風人日記 第四十二章
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原発再稼働
  2012年7月1日~9月30日






感想や連絡はMAILでどうぞ。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)

『季刊文科』(鳥影社刊)53号より短篇連作「信州アカシア林住期」を開始

       http://www.choeisha.com/bunka.html 


 53号(2011年8月発行、本体1000円) 「信州アカシア林住期


 54号(2011年11月発行、本体1000円) 「信州アカシア林住期その二 夏の転変」


 55 (2012年2月発行、本体1000円) 「逆接のウズベキスタン」(信州アカシア林住期 その三)


 56号 (2012年5月発行、本体1000円) 「真冬の散歩者たち」(信州アカシア林住期 その四)

          
               

  大手書店、アマゾンなどのネット書店にて発売中。鳥影社から直接購読も可。



『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社刊 2200円+税) 


 
              


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集で、境界地域としての奄美や沖縄の人の出入り、歴史と現状、そしてウタキ信仰や創世神話に象徴される神秘主義を描いたつもりです。
 もう一つはそれらを通じての人々の人生、そして私自身のインド以来の旅人生を描いたとも言えます。写真に出した宣伝チラシでは、編集者はそっちに注目しているようです。

 大手書店およびアマゾンなどネット書店にあります。毎日新聞2009年9月20日に書評(川本三郎氏)、週刊朝日8月7日号に著者インタビュー、沖縄タイムス8月28日に紹介記事、ほかに図書新聞(中沢けい氏),mixiレビュー欄等に書評があります。この日記30章の中の日記からリンクしているものもあります。御覧ください。



 日本政府および日本国民が脱原発路線を推進し、原発全機が早期運転停止されることを望む。
 二度と原発事故に遭いたくないからである。
                               2012年1月3日 

 どういうわけか知らないが、本日未明より全原発54基が停止し、稼働ゼロとなった。下の日記5月5日欄に書いた通り、日本はフシギな国民性の国だと思えるが、なにはあれ慶賀すべき事態であるので、歓迎し、かつこの事態が出来るだけ長く続くことを望む。

                               2012年5月6日

 残念なことに今日7月1日をもって、大飯原発が再稼働してしまった。全原発停止は57日間で終了したわけだ。思えばこの間、日本全体にも市民生活にも何の支障もなかった気がする。今後も少し我慢すれば原発なしですむはずだ。いい加減、なんでも経済、なんでも便利優先の考えをやめようではないか。

                               2012年7月1日
                                            日本大学教授・作家
                                                        夫馬 基彦     


                        *これより日記                      
9月30日 大型台風17号準備

信州来襲は夜らしいが、念のため畑のトマト棚ときうりのネット張りを先ほど片付けた。どちらももう盛期はとっくに過ぎていたけど、もう1回くらい収穫できるかもと思っているうち、ずるずる来てしまっていた。トマトは青い実もそれなりにうまいからまだあってもいいのだが、きうりはもう成長が実に遅い。片付け時というものだろう。

棚類がなくなってみると、畑やリビングからの眺めが実にさっぱりした。食べ物というか野菜、それも盛期を過ぎ枯れ葉も目立つものがいつまでもあるのは、どこかくたびれた生活臭みたいなものが漂ってよろしくない。それがなくなるときうりのあたりはおしろい花の紅い花畑ふう、トマトのあとはお隣の庭がよく見えて、気分がいい。

気温は19度くらいだが、働くとやはり汗ぐっしょりになる。だが、気分爽快である。


9月29日 只今帰着

26日から後期授業の開始となったので出校、2カ月ぶりに学生諸君の顔を見た。1年生は相変らず幼く、2年生の夏休み報告は実に貧しく、4年生は600枚も卒業制作の小説を書いたという猛者が現れ仰天した。いかにもうちの学生らしい気もするが、短くセットアップするのも芸のうちだから、150枚に縮めろと指示。どうなるかまあ楽しみではある。

教授会で教職員諸士の顔にもまみえたが、まあ印象は何も変らず。いや、一、二の同年配者がだいぶ年寄じみたなと感じた。自分もああかなと思って一寸恐怖を感じたり、いや、あれに比べればオレはだいぶ若いなと自信をもったり。

昨日は毎年見る彼岸花が書斎前の土手に見当たらないのが気になって、柳瀬川土手を新座英橋まで歩いてみたら、約2キロにわたってずらりと茎は伸びていたが、まだ花は少なし。三分咲きというところか。今年は暑すぎたのだろう。彼岸花はある程度涼しくならなければ彼岸と思わぬのに違いない。

