風人日記 第四十章
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浅間の雪
  2012年1月2日〜3月31日

2012年1月3日撮影。自宅から少し坂上の空き地から見た浅間連峰。
右から浅間嶽(奥の白い部分が頂上)、黒斑岳、高峰山、赤ざれ(今は雪で純白)、一番左半分ほどが三方ガ峰。






感想や連絡はMAILでどうぞ。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)

『季刊文科』(鳥影社刊)53号より短篇連作「信州アカシア林住期」を開始
    
       http://www.choeisha.com/bunka.html 


 53号(2011年8月発行、本体1000円) 「信州アカシア林住期


 54号(2011年11月発行、本体1000円) 「信州アカシア林住期その二 夏の転変」
 

 55号(2012年2月25日発行、本体1000円) 「逆接のウズベキスタン再訪」(信州アカシア林住期その三)

          
               

  大手書店、アマゾンなどのネット書店にて発売中。鳥影社から直接購読も可。



『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社刊 2200円+税) 


 
              


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集で、境界地域としての奄美や沖縄の人の出入り、歴史と現状、そしてウタキ信仰や創世神話に象徴される神秘主義を描いたつもりです。
 もう一つはそれらを通じての人々の人生、そして私自身のインド以来の旅人生を描いたとも言えます。写真に出した宣伝チラシでは、編集者はそっちに注目しているようです。

 大手書店およびアマゾンなどネット書店にあります。毎日新聞2009年9月20日に書評(川本三郎氏)、週刊朝日8月7日号に著者インタビュー、沖縄タイムス8月28日に紹介記事、ほかに図書新聞(中沢けい氏),mixiレビュー欄等に書評があります。この日記30章の中の日記からリンクしているものもあります。御覧ください。



 日本政府および日本国民が脱原発路線を推進し、原発全機が早期運転停止されることを望む。
 二度と原発事故に遭いたくないからである。
                               2012年1月3日   日本大学教授・作家
                                                 
                                                     夫馬 基彦


                        *これより日記                      
3月31日 NHKテレビ「満洲国軍」を見る

ふだん、昼間のテレビなぞめったに見ないが、連れ合いがつけたので一緒に見てしまった。旧満州国に作られた満州国軍の実情を、満州国軍官学校生(士官学校生)だった人たちの懐古談として構成されたドキュメンタリーで、実に面白かった。

漢、満、蒙、朝、日の五族協和を旗印にした軍隊の、本質矛盾とそれに翻弄された当時十代から二十代初めだった若者たちの悲劇の記録だ。登場人物たちが今や90歳前後の老人ばかりであり、かつモンゴル人や韓国人(朝鮮人)の人たちはほぼ完全な日本語を話すので、顔だけ見ていると誰が何人か分らないのに、当時考えていたことや感覚がまるで違うことに、とにかく引きつけられる。

とても今すぐ短く感想や考えたことを書けそうにないが、いくら時間がたっても歴史の事実・実相というものは人が生きている限りこうして厳然としてあるものだと、改めて痛感させられた。

登場した人たちのこの60数年がどういうものだったか、それに思いをいたすと、不思議な気さえする。


3月29日 またしても襲われる

たぶん深夜0時ごろだったと思う。膀胱の出口あたりが痛くなりだし、なんだろうと考えているうち、次第に痛みが増してきた。体験的には結石の痛みに似ているが、しかし結石ならもう少し上の腎臓からの尿路あたりから始まるのに、いきなり膀胱あたりだから暫く考え続けた。

が、とにかく痛い。やむなく起き出し、結石の常備薬ロキソニン、ブスコパン、猪苓湯をコップ一杯のお湯で飲んだ。痛みはまだしばらく続いたが、1時間後くらいにはだいぶ薄らぎ、いつの間にか眠っていたらしい。

目覚めたら朝6時で、痛みは全くない。排尿も順調、石が出たか否かは確認できていないが、多分かなり小さいものだったため気がつかなかったのだろう。ロキソニンのせいでいつもの朝の手足のこわばりやあちこちの痛みも殆どなく、ある意味で爽快さっぱりである。

安堵した半面、ふーむ、いよいよクスリ生活になって来たなと微妙な思いだ。このmixi日記で過去2回の結石歴の日付を調べてみたら、去年6月と12月だった。半年に1回だったのが3カ月早まり、代りに軽くなったということかしら。


3月26日 たった2日なのに

土曜日の午後、小諸を出て夕方、志木市着。一人で夕食。

日曜の午前11時前から大学。たまった書類を1時間以上かけて整理し、正午には卒業祝いの赤飯弁当を食べる。午後1時から文芸学科学位記授与式、3時から大学院修了式、3時50分から大ホールにて学部大学院合同卒業パーティー。
5時ごろマンションへ帰宅。

月曜つまり今朝、9時に近所の整骨院で30分の簡易マッサージ。そのまま列車に乗って大宮経由軽井沢、そして小諸着正午過ぎ。

全部でちょうど48時間弱。
なのに、だいぶ時間がたった気がしたのはどういうわけだろう。日曜の卒業式関係が振り袖姿華やかな別世界であることや、なんといっても4年間顔を見てきた学生諸君との最後の日であったこと、三つ揃いの正装でめったに付けぬネクタイを締め、座っている時間が多かったこと、など非日常的一日であったせいがやはり大きいだろう。

もう一つは彼我の気温差である。向うはおおむね7,8度から10度くらいだったが、今日の軽井沢駅は多分零下、小諸も0度かせいぜい1,2度だった。駅を降りたとたん、私はずっとしまいぱなしだったニット帽を鞄から出してかぶり、ダッフルコートの襟を立て、フードも帽子の上からかぶった。

そうして、筋肉痛で痛い足をよちよち歩きさせ家へ帰り着くと、「あー、帰ってきた、帰ってきた」という気分になり、なんだか長旅から帰ったように錯覚したのである。歳をとったのかしら。


3月24日 久々に東京方面へ

今日午後埼玉のマンションへ行き、明日は江古田で卒業式。今年は4年ゼミはなかったけれど、2年までのゼミや連句の授業で教えた諸君がいる。院生も修士終了者がいる。

卒業式関係は午後なので、明日小諸から学校へ直接出校の手もあるが、フォーマル用の三つ揃いがマンションに置いてあるので、今日そっちへ行く次第。ついでに整骨院へまた顔を出そうかとも思っている。

向うはすっかり春だろうな。柳瀬川土手のウオーキングも楽しみだ。



3月21日 冬の常緑樹5本発注

今日、馴染みの庭木屋「庭水」にいろいろ案内してもらい、結局5本を発注した。

そよご雌雄1本づつ、椿(大)1本、つつじ霧島1本、ピンク1本。そよごのメスは適当な大きさがなかったので、市場などで探してもらうことにした。揃ったら植えてもらう。一気に庭に緑が増える。

