風人日記 第四十一章
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放射能の今
  2012年4月1日〜6月29日






感想や連絡はMAILでどうぞ。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)

『季刊文科』(鳥影社刊)53号より短篇連作「信州アカシア林住期」を開始

       http://www.choeisha.com/bunka.html 


 53号(2011年8月発行、本体1000円) 「信州アカシア林住期


 54号(2011年11月発行、本体1000円) 「信州アカシア林住期その二 夏の転変」


 55 (2012年2月発行、本体1000円) 「逆接のウズベキスタン」(信州アカシア林住期 その三)


 56号 (2012年5月発行、本体1000円) 「真冬の散歩者たち」(信州アカシア林住期 その四)

          
               

  大手書店、アマゾンなどのネット書店にて発売中。鳥影社から直接購読も可。



『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社刊 2200円+税) 


 
              


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集で、境界地域としての奄美や沖縄の人の出入り、歴史と現状、そしてウタキ信仰や創世神話に象徴される神秘主義を描いたつもりです。
 もう一つはそれらを通じての人々の人生、そして私自身のインド以来の旅人生を描いたとも言えます。写真に出した宣伝チラシでは、編集者はそっちに注目しているようです。

 大手書店およびアマゾンなどネット書店にあります。毎日新聞2009年9月20日に書評(川本三郎氏)、週刊朝日8月7日号に著者インタビュー、沖縄タイムス8月28日に紹介記事、ほかに図書新聞(中沢けい氏),mixiレビュー欄等に書評があります。この日記30章の中の日記からリンクしているものもあります。御覧ください。



 日本政府および日本国民が脱原発路線を推進し、原発全機が早期運転停止されることを望む。
 二度と原発事故に遭いたくないからである。
                               2012年1月3日 

 どういうわけか知らないが、本日未明より全原発54基が停止し、稼働ゼロとなった。下の日記5月5日欄に書いた通り、日本はフシギな国民性の国だと思えるが、なにはあれ慶賀すべき事態であるので、歓迎し、かつこの事態が出来るだけ長く続くことを望む。

                               2012年5月6日

 残念なことに今日7月1日をもって、大飯原発が再稼働してしまった。全原発停止は57日間で終了したわけだ。思えばこの間、日本全体にも市民生活にも何の支障もなかった気がする。今後も少し我慢すれば原発なしですむはずだ。いい加減、なんでも経済、なんでも便利優先の考えをやめようではないか。

                               2012年7月1日
                                            日本大学教授・作家
                                                        夫馬 基彦     


                        *これより日記                      
6月29日 6月最後の仕事日

前期最後の授業日ならともかく、なぜ6月最後くらいでわざわざ日記を書くかというと、今月は飛び抜けて忙しい月だったからだ。

まず6月3日が進学フェアで日曜出勤、ついで第3、第4土曜が臨時講座で出校、と3回も出校日が増えた上、6月8日は日大本部での日大文芸賞第1次選考会があり(そのために21作と過去最大数の作品を読まされた)、今日は午後から最終選考会である。つまり計5回臨時の仕事ありという次第だ。出校日以外も原稿読みなどでずいぶん時間を取られた。

おまけに気候が梅雨模様になり、だんだん蒸し暑くなったから、東京界隈での動きがよけいうっとうしくなる。こんな時こそ涼しい小諸にいられればいいのに、今月の東京界隈滞在日数は多分年間でも一番多いはずである。

だから、その月が今日でやっと終るかと思うと、まだ一日が始まったばかりなのに、ホッとする。それでつい、午前のこの時間にこの文章を書いてしまった次第だ。


6月26日 朝寒

というと秋の季語だが、今朝6時の気温は12度だったのでうすら寒く感じた。梅雨どきの曇り時はだいたいこんなものと言えるけれど、東京周辺だともう蒸し暑さを感じるときだけに、やはり涼しい。

おかげでトマトやきうりの成長は遅い。実がついてから収穫までの時間が長いのである。これを書き出してから、昨日午後、紫露草を株分けしたのがうまくついたかどうかが心配になってきた。すぐ見に行こう。


6月24日 緑が随分濃くなった

小諸は気温が低いしいわゆる夏自体が短いから、木々の緑も色浅めで、暖かい関東側に比べると6月中旬くらいまでずっと新緑の風情があるが、さすがにこのごろは色がずいぶん濃くなった。濃緑の趣きが出てきている。

葉っぱの伸びは去年に比べるとだいぶ弱いというか小さく、去年は1枚の葉が子供の顔くらいの大きさがあった桑も今年は半分ほどの大きさで、おかげでリビングからの見晴らしもいい。去年は葉でいっぱいで、向う側なぞろくに見えなかったのに。以前書いたがアカシアも花だけでなく葉も小さめで、庭のあちこちが見通せる。

代りに鉄柵だけの塀外の道路もかなり見え、照り返しで白く光るのが少々気に入らない。家が完全に緑に囲まれた実感がややこわれるのだ。

が、まあ、全体としては緑に覆われ、朝の食卓についても正面も左も90%緑で、気分がいい。たまに通る車以外静寂そのものだし、ほっておいても赤や紫の花が次々と咲く。木にはプラムや桃や姫りんご、柿などの青い実が生る。例年ちゃんと食べられるまでに育つのは柿くらいのものだが、青い実の良さもある。

そうそう、実と言えばこの辺で「メド」と呼ばれる桑の実はもう2週間くらい前から豊作で、紫色になった実がぽとぽと音たてて落ちてくる。通路はだいぶ赤黒くなっており、配達の人なぞは立ち止まって上を見上げていたりする。

通りがかりの人が、これ、ジャムにするといいですよ、などと言ったりするが、一番沢山生る木の実はあまり甘くなく、甘い方の木の実は半分道路に落ちたりして採りにくい。で、結局、時折1,2個つまんで食べる程度で終ってしまう。

今年は今のところ野菜の出来が頃合で、さやえんどう、ルッコラ、いちごがうまく、まだ収穫していないがきうりとトマトもうまくいきそうだ。じゃがいもが数は多いのにちっとも花が咲かないのが心配である。



6月21日 江古田駅完全に見えなくなる

以前、この欄に、建設中のビルがだんだん高くなっていくため、従来見えていた駅が見えなくなっていくと書いたが、南口にわずかに見えていた弁当屋に出入りする人までついに見えなくなりそうである。
今は見えているライトブルーの駅屋根も、ひょっとしたらいずれ見えなくなるのかもしれない。

そうなると研究室からの風景はほんとにビルばかり、それも裏側からの景色中心となるだろう。その中を西武線の鉄路が一部に見え、時折轟音をたてて列車が通り抜けていく。普通列車だと速度が緩くなるから、ああ、駅に停まるなと分るが、急行などだと通過していくから高速音だけが残る。

だんだん無機的になっていく。空は曇って、梅雨空の蒸し暑さを感じさせる。今日は授業後も会議が5時半ぐらいまで続く。親しいK教授の定年挨拶もあるはずだ。淋しいことである。


6月19日 今日は医者デー

このごろはだいたい1カ月に1回だが、間に他の医院が入ることもあるし、また来たかの感がある。私の医者嫌いは昔からで、そんなに嫌なら行かなきゃいいとも思うものの、今飲んでいる薬は勝手にやめるわけにはいかない類いのものだから、薬が切れれば行かざるを得ない。