往復小一時間、いささかくたびれたが、足どりは衰えなかったから、やはりまだまだ老けこんではいない、日ごろのウオーキングの効果あり、と自信をもった。

そして今朝、早くも30度近そうな暑さに辟易し8時前にマンションを出、10時半に小諸に帰着した。やはりこちらは涼しくていい。

9月24日 畑の整理をする

本日午前中は、近所にある連れ合いの畑の整理を手伝った。すっかり秋めいたので、夏の間に繁茂した作物を減らすわけだ。

まだ生るには生るが実がだいぶ硬くなった茄子やオクラ、葉の固いモロヘイヤ、パセリ、それに種のほとんどを小鳥たちに食べられ済みのひまわり、穂に実が出来てしまったバジルなどだ。

ひまわりなぞは身の丈以上に巨大化しているので、根を抜くためにはスコップで掘り出さねばならず、一仕事である。茄子も手で引っ張るだけではだめで、鍬で掘り起す必要がある。

というわけで1時間ほどかけて終えた時はまさに汗だく。今日は涼しいからと始めた仕事だったのに、顔から汗が滴る有様にあわててシャワーを浴びた。おかげで昼食がうまかった。


9月21日 独り暮しの快楽

昨日今日とひとりなのでだいぶ気ままに暮している。
まず昨日は、庭の木につりさげたヒマワリの種を次々と食べにくる山ガラを見ているうち、ついビールを飲みたくなり、午前10時半に缶ビールを一杯やってしまった。これが呼び水で昼食は早めに刻(とき)そばへ行き、今度は「十九」という長野産のふんわりした日本酒を一杯やってそばを食す。

昼寝後、温泉へ入りたくなり出かけたが、布引温泉、御牧の湯と二か所とも休館日だったため(こんなことは初めて)長い間敬遠していた布引観音温泉に行ったら、これが案外よかった。ぬる湯過ぎるのと清潔感のなさが嫌だったのだが、夏は湯が冷めないため丁度いい温度だったし、陽の光線が斜めに射していたせいで前ほど不潔感もなかった。ここが好きだという同年配者と和やかにお喋りしてゆっくりつかった。

帰宅して夕食は、前日買っておいたピザをト-スターで焼き、それを肴にビールからまた日本酒「猿庫の泉」(伊那産)へと移り、あとは冷蔵庫からあれこれ残り物を出してあたためては飲み、いつしか佳境だった。

今日は昼ごろ思いたって車で佐久平方面へドライブ。佐久平は駅のことではなく、平野としての「佐久平」そのもののこと。小諸やよく行く東御市は山というか傾斜地で上り下りばかりとなるが、佐久平は名の通り平地だからひろびろして視野も広がる。で、行ってみたかった料亭「しき」から始め(立派すぎてラフな普段着シャツ姿の一人だけでは入りづらくてやめた)、有名な佐久総合病院へ行き、ぐるっとまわって野沢を通り、貞祥寺門前を経て、このあたりだけ無料の佐久自動車道を気持よく飛ばして小諸へ帰った。都合二時間、目的なしのドライブは信州へ来てから初めてだ。なんだか若返った気がした。

夕方以降はこのあと五時半ごろに近所のキャッスルホテルの湯(通称キャッスル温泉)に行き、そのあと湯あがり気分のまま、先だって街で見つけたうまそうな居酒屋へ行くつもり。たにしの味噌煮やまつたけの土瓶蒸しで一献やろうと思っている。ああ、結構だなあ。



9月17日 明日は9.18柳条湖事件記念日

このところの中国における反日デモ・暴動の様子はどうも得体が知れない。領土問題による単純なナショナリズム行動か、中国政府に何か意図があるのか、一部では中国内部での矛盾による権力闘争が背景にある説まであり、明日の9.18事件日には場合によっては解放軍まで絡んだ大きな動きが起るという噂まであるらしい。

何しろ情報がオープンにならない国だから、どれがどこまで信憑性があるやらさっぱりわからないが、そういう怪しさ、不可解さこそが今の中国の信用ならぬところだ。

実際、あの中国人たちの尊大さや粗雑さ、功利主義、拝金主義的性格、一方でまだまだ多数を占める貧困は、いずれも少しふれるだけでウームと腕組みせざるを得ないほどだ。

昨日たまたま見たテレビ番組での周恩来と岡崎嘉平太の交流などを知るにつけ、周恩来の腹の太さにも岡崎の誠心にも大いに感嘆、偉い人たちがいるものだと涙が出る思いがしたし、翻って自分なぞはああいうふうに国や民族間の信愛に身を挺したりは出来ないとおのれを愧じもした。

顔も似ているし、同文の民であり、千数百年の交流があり、何より隣国同士の両国が仲良く出来ればいいに決まっているのに、その簡単そうなことがなかなか難しい。一体どうすればいいのか。