これで道路からの目隠しも出来るし、4月以降の花の楽しみも出来た。そよごは6月ごろ紅い実がつくそうだ。これも楽しみ。

だんだん庭というか敷地内が、自分の好みに近づいてくる。これは得がたい快楽だ。30年ほど前、室生犀星の「生涯の垣根」という作を読んで、「何と羨ましい趣味、贅沢な作品」と思ったが、ほんの少しそれに近づいた気がして嬉しい。今に見事な自然庭園にしてやるぞ。


3月19日 今、ほんのちょっと

畑仕事をしてきた。今年は正月以降ずっと稀に見る寒さで、畑の土もずっと凍っていた。おかげで文字通り鍬も歯が立たなかったため、掛け値なしに今年初仕事となった。

東側の朝の陽あたりのいい一畝だけを、しばらく前から伸びてきたニンニクの芽を育てようと、周りに伸びてきた雑草を万能鍬でサッサッと掻いただけである。

が、それだけ草も野菜も伸び出したということであり、畝の黒土も柔らかくなったということだ。つまり春である。

とはいえ、風があってまだまだ寒く、どうやら気温は零度前後らしい。風邪をひかぬようにとほんの20分足らずで引き上げた。無理は禁物である。だが、いい気分だった。


3月15日 次は庭木が気になりだした

まだまだ寒いが、それでもどことなく春めいてきた。雪で蔽われていた敷地内も半分は融け、枯れ草が見え出した。畑も黒土を見せだした。

畑用に種苗店で野菜や花の種を買ってきたが、播くのは20日過ぎがいいそうだ。土がまだ固い。

冬の間からずっと懸案だった常緑樹が欲しい。我が家は夏は緑でほぼ完全に包まれるが、大半が落葉樹のため冬はスケスケなのだ。こちらからも見えるが、外部の道などからリビングのあたりまで丸見えになる。

で、出歩くたびどんな木がいいか探していた結果、どうやら石楠花とつつじが良さそうな気がしてきた。花が咲くし、緑の茂り具合も程がいい。先行きの成長も丁度好さそうだ。

というわけで、知り合いの造園屋に頼んでみようかと思う。すぐなければ、探してもらおう。塀際とやや手前に2本づつくらい。


3月12日 爽快、雑事はすっかり忘れた!

一昨日、友人の青野聰が訪れ、昨日まで2日間実に楽しく過ごした。

1日目は小諸でも今年一の大雪だったが、おかげで一面の雪景色、雑物は何も見えず、純白の美しさのみが広がった。その中でまず昼ごろからそばを食べ、獺祭という酒を飲み、それから藤村旧居跡、牧水の秘密逗留先を案内し、あとは我が家で雪景色を見ながら台湾の阿里山茶を飲み、5時ごろから早めの飲みに入った。

酒は小諸の酒好きによる限定仕込みの「浅間おろし」。ちょっと甘めだが米は田植えから有志たちが育てた「亀の尾」、水は小諸の銘水「弁天水」、寒仕込である。青野も「甘いがうまい」と言って手酌でどんどん飲んでくれた。

9時半まで飲んでお開き。幸い外は案外あたたかく、道も凍ってないので、彼は5分先のホテルまで歩いて帰った。

2日目は雪で埋もれた車を雪払いから始めてなんとか出し、虚子庵、北国街道筋と『破戒』ゆかりの街、大和神社、オウムマンション前などを見せ、昼ごろ布引温泉に入った。前日と打って変わって青空のきれいな快晴になっていたので、湯船から見える浅間連峰が見事に美しくて、青野も喜んでくれた。

そのあと東御市の湯の丸峠への途中にあるチーズ屋経営のイタリアンレストランで昼食をとった。ここからは浅間山と逆側の八ヶ岳、蓼科山、北アルプスが一望でき、折からの雪を冠ってきれいかつ壮大である。

「どうだ、見事だろう」「いや、ほんと、ほんと。大したもんだ」「一番底が千曲川だ。信濃は語源が科野とも階野とも言われる。科野は科の木が多かったから、階野は下から段階状に土地が層をなしていくからだというが、多分後者が正しい気がする。土地がずっと段々畑とか棚田状に横に列をなしているだろう」「確かに、確かに」

私は車があるから残念ながら酒類を飲めなかったが、ここでしばらく飲んでいたいくらいだった。
結局、ちょっと自宅でお茶を飲んでから、3時過ぎに佐久平駅へ車で送って別れた。

2日というか、正確には1日半足らずだが、よく喋ったし、雪も景色も酒もよかったし、いい時間だった。つい3日前の7日まで東京界隈におり、いわば頭は学校モードだったのに、それらは完全に忘れ去り、別世界に浸った。旧友有難し、また来てほしい。


3月9日 懸案進展、明日は友きたる

昨日は2月下旬からやりかけのままだった確定申告を仕上げて発送、今日はホームドクターの2カ月検診で朝食抜き採血や薬の処方を終えた。薬は関節や喉関係など新しいものも2種類出してもらい、まずは整った感じだ。
これであと2カ月は多分大丈夫だろうと思うと気分がのんびりする。

こうなると、明日からやってくる旧友青野聰と会うのが楽しみだ。彼は去年9月、2泊3日の日程でやってくる予定だったのが、台風でおじゃんになった経緯がある。じゃ、正月前後、という案もないではなかったが、今年は稀に見る厳寒のため、3月の声を聞いてからとなったのである。

今回は1泊2日の設定だが、天気は今日の霙もよう以降、明日明後日と小雨ないし曇りらしい。どうも天気につかない男だが、「今度は雨や雪でも列車さえ動いていればいく」と言っているから、ともかく顔は会うだろう。

せいぜいうまいものと旨い酒だけはと、あれこれ案を考え、酒の手配は先ほど済ませた。食べ物は小諸一のそば、連れ合い得意の台湾風鍋、台湾ピータンなど。酒は「浅間おろし」の最後の1本、小諸産ブランデー「小諸」ほか。まあ悪くないはずだ。

日曜は車で近在の温泉へ入り、チーズ屋のイタ飯でも食うか、それとも……。まあ、メニュはあれこれある。いずれにしても楽しいことではある。


3月6日 4日間の療養生活

1日が教授会等の出校日、今日の6日が最後の入試日で出校しているのだが、この間の中4日はなんだか療養の日々だった。

というのは、埼玉南部や東京の今頃はだいぶ春めいた日々だろうから、せいぜい柳瀬川土手を始めあちこちウオーキングしよう、美術館なぞも2つは行こうなどと目論んでいたのに、3日を除いてはかなり冷たい雨ないし曇り日続きで、とてもウオーキングする気になれなかったのである。

で、3日に近所の整骨院へ行ったのを皮切りに、5日も行き(保険がきく上、若いスタッフが多く、なかなかてきぱきして気持がいい)、行けば行ったで若干の揉み返しはあるから、布団に入ってうとうとしたりとなった。これが気持よく、半睡状態の中で筋肉の痛みが薄らいでゆくのがよく感知でき、目覚めると布団の中でストレッチをしたり、起きてラジオ体操をしたりという日々になったのである。