そして、行けば要するに薬をもらうためだけに1時間半から2時間かかり(待たされ)、薬の処方だけではメンツが立たないと考えるのか、あるいは儲けのためか、2回に1回はあれこれ検査も付加される。検査は必要な気もするが、すれば結果を聞きにまた1,2週間後には来い、となる。

で、最近、『大往生したけりゃ医療とかかわるなー自然死のすすめ』(中村仁一)という新書版なぞを読みはじめたりもした。半分ほどは共鳴したが、薬なぞ飲むな、熱が出るのも痛いのも体が自然治癒力を発揮しているからであって余分なことをするな、なぞという部分はどうも首肯し難い。

自然治癒力云々に関しては原理的にはその通りと思うけれど、私は腎臓結石持ちで、年に何回か痛くてたまらなくなり、鎮痛剤は必需品である。飲まずに我慢していたら石が出るまで仕事も何も出来ない。

また現在、毎日服用中の薬のなかにはひょっとしたらやめてもいいかもと思えるものもないではないが、高血圧薬、ステロイド剤などは急にやめるわけにはいかない。リバウンドがあるし、代りの対処法がない。
そして同じ医師が処方している薬の場合、片方だけ勝手にやめるのはどうもまずい気がしてしまう。

などというわけで、今日もこれからとにかく整形外科へ憂鬱な思いで出かける次第である。



6月17日 母からの手紙

今年96歳になる母からハガキがきた。以前は時折電話がかかってきたのだが、近頃は耳が遠くなり、電話の会話が成り立たなくなってきたので、文音というわけだ。

文面は字も内容も確かなもので、青葉の候を語り、以前小諸の我が家へ一度だけ来た折の記憶を述べ、孫に赤ちゃん(つまり曾孫)が生まれたことを報告し、歌会に知多半島の新舞子まで出かけたとやや誇らしげに書いてある。

新舞子というのは愛知県の知多半島にある昔は海水浴場で知られた地で、私も小学時代、母に連れられて2度ほど行ったことがある。今では半ば名古屋の郊外住宅地的場所になっているようで、たぶん交通機関も便利になっているだろうが、私などにはいわば遠足に行くかなり遠い地という印象がある。

だから、へーえ、そんなところまで行ったのかと感じるし、母自身もそう感じたから誇らしいのだろう。いずれにしろ、96歳でひとりで電車を乗り継ぎ遠出し、短歌を若い人たち(といっても60代以上だろうと思うけど)と作ってくるのは、確かに元気だ。

そうかそうかとこちらもうれしい気分になる。返書にはこちらの庭や私と連れ合いのスナップ写真を何枚か添えようと思っている。


6月12日 陳情書採択される

今朝9時前から出かけていた連れ合いが、午過ぎニコニコしながら帰ってきた。小諸市役所3階で開かれていた福祉環境委員会を傍聴に行ったのだが、市民から出されていた市長への陳情書が全員一致で採択されたというのである。

陳情書の内容は、小諸市御影新田地区の産廃処理地(民営)へ運ばれるがれき等の放射線量規制が、4月選出の新市長になってから従来の500ベクレル/kgから一気に2500ベクレル/kgにまで引き上げられたことの撤回を求めるものだ。

結論次第では重大問題だから、一人でも多く傍聴してプレッシャーをかける必要ありというわけだったが、なんと用意された椅子をはるかに超える20人以上が集まり、6人の委員たちも全員陳情内容に賛同したそうだった。

へーえ、小諸市民もなかなかやるなあというのが率直な感想で、いささか見直した。それを市長がどう受け止めるかがまだ残るが、全会一致、傍聴者多数となれば、さすがに無視は出来まい。私も帰趨を見守る。


6月9日 「寅次郎 サラダ記念日」を見る

今日は午後から、ごく御近所の寅さん会館と同じ建物地階にある市立「やすらぎ会館」で、24年前に小諸を舞台に作られたという映画「男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日」を見た。

原発事故後福島県内から小諸市に避難してきている方たちを招待し、小諸が出てくる映画を見てもらおうという催しなのだが、一般市民も参加可というので、見せてもらったのである。小諸駅にはこの映画のロケ時の写真が常時展覧してあるし、かくも近くに「寅さん会館」(民営)があるのに、私はまだ実物を見ていなかったからいい機会だった。

実際に見ると、小諸は寅さんの恋の相手三田佳子扮する美人女医の勤務先として小諸病院が実名で出てくるほか、駅やら荒町、小海線、三の門などが、出てくるには出てくるが、思ったほど多くはなかった。むしろ、意外にもわが母校早稲田大学がかなり登場するのだった。

題名のサラダ記念日の作者俵万智の母校であり、セミ主役が短歌を作る早稲田大生(美人女医の姪役)という設定だからで、おかげで私は今住む小諸と共に、かつて青春期に何年かを過ごした早稲田を懐かしく見ることになった。一文とか露文科なぞという言葉が出てくるのも懐かしかった。

ただし、映画自体はどうも作りに無理やり感があり、展開に納得できない面もありで、あまりいい出来ではなかった。私は寅さんが結構好きで、昔、封切時に何本かを見ているが、マドンナ役に浅丘ルリ子扮する踊り子役が登場するものなどが、一番よかった気がする。フーテンの寅さんの恋人役としてひょっとしたらうまくいくかもというリアリティーを感じさせるのがよかった。美人女医じゃ、はなから不釣り合いすぎるのである。

いくら作り物のパターン的ドタバタものでも、現実感とストーリーの流れのよさというものは必要なのである。



6月7日 我達(ワッター)食堂

江古田の大学の門前(といっても門はないが)に、去年から新しいレストランが出来たなとは思っていた。が、小生はいつも東口から出入りするので、食堂の詳細は知らぬまますぎていた。

その食堂へ今日昼食時に何気なく入ってみた。隣のそば屋へ行くつもりだったのだが、まだ準備中だったため隣を覗いたら名前が上記のようだったため、おや、沖縄かと思い入る気になったのである。

そして、日替わりランチ「ゴーヤー定食」を頼んだら、これがなかなか旨かった。ゴーヤーチャンプルーがちゃんと固めの沖縄豆腐らしきを使っており、ゴーヤーの味と合わせ、本物の気がした。卓上におかれている調味料類も石垣塩、沖縄七味、沖縄唐辛子、などどれも沖縄産、置いてある泡盛も[神仙」[久米仙」の古酒で、瓶の具合といい、旨そうである。与那国の60度の花酒まである。

よーし、今度学校帰りに寄って飲んでやろうと思った次第だ。


6月5日 石持ちの目覚め

腎臓結石などのいわゆる石持ちは、年に2,3回、いや、3,4回は痛みが出るから別に珍しくはないが、明け方5時ごろから右脇腹が痛くなって目が覚めた。寝返りを打ったりしながら、はて原因は、と考えているうち、場所、一部背中にまでつながる感じ、右を下にして体をちぢめると痛みが減じる、などから、ああ、そうか、いつもの腎臓結石かと納得する。

それなら対応は決まっている。要するに鎮痛剤と猪苓湯、ブスコパンを飲んでなるべく動きまわる、石が出やすいように階段なぞをいささか乱暴に上り下りする、などだ。結石というのは病気というより一種のパイプつまりだから、物理的現象みたいなものなのだ。

そしてもう一つ、おおむね空腹時に発症しやすいから、食事をして腹がくちればおおむね痛みは減じる。現に今そうなった。あとは時間の問題。たぶん1時間後には収まるだろう。

