は士族会で、公園としての管理は小諸市が入場料をとって行っているが、敷地内にある旅館山城館や茶店四海浪は民有のままである。

入場料は午前8時半から午後5時までで、それ以外は門は開けっぱなしだから市民は皆自由に散歩やウオーキング、ジョッギングのコースにしている。

我が家から懐古園裏口はたった3分の距離だから、まあいささか意気がって言えば懐古園は「離れの庭」みたいなものだ。

よって、ちょくちょく散歩するわけだが、今朝8時20分に入ったらもうすっかり紅葉が美しくなった馬場に、今日から始まる菊花展のテントがずらりと並び菊の搬入が始まっていた。

横綱をかたどったもの、高さ4,5メートルほどもある五重の塔、お馴染の鶴亀など作りもの類、厚物、管物(くだもの)など多数が、多くはまだ蕾のまま据えられつつある。これで昼になって陽が照れば花はだんだん開いていくのだろう。

22日からは紅葉まつりも始まる。桜や楓はすでにほぼ真っ赤、他の木もあと数日で錦模様となろう。

それらをまだ人影まばらな早朝、のんびり見ながら歩くのは実に気持がいい。富士見台からは遠景はるかにちっさな富士山も見えたし、もう一つの見晴らし台からは千曲川のダムや流れ、色づき始めた対岸の御牧ケ原が見渡せる。ダムが東電所有だということだけが少々気に入らないが、まあ結構な「離れの庭」ではある。


10月15日 うまくいかないものだなあ

今日小諸に帰って第一にしようと思っていたのは、ぼつぼつシーズンのはずのりんご「信濃スイート」の大玉を田舎の母ほか何人かに送ることだったが、馴染みの青果店に行ったらいつものマスターがいない上、数が足りない。で、店からケータイでマスターに電話してもらって話した結果、明後日に揃えてもらうことになった。明日は日曜で市場が休みということだろう。

次は今朝、軽井沢駅で列車の乗り継ぎ待ち中に「軽井沢新聞」で見た大賀ホール来週のコンサートに行きたくて、ネットのサイトで調べたら、すでにチケット完売だったこと。イ・ムジチ合奏団によるモーツアルトの交響曲40番などで、これは本当に聴きたかっただけに実に残念だ。ま、今まで知らずにいた上、たった1週間前に買おうなぞというのがむしのよすぎることだったのかもしれないが。

それにしても大賀ホールは小諸に引っ越して以来3年近く、今度は行こう、今度は、と思いつつ、まだ行けずにいるのだから情けない。日時がほんのちょっと合わなかったり、来週までに決めようなどと思っているうち、どういうわけかこうなってしまっているのである。意欲が所詮その程度ということなのかしら。

一つだけうまく行ったのは、我が家の庭に3年前小さな苗木を植えた柿が今年早くも実がぎっしりなっていたのを、午後、おそるおそる1個だけ試食してみたところ、ちゃんと甘かったことである。まだ少々硬く、完熟とか絶品とはとても言い難かったが、ともあれもう少し待てばまずまずの味で食べられそうなのが分っていい気分だった。自分で手塩にかけ育てたものが実を結ぶとはまさにこのことだろう。


10月13日 研究室に来ると

どうも日記を書きたくなる。書類整理などが少ないときに限るけれど、時間に余裕があると手が出る。

いまも文芸創作論の課題作をどさりと机上において読み出そうとしたのに、手がこちらの方に動いてしまった。理由の一つはひょっとしたら自宅のパソコンが不調で扱いにイライラする点があるからかもしれない。研究室のマックはその点スムーズでかつ扱いも簡単なのである。

もう一つは環境というか視界ががらりと変るせいもありそうだ。高さは5階でさほどではないが、遠景には新宿西口の高層ビル街も見えるし、近くには江古田駅周辺も見える。ホームも見えるし、南口の駅前風景も半ばが見える。

私は街をあまり好きではないはずだが、しかしあまり気ぜわしくない落ち着いた街だと安心感と親しみも感じる。ちょっとうまい食べ物屋があったり、気楽に覗ける本屋があったり、教え子にばったり会ったりする街はいいものだ。

遠景の高層ビル街もしょっちゅう行こうなぞとは全く思わないが、遠景で見る限り「ああ、東京だな」と、文明とか現代都市という言葉を思い浮べるのが面白い気がする。今日みたいに霧がかなり濃いと、高層ビル街はそれ自体蜃気楼みたいに思えるのも面白い。あれははたして実態があるのかしら?

小諸の林の中にいた目から見ると、それはまるで不可思議な幻影みたいに思えるし、しかし近景のぎっしりつまった建物や街を見下ろすと、その集約度、密集ぶり、そこからじわりとわき上がるエネルギー量みたいなものに圧倒される感もある。

衰えたりとはいえ、やはり世界有数の大都市だ、生産と文化の集中点だ、という実感は否めない。緑は線路際くらいにしか見当たらない。白や灰色やベージュ系統の巨大な無機物群が一面に広がっている。


10月9日 1時間の違い

埼玉から小諸への土曜日の移動の時間を2週間前から1時間早めた。当然1時間ほど早く到着する。すると、土曜日の時間がずいぶんある感じがする。

従前は11時半ごろ小諸駅に着くとそのまま行きつけのそば屋へ行き、ホッとした気分でビールを1本飲んでお喋りし、昼食を済ませて帰宅すると12時半か1時近くで、ちょっと昼寝をしたりすれば、あとは留守中の郵便物整理とか庭の点検をしてもう1日が終りの感じだった。