それにしても明日はいかなることが起るのか。心配半分、興味津々半分。まるで80年前の事件前夜のごとき気分である。


9月14日 不快な顔

このごろテレビニュースなどを見ていると、本能的不快を感じる顔が増えた。その第一は以前8月30日付で本欄にも書いた「野田どじょうなまず」の顔だが、二番目は自民党の幹事長「石原伸びた犬」だ。

あの顔、目はキョトンとして定まらず、なにも理念や定見がなく、全体に知性というものが全く感じられない。旧派閥の爺さん連中に妙にかわいがられているそうだが、ポチにしては客観的可愛らしさがないし、よく分らぬやつだ。

次が経団連の「米倉いじわる猫」だ。あの顔、目つきも声も本当に嫌になる。本物の猫なら誰も飼わないのではないか。それでも飼われているのは、飼い主に判断力も人材もないということだろう。財界という言葉もあの猫のごとくやがて消え去るに違いない。

自民党の総裁候補とかいう「石破三白眼」もひどい。どうしていつもああ白眼をむいては上目遣いでいるのか。ぶくぶく太っているのもみっともないが、目つきくらい何とかしてほしいものだ。

民主党代表候補の「鹿野きょろきょろ馬づら」もいただけない。あまり悪人とも思えぬが、物言いが大仰だし、結局無内容だし、どうしてあの人物が一派の主なのか理解できない。

ま、大部分は総裁選、代表選が終れば露出度も減るだろうから、それまで待つしかないか。経団連は会長選とかはなさそうだな、残念。


9月11日 東京へとんぼ返り、日大文芸賞授賞式

まだ夏休み中の今日、東京・市谷の私学会館で式があった。午前11時半開始だ。
前日から行くには時間があきすぎるし、私は朝8時10分小諸発の列車に乗って出かけた。日帰り予定である。

駅での乗降客の多さから、そうかこの時間帯は通学・通勤時間なのだと改めて気が付く。特に高校生が多く、ホームの階段なぞ上で待っていなければならないほど混んでいた。新幹線も一杯だった。東京への通勤者も軽井沢、高崎から相当あった。

行く先もいつもの大宮ではなく東京駅にしたのもひょっとして初めてだ。大宮から東京までが27分と案外時間がかかることも初めて知った。東京から市谷まではダイレクト便はなく御茶ノ水乗り換えしかないらしい。というわけで市谷の私学会館着は10時35分。約1時間早い。やむなく喫茶室で紅茶をのんで待つ。

授賞式はまあ型どおりだ。12時から部屋を移して受賞者・総長・理事長・選考委員らと会食する。フランス料理のフルコースで、まあまあうまい。受賞者は文芸賞、優秀賞、佳作3名の計5名、全員が文藝科生で、しかも3名は直接私の教え子にあたる。嬉しいような、寡占すぎるような微妙な気分だ。

選考は名前はもちろん、所属も伏せて行っているし、私以外の委員が3名で、4分の1たる私は、これは私の学生らしいなと目星が付く場合はかえって厳しくかつ言葉数少なにしたから、十分公平な結果だと思うが、しかし他人の目にはそう思えぬかもしれないと気になる。むつかしいものだ。この賞の選考委員はどうも最初からあまり気乗りがせず、2回目くらいの時に会議の席で、早く辞めたいと口走ったこともあったほどだが、あと1年で任期切れになるのでホッとしている。

というようなことを考えたりしつつ、隣に座った今年から参加の選考委員三田誠広さんと学生の文学コンクールのありようなどについて話を交わしながら、食事をした。だされたワインも中々旨かったけれど、昼から顔を赤くするわけにもいかず(私はすぐ真っ赤になる)、二口くらい飲んだだけでやめた。残念だった。

午後1時、食事が終了するとともに会も終了。私は学生諸君とほんの一言だけ言葉を交わし、まだちょっと用があるらしい彼らと別れて帰路についた。2年前だったか、学生とお茶でも飲もうと彼らを待ったら、かなり待たされる羽目になったので、お茶会はやめにしたのだ。

2時4分東京駅発新幹線に乗って、乗り換えを入れ結局4時過ぎに小諸へ帰着した。思うに初の日帰り東京行だった。そんなに疲れるわけでもないことを知ったが、やはりせわしなくはある。知り合いに毎日佐久平駅(軽井沢の次の新幹線駅)から東京へ新幹線通勤をしている人がいるが、なるほど不可能ではないと一端を知った。


9月8日 西瓜を収穫

本日は連れ合いの畑の手伝いをした。というか、連れ合いが自作の西瓜の収穫をずっとためらい続けているので、代って実行した。当人は以前収穫したのが4個中2個、未成熟だったので、臆病になっているのだ。