ひょっとしたら昨日、庭の草刈りをしたこと、車に往復1時間揺られて温泉に行ったこと、などが多少作用しているかもしれない。草刈りは大ばさみでチョキチョキ草を刈る行為が普段とは使う筋肉が違うらしく、たいていあとでどこかが痛くなる。上腕部の筋肉が多いけど、脇腹の筋肉もだいぶ使う気がするから、内部の腎臓あたりも影響を受けそうに思える。
車の揺れも同様に、腎臓裏に出来た結石を揺すって落ちやすくする作用があるのではないか。

とまあ、これもえらく物理的考えだ。
しかしまあ、もう10年以上になるこの持病、厄介なものではある。


6月3日 江古田の風景も変る

といっても、具体的にはビルが一軒建て変りつつあるだけだが、前よりだいぶ大きくなってきたため、これまで見えていた江古田駅のホームは見えなくなったし、まもなく駅南口の広場も見えなくなりそう。

つまり駅風景がほぼシャットアウトされるから、視界は建物ばかりとなり、印象がずいぶん違う。駅というものは人の出入りがあるし、広場やホームはパブリックな集合の場を感じさせ、なにがしか見ていて飽きない要素がある。それに比し、通常のマンションや商業物、住宅は空間も緑も殆どなく、つまらぬものである。

こうなると、遠景の新宿西口界隈の高層建造物街の方が面白くなってくるが、今日はこれらが曇って霞んでいる。江古田駅北口の浅間神社の森の緑だけが目立つ。


6月3日 昨日の事後報告。北にも散歩。南にも散歩。

昨日は鴨南蛮を食べたあと、かつての散歩コースにいたポニーがどうなったか知りたくてそこまで歩いた。ポニーは茶と白の色変わりになり、しかも2頭になっていた。以前の茶のロバふうはどうなったかしら。

帰宅後少し昼寝し、3時過ぎからまた今度は反対側の南に向け歩き、やはりかつてよく行ったあたりを歩いたが、こちらはがらりと様変わり。林や畑はほとんどなくなり、びっしり建売住宅が詰まって、道に迷ったりした。

以前は農村の小さな集落ふうだったところがもう住宅街そのもの、神社の名残の公民館だった場所がどうしても探し出せなかった。ひょっとしたらなくなったのかもしれない。

帰途通った、昔からの下町ふう「幸町」は殆ど変っていなかった。下町の方が変らないものなんだなあ。



6月2日 珍しい、長い一日

いつもなら今朝小諸へ向け帰るところだし、連れ合いはその通り帰って行ったが、私は一人残った。明日の日曜が、学校の「進学フェア」なる催しのため専任教員は全員出校日となったせいである。

つまり日曜日の朝には学校へ行かねばならないから、東京界隈滞在をそれまで延長、よって今日の土曜日は全く暇な一日として突如現前したわけだ。
「突如」というのはつい木曜までそのことを全く認識していなかったため、何の想定も予定もなかった意である。

こういう日は本当に珍しい。暇な休日というものは以前はちょくちょくあった気がするけれど、小諸との往復が日常になってからはなくなっていたようなのだ。東京へ出て来ている3日間はほぼフルタイムで学校で過ごし、終ると土曜にさっと小諸へ帰るので、暇な時間はほとんどないのである。

じゃ、小諸では暇な休日となるのではとなりそうだが、「のんびりした時間」はあるが、「暇」ではない。さあ、庭仕事、畑仕事となるし、それがない時間は、緑を眺め、静寂を味わい、散歩を楽しみ、わずかながら原稿やら小説を書き、となって、ひと目にはどうあれ、当人としては「暇」という感じはない。退屈なぞないのだ。

それに引きかえ、今日はほんとに、さて、何をしよう、と思った。ゆうべ、そうだ、銀座へ映画を見に行こう、『ファウスト』がいい、などと思ったが、今朝になってみたら、まだ上映していないことに気づいた。で、朝7時から1時間にわたってネットで東京中の映画館を調べてみたが、サスペンスやらホラーやら警視庁公安やら外事警察ものはいっぱいあるものの、ついに見たい映画は見つからなかった。

美術館はいつぞや土曜日曜はすさまじく混むことを知ったし、日本は何とつまらない国になったかと思いつつ、掃除を始めた。
が、狭いマンションの掃除など2時間もやれば一通り片がつくし、10時ではまだ昼寝もできそうになく、やむを得ずこれを書きだした次第。

今、思いついていることとしては、結局近所のかつての散歩道を久々に歩き、街道筋のそば屋で好きだった鴨南蛮でも食べようかというぐらい。そのあと夕方までのあては全くない。長い一日になりそうで、それが少し面白くもある。


5月29日 今年のアカシアの花は小さい

3日くらい前から何となくそう思っていたところへ、昨日の日記へのぶよねこさんの書き込みで神戸の方もどうやら小さかったらしいと知り、さてはと思った。そして昨日、今日と仔細に観察した結果、一昨日くらいからほとんど成長していないことを確認した。

つまり、たぶん現状でもう伸びはストップということだ。ということは例年より花穂も豆状の葉もせいぜい半分程度の大きさで終りなのだろう。どうりであの質量感あふれる、たっぷり、ゆさゆさ、の感じがないわけである。うーん、なんたること。

理由は何だろう。果物の木のように「生り年」的なことがあるのか、あるいは去年から今年にかけての寒さが例年よりだいぶ強かったせいか。そういえば、桑の木も例年よりだいぶ成長が悪い気がする。桑の葉は去年、一枚が子供の顔くらいあったのに、今年はまだ四分の一くらいだ。それに合歓の成長も遅い。まだやっと芽吹いたばかりの感じである。

一方、ジャーマンアイリスや芥子、撫子などはえらく咲き誇っている。植物にもいろんな事情があるのだろうな。きうりやトマト、とうもろこし等の野菜がうまく育ってくれるといいのだが。


5月28日 我が家のアカシア




アカシアの花穂がだいぶ伸びてきた。まだまだ倍以上になるはずだが、現段階での記念に写真をとった。一部を御紹介する。

写真説明1、門前からの光景。手前のアカシアは若木。奥は背の丈20メートル近い。

2、庭の西側。右手も、よく見えないけど左手も、更に遠景の原っぱ向う奥もアカシア。手前は従来切株利用のテーブルセットだけだったが、背もたれ椅子を最近追加した。

3、二階書斎の西窓から。窓外は全部アカシア。吊り下げているCDは鳥よけ。これの反射がないと、四十雀などの小鳥が窓ガラスに激突してくる。これまで二匹死んだ。


5月26日 帰ってきた。アカシアの花が7,8センチに伸びていた

このところの東京界隈は、連日もう25度の夏日をこえる日々だった。が、朝はまだ涼しいので、今朝は柳瀬川土手を歩いて隣の富士見市の田んぼを見にいった。田植えがほぼ終って、一面に柔らかい緑の苗がそよいでいる。関東平野の田植え時である。

2時間後、列車を乗り継いで軽井沢へ降り立つと、空気が冷たい。東京とはたぶん10度違う。だが、乗り換えたしなの鉄道からの風景は御代田を過ぎたあたりから田植え風景になった。ほぼ8割が終り、残りを今日の土曜と明日の日曜で終えようというところだろう。こちらは信濃の田植え風景というわけだ。

気温はずいぶん違うのに、田植えは同じころというのが面白い。信濃は寒いから、早めに田植えというのは分るが、関東南部はなぜ今頃やるのかしら。まさか2期作というわけもなかろう。信濃の山向こう、越後の日本海近くでは田植えは6月半ば近くだそうだ。これは遅すぎるような気がするが、なぜだろう。