それが10時半につくと、まだ昼食には早いからそのままさっさと帰宅、郵便物整理と庭の点検は午前中に済んでしまい、昼食を自宅で済ませれば午後は完全に自由時間になり、秋の涼しさのせいもあり午後なのに庭仕事なぞ始めても気持がいい。で、本格的に3時間ほど汗をかき、夕方には散歩が出来る。

すっかり落ち着いた気分で晩酌をしていると、帰ってきたのはいつだったかしら、などと思ったりする。「今日じゃないの」と連れ合いも言いながら、「でも、なんだか一日得したような気分になるわねえ」と呟く。

1時間の違いで1日得した気分になれるとは、まことに有難いことだ。でも、実感的に本当だからフシギなものである。


10月7日 定年退職記念飲み会

と言っても映画学科の山田さんと二人だけなのだが、山田さんがこの8月に定年を迎えたので遅ればせながら新学期早々に一献やった。

定年は誕生日に来るので、今年度授業などは非常勤講師としてそのまま継続だし、学生には何の変化もない。教師としては待遇が大幅に変るほか、教授会以下の会議類がなくなるのが大きな違いだ。

変化の感想はどうですと聞くと、山田さんは会議類がなくなったのは実にさっぱりしたとのこと。映画学科の場合、ほとんど毎週長い会議が続いたというから、確かにさっぱりするだろう。

授業の方はこのまま非常勤の定年まで目いっぱい続けたいそうだ。学生が好きらしい。NHK出身のカメラマンなので、もともと現場中心だったせいか、授業も多くは実習形式で、1コマの授業に半日くらいあてたりというから、それがなくなるのは淋しいのだろう。

長身引き締まった体型の彼は、まだまだ体力もありそうだ。冗談交じりに大学院の定年は80歳だからそれまでは…、みたいなことも漏らされた。大した意気込みだ。私なぞ今でも時々出校が嫌になるのに。

しかしまあ、自分も定年になったら案外同じように考えるのかもしれないとチラと考えた。


10月4日 古い薪・枯れ枝の山を燃やす

我が家には全部で4か所に2年来の薪・枯枝類が積み上げられている。その一番のおおもとは2年半〜2年前に敷地内のアカシアや桑、合歓などの古木・枯れ木類を伐り、長さ1メートル前後に挽いて積み上げたものだ。

当初はとりあえずここらに置いときます、と職人衆によって積まれたまま、三角形に積まれたその風情がなんだか森の中、山の中みたいで気に入り、すぐ処分を依頼せずそのままにしてきたのだった。

そこへさらに新たな枯枝・伐採木が上に積まれ、という具合でどんどん大きくなっていった。4か所と書いたが、小さいものまで入れれば5か所になっていた。

それを最近になって、当時の工事関係者で自宅に薪暖炉がある人が、あの薪いただきますと太いものだけを引き取ってくれたのである。大いに助かったが、問題ははげ落ちた樹皮や細い枝(といっても棍棒以上の太さ)、小枝類は残されてしまったことだ。

で、せめてそのうちの一部を焼却処分しようと、昨日今日と二日間午前の3時間ほどを使って燃やした。折からめっきり寒くなってきたので丁度いいと思ってのことだ。夏の間は燃やしたくても暑苦しくて無理だった。

焚火といっても相当量の枯れ木を燃やすとなると、ごうごうと火炎が上り、そばにいるだけで熱い。それも前面だけが熱く、背中は寒い。火の具合を調節しようと近寄ると顔に熱気が吹きあたり、眉毛が焦げはせぬかと思うぐらいだ。

だが,火を焚くことは人間にとってなかなか面白いというか、どこか本能的に何事かをかきたてられるところがあり、バケツ2杯の水を用意した傍らで飽きもせず火を眺め続け、次々と薪を足し、3時間ほどの時間を過ごした。

かくして一山分を二日間でやっと燃やし終ったのだが、さっぱりしたその跡地を眺めホッとした一方、さて、今年は冬の間中ちょこちょこと残りを燃やしてやろうと楽しみに感じたのだった。薪の山はまだ3山はたっぷりあるのである。


10月2日 山本宗スケ写真展を見る

今日は御代田町のギャラリー「はやみ」で、山本宗スケ写真展「大津波と放射能汚染の現場から」を見てきた。山本さんは以前、日本ペンクラブ獄中作家・人権委員会主催の集会に出演してもらった際に会った縁がある。信州御代田に暗室をお持ちとのことで、小諸に住むようになってからそのうち会えるだろうと思っていた。

写真は、3・11の日以来いち早く被災地に駆けつけ何度も往復しながら撮られたものが中心で、改めて震災のすさまじさと衝撃を語るものだった。氏の視点には人道と正義感があふれ、かつ仏教的深みもあって、かつてはインド派で仏教徒を自称した私にも即ひびくものがあった。

写真展は今日で一旦閉じるが、すぐ4日からは「またあした 日本列島老いの風景」も開かれる。それには氏の91歳のお母さん、90何歳かの叔父さんなどの顔が並ぶらしい。他にも日本の老人たちの顔がいろいろ並ぶのだろう。これも面白そうなのでまた見に行くつもりである。

また、会場は最近、郷里に帰られた山本氏の妹さんが始めたミニギャラリーで、隣はもとドライブインだったかなり広い建物をフリーマーケットとして使っておられる。目下は自分の持ち物を廉価販売する形だが、参加希望者があれば持ち寄って運営したいとのことだった。

軽井沢と小諸の中間点、国道18号線沿いで地の利はかなりいい。うまく発展していくことを祈る。