今日は3個を収穫、もう一つは念のためそのままもう少しおいておくことにした。せっかく大きく成長したのに、切ってみたら白かったでは、確かに残念至極だから。

それにしてもすいかは熟度を見分けるのが難しく、育てるのに時間ばかりかかる。かぼちゃだともっと楽にほぼ100パーセントの収穫成功率だし、茄子やピーマン、オクラなどは外観を見れば分るから、楽なものだ。

ついでに、取れ過ぎて困るゴーヤーや大きくなりすぎたズッキーニも終りにした。採れかけのころは楽しみだったし、うまくもあったが、2カ月近く続くと要するに飽きるし、味も落ちる。

野菜作りもなかなか難しいものだ。来年は作るものを厳選し、苗は1本づつにしたいが、やはり2本はないと確実性がなくなるし、そのへんが迷う。



9月5日 旧友が続々

このところ旧友の作家Aとメールのやりとりをしていたら、同じ日ツイッターで昔の知人、詩人のSの消息を知り、思いがけず連絡が取れた。そこへ元日経新聞記者U氏から電話がかかり、先だってパリへ出かけたさい向うに住むHさんと会い、夫馬さんやAさんの話題が出た、彼は近々帰国のおり信州へ行くつもりと言っている、とのことだった。

Aとは同い年、Hは確か5歳下で、二人とも若き頃インド界隈を旅していたいわばヒッピー世代仲間である。U氏はHの一つ年下で、Sもほぼ同じ年頃だ。たぶんUとSも知り合い同士のはずだ。つまり皆いわば同世代であり、旧知の仲である。

昔よく会ったのは二十代からせいぜい四十代ごろだったが、当然ながら今は皆六十代になっている。電話でのU氏がずいぶん歳をとった印象だったので、気になって一番遠くにいるHをネットで検索してみたらものすごく年寄の写真が出てきて間違いかと思ったが、しげしげと見たら間違いなく当人だった。

みんな歳をとった訳だ。当り前だが今更ながらそう思うし、ということは自分も同様だろう。写真なぞ人に見せられまい。

それにしても、なぜこの2日ほどに相次いでこういうことが起るのか。実にフシギな気分である。何か意外事が起らなければいいがとさえ思う。いや、思わぬ楽事が起らないとも限らないか。


9月3日 さっぱりした気分

他人には全く意味はないが、自分には大事なことというものはあるもので、今日その二つが片付いた。

一つは仕事上のある書類で、締め切りはまだ少し先なのだが、気になるので早く仕上げ、今日、書留で発送した。

もう一つは毎度のことだが、医院での定期診断。別に何も変化はなく、相手の医師もそうでしょうねといったふうに「では、いつもの薬で」と処方を出してくれておしまい。分っていると言えば分っているのだが、薬の補充もあるから行かぬわけにもいかず、代りに薬を2カ月分出してもらった。これで今後は内科系に関しては2カ月に1回ですむ。

次は整形外科だが、これは数日内に行く。急にやめると副作用のでる薬を服用中だからまさに行かぬわけにはいかぬ。困ったものだ。



9月1日 9月になった、雨よ降れ

暑かった8月が終ったと思ったら、とたんに今朝は涼しくなった。まるで神様が「9月」に敬意を表したみたいだが、なんにせよ有難い。おまけに午後3時現在、我が家の界隈は風吹き、空暗く、浅間連峰は雲か霧に煙って見えずで、まもなく雨が降るのではという気配。

これまた久々のおしめりで草木も人間も潤う。さっきまで表で伸びすぎたアカシアの若木を1本伐り倒し、もう1本は主幹の先を切った。昨日は桑や合歓の枝をだいぶ切った。だが、実は今年の伸びはどういうわけか去年ほどではない。

小諸の今の家へ来てから今年で4回目の夏だが、面白いというか不思議なもので、木々は毎年伸び方が違う。しかもそれが木の種類によって違う。桑・アカシアは去年が最盛、今年は平年並という気がする。これは我が家の敷地内だけならず、懐古園へ行ってもそうで、去年の夏はもっと鬱蒼としていたのに今年は馬場あたりからはるか崖下の千曲川の音がとどろに聞え、木の間から向うが少し見えたりする。

8月の温度は例年より暑かったのに、5,6月頃の温度や日照がさほどじゃなかったのだろうか。まあ、野菜や果物も今年の出来はどうといった言い方をするから、木や雑草類にしたって同じなのだろう。草に関しては自然に任せてある我が家の敷地は、毎年一番繁茂する草が変遷していくのも面白い。ゆえに我が家では無理に草むしりをせず、さて今年はどうなっていくだろうと、楽しんで見ている。