4日ぶりの我が家はアカシアの花房が7,8センチに伸び、白い花も咲きだしている。これからどんどん伸び、6月の声を聞くころには房の長さは20センチくらいにたわわとなろう。

甘やかな花の香りは早くもあたりに漂い、我が家の手前10メートルあたりから匂っていた。この匂いはこれからどんどん広がるだろう。


5月22日 医者デー

今日はまず歯医者、ついでK整形外科へ行った。
歯医者は3回目だったが、マウスピースの調整と歯石とりが終り、これで一件落着。さっぱりした。

ところが整形外科は延々と待たされ、一通り終わるのに2時間40分かかった。診察までに2時間、ついで骨密度検査というおまけがあったせいもあるが、前回の時、医師が火・水の午後3時〜4時ごろは比較的すいていると言ったからその時間に行ったのにこれだから、腹立たしい。

いっそ、予約制のある医院に変えたいのだが、これまでにレントゲン検査、血液検査を積み上げている。新しい所へ移ればたぶんまた同じことをしなくてはならないだろうから、それがいやで同じ所へ通い続けているのである。患者はいわば弱者である上、そういう経過を一種の質にとられているから、なお弱い。

救いは、次は1ヶ月後と少し間が伸びたことだ。
それにしても整形外科という所はなぜ、あんなに混むのか。医者が院内を本当に走り歩いている。個人医院なのに従業員が8、9人以上もいる。
いったい医者を増やすなり、リハビリ科担当を半独立させるなり、予約制にするなり、何らかの対策はあり得るはずなのではないか。実に無策すぎる。

要するに儲け主義ではと思えてならない。



5月20日 白眉芯(はくびしん)の冷凍庫

夜9時半から今朝6時半まで一晩寝たら、さわやかな気分になった。朝食後には懐古園に散歩に行った。つつじが目的だったのだが、それはすでに山を越しており、代りに若葉がいっぱいで実にすがすがしかった。

帰ってきたら、うちの西側の市農林課所管の林業小屋前に市の車が停まり、何やら檻みたいなものを下ろして、中から狐ほどの大きさの獣の死体を出すところだった。近寄ると「白眉芯です。このごろ増えすぎて捕獲中です」と作業衣の青年が言う。農村地区の桃畑などは白眉芯のため畑をやめた所もあるくらいで、とうもろこし畑なども全滅したりらしい。

死体は檻で捕獲してからガス殺したもので、ここの林業小屋内の冷凍庫に保存するのだという。すでに満杯近いそれは、まとめて東京の麻布獣医科大へ解剖用に寄付するのだという。我が家のいわば隣にそんな保存庫があるとは知らなかったので、やや驚くと同時に、ちょっと面白い気がした。


5月19日 少々くたびれた

今週はいつものように水曜に所沢校舎へ直行して2時限続けて授業、木曜日が江古田で授業後、夜、新大久保でゼミ飲み、帰宅したら11時だった。これはいつも9時半に寝る私にはだいぶつらかった。

金曜は午前中から授業をし、午後まで。普通ならこれで1週間の仕事が終るところだが、今週は今日の土曜日が所沢校舎の春祭だったので、朝から出校、10時からの開会式に出席した。

午前中に学校を出、大宮経由小諸に向ったが、木曜日以来ずっと時間さえあれば、学校でも、新幹線のなかでも日大文芸賞の予備選通過作を読み続け、すでに8篇。だが、今年はどういうわけか21作もある。例年なら12,3作だから、一体これで予備選をしたのかと呪いたくなる。実際、中には読み始めるなり腹が立ってくるような駄作も含まれており、予備選関係者の能力がつくづく疑われる。

というわけで、小諸についたときはくたびれきっており、しばし口もききたくなかった。

郵便物等を整理してから庭に出、畑、ついで元気がなくて気になっていた椿などを見てまわり、至る所にやけに増えたタンポポの綿帽子退治(少しなら風情があるが多すぎると庭がなんだか廃墟みたいな気分になる)をし終ると、やっとほっと心身が落ち着く。適度に肉体を動かしたため体もほぐれ、何より気分がほぐれる。

そしてリビングに落ち着き、ビールを一杯やると、ああ、初夏だなあ、信州もいよいよ夏支度だ、と体が思う。ビールがほんとにうまい。あと3日ほどの時間がほんとに貴重な新緑のそよ風時だと嬉しくなる。


5月15日 新鹿沢温泉へ行く

今日、嬬恋村の新鹿沢温泉へ初めて行った。車で10分手前の鹿沢温泉までは何度か行ったことがあるのに、こちらはないので、一遍行ってみようというわけだった。

地理的には浅間連峰を湯の丸峠で越えて群馬県側となり、だいぶ遠そうな印象だが、小諸からはいわば峠を越えるだけとも言え、片道50分くらいだ。そこに旅館5、6軒の小さな温泉街があり、大正時代から湯治場として割合知られてきた。

湯は鹿沢温泉から引いた天然温泉で、どの宿も同じ湯だけど、湯船の大きさ・構造などで多少の温度差や風情に違いありとか。私は旅館名とネット情報の評判をもとに「鹿鳴館」なる宿を選び、そこの風呂に午後2時ごろ入った。

無味無臭のなんとかナトリウム泉とやらだが、ゆったり浸かっていると鼻先でわずかに温泉臭があり、備え置きのコップで湯を飲むとこれがうまい。人は近所衆らしいじっちゃんが2人いたけれど、まもなくいなくなったので湯船は独り占め、窓外にはまだ少し花の残った桜が見え、さわやかな小雨模様だった。

帰途、峠を下ってくると、からまつ林が最初は芽が出たばかりのやや赤みがかった色、ついで薄緑色、緑色、と高度が下がるにつれ少しづつ色が変っていくのがきれいだった。東山魁夷の絵みたいな世界である。

東御町の集落に入ったところでチーズ屋のカフェに寄って紅茶を飲み、チーズソフトクリームを二さじほど嘗め、いい気分で帰ったら4時だった。明日からはまた東京出稼ぎなので、予習開始である。


5月13日 山添啓ピアノリサイタルの面白み

昨日は私としては珍しくピアノを聞きに行った。場所は小諸市文化センターホール。自宅からほとんど対向車も来ない静かな道を車で10分、乙女湖公園という緑の丘にあるきれいな所だ。

山添さんという人を私はこれまで全く知らなかったが、リサイタルのタイトルが「農園からのもう一つの収穫」であること、なんでも佐久市で昼間は農園を耕し、夜はピアノを弾くピアニストで、桐朋音大からヨーロッパ滞在30年近くを経てのピアノ歴は相当なものとのことに、関心を持ったのだ。

プログラムがバッハのイタリア協奏曲から始まって、ベートーベンのソナタ17番、シューベルトの4つの即興曲、バルトークの組曲という並べ方も、面白そうな気がした。

私は音楽には一向詳しくない上、かねてバルトークというのはあれは果たして音楽なのか、心地良かったことは一度もないぞと思っているくらいだったのだが、昼間は畑仕事をしている人物が「農園からの収穫」としてバッハなぞとともにそれを弾くというのに、なんだか惹かれたのである。言ってみれば畑仕事つながりの脇道的興味でもある。