何でもなさそうだが、こういう日々は初めての体験で、整体マッサージやストレッチなどの効能/ありようも初めてよく分った気がした。ヨガなぞも多分こういうものと同じだろう、慌てずゆっくり筋肉の部分部分を伸ばすのが肝要なのだ、とまさに肌で分った。

おかげで春のウオーキング三昧から、雨の療養の日々へと変じた訳で、思わぬ発見があった。前半は少しいらだちもあったのだが、後半はだんだんこのペースの良さが分ってきた。忙しがらず、時にはこういう生活をするのも悪くないと感じた次第である。


3月1日 〈季刊文科〉55号出る

連作連載をしている季刊文科が2月25日に出た。この雑誌には以前も『オキナワ 大神の声』シリーズを何年もにわたって連作させてもらったが、また53号から連載をさせてもらっている。

「信州アカシア林住期」シリーズで、2回目が54号の「夏の転変」(信州アカシア林住期 その二)、そして今回が3回目の「逆接のウズベキスタン」(信州アカシア林住期 その三)だ。

タイトル通り、信州小諸市に住み始めてからの日常を出発点に、第1回は昨年3月11日の原発事故の余波を素材とし、2回目は小諸の人々との付き合いなぞを描き、今回は小諸を出てウズベキスタンを再訪した話である。

信州とウズベックとはどういうつながりかとなるが、ちゃんとある。記憶や思い出の時間軸が空間移動とともにどうなるかということや、気温が似ているせいか植生がそっくりで、目の前の植物類が殆ど見慣れたものばかり、庭の作りなぞ桑の大木を主木にしたところなぞ信州の我が家と同じ、等々だ。

読んでみてください。↑上段「お知らせ」欄に写真あり。


2月28日 昨日からやっと体が

痛みを感じず動くようになってきた。指圧治療後17日目である。
尤も指圧前も首筋や左脚・腰が痛かったからこそ指圧に行ったわけだから、痛さの始まりから数えればもっとずっと前からということになる。

相変らず首筋や左脚には相応の痛みはあるが、2,3日前までに比べれば実にラクで、連日6度4分ほどあった微熱も今朝はなく、ほんとに久々にさわやかな起き抜けだった。階段もおおむね手すりなしで上り下りできる。

結局指圧がよかったか否かはまだ断定できないだろう。ただ、せっかく痛くなくなったのだから、すぐ2度目の治療に行こうとは思わない。「1,2週間後にもう1回」と言われていたのだが、行ってまたかなりの期間痛くなったりしたら体力が消耗する。今度は当分様子を見、行くにせよ治療院を替えてみるかもしれない。

それにしても歩くにスタスタ足が出、立ったり坐ったりの際にいちいち「どっこらしょ」とか「いたた!」と言ってしまわずにすむのはなんと気持のいいことか。以前は当り前だったことが貴重に思えてくる次第だ。歳をとるというのはこういうことであろう。


2月24日 指圧療治丸2週間目

以前、ツイッター欄にも書いたが、頸筋や左脚・腰部にこりや痛みが激しかったため、丁度2週間前、指圧院へ行って療治してもらった。「体がずいぶん錆びついているようだから、腹部から始め全身をほぐします」ということで、全身をたっぷり1時間揉みほぐしてもらった。

痛くもあったが心地良くもあり、終ると、「あと1,2回は必要ですが、まあ1,2週間は様子を見て」と言われ、帰った。
以来、揺り返しというのか、翌日から全身が猛烈に痛く、2,3日は微熱っぽくさえあったので、ロキソニンを飲んだりした。

一方で療治前の頸筋のこりはだいぶ引いた感じもするし(脚・腰の痛みはかえって増大した)、痛みは毎日少しづつ減じていく面もあるので、まあこういうものかと思ってもいたが、1週間たっても相当痛く、もう少しかもしれんとラジオ体操をしつつ我慢し続けた。

それでも昨日も学校で院生入試の前後、首、肩、脚、腰とかなり痛いのでバッファリンを1錠飲んで、小諸への帰路に着いた。
そして今朝、まだ多少は痛いが、かなり全身がラクになり、ベッドからもスムーズに立てた。2階への階段の上り下りも手すりにつかまらず歩ける。

カレンダーを見ると丁度、丸2週間である。指圧療治プラス化学薬品(鎮痛剤)だから、どう判断すればいいか分らぬけれど、「1,2週間様子見」のうちに入るのかしら? 

それにしてもこんなに長く、療治前より痛くては、果たして正当な療治かという気もせぬではない。痛みを治したくてかえって痛くなったわけだから。
けれども、体は個人差があろうし、症状もまさに個人差がある。療治師が悪いという根拠もないし、要は自分の体質をつかんで、療治も度合を相談しいしいやっていくしかないのだろう。

2週間たったからといってすぐは2度目に行かず、しばらく自分自身で様子を見てみよう。気候も少しぬるまってきたから、体や筋肉の緊張も弱まる気がする。ひょっとしたら、すべての根源は今年の厳寒ぶりにあったのかもしれない。

こういうことに体験や知識おありの方、意見・感想を少し聞かせてください。小生は10数年前鍼を一度うった以外は、指圧治療などは20年ぶりくらいで、あまり体験がないのです。


2月20日 原発事故は終息などしていない!

しばらく前に政府が「原発事故終息宣言」なるものを出したが、その後も現在に至るまで福島第一原発からの放射線発散量はなくなっていないばかりか、増加しているのが実情だ。

ヤフーが提供している「リアルタイム放射線情報」(慶応大など2機関によるもの)によれば、長野県でも、千葉県、埼玉県など関東各地でも数値は確実に高まっている。第一原発から煙が上がっている、黒い降下物が降った、などの情報もあるそうだ。

しからばあの終息宣言は一体何だったのか。まだ続いているばかりか放射線量は増大悪化していることに気付かせないための欺瞞・撹乱行為なのでは、と思えてくる。そうでないのなら、政府は線量が現在も増え続けていることを公式に認め、国民に注意を喚起すべきではなかろうか。

東電幹部やまだらめデタラメ某などの政府機関責任者も、辞任はおろかちっとも責任をとった気配さえないし、根本的なところでの不快感が湧きあがってくる。一体何たる無責任体制、欺瞞体制なのだろうか。

日本はいつごろからかすっかり制度疲労、社会劣化し、なにごとも目先だけ糊塗し、知らせず知ろうとせず、なるようにしかならないと一見おとな風に諦念を蔓延させ、悪しきことにはすべて蓋をして、泥鰌どころかナマズのような面つきで、知らぬ顔をしているだけではないのか。

ま、そういう私自身、ぶつぶつ半ば独り言みたいにつぶやくだけで、具体的に役立ちそうなことは何もせず、出来もせず、やれ神経痛だ、足腰が痛い、もう歳だ、などと情けなくぼやくだけである。