うーむ、もう30分たったが、まだ雨が来ないなあ。はずれだろうか。


8月30日 野田どじょうなまずの顔は見たくない

最初はどじょうなどと言って出てきたが、あれはむしろ面の皮の厚いなまずではないだろうか。おまけに口のきき方が何かつるりと表面だけ収めたような印象で、時に女の子か若者みたいな調子が出、気持が悪い。

中身に真実味がないし、理念や信念といったものが感じられないのだ。口先だけきれいごとを言うが、本人の内面からの真実性がないから、言葉だけがペラペラ先行する。

ひょっとしたら「解散」が近いかと思ってきたので我慢していたが、どうやら「近いうち」の解散はなさそうだ。谷垣との騙しかなあなあ会議は、要するに二人とも自党での代表・総裁選で再選されることが第一義の目的だったのだろう。

その代表・総裁選も、片やなまずの皮vs声だけでかい思慮のないおばさん(もう婆さんというべきか)、片や騙され男vsかつて辞めさせられた右派男、となれば何の期待も持てない。

こうなると橋下維新党がやはり望まれるかとなるが、あの男、面白いところもあるが、何を言っているのか分らないところもある。ひょっとしたらファシストというのはこういうふうに登場するのかもしれないと思わせるところもある。

でもまあ、民主・自民のアホらしさに比べればまだましか、一度どうなるかやらせてみるか、あまり期待もせず、切羽詰まらず、ちょっと横眼に眺めているのも一興かもしれない。いや、いかん、それがファッシズムの呼び水かも知れんぞ、とちと迷う……。


8月28日 娘、来たる

ウズベキスタンに行っている娘が、1年半ぶりに一時帰国し、その一環で昨日小諸にやってきた。

会ってみれば別に大して変ってもいないが、少し太ったか。ウズには私も去年秋に行ったので、向うの様子も分っている。帰国後、「逆接のウズベキスタン」という短篇小説も書いたのだが〈季刊文科55号、今年2月刊)、娘はそのことをウズベキスタンで日本人の知人から聞いたと言って読みたがった。純文学関係者以外にあまり知名度のない雑誌なので、意外感がある。

読んだ結果は、ウズベキスタン在住者としてはいろいろ気になるところがある、例えばタシケントで地方行きのチケットがうまく買えなかった件や、在ウズ朝鮮系人のことを「高麗人(コリョン)」とルビを振ったこと、などと言う。「高麗人はコリョサラム」と言うのだそうだ。

まあ外国というものは、特にあまりポピュラーではない地域のことは、当事者にとっては気になるのだろう。

8月10日から東京界隈にいる彼女は暑さに辟易した模様。ウズは昼は暑いが朝晩は冷えるそうだし、何より乾燥している。ムッと来る日本の湿気は本当に参るらしい。
小諸はその点過ごしやすいようで、クーラーなしの涼しさにホッとした様子だ。今朝は私に合せて6時起きすると言っていたのに、8時20分になる今もまだ起きてこない。熟睡しているようなので、そのままにしておく。


8月25日 ただいま外は18度ちょっと

ちょっと用があって一昨日東京へ行ったが、実に暑かった。日中だけならまだしも夜に入っても暑さは衰えず、夜中じゅうクーラーをつけっ放しとなった。さすがに寝室は夜半過ぎ喉の具合が少々悪くなったりで心配なのでクーラーを切り、隣室のクーラーだけで過ごしたが、寝心地は悪かった。

朝起きてベランダへ出ると、まだ六時だというのにもうドカドカに暑く(コンクリート床の照り返しのせいもある見たい)、朝一の仕事が水撒きになった。で、もう出来るだけ早く小諸へ帰ろうと、食事も早々に七時半にマンションを出て帰路についた。

今朝は六時に起床、リビングのカーテン類をあけ温度計を見たら室温22度、外気温は18度くらいらしい。実にさわやかなものだ。東京とは8~9度違うようだ。ただし、日中日照りの場所はそれなりに暑くなるから、今のうちに冷たい外気を室内に入れておいて、あとは窓を閉める。家は半断熱構造だから、あとはほぼ一日屋内は涼しい。

代りに外へ出なくなる難点があるので、朝のうちにウオーキングをし、午前中に庭仕事なぞをする。書かねばならぬ書類もあるが、ほどよい一日になりそうだ。


8月22日 今日は島崎藤村の命日

昨日まで全く知らなかったが、今日は藤村の亡くなった日だそうだ。1943年、行年71歳。

小諸にいると、こういう情報がすぐ入ってくるが、オヤと思ったのは、この年は私の生まれた年であることだ。なんだか生れ変りみたいな気がして計算してみたが、私の誕生日は藤村の命日から49日目からまだだいぶ先だから、彼の生れ変りではない(生れ変り説は死の日から49日無明の道を通って新しい世に生れ出ることになっていたりする)。