あまり多いとは言えない100人足らずの観客の前に登場した山添氏は50代後半の、胡麻塩頭、ちょび髭、確かに少々土っぽい雰囲気の、それだけにどこか親しみを感じさせる人物で、たった一人バッハから始め次々に弾いていった。

見事な指さばき、手の動き、音の広がり。私なぞ素人目にもたぶん間違いなく演奏技量は相当なものと思われた。

そして後半のシューベルトに来た時、面白いことが起った。少し弾いたところで音が同じ繰り返しとなり、ちょっとためらうようにしたあとまた同じフレーズの繰り返しとなり、アレと思っているうちに、彼は困ったように空を見上げ、演奏をやめ、ハンカチでちょっと口のあたりを拭き、やおら立ち上ってスタスタ楽屋へ引っ込み、しばらくして楽譜をもって戻って来、それを見ながら先の曲を今度はスムーズに弾き出したのである。

つまり彼は、どうやら演奏の途中で曲を忘れたのらしかった。私はふーむ、そうか、そういうこともあるのか、緊張のせいか、全く偶然初めてのことか、しかし人間だからそういうこともあり得るわな、それともひょっとしたら歳のせいか、オレもこの頃とんでもない時に物忘れがしばしばある、などと考えたりしたが、やがてまた同じことが起った。楽譜はピアノの上にあるのに、どうやら彼はそれをずっと見ていなかったらしく、途中でまたつっかえ、少しフレーズを繰り返し、慌てて手を伸ばして楽譜をめくり、また続けたのだった。

観客席の隣ではわが連れ合いがククッと笑いをこらえていたが、しかし誓って言うが演奏は悪くなかった。途中の若干の躓きにもかかわらず場内の雰囲気は何も壊れず、演奏の吸引力はちゃんと続き、皆黙って聴き続け、終ると盛大な拍手が起った。

私もその一人だった。しかも不思議なことに、この日私は生れて初めてバルト−クの曲をなかなか引き込まれて聴けたのだった。心地良さとかメロディアスな酔いといったものはもちろんなかったけれど、違和感を起すような前衛的な音が響くたびに、私は通常の空間とは違った音そのものの空間にぐいと引きこまれるような気がし、全く雑念あるいは想念といったものから離れた〈無の音〉みたいな世界にいる気分がしたのである。

それが山添氏のくだんの行為と関係あるのか否かはよく分らぬのだが、私としてはそれらの行為によって生じた自然人たる氏への人間的親近感みたいなものが、私の音楽への集中度も高め、そうなったのではという気がしたのだった。


5月11日 たった2週間ぶりなのだが……

連休を挟んだせいで2週間ぶりの東京界隈となり、随分久しぶりに別世界へ来た気がする。

理由の一つは気候がだいぶ違うからで、こちらへ来るとおおむね20度前後、朝9時でも16,7度はあるから、とにかく暖かい。木々は濃緑で、緑はこんなに濃かったのかと改めて感じる。柳瀬川の水もちょっと触ってみたくなるくらいの穏やかな感じだ。

もう一つは会う人の数が多いせいもありそうだ。教師だから当然だが、授業で学生たちに会うのをはじめ、昨日なぞは教授会で大勢の教授仲間と顔を合わせた。どちらもいちいち全員と言葉を交わしたり挨拶するわけでもないけれど、水曜は約50人の学生+数人の事務室関係者、木曜は学生十数人、事務室関係数人、教授会関係約100人(事務職員を含む)だ。

小諸にいるときは連れ合いのほかは御近所衆数名の顔を見(見るだけで話すわけではない)、あとはそば屋や行きつけの店のマスターやおかみさん、それに街のお茶屋さんの主人程度だから、2週間全部合わせても10名ほどだろう。

それ以外はもっぱら淡い緑のなかで木や畑相手だから、静かなものである。どっちがいいかはにわかに言い難いし、第一両方あってこそ生活が成り立っているのだから、そういう設問自体無意味だが、とにかくだいぶ違い、いささかぎくしゃくした心身がどうにか慣れてきたころにはまた小諸へ帰ることになる。

今日はもう一日授業日だ。今度は少し大人っぽい大学院生たち数名と、私の好きな連句の受講生十数名、あとは事務室関係者くらいだ。3日目で体も気も慣れているし、授業内容も落ち着いたものだから、気分は悪くない。ゆったりした気分で出校準備にかかれる。


5月8日 明日からは12日ぶりの東京

いやあ、いい季節で本当にゴールデンなウイークだった。というより実際はグリーンウイークという印象だった。小諸は連休前は桜の満開時で、だんだん散って、後半は木々の芽吹きどきと変じ、5日の立夏のころからはもう新緑となっていった。

その緑の色が柔らかく、薄緑色で、しかもアカシアなどももう花の穂が小さく形をなし始めていて、可憐でいとおしい。今年初めて植えたつつじはもう2本が紅い蕾を膨らませ、もう明日にも咲くだろう。

これで東京へ行くと、一気に気温も上がり緑も濃くなり、つつじなどいろんな花もすでに一回りシーズンを終えているだろうな。何が咲いているかすぐには思い浮ばないところが、休みが長かった証拠だ。それも明日には分る楽しみのうちだ。

学生諸君は元気だろうか。1年生にはむしろ退屈だったかもしれない。早く授業が軌道に乗って、仲間と会える方が面白かろう。

さて、こちらも授業準備をせねば。


5月6日 信濃の人・小林一茶

連休最後の日、一茶の里、信濃町柏原を訪れる予定だったが、天候その他を考え中止した。旧北国街道を小諸宿から柏原宿まで出来るだけ辿り、柏原の村の宿で一泊しようかと思っていたのだが。

行かなくてよかった気もしている。これで一茶の件は諦めがついた気もするから。実はあまり一茶を好きになれない自分を感じていた。
あまりに庶民的、生臭く、ケチくさいところ、田舎者的な点、などが嫌いなのではと感じている。

それにどうしても芭蕉と比較してしまう。芭蕉の毅然としたところ、理念的な面が好きなのである。


5月5日 今日から原発ゼロ!

慶祝!本日から日本全国54基の原発停止。

それにしても日本はヘンな国だ。国家権力や財界、電力会社、マスコミのかなりの部分が原発稼働と言い続けるなか、国民的に明確な意思表示は何もないまま、なんとなくずるずると全部停止になってしまった。フシギな国民性だ。



5月4日 いやあ、10万突破です!! 皆さん、ありがとう!!