2月18日 今が寒さピークか

このところ朝起きると、外は真っ白。薄化粧だが、雪質は細かく冷たそうである。

今現在も零下7度くらい、最高で午後3時零下4度の予報。今晩夜半過ぎからはさらに冷え込み、午前3時から明朝6時ごろには零下12度とか。たぶん今冬最低気温となろう。

小諸へ住みだして丸3年になるが、こんなに寒いのは初めてだ。1年目はむしろ「この程度ならあんまり寒くないね」なぞと言った記憶がある。2年目、つまり去年は「今年はだいぶ寒くなったね」だった。今年は「もう勘弁してえ」だ。

来年以降もだんだん寒く、あるいは今年並に寒いとしたら、東京方面へ帰りたくなりかねない。頼みますよ、お天気さま。

ただ、代りに景色はきれいだ。雪というのはほんとに万物浄化の印象がある。日中、陽さえさしていれば、さほど寒い体感もないから、散歩も少しは出来る。運動不足にならぬよう、せいぜい歩こうと思う。



2月16日 零下のお人形さんめぐり

前回、春の兆しありと書いたが、今日の気温はヤフー情報で今(午前9時)零下8度、終日零下で最高が零下3度の予報だ。しかし、それにしては外の色は霜がなく枯れ草色。浅間も中腹以上は白いが、下の方は白くないから不思議である。

一方、屋内では、この数カ月せっせと水やりをしてきたシクラメンが一鉢はついにピンクの花がすっくと葉の上にそそり立ち、もう一鉢も赤い蕾が3本首をもたげてきた。クリスマスには全く間に合わなかったが、お雛様には全開となろうか。

北国街道の本町界隈にはしばらく前から恒例のひな祭りの赤い幟が並び、古い家々の土間には雛人形が飾られるようになった。観光客はまだめったに見かけないが、今度の日曜あたり陽が出れば案外にぎわいだすかもしれない。

この町は藤村の「小諸なる古城のほとり」のせいで城下町のイメージが強いが、実際には北国街道の宿場町、つまり町人の町の要素の方が濃い。私の連れ合いが育った家にはその本陣の木造三階建ての大きな建物があった。今は市に寄付してあるが、重要文化財に指定されている。



2月13日 春の兆し

いま外気温は0度くらいだろうが、外へ出てみるとあまり寒さは感じず、庭のそこここにほんのわずかながら春の兆しを感じた。枝垂れ梅に小さな白つぼみがいくつかできており、姫りんごや桜、プルーンの若木に紅い芽が膨らみつつあるのだ。

反対に、残念なのは山茶花で、12月ごろから蕾がたくさん出来ていたのに、一向咲く気配がなかったばかりか、この頃では半ば枯れたように見え、強く触れれば蕾が落ちてしまいそうなのである。葉も赤茶色になっているし、風の通り道なので、要するに寒さに負けたに違いない。

別の場所にある椿は、葉は青々とし蕾も元気そうで、やがては咲きそうな気がするから、山茶花は植える場所を間違えたのかもしれない。あるいはそも今年の小諸の寒さでは開花は無理なのかもしれない。

果物の生る木はほかにぐみ、ゆすら梅、かりん、ブルーベリー、杏、プラム、桃などとあるが、どれくらい咲き、生るか。生っても食べるまでに至らぬ場合も多いが、実の生るものは花もだいたいにおいてきれいで香りも良かったりするから、楽しみなのである。

畑の凍った土もぼつぼつゆるまないかと期待が出てきた。この3カ月ほどは硬くて耕したりも出来なかったのだ。
やっとこういうことを書いたりできるほどに、ほんのわずか春が近づいてきたのかもしれない。


2月11日 佐久近代美術館とポルノ

今日は佐久近代美術館へ行った。折からやっていた版画展がなかなか面白かった。ただし、池田満寿夫の作はまるでポルノそのものだった。線や色彩、構図等才能はあるのだが、品性がいやしい。セックスばかりが世の中ではないと言いたくなる。

この人の作は若いころから何度か見てきたが、毎回同じような印象を持った。今回はまだ性交「シーン」を描いていたからましとも言える。以前は性器(女陰)そのものを描いていた時期があってなんとも辟易した。ああいうものを何カ月も何年も描き続けるということは、その間ずっと女陰のことばかり考え続けることだから、自ずと顔つきもそういうだらしなく口元をゆるめた下品なものになっていくと思えた。

小説家もそうで、いつもポルノやポルノまがいばかり書いている輩の顔つきは品性下劣になっていく。映画や写真など他のジャンルでも然りだ。

佐久近代美術館のある場所は駒場公園の名通り、元来は牧場や馬場のあった場所で、林の中に図書館やスポーツ施設などと一緒に整い、背景に見事な浅間連峰の雪嶺が見える清々しい地だ。敷地内には野外造形作品も多く、ちょっとした彫刻公園の趣きもある。そこに女陰の作は似合わぬだろう。

話は変るが、小諸から佐久平に行くと広々とした平地はいいものだと改めて思う。視界が伸び伸びするし、背景の浅間山も距離は小諸より遠いはずなのに大きく雄大に見える。今日は冷気に澄んだ青空を背に銀嶺が本当に美しかった。


2月9日 いよいよ市長選始動

小諸市の市長選挙は4月に行われるが、このところ現職の3選出馬表明のほか、昨日は対抗馬の立候補会見が行われた。

市長選についてはすでに昨年秋くらいからいろいろ話題になっており、今年になってからは更にごく日常的に語られ始めた。先週なぞも街のお茶屋さんに寄ったら誰が立候補しそうか、趨勢はどうか、など熱弁をふるわれたりした。

面白いのはそういう際名前の挙がる人々が、だいたいどういう人か見当がつくことである。私なぞ3年前から住み始め、住民票を移したのはまだ1年前という新参者だが、連れ合いがもともと地元育ちだし、多少いる知り合い連からの情報、候補関係者の職業、経歴、屋号などを総合すると、「ああ、あの人」と顔が浮んだり、顔はまるで知らなくともおよその背景が分ったりする。

何しろ人口4万人の小都市だから、街中心部の様子はもう十分見知っているし、郊外部の農村地帯あるいは新住民の多い界隈も車でしょっちゅう通ったりして、至極客観的に把握できていたりするのである。ちょっと地名や職業が出てきたりするだけで、イメージが浮ぶ。

それに田舎では選挙はいわば大イベントで、住民の関心が色んな意味で高い。政策だけでなくカネの話とか、後援会長とどういうトラブルがあったとか、話題にする時の表情がみな急に生き生きしてきたりする。

よって、こっちも元来好奇心の強い作家的本性が首をもたげ、「ははあ、なるほど。それで」とか「あの人の方が面白そうですね」などと口をはさむことになる。誰がどんな反応をするかが面白いし、それによって形勢もだんだん読めそうになったりするからなお面白い。実際、昨日立候補声明をした比較的近所の人に関しては、私は数日前から立候補するかもと予測していたのである。