こういう埒もないことを考えたりするのは、自分も物書きのはしくれであり、縁あって小諸に住みだしてしまったから、先達にも縁を見出したい、という意識があるからだろう。しかし、私は彼の詩は好きだが、小説はどうも好きになれない。今改めて考えても、『破戒』も『夜明け前』もそれぞれ2,3度は挑戦したのについに読み通せなかったし、『新生』にいたっては不快感がある。

『破戒』は小説上では別の場所に設定されているが、藤村が未解放部落の知識をあれこれ得たのは小諸のそれを通じてだったはずだから、せめてこれくらいは読んでおきたいと思うのだが、果していつ実現できることか。いつも投げ出してしまうのは、文章が世話物的にだらだら続くうえ一文一文も切れが悪いからだ。話の背景がいかにも古臭い感もある。

詩の方はそれに比べると、実に歯切れ良く、愛唱性に富んでいる。同一人物作とは思えないほどだが、しかし根底には通俗性があるという点では共通しているのかもしれない。大衆性と言ってもいい。今日、彼を記念する会が藤村記念館前で開かれたようだ。時間が午前だったし、私はこのところ書き出した短篇執筆を優先させて行かなかった。


8月19日 狐2頭

本日早朝5時20分まだ少し薄明のころ、台所の窓から外を何げなく見たら、先日14日付で書いた狐の遊び場に大きな狐が2頭いた。犬かと思うくらいの大きさで、しかし尻尾が大きく房をなしていたし、首輪類はもちろん全くないから、狐に間違いない。

1匹はすぐ奥の崖の方に逃げ出したが、もう1匹はしばらくサンダルの臭いをかいだりしていたのち、わりあいゆっくり姿を消した。こちらが台所の蛍光灯を付けていたので気づいたのかもしれない。

いやあ、いたいた。子狐はいなかったが、あれはカップル狐だったに違いない。想像が現実のものになったのがフシギな気分だ。



8月16日 新夫紹介

日芸文芸科での教え子O嬢が、結婚したからと新夫を連れて小諸の我が家までやってきた。たまたま新夫の家の別荘が隣の御代田町にあるので、そこへの滞在ついでというわけだが、新婚カップルの訪問なぞ我が家にとっては初めてである。

O嬢はもう30代だし、勤務先での同僚でもあった二人の付き合いはかなり長かったようなので、別に初々しいという感じはなかったが、しかし着飾った結婚写真なぞを見せる姿はやはり嬉しそうだった。こういう客はこちらもうれしくなるもので、2時間ほどのあいだ話は尽きなかった。

今の配属先はあまり居心地がよくないらしいので、ひょっとしたら「近いうちに」辞職し、子育てなぞを始めるのではという予感も漂った。教師と教え子の関係というものは、学生時代の若々しい顔形がいつも現在の顔とダブって浮かぶから、客観的にはともかく、ふーむ、だいぶ歳とったなあとかつい思うものだが、今度は赤ちゃんを抱いた母親としての顔がチラと浮んだりした。どうなるかしら。



8月14日 謎のサンダル事件相次ぐ

最初は4,5か月前だった。連れ合いが、畑に誰かが古サンダルを投げ込んでいく、前もあったから隅に片付けたのに、また畑のど真ん中に投げてある、一体誰かしら、と言いだした。

その後、別のサンダルが畑前のT家の門前ど真ん中にわざわざ置いてあったそうだ。

だいぶたって先月くらいから隣家の人が、この頃うちの庭に誰かが古サンダルやごみを投げ込んでいく、2度、3度と続くと気味悪そうに言いだした。ひとり暮らしのその人は不安らしく、近所の人に相談してまわりもした。

まもなく、そのお向いの奥さんが、早朝、自宅の門前で狐がサンダルを抱えてじゃれているのを目撃した、と証言。

そうか犯人は狐だったかとみんな一安堵したわけだが、最近、我が家の向うの原っぱに何やら黒い物体が2,3個目につきだした。小さいし草の中なのではっきりしない。で、昼間、見に行ってみたら、古サンダルが2個に古スニーカーの片方が1足落ちていた。

さてはかの狐の仕業か、それにしても3足分あるとはどうも1匹とは思えない、ひょっとしたら親子の狐が両親と子狐うちそろって、月明かりの夜中、あるいは明け方あたりにここはわが世とばかり遊び戯れていたのではと思える。思い浮べるだにいかにも幸福な、幻想的な光景ではある。

それにしても狐はなぜ古サンダルが好きなのか、人間の足の臭いがいいのか、そもどこから見つけ出してくるのか、とあれこれ考えもめぐる。どなたかご存知の方おられたら、教えてください。