今日開いてみたら、このHP「風人通信」が通算クリック数10万を超えていた。2002年開始だからちょうど丸10年になる。ということは1年平均1万、1日平均約30という計算になる。

目次もデザインも10年前通りである。見ていると、いささかの感慨がある。長く見ていて下さる方々、いちいちお名前も知らぬ方々もいらっしゃると思います。とても感謝しています。今後ともよろしく。


5月2日 必見第2弾

皆さん、見られたし。第2弾。原発に関する、やはりドイツの別の放送。http://kingo999.blog.fc2.com/blog-entry-546.html


5月2日 必見です

皆さん、見られたし。福島原発に関するドイツの放送です。http://fb.me/1Mj1682ja


5月1日 久々に体が軽い

2月からずっと体の筋肉あちこちが痛くなる訳のわからぬ病に罹り、体調・気分ともに不調だったが、このごろだいぶ良くなり、今朝などは手のこわばりもあまりなく気分良く起きられた。

薬(プレドニン)が効いてきたのか、暖かい気候のせいか、今日は手指の先までちゃんと力が入る感じで、久しぶりに草むしりもスムーズにいった。草むしりはコツがあり、根の張った草は両手で根元近くをしっかり持ち、強からず弱からずスッと抜く必要があるのだが、これをおとついまではうまく指先の力配分が出来ずに失敗続きだったのだ。

これまで痛かった足腰の方も、昨日は街の種苗店まで片道30分往復1時間の徒歩行をまずまず平気で出来たし、だいぶ回復したといっていいだろう。服薬は長く続きそうだけど、日常生活の不如意はなんといっても困るから、ともあれ体が動くのが有難い。病になると知ることだが、まことに体が一番、健康あっての日々である。


4月29日 懐古園も動物園も満杯だ

昨日から始まったゴールデンウイークは、今日早くも車と人でいっぱいである。

我が家の前も駐車禁止の赤コーン4本の存在にもかかわらず、現在ただ今6台の車が並んでいる。昨年のピーク時よりだいぶ少ないのは、怖れをなした隣家が西側私道に「進入禁止」の新しい赤コーンを2本立てたせいかもしれない。私はもう諦めることにしたので、ひとりリビングから観察しているだけである。

それにしても周辺はどんな状況かと昼前、懐古園へ行ってみたところ、近所の駐車可能地は500円の臨時駐車料にもかかわらずすべて満杯、園内の馬場はブルーシートの花見組でほぼ半ばがうずまり、普段人影もない売店に人がずらりと並んでおでんなぞを買っている。

隣の動物園(同じ入場料で入れる)も同様で、どの檻前も人が群がり、興奮した金鶏鳥や猿なぞが大きな声で悲しげに(と聞える)鳴き続けている。これまで開いているのを見たこともなかった茶店が屋外テーブル3席とも満杯、あたりには子供たちが走り回っている。

その向うの遊園地もそうで、これまで客の姿なぞ1年に数人くらいしか見たことがなかったのに、観覧車、木馬館、足こぎ遊覧車などどの遊具も人で満たされており、ああここは廃墟じゃなかったのだと市民の片割れとしてホッとした。

車でホームセンターへ野菜の苗を買いに行こうとした連れ合いによると、いつもの道は懐古園前あたりを中心にずっと渋滞なので、やむなく逆方向の店へ行ったという。

気温も高い。午前中に早くも25度の夏日になったのが今もまだ続いている感じだから、たぶん4時すぎまでそうだろう。東京界隈とはほぼ1カ月遅れの気候の寒冷地東信州としては稀にみる暑さである。例年より7,8度は高いだろう。

そのなか、遅かった桜はさすがに散りかけているかと思いきや、馬場界隈ではソメイヨシノがまだまだ満開のままで、遅咲きの小諸八重紅枝垂れまでが満開になって、まさに濃淡花オン・パレードだ。

いやあ、暑い花見だ。めったにない花見時だろう。駐車の車を見て行くと、大宮、所沢、藤岡、群馬、前橋、太田ナンバーなど県外も多く、しかしやはり半分以上は長野ナンバーだから、近在中心に関東各地から小諸の懐古園は今が花見時という情報が流れたのかもしれない。例年の花見はもう1週間前がピークだったような気がする。

私は昨日播いたロケット菜やアスターの畝に、ひっそり水を撒いてまわった。


4月27日 雨の東京、新宿西口高層ビル群見えず

いつも江古田の5階研究室からは、東遠くに多摩の山々、西近くに新宿の高層ビル群がよく見えるのに、今日は雨で曇り、全く見えない。

自ずと視線は近くの江古田駅前風景に行く。傘をさした人々が次々に現れたり構内に消えたり。その動きが上から見ると途切れない。小さな駅だと思っていたが、人の出入りは相当多いことがよくわかる。小諸駅だと人の動きは1時間に1、2回、それも10数人が出入りしてしまうと、あとは殆ど人影はなくなる。

都市の人間の集約度というものはすごいものだ。駅の周りは四方八方建物でぎっしり埋まっており、この駅を使う人口は一体どれくらいだろうとふと思わせる。ひょっとしたら10万人くらいもいるのかしら。

小諸は市全体の人口が郊外も含め4万4千人だから、ベースが違う。
新宿の高層ビルになったら建物一つでどれくらい人を飲み込んでいるのだろう。ひょっとしたら万以上か。いやいや数万人か?

その東京で皆、何をしている?


4月24日 春である。体が楽しがっている。

昨日今日と庭に出るのが楽しくてしようがない。朝、外へ出ると、一日で芽や葉が伸び、花の蕾が膨らんでいる。

今は杏が満開(やや散りかけ)、枝垂れ梅が満開香り高し、紫つつじが八分咲き、プラムが開花寸前、椿の蕾が日一日と赤くなりあと2,3日で咲きそう、去年植えたばかりの小諸八重紅枝垂れも10輪ほど蕾がついた。雪柳が咲きだし、山吹が黄色い蕾をほころばせかけた。

敷地の外には向うの火山庭園の築山に桜が7分咲き、西側の市有林入口に桜と梅が同時に咲いている。裏のAさん宅庭には白木蓮が見事に満開。この木と花は毎年実に豪華だ。

リビングからすぐ目の前にあった鳥の巣箱を、2日前、下の大きな木の股へ移動した。今年の春には四十雀あたりが巣作りしてくれるかと楽しみにしていたのに、穴に出入りはするものの一向巣作りの気配がないので、人間の目や気配が近すぎるのではと考えそうしたのだが、果して成功するかどうか。

ひまわりの種なぞを巣箱の屋根や入り口付近に置いておくと、四十雀は早速食べに来てはいる。だが、慣れるまでには時間がかかりそうだ。カラスや猫など他の動物が狙いはせぬかの心配もある。

畑のほうれん草、さやえんどう、エシャーレット、にんにくもだいぶ伸びた。えんどうの支柱をどうすればいいかが目下の悩みだ。

気がつくと庭で1時間くらいがすぐ経っている。今日は午後、懐古園の馬場で「さくらさくライブ大会」もある。ときそばの古家君も来るはずだし、缶ビールでも飲みながら見物するとしよう。



4月22日 3年間の変化

今日の小諸は本当に寒い。本来なら春らしい暖かさのなかで、桜でも眺めながら散歩したい日なのに、まるで外へ出る気にならない。午後から懐古園内馬場で予定されていた「さくらさくライブ」も早くも延期になったらしいし、午前9時からの大手門公園オープニングも、ツイッター情報だとコートも持たない人たちが小人数でしょぼしょぼと寒そうに始めたようだ。

だが、そういう寒さを感じても特に不満も感じずわりあい落ち着いている自分にふと気付いた。以前は、こういう時、なんだせっかく昨日遠路小諸へ移動してきたのに、とか、4月下旬の日曜くらいあったかくなってくれ、それでなくとも東京界隈とこっちは平均7,8度から時に10度も気温が違うのだから、などと心のどこかで不満が蠢いたものなのだ。

どころかしばらく前までは、晩年の地としてこういう寒い場所を選んだのは失敗だったかな、どうも体に良くない気さえする、という考えも湧いたりした。実際、この寒さと温度差は体にはあまりよくなかろうと今も思う。

けれど、今日あたり、自分で感じるこの落ち着きは、そういうことはもう通り過ぎたといった感がある。つまり、以前は良くも悪しくも東京界隈と小諸の違いにすぐ意識が行き、両者の比較や差異・移動二重生活のプラスマイナスを考えがちだったのに、今はもうここに住んだのは既定の事実、差異をあげつらうよりそれぞれの良さに注目すればいい、二重生活もどうせあと2年なのだからむしろ楽しむべきだろう、と変化してきたらしいのである。