それにむろん、私個人としても市政に関して具体的意見もあるし、人物判断もある。どうなるか、あと2カ月ほど面白そうである。


2月7日 第1回入試始まる

今年も入試シーズンになった。日芸は8学科もあるので、第1期入試は2回に分けて行う。その1回目が今日で、写真学科、美術学科、音楽学科、放送学科、デザイン学科の5学科だった。午前が学科試験、午後が専門試験だ。

私はその学科試験の1教室の監督責任者だった。要するに高年齢者から責任者が割り振られる。試験中、ほぼ立ちん坊だし、もっと若い人を任命した方が妥当だと思うが、以前から年功序列みたいになっている。

代わりに、1回これをやれば、次回2月14日の映画学科、文芸学科、演劇学科の試験日は午後の専門試験担当だけで済む。ただし、時間は夕方暗くなるまでかかる。

3回目は3月6日の第2期入試で、これは受験者が少ないので全学科まとめて1日だ。受験者数次第だが、まあ夕方前には終る。

緊張する受験者たちを見ていると、いい加減には出来ないし、かつての己の受験時代を思い出したりして、微妙な気分にもなる。世の中としてはやむを得ないシステムと思えるが、若者には今も昔もつらいものだろう。受験生、くじけるなよ。



2月5日 1年ぶりのゼミ飲み

昨夕は旧1年ゼミ、現2年生のゼミ飲みだった。
ちょっと分りづらいが、つまりは去年の教え子の丸1年後の飲み会というわけだ。

昨年度はゼミ飲みの話が出るたび、「いかんいかん、君らはまだ未成年だから、酒はだめだ。やるんなら自分たちだけでやりなさい」てなことを言って断っていたのだが、今年になって「みな成人しました。ゼミ飲みやります」と言いだされ、うーむ参った、じゃやるか、となったものだ。

欠席はなんと当日風邪の一人を含め3名のみ、14名中11名出席だったから、学生たち自身が驚いていた。私としてもこういう例は初めてである。

ところが我ながら驚いたのは、出席者の名前がすぐ出てこない学生が何名かいたことだ。顔は全員覚えている。この子はいつもどのあたりに座っていた、どんな性格だった、などはすぐ浮かぶのに、名前だけ出てこない。

まもなく気付いたのは、そういう相手は皆丸1年全く顔を見ていない学生たちだった。2年の私の授業をとっている学生、バスで一緒になる学生なぞは、ちゃんと覚えている。全く会わなかった学生はゼミ誌の編集委員をやって活躍した学生さえ、髪を染め服装の印象もだいぶ変ったせいか、とっさに思い出せなかった。

学生側もフーンと驚いていたが、教師の側は毎年学生は入れ替わっていくから、去っていった者より新しく入ってきた相手の方にどうしてもエネルギーが行く。学生の方はみな自分中心に考えるから、あんなに毎週顔を合わせたのにどうして忘れるんだ、となるのだろうが、教師の方では毎年そういう相手が全クラス合せると数十人いるから、全部覚えているだけのキャパシティーが頭にないのかもしれない。後がくると、前が押し出される。

ひょっとしたら歳のせいかと少し考えてみたが、このことは10年前、15年前でも同じだったような気がするから、要するにそういうものなのだろう。代りに2年、3年と私の授業をとってくれた学生は在学中はもちろん、卒業後もかなりの期間覚えている。

いずれにせよ、そういう成人したての若者たちと「先生、先生」と言われながら飲むのは楽しいものだ。いきさつからいっても酒代くらいは奢らずばなるまいと一万円出したら、歓声を挙げて喜んでくれた。かわいいものである。


2月4日 久々の出校

昨日で寒さも底を打ったそうだ。表の色を見ているとあたたかげに感じるから多分その通りなのだろう。

だが、それでも今朝6時の気温は零下10度、この時間(8時)でもおそらく零下5度くらいのはずだ。しかし最高気温予想は0度になっているから、ありがたい。東京はずっと暖かく、午後は7,8度になるらしいからまるで春だ。

出校は8日ぶりである。この間ずっと読んできた学部生の卒論・卒制、院生の修論・修制の面接(正式には口頭試問)当日である。学生も気にしていたろうが、こっちもいわば年度最後の締めくくりだから、これが終ればホッとする。

あとは来週から3回続く入試に入っていき、それが終るとやっと春休みモードに入る。学生の方は今日の面接が終れば完全に春休みで、卒業生は3月いっぱいまで学生時代最後の長い休みを謳歌することになろう。在校生はもっと長く、4月10日過ぎまでは休みだ。

自分たちも昔はそうだったのだが、学生とは実に楽なものだ。人生のモラトリアム時代という言い方はあるが、むしろ遊楽期であろう。が、そういう時期も必要である。学生時代が終ると、あとは朝から晩まで働きづめ、夏休みだって数日だけの働き蜂生活がずっとほぼ40年続くのだから、せめてこれくらいは伸び伸びすべきだ。

ゆっくり遊び、思い切り寝坊し、思い切り本を読み、思い切り動きまわり、色んなことを吸収し、英気を養うべきである。

私は今夕、旧1年ゼミ、現在2年生の諸君とゼミ飲みである。これは彼らが1年の時、君らは未成年だから飲ますわけにはいかないと飲み会をしなかったところ、先ごろ学生が現れ「先生、みんな成人しました。ゼミ飲みやりたいです」と言ったので、引くに引けなかったものだ。まあ、今日は一杯奢らずばなるまい。

それが終ると、あとは卒業式まで1ヶ月半、原則、学生諸君と顔を合わせる機会はなくなる。いわば大人の、創作・勉強期間である。


2月3日 零下15度、今季一番の寒さ

生れ育ちは愛知県、青年期以降はほとんどが東京界隈在住の身には、この寒さは大げさでなく生れて初めてである。いや、まあ、どこかへ旅行に行ったときなど(ソ連にも行ったし、国内でもスキー場に行ったことがある)にひょっとしたら1,2回は体験したかもしれないが、生活実感としては初めてだ。

すでに連日零下10度くらいではあったから、格別変化があるわけではないが、でもやはり寒い、厳しいという実感が増す。窓の結露もいつもの倍以上あるし、室温はいつも並にしているにもかかわらず、足元が寒い気がする。

ただ一つ分らぬのは、にもかかわらず外に霜がほとんど見られないことだ。霜は摂氏5度以下だと出来るというのに、そしてもちろん連日零下の外は地表にも屋根の上にもびっしり白い霜が降っていたのに、今朝は見えぬのだ。