8月12日 ナイト・ズー

直訳すれば「夜の動物園」。昨夜、近くの小諸市立動物園で開かれた。いつもは夕方閉める園を、改めて6時から8時まで開いたのだが、暗くなってからの動物たちの生態を見る機会はめったにないので、面白い。

7時からはムササビの檻前で、園丁の若い女性からムササビの生態、えさやりを解説してもらった。餌はひまわりの種や松の実、菜っ葉、くだもの類。滑空する時の羽のようなものは両後足の間の薄い肉膜。それらを具体的に見せてくれる。ムササビは恥じらって巣へ逃げ込んだりするが、係に抱いて連れ戻され、だんだん慣れて、観衆の前で食べて見せたりした。

動物園は懐古園脇にある小さなものだが、設立は長野県で一番古く、鹿や猿から、ライオン、熊、孔雀、ペンギンまでおり、鵇色のフラミンゴが美しい。この日はムササビのほか、ライオンの餌やりもあった。餌やりとは要するに馬か鹿の赤い肉をライオン2頭がガツガツあっという間に食べるわけで、見ていてどこか気をのまれる。食べられる方はかなわんわなあ、という思いがするからだが、考えてみれば人間もあれをもう少し「こま切れ」にして煮焼きなぞして食べているだけかもしれぬ。

残酷なものだ。こういう時だけ菜食主義者の気持が分ったりする。


8月10日 もう寒くなった

というと言いすぎかもしれないが、小諸では夜半過ぎから寒く感じ、あけてあった窓を閉めてまわった。寝具も布団を首まで掛けていないと肌寒い。

日中の陽あたりはさすがにまだ暑さも残るものの、日陰を歩けば坂道を歩いても苦にならず、汗もかかなくなった。7日が立秋で、その通り秋風がたった感じである。

東京はまだまだ暑いだろうと思うので、当分近づかないつもりだ。下旬になったらマンションの空気入れ替えに出かけようと思っている。

今日あたり、娘が1年半ぶりに一時帰国するはず。東京界隈の蒸し暑さに驚くだろうな。


8月8日 オリンピック選手たちの面構え

連日のオリンピック報道で、バドミントンだのフェンシングをはじめ日頃は見たことのないような種目まで見ているが、一番感じるのはどの種目であれ勝ち上がってきた選手たちは面構えが違うということだ。国籍を問わずそうなのだけれど、日本だけとっても、卓球女子の石川選手、バドミントンの二人、水泳の鈴木聡美選手など、集中と勝負魂みたいなものがほとばしっていて実によかった。

すさまじかったのは柔道の松本薫選手で、失礼ながら相手が怖がりはせぬかと思うほどの眼光プラス咬みつきそうな顔相で、まさにあれだけで相手は気を飲まれてしまったのではなかろうか。金メダルはあの顔のせいにちがいあるまい。

男子選手や外国勢もそうで、100メートルのボルト選手などは自信に満ちた顔に加えて、あのほれぼれするような隆々たる筋肉の輝き、脚の太さ・筋肉の張り等はまさに肉体に表情があると思わせた。オリンピックは記録や順位だけの勝負ではなく、顔や肉体の表情の勝負でもあるだろう。

日本人はそこへいくと、肉体の貧弱さは覆いがたく、これは民族性なのか、なぜこうなったのか、東洋人の中でも中国や韓国などに比して華奢なのはどういう理由のせいか、などとついあれこれ考えてしまう。かつて日本軍がやたらと好戦的で、中国などアジア各国でビンタをはじめ暴力的行為をしまくったのも、これと何か関係がありはせぬかとさえ考えてしまう。素手でかなわぬものはすぐ武器を持ちたがるし、持つとやたらと暴力的になる。

オリンピックは武器一切なしの、文字通り素手素裸の戦いだから、気迫が一気に顔に集中するのだろう。毎日朝晩、ああいう顔々に接していると、すがすがしい。



8月7日 今月の医者通い終了

昨日内科、今日整形外科と、いつもの診察が終了した。まあ、きまりの薬を貰いに行くだけみたいなものだが、なんにせよ医者通いは私は嫌いだ。どこかゆううつな気分になる上、整形外科なぞさんざん待たされ、一段落までに1時間半はかかる。

さあ、さばさばした。これで夏休みはほぼ万全の体制である。さて、なにかうまい昼飯でも食べに行くか。



8月6日 小諸ドカンショと早稲田文学

土曜日「小諸ドカンショ」、日曜日「平岡篤頼文庫対談会」とイベントが続いたが、どちらもつまらなかった。

前者は、繁華街を30連ほどのグループが揃いの衣装姿でドカンショ節なるものに合せて踊り練り歩くものだが、どうにも盛り上がらないし、趣向自体に面白みがない。同日あるいは前後して松本市で「松本ボンボン」、長野市で「長野ナントカ」と要するに似た催しがあるから、一種の流行なのだろう。この種のものは7月の神輿祭り、祇園まつりの方がずっと威勢もよく、風情もある。神事を背景にした伝統の良さがある。