おのれのことなのに「らしい」なぞと言うのは、本当にふとそう感じたからである。そして、いくらか理由を探りだしてみると、要するに小諸丸3年ちょっとを経て、こっちが完全に自分の本拠、生活の地という実感が自分のなかに生じているのだろうと思う。

去年の3月には住民票もこちらに移したし、従って税金もこちらで納め、先だっては初めて市長選挙に投票したことなぞも、無意識のうちに反映しているのかもしれない。

もう一つ、このごろ体のあちこちに不調があり、その診断・治療もこちらで行っているのも関係ありそうだ。これもまさに良くも悪しくもで、医療機関に関してはかなり不快不満もあるのだが、しかし医療関係はなんといっても近い地元が一番だし、かかってしまえばそうそう簡単に変えたりも出来ない。

等々というわけで、意識も体も御当地にいることを前提にし出したというか、馴染みだしたのかもしれない。

あ、もう一つ、ひょっとしたら庭木を最近だいぶ植え、家の周りが自分好みに落ち着いてきたせいもあるやもしれない。なんでもないようだが、自然好きの私にはこういうことも影響しそうだ。


4月20日 授業が一巡り

水木金曜と授業をした結果、今年度のクラス内容がほぼ分ってきた。

所沢の1年生は作家や脚本家志望者が7割近い。よく喋り、部活などにも活発な者が揃い、楽しいクラスになりそうだ。創作論は2年生中心に40名ほどになりそうで、男女比も今年は男が増えてほどよい。

木曜の4年ゼミは就活不調なのが気になるが、メンバーとしては持ち上がりなので、気心が知れている。卒制と書くことへの意欲は高そうなので、楽しみである。卒業制作は快作が現れるかもしれない。

大学院は修士1,2年計6名が固まり、皆書く気十分だ。文学賞応募を明言する者も多く、かなりの賞金を稼ぐかもしれない。これまた愉快なことだ。連句の授業時間は新任の小説家楊逸(ヤンイー)をはじめ9講座が競う激戦区になったが、12名が集まり粒も悪くない。元来小人数の方がやりやすい実践授業だから、丁度いいかもしれない。

まあ来週まではまだ変動があるだろうが、どうにか見当がついた。まずまずの進行となっていくに違いない。ホッとした次第なり。



4月18日 第2次常緑樹植える

4月初頭に続き、昨日、2回目の木を植えた。
そよご(ふくらしば)のメス3メートルの株立ち1本、ピンクつつじ2本、紅つつじ1本、の計4本である。

そよごは前から雌雄両種を並べたくて(そうしないと実が生らない)、同じくらいの大きさのものを頼んでいたのだが、なかなか見つからないので、少し予算を上げ、その範囲内でと頼んだら、庭水さんが手持ちの高いのをこちらの予算でいいからともってきてくれた。

おかげで、庭の中央の空洞が一気に埋まり、向うの道からの目隠し効果も満点だ。折から午後に雨が降り、葉がきらきら光ってとてもみずみずしい。やはり冬枯れの庭のなかで常緑樹は映える。

おかげで午後何時間か庭を眺め続け、今朝も起きるなりパッとカーテンを払った。当分カーテンを開けっぱなしの時間が増えそうだ。

これで今年の春の庭いじりは終える。あとは夏の様子を見てから秋にまた考える。庭は何年かがかりで少しづつ出来て行くだろう。


4月14日 1週間ぶりの小諸、北朝鮮ミサイル騒動のばかばかしさ

昨日の夜というか夕方に帰ってきた。今回は8日の日曜日入学式以来ずっと東京界隈だったので、だいぶ長かった。1日おきくらいに学校関係などで用があったのでこういう日程になってしまった。

志木や練馬はもうすっかり春で、ほぼ桜の満開と重なったため、居心地は悪くなかったのだが、一方で退屈もした。整骨院や志木への買物やら、それなりになすこともあったものの、1週間近くなると飽きても来る。

で、昨日、学校からそのままバスで直行とした。バスは練馬駅近くから小諸への直行なので、乗り換えなしでラクでもある。普段は自宅から大宮、長野新幹線で軽井沢しなの鉄道乗り換えだから、乗り換えが多くて落ち着かない。

バスだと列車より視点が低く、窓外の景色が身近によく見える。今は花の季節だから、関東平野の桜や白木蓮の花の変化がずっと見え、楽しい。練馬や埼玉南部は爛熟から散りかけ、寄居あたりは満開の盛時、群馬に入るとだんだん花が減り、妙義の手前あたりではまだ梅が咲いていたりする。

そして碓氷峠を越え信州に入ると、桜はまだ咲いてもいない。浅間や八ヶ岳・蓼科山などは冠雪しており、ああ、山国だ、寒冷地だなと思う。

そうして薄暗くなりかけた6時20分ごろ小諸に降り立ち、駅近くの通称キャッスル温泉に入った。空腹だったが、とにかく温泉に入りたかったのだ。湯あがりに缶ビールを飲みながら、自宅まで歩いて帰り、一人でつまみを作っては食べた。小諸の家で一人というのも久しぶりだ。

北朝鮮のミサイル発射失敗は一体何だったのか。ひょっとしたら反対派がわざとしたのか。それにしてもあの騒ぎは実にばかばかしかった、日本政府とマスコミも騒ぎ過ぎじゃなかったのか、などと考えつつテレビなぞを見ていると、酒がすいすい進んだ。

いずれにせよ日本が騒ぎすぎだったのは間違いあるまい。あれで発射が成功していて、かつ日本自衛隊の迎撃が失敗していたら、笑い者は日本だったのではないか。


4月11日 3日連続整骨院へ

こういうことを書くとどうも爺むさい気がするのでためらったが、整骨院では結構若い人も見かけるので、書く気になった。

若い人はどうもスポーツのやりすぎとか、どこかを怪我したとかの場合が多そうで、やはり私などとは違うようだけど、私の場合は近来とりつかれている全身性の筋肉痛、関節のこわばりのためである。整形外科へ行っても目下原因不明で、要するに消炎鎮痛剤を飲むだけだから、近代医学とは別の東洋系の整骨院にも行くことになる。

2月初めには指圧院にも行ったが、たっぷり1時間のそれは私には強すぎたようで、あとが却って痛かった。その後志木で30分の簡易マッサージの整骨院を見つけ、そっちを気に入ったのである。

場所は志木市の御近所で、歩いて3分というのもいい。で、私は志木にいるときはできるだけ朝9時の開院を待ちかねて並び、揉みほぐしてもらう。治療は30歳前後の柔道整復師の人たちで、二人とすっかり顔なじみになった。

彼らは優しい体育会メンバーといった印象で、にこにこしながら手際良く揉んでくれる。思わず「イタタ」と言ってしまう時もあるが、そう強すぎもしない。以前の指圧で懲りている私にはほどがいい感じさえする。

新学年度初めの今回は東京界隈の滞在が長いので、3日連続のマッサージとなった。こういうのは初めてなのでどんなものかと思ったが、なかなか具合がいい。3日前にはずいぶん痛かった左腕や左手もだいぶ痛みがとれたし、今日夜半痛くて2度も目が覚めた右脚の痛みもかなり引いた。