なぜか。あまりに寒すぎると、もはや空気中に凍る水分自体がなくなるのか。ちょっと調べてみたが、一向わからない。ご存知の方、教えてください。

それにしても寒い。外へ出る勇気が出ない。明日出校できるだろうか。


2月1日 二月になりぬ

雪降り、山煙り、風沁む日である。さりながら、向うには窓を開け放している家あり。昨日は古城祉にて一ヶ月前よりこの街に独り住むという六十男氏に会った。なんでも四十年前新婚旅行で来た地に独り住みたくなったのだと言う。

妻も家族も I 県にいるが、原発に近きがゆえにその地にいたくないとか。氏は少々鬱したかのごとく発声低く、しかし私に徳川秀忠座りし石を見たかと問う。否と答えると、三の門外のスロープ右手上にあるから一見せよと指示し、前立腺肥大者のようにぎくしゃく歩み去っていった。

彼の人、果たしていつまでこの地に住むにやあらん。
不思議な地である。


1月31日 寒中、まだまだ続く仕事

12月から断続的に続けていた佐々木基一全集の解説がやっと出来上ってホッとしたところだが、今度は大学の卒業制作審査のための読みが迫ってきた。まだ時間はあると思っていたのに、2月2日には大学院の修論も届くはずだから、もう引き延ばせない。

学部は今年は副査担当だから、主査の時よりは気が楽な面があるけれど、しかし中には600枚も書いてきた者がいるし、仕事の総量としてはラクではない。

規定ではせいぜい7,80枚から100枚書けばいいのに、こんなに書くというのは熱心と評価すべきか、独りよがりというべきか。経験ではその両方があり得るから、とにかく読んでみなくちゃならない。読む方の率直な心情を言えば、出来がよければいいけど、大した出来じゃないとだんだん腹が立ってくる。総じて長すぎるものにはシビアになる。

でも、短いものを含め中には「ホウ」と思うようなものも時々あるし、書いている方はとにかく4年間最後の頑張りではあるから、読まないわけにはいかない。

傑作はまあめったにないけれど、意外作、新鮮作、出ろよ。


1月29日 初めての稲門会

昨夕、軽井沢のプリンスホテルで開かれた浅間稲門会に参加してみた。小諸市、佐久地域、軽井沢町などの早稲田出身者の会だ。

私は大学は中退しており、よって校友会にも入れてもらえず、これまで一度もその種の会に出たことはなかったのだが、この会からは誘いがあったので、へーえと思いつつ、出てみたのである。ゆえに正真正銘生れてはじめての稲門会参加となった。

小諸市に住んでちょうど丸3年、こちらではあまり知りあいも増えずいささか淋しい思いをしていたので、丁度いい機会であった。

参加者は私を入れて20名、最高齢者は東京から駆けつけた80歳ほどの早稲田の名誉教授、一番若いのは現在早稲田に留学中の北京大学大学院生、大多数は50代から60代の男性群だった。女性はわが連れ合いただ一人である。

人数は例年より多いそうだから、そもそもがこじんまりした会で、それだけざっくばらんで気分がよかった。意外に多いのが理工学部出身者で、いつも前を通っている商店街のお茶屋さんがそうだったのに驚いたり、長野高校では同期生中実に100名が早稲田に進学、長野県全体でも校友数は東京都に次いで全国2位だとかの話に大いにまた驚いた。

小諸や佐久の人は昔からの在地の人が大半で、いわば親の代からの店や会社を継ぐためとか、公務員が多く、軽井沢界隈の人は多くが仕事は東京、新幹線で通いつつの別荘族が定着、といった例が目立った。

それだけにたぶん他の地域の会より会員が多彩で、話題も幅広かった。私や連れ合いなど物書きや大学教師がいてもあまり違和感がない感じだった。会場になったプリンスホテルも創業者以来西武の早稲田閥だそうで、この日も元社長だか副社長的な人が二人も参加しており、おかげで5000円の会費の割には随分御馳走を出してくれた。

ただし中退は私ひとり、しかし、周りの人が「文学部では中退が一番でしょう」などと言ってくれ、私も「文学部を卒業するなんてバカですよ」と言ってから、会顧問の名誉教授やわが連れ合いも卒業していることに気づいてあわてた。

メンバーに合唱部出身者がいて、朗々たる声で応援歌類を歌ってくれ、校歌合唱のリードもとってくれ、私も久々に大声を張り上げ歌った。応援団的な「フレー、フレー、ワセダ、ふれー、ふれー、わせだ!」もあり、これも実に久しぶりに唱和した。

いやあ、声を張り上げ唱和するというのは気持がいいものだ。自分もまだまだ若いという気がしてくる。帰途の軽井沢はおそらく零下12,3度はあったと思うが、皆なんのその、わいわい言いながらローカル鉄道に乗って小諸へ帰った。


1月26日 小諸、軽井沢、上田、長野市、関東平野

カーテンを開けると今朝も純白世界だった。夜なかか明け方に降ったらしい。ヤフーの天気情報によると、午前9時の外気温は零下8度と出るが、これはどうも違う気がする。いつも実感とだいぶずれるのだ。

雪の具合などでは、しなの鉄道が遅れたりするから心配だ。軽井沢は零下10度くらいだろうか。あまり知られていないが、長野県で一番寒いのは山岳地方を除けば東信州、つまり軽井沢や小諸界隈だ。軽井沢が中でもトップで小諸は2度ほど高くなる。

小諸から北へ行くと、上田は更に2度ほど高くなり、小諸の人は昔から上田は暑い(夏のことだが)と言う。長野市になると気温は上田並だが雪が降ることが多い。ドカッと積もるほどではないけれど、軽く雪化粧というのが多いらしい。

小諸は昔はともかく昨今ではめったに雪が降らなくなっていたが、今年はこのところ連日だ。それだけ寒いのだろう。

これで関東平野へ入っていくと、車窓からの景色がガラッと変るはずだ。いや、昨日は東京でも雪だったそうだから、関東も雪景色だろうか。そういう変化も楽しみのうちである。


1月24日 ラジオ体操と温泉

このところずっと2週間以上、頸から肩・上腕部にかけて痛かった。一時は頭の後部まで痛かったので、軽い脳梗塞とかその種のことまで疑ったのだが、少しづつ好転、そして今日ラジオ体操を音楽つきで第1第2と念入りに行い、終ったあと近くの温泉に出かけた。

すると、長らくまわらなかった首がほぼまわるようになった。痛みもほぼ引いている。ぼつぼつそういう時期だった面もあるが、しかしラジオ体操をしたあとえらく体の調子がよくなったし、明らかに爽快感があったから、効用は確かだろう。

いままでもヨガのまねごとや、部分的なストレッチをしてきたが、なーに、昔懐かしいラジオ体操が一番効果があった訳だ。温泉も体操のあとだからよけい効いた気がする。湯に入っている間、いかにも肩がほぐれていく感じだった。湯のなかで手で揉むと、みるみる柔らかくなった。

それと発見したのはラジオ体操を第1第2と続けると、かなりの運動量になること。汗ばみ疲れるほどだった。昔少年時代なぞは、こんなもんやって何の運動になるのだ、何の変化もないじゃないか、などと思っていたが、歳をとるといかに運動をしていないかが如実に分った。