後者は大学時代の恩師で「早稲田文学」のいわば親分だった故平岡さんの元別荘に平岡篤頼文庫が一昨年できたのを機に、夏の一日木の下でゲストを招いて対談を行う催しで、今年は作家の重松清とホスト役が元編集者の根本昌夫だった。二人ともかつての早稲田文学時代(私は編集委員だった)の後輩だし、場所が信濃追分の分去れ近くで、車で30分なので出かけた。

直木賞作家の重松はさすがにサービス精神旺盛で、ほとんど一人で1時間半近くを喋ってくれ、中身も後半はなかなか熱が入ったが、相方の根本がなんともボケたような対応で興ざめだった。根本は私より10歳下、重松は更に10歳下だそうだ。10歳違うとこんなに違うのかという感や、作家と編集者の違いかとも思ったりしたが、むしろ個人的特徴だろう。言いかえればボウとしていると、若くてもどんどんボケるということだ。他山の石である。気を付けなければ。


8月2日 草間彌生展と松本市のフシギ

松本美術館で草間展をやっているというので、行ってきた。大阪とかさいたまなどで開催されてきた同展が、草間の故郷に帰ってきたわけだ。片道1時間40分、途中三采山トンネルという2500メートルの長い暗所があるのでいささか疲れもしたが、行った先は人も少なく大通りに面した落ち着いた中規模の美術館だった。

前庭のチューリップとか犬などカラフルそのもののインスタレーションから始まって、階段途中の「やよいちゃん」の水玉大バルーン、そして第1、第2会場とも水玉や鏡の間のキラキラ光る「永遠」の世界。ぱっと明るく、笑い出したくなる底抜けの別世界だったり、鏡の多面体的効用で本当に果てしなく広がる八方への光とイルミネーションの連続は無限的幻覚効果を生む。

通常の美術展と違って絵や造形作品を鑑賞するというより、彼女の作りだす幻覚空間へそのままポンと移動させられる感じで、こちらが体ごと包まれる、そしてある種の解放空間におかれる感じがいい。童心に帰れるとも言えるし、年齢に関係なく一種の極楽世界へ誘われると言ってもいい。

略歴を見ていると、どうやら草間彌生は松本での幼年時代からすでにおのれ自身がそういう幻覚世界に半ば生きていたらしく、美術家になってから意図的に作っていったものというより、彼女自身が見てきた世界をよりきらびやかに、誰にも感得できるように、芸術として表現したものとでもいおうか。

当年82歳、その目は本当に目を瞠る少女のごとく、永遠の童女のごとくであり、すでに35年間精神病院に住みながら、アトリエに毎日通って、5分10分を惜しんで描き続けるという日常もそれこそ目を見張らざるをえない。平たく言えばちょっと往っちゃった人、飛んでいる人、幻覚の人、というわけだが、通常のリアリズム世界に生きざるを得ない平凡人、常識人、正常人には、まことに羨ましくもある人だ。

2時間ばかり、別世界に遊んで、こちらまでボウとした後、近所で見つけたマクロバイオチックレストランで昼食をとったが、ここがまた自然食をつきつめるあまり、思考まで国粋主義につきつめ、「開戦」日の丸讃美、尖閣列島死守、などと室内にアジが並ぶ様相に驚かされた。これらはおだやかに食事をする場所にはどうにもふさわしくなく、おまけに「台湾独立支持」などという旗が掲げられていると、台湾は確か「尖閣列島(魚釣島)は台湾領」と主張しているはずだがいいのか、などと首をひねることにもなり、妙な気分の食事になった。

極楽的草間彌生との落差というか、極端な飛び方がある種同質性があるような気もせぬではなく、さても松本という所は不思議なところだという印象が生じた。


7月30日 国会包囲デモの活況ぶり

毎週金曜日の首相官邸前デモもそうだが、昨日の国会包囲デモもずいぶん大勢が集まったようだ。主催者発表で20万、警察発表で1万2千人。いくらなんでも差がありすぎるし、航空写真なぞを見ても1万ということはあり得ない数字だ。警察は何でこんな詐術をするのか。人数が多いのがそんなに怖いのか、誰かの命令でこうしているのか。とすると、警視総監か、その行政上の上司である東京都知事か、警察組織上の上部機構である警察庁長官か、その上の公安委員長、更には総理大臣か。

なんにせよ、ばかばかしいことだし、今や警察発表の数字なぞ誰も信じまい。フシギなのはその数字をそのまま記事にしたりしているマスコミで、せめて主催者発表と両方併記ならともかく警