日程の都合で、いつも今回みたいに3日連続朝一の通院は無理だが、来週以降も週2回はやってもらおうと思いだした次第である。



4月10日 あちらでも選挙こちらでも選挙

8日に小諸を出てくるとき、市長選挙の告示日で、某選挙事務所前で出陣式なるものをしていた。

大学へ直行してから夕方志木市に帰ると、ここでも駅前で選挙演説が行われていた。こちらは市会議員選挙である。

以降、毎朝、選挙カーから聞える呼びかけ声や選挙演説で、日が始まる感じになった。うるささの度合は市会議員選の方が立候補者が20名くらいあるから、何倍か上だろう。

候補者には近くの商店街の薬局の主人や、そう言えばしばらく前から駅前で「おはようございます」と毎朝挨拶していた健康優良児みたいな顔の男や、もう20年近く前から顔を覚えている同じ団地内居住の女性市民運動家など、知っている人物も何人かいる。

女性市民運動家なぞはかつてはまだ30そこそこのなかなかチャーミングな「若い女性」だったのが、今やすっかりおばちゃん顔になってしまっている。当然のことだが、なんだか寂しい。逆に今日も通りすがりに手を振り挨拶された若い男性候補者は全く顔も名も知らない。33歳と連呼していたから、初立候補なのだろう。他にも新顔らしい若手が2,3人いるようだ。ポスターの写真を見るだけで元気がいい。

いろんな事が少しづつ様変わりしていく。

小諸の方の選挙風景はどんなだろう。あっちは70代の現職候補とその元後援会長の同世代候補者、そして35歳の第3の候補の三つ巴らしい。当初70代の二人のつばぜり合いと聞いた時は、古ぼけた話だなあとそれだけで新鮮さに欠ける気がしたが、若い候補が出て何はあれよかった。
35歳候補が当選すれば、古く小さな地方の町ではちょっとした事件だろう。息子の世代が親父世代を打ち破るのは何はあれ面白い。

投票日はどちらも今度の日曜日だ。私は小諸に帰って投票する。さて、どう結果が出るか。


4月7日 四月の雪

3月の雪とか春の雪という言い方は時々あるが、「4月の雪」はあまりない気がする。が、今朝起きたら外はうっすらと雪化粧だった。気温も寒く、多分零下だった。

明日からしばらく東京界隈暮らしになるので、色んな雑事を片付けてから、夕近く御牧ケ原の明神館温泉へ行こうと外へ出ると、浅間連峰が本峰は純白、隣の黒斑岳も上方が薄白く明らかに雪をまとっていた。

今年というか去年11月以来の今冬は本当に寒く、地元の人たちも「今年は特別」と一様に言う。もともと太平洋側育ちのよそ者には、実に厳しい冬だった。4月とともにいい加減それも終ったかと思っていたところへ、今朝の雪だったから、うわあ、もう勘弁、という気分だった。

が、まあいい。明日からは大学の入学式を皮切りに学校その他でいろいろ用が続くので、しばらく暖かい向うで過ごすことになる。花も丁度満開のようだし、のんびり春を楽しんでこよう。


4月5日 木の名前

先だって庭に冬の常緑樹として、そよご、椿、つつじを植えた。椿、そよごはまさに緑そのもの、西日にきらきらと映えて、目に飽きない。

そよごは買う時、これは柔らかい葉が風にそよいでそよそよ音がするのでそよごと言います、人気の庭木です、との説明だった。高さは2メートルほど、もう少し高いのもありますが、あまり育ちません、雌は紅い実が生るので値段も高いです、とのことだった。

その後、ネットで調べていたら、この木は別名[ふくらしば]だと分って、相当驚いた。なぜなら、ふくらしばは私の故郷愛知県一宮市の「市木」で、あの界隈の庭にはあちこちにある。どころか、私の実家には庭およびその前の駐車場の境界木として全部で10本くらいはあり、どれも太く丈高い。一番大きいのは幹は一抱えほど、背丈は7,8メートルはある。

名前どおりふっくらと白っぽい木肌に緑濃い葉がぎっしりとつき、雌だとそこに深紅の実がびっしりつく、いかにも豊かであたたかそうな木である。
私はこの木が少年時代から好きで、実家にいるときは毎日何度かは見上げたものだった。

それといま目の前にあるそよごはずいぶん違う。大きさはもちろん、葉の色も薄緑色、張りもなく、細い株立ちにしてあるせいもあってむしろはかなげな小木の印象だ。

ふーむとしばらく腕組みして眺めなおしてみると、そういえば葉の形、木の色は似ていなくもない。全体の形や風情も似てはいる。

結局、寒冷地の信州ではこの木はそんなに育たず、緑も薄くしかならないので、最初から小ぶりの庭木としての扱いになってしまったのだろう。
太平洋側の暖かい地方では、これはかなりの大木になる姿・色合いよしの豊木扱いとなったのであろう。

所変われば木の名前も印象も、だいぶ変るものだと改めて知った。


4月2日 冬の常緑樹来る

本日午前、発注しておいた冬の常緑樹5本中4本が植えられた。そよごオス1本、椿1本、つつじ2本。そよごのメスは頃合のものがまだ見つからないそうだ。

だいぶ待っただけに期待が高まっていたが、植えられたら、視界が一変した気がした。これまで数カ月枯れ木枯れ枝ばかり見てきた目には、さほど大きからぬそよごの緑、2メートル50センチの椿が実に瑞々しく緑かがやいて映じた。

10時半植え付けが完了すると、リビングのカーテンを開け放し1時間うっとり眺め続けた。いい。実にいい。残ったそよごのメスよ早く来い、その時はつつじをもう3本追加注文しよう、などと胸は膨らんだ。

椿はだいぶ蕾もついているので5月には少しは咲くだろう。つつじは「ある程度咲くと思います」とのことだった。咲きすぎたら摘んでくれとのことだ。移植後あまり咲くと木全体が枯れるそうだ。なるほど、なるほど。

移植にあまり積極的でなかった連れ合いまで、もっとつつじを植えようなどと言いだした。論より証拠だ。

気分がよくなって、午後、1時間半ほど久々に散歩をした。この3カ月ほどは筋肉痛で30分以上歩くことは殆どなかったのだが。ポカポカと春らしい天気もよかったし、気分上々である。


4月1日 やっと4月、いよいよ4月

 新年度である。日本では学校も会社も、そして自然も4月が芽吹きどきで、つまり4月こそが万事スタートの時の感がある。

今年は冬が厳しく寒かったから、春がずいぶん待ち遠しかった。今日はまだ揺り戻しの寒さがあるけれど、それでも木々の色や空気の気配はやはり春を感じさせる。

私はまだ体のあちこちの痛みが治っていず、節々をボキボキ言わせ、時折「アイタタ」などと声を出しているが、でも、いくらか好転の兆しはあり、ひょっとしたら気温があたたかくなるにつれ体調も良くなるのではと、うっすら感じている。

仕事も今月から新しいものに取り組むつもりだ。久々に長篇、あるいはせめて中編小説を書いてみたい気がしているのである。

この数年以上はずっと短篇連作ばかりだったので、ぼつぼつ気分を替えてみたくなったのである。短篇連作は今書いている「信州アカシア林住期」(〈季刊文科〉連載)はむろんライフワークとして続けるが、それとは別の独立ものというわけだ。

長篇はもともと不得手だったし、体力も減じているので、無理かもしれないが、中編くらいならもう1作ぐらいと思い出した次第。さて、いかがなるらむ。