ラジオ体操、恐るべし。いや、ラジオ体操ありがとう。明日から毎日やることにする。


1月22日 見事な雪景色だ

昨日、小諸に着いたら街はほぼ雪も融けていたが、自宅界隈は道路以外真っ白だった。その処女地をキュッキュッと踏みながら歩くのは間違いなく快楽である。

そうして午後からはまた雪が降り出した。歩いた跡の色がまただんだん薄まって白くなっていく。木々は枯枝に白い雪を載せてゆく。

今朝は待ち切れずに6時に起きてカーテンを開けてみたら、更に純白である。木々はすべてが樹氷のごとくになっている。道も真っ白だから視界はまさに純白の世界だ。本当にきれいなものである。

今日は気温が案外上るそうだから、この景色は何時頃までもつのか。出来れば今日一日このまま持続しないものかと願う。



1月20日 東京初雪

というばかりか小諸でも多分そうだろう。小諸では積雪10センチと伝わってきているが、東京界隈では屋根の一部などが白くなっている程度で積ってはいない。

だが、朝起きたときからずっと降り続けているのは珍しい。昨日まで乾燥日連続35日とか言っていたから、程よいお湿りともなった。寒いのは歓迎できないが、しかし小諸に比べればたいした温度とも言えず、それより白い雪降り風景の味わいの方が悪くない気もする。

授業は今日で今年度の全部が終った。あとは試験、卒制面接、入試等へと移行していく。重要行事だし、結局3月初旬までほぼ毎週出校せねばならぬが、予習が必要でないのはありがたい。予習はなかなかプレッシャーがあるのだ。

先ほど、友人の作家Kからファックスが来、腰椎第2圧迫骨折になったと言ってきた。瀬戸内寂聴さんも90歳で同じものになったが治ったそうだから、67歳のKの場合まず大丈夫だろうと思う。

それにしてもこのごろ友人知人の病気の報が相次ぐ。そういう年齢なのだろうと思うが、寿命はあと2年半とか2年と医者に言われたみたいに言う人もいるし、ろくに外出出来なくなった人もいる。

自分もこのところ腰やら頸などあちこちが痛いし、咳も痰も出る。毎朝、薬を3種類ほど飲む日常になっており、薬を並べるたび、ああ、こういう状態になったかと時折哀しいような己を嘲笑いたいような気になる。

と同時に、でもまあ、まだまだスタスタ歩けるし、毎日晩酌が旨くもある。さあ、今日も雪がまだ続くなら、夕方から早めの雪見酒といくか、と楽しみな気分もある。東京の雪見酒なぞ、かなり珍しいことではないか。さあ、いくぞ。



1月15日 残念な台湾総統選の結果

今回の選挙で馬英九が再選されたのは、従来から外省人(蒋介石政権以降台湾に移住してきた中国本土出身者)と本省人(従来からの台湾在住者。いわゆる台湾人)勢力が拮抗していたなかで、当初は民進党(主として台湾人の政党)を支持していた台湾人財界が馬支持に転じた結果だ。

理由は要するに、企業利益のためには中国本土との関係が密な方がいいからである。中国が沿岸部を中心に経済発展し、今や世界第2位の経済大国になった事実は、台湾の対岸地域に安い労働力と膨大な人口を背景に多数の工場を建設して利益をあげている台湾人実業家にとっても結構なことなのであろう。

企業としては当然なような気もするが、しかしなんでも金儲けが優先するのは情けないことでもある。かねて民進党が旗印にしてきた「台湾独立」は、中国のあの、自分たちこそ世界の中心とする中華思想と、それに基づく強大な大国意識に風穴をあける歴史的大事であった。

平たく言えば台湾が独立すれば、中華民族すなわち漢民族の国家は一つという、それこそ秦漢時代以来の大統一国家意識が崩れることになり、それはひいてはチベットやウイグル、内モンゴル、雲南諸民族など長年実質的に漢民族植民地主義下で隷属させられてきた周辺民族の独立にもつながることである。

漢民族である台湾すら北京政権から独立可能となれば、かねて独立志向の強い他民族の意気は上るに違いないからだ。それがうまく進行していけば、第1次大戦以降の世界の理念である「民族自決」が初めて東アジアでも実現することになるし、植民地主義に決着も着こう。

中国は共産主義のせいもあって、長年植民地主義他民族支配であることを誤魔化してきたが、実態は明らかに共産帝国主義であろう。いや、実は共産でも何でもなく、実態はまさに金儲け資本主義そのものであることは誰にも分る。それを共産主義と称し、共産党一党独裁下に置いてきたこと自体が大きな欺瞞なのだ。

あの生産体系、あの金儲け主義、あの非民主的政治・社会のありようが、民衆の平等、民主を理念とした共産主義でなぞあるはずがないではないか。

嘘はいけない、欺瞞は一番の悪だ。

そういう意味からも台湾総統選の結果は残念だった。



1月12日 寒い寒いというけれど

研究室にいると西窓から日がさんさんと照ってきて、暑いくらいである。外気温もいま5度Cくらいらしい。まもなく6度の予報だ。

今冬一という最低気温も夜中にマイナス1度だったという。これは小諸では2、3日前の最高気温である。最低は昨夜あたりマイナス11度だったらしい。

日本も広いというか所変わればずいぶん違うものである。北海道や東北、あるいは日本海側となれば、世間的にもほぼ共通認識があるから説明不要だが、それ以外の所だといちいち説明が必要になるから不便だ。

でも、こういう変化も面白いとも言える。列車に乗って1、2時間ほど移動しただけでかくも違うと、車窓を見ているだけで飽きない。今回3週間ぶりに乗った車中で私はずっと外を見続けた。光や木々の色、畑の様子、ちらっと見える家々の庭先の風景、縁側での日光浴、道行く人の服装、微妙にあるいはずいぶん違う。

東京へ来て、道を歩いていても同様だ。学内に入ってもそう。ああ、ここは温(ぬく)国(ぐに)だ、と思う。むろんこんな言葉はないが、雪国などからの造語である。暖国というよりこの方がいいと思うが、いかがだろう。


1月9日 善光寺と平安堂書店

日曜日の昨日、長野市へ初めて列車で行った。信州に住んでもう3年になるのに、長野の街を歩いたことがないのがなんとなく片手落ちの気がして、出向いたのである。

しなの鉄道もいつも乗っているのに軽井沢=小諸間ばかりで、長野方向大屋以北に乗るのは初めてだった。当然車窓からの景色も珍しく、上田以降は同じ信州でもだいぶ違う趣きだった。ことに善光寺平に入ってからは雪も多少あり、平地が広く、千曲川もゆったりしてずいぶん違う。

長野駅前はいつもテレビニュースで夜景を見ていたからお馴染だが、そこから善光寺まで歩く道は広くて、ビルや老舗、関西みたいに街なかの寺がそこここにあり、久々に都会に来た感がした。

善光寺に近づくにつれ人波が増していき、そばやおやきの店が軒並み続き、まだまだ初詣的雰囲気にみちていた。連れ合いは信州出身なのに小学校の遠足以来初めてだそうで、長野ってこんなところだったの、善光寺ってこんなに大きかったの、と感心ばかりしている。

私は中華料理屋でお粥とピータン、酒の昼食をとったのち、参道でおやきも食べて満腹し、折からの小雪舞う中をふらりふらりと歩いた。雪はあるが小諸なぞより気温はよほど暖かい。2,3度は違う感じがする。実際、毎日のお天気番組を見ていても長野市は小諸より2度ほど温度が高い。信州で一番寒いのは山や高原を除けば軽井沢などの東信地方で、北信である長野あたりより寒い。

寒い所から2度でも暖かい所へ行くとかなり体がゆるむもので、気分ものんびりする。

参拝後駅前へ戻った私たちは、平安堂長野支店へ入った。去年大学の教え子がここに就職したはずだから、ひょっとして売り場あたりで顔を見れないかと思ってのことだが、あいにくいない。というより、尋ねた結果、彼女は市内のもう一つ別の支店にいるとのことだった。残念だったが、知っているという人から消息が聞けて良かった。

平安堂は本の品ぞろえも多いし、古本まで置いてあるのが面白かった。東京の丸善みたいに本以外に文房具や鞄、小物雑貨などがあって、頃合いの感じでもある。私もつい小物整理袋を一つ買ってしまった。3階窓辺にある喫茶室も小諸の丸山珈琲の出店みたいで、親近感があった。アールグレイの紅茶がお代わりたっぷりでよかった。


1月6日 小諸産ブランデーに出会う

今日、青空に引かれ小諸市でも高度がだいぶ高い「糠地」という在へドライブに行った。ここはかなりの山奥に通じており、ちょっと行くとすぐ舗装もない野道になってしまう。それらをおっかなびっくり車で走ったあとの帰途、ちょっと小ぎれいに整えられた場にも行きたくなって、マンズワイン小諸ワイナリーに何げなく寄った。

正月明けの平日だから閑散としたそこの売店へ入ったら、すっと目に入ったのが「小諸」という名のブランデーで、壜が革袋を模した非対称に変形したものであるのも気にいってのことだ。

というか、このワイナリーには何度も来ており、ワインは一通り買って飲んでいるが、このブランデーには今まで全く気付かなかったのに、我ながら怪訝な気もしてのことだ。

手にとってよく見ると、限定販売品とか、熟成23年、1984年などと書いてある。近寄ってきたかっぷくのいいマスター風の説明によれば、長野産の固有種ブドウ善光寺で作ったものを1984年から23年間樽で熟成、以降4年は壜詰め、という意だそうだ。

どうぞ試飲を、というので、「えっ、そう」と舌なめずりしたところで、双方が同時に気づいた。「あ、お車の方には出せませんが…」「うーむ、その通り。残念!」

しばらくウームとうなりつつ10分ほど他のワインなどを見てまわり、くだんのマスターから「あのジュースもあります。これなら出せます」と、おちょこふうプラスチック容器に2種類ほどうまい葡萄ジュースを飲ませてもらった。

そうしてまた件のブランデーの前を通りかかった時、思わず私は言っていた。「あの、これ、カードでも買えますか?」。私は現金の持ち合わせが殆どなかったのだ。「ええ、ええ、もちろんです」「じゃ、1本いただきます」

かくしてかなり高いそれを買い求め、今、帰宅して、小さな切子風グラスで気兼ねなく試飲しているところである。うまい! 味よし、香りよし! 近所でこんなにうまいブランデーが出来るのか、と思わず頬がほころんでいるところである。これからしばらく、就寝前の楽しみになること必定だ。


1月3日 今日はおせち料理に飽きて昼食を外に出た。

行った先はお隣の東御市のチーズ屋のカフェ。途中の浅間サンラインからの景色が素晴らしかった。左に八ヶ岳、蓼科山、正面に純白の北アルプス。右折して湯の丸峠方向に上っていくと、浅間連峰左端の烏帽子岳や湯の丸山がだんだん間近に近付いてくる。

カフェの全面も総ガラス張りなので、八ツや蓼科山、更に左手に荒船山などが豪快に続く。その中でチーズフォンデュやピザを食べると汗がにじんでくる。冷たい水がうまかった。水は小諸もこのあたりも浅間山麓斜面の湧水が豊富で、うまい。東京界隈で水道水を飲むときに比べると、水というものはうまいものだとつくづく痛感する。

ソフトのバージョンアップをして以来難航していたホームページの更新もうまくいって、やっとホッとした。この日記はその記念に書いている。


1月2日 新しき年

10時ごろから降っていた雪がほぼ止んで空が明るくなってきました。雪が降り続いたらやむなく雪見酒にしようと思っていましたが、熱いほうじ茶にします。

正月一の話題は何と言ってもオウム真理教の平田容疑者の件でしょう。元旦直前の深夜、突然出頭した彼は実に16年半の逃亡生活の挙句だったわけですから、一体いかなる心境でと興味がわきます。

一説では彼が起訴され裁判が始まれば、麻原彰晃も証人として出廷せざるを得なくなり、従って裁判が決着するまで彼の死刑執行はなくなるから、だそうです。そうだとすれば見上げた信仰心、忠節と言わざるをえません。支援グループの存在も感じられるから、たいした結束・戦略ぶりともいえます。

裁判は少なくとも3年くらいは続くだろうし、まだあと二人残っているから一人づつ3年ごとに出頭すれば計10年近く麻原の処刑は伸びる計算になります。

小諸には通称「オウムマンション」と「オウムの家」があります。前者は幹線道路わき5階建てのマンションで、事件後しばらく麻原の三女だかが住み、その後も上祐史浩や分裂したアレフ教団が使っていたとされる部屋があるそうです。
後者は街なかにある一戸建てで、借りていたのか買ったのか詳細は不明です。

どっちもすでに過去形で語られるから、もう住んだりはしていないのでしょうが、それでも人口4万人の小さな町ではかなりの話題だったようです。
小諸には他に信者同士の殺人事件を引き起こした「大和神社」(新興教団)なるものもあり、「紀元水」という水を高額で売ったりしているそうです。

小諸はきれいな水はいたるところに湧き出ているし、山や景色はきれいだし、方角とか地政学的に宗教者に好まれる土地柄なのかもしれません。尤もオウムマンションは交通量の多い街道に面していて排気ガスが相当多いから、恐らくお得意の「空気清浄器」を使用していたのだろうと思いますが。

面白い土地柄というべきで、ひょっとしたら私もそういう「気」に引かれてやってきた一人かな、とふと思ったりします。
お、雪が完全にやみ、明るい陽射しの気配が出てきました。あったかくなるといいと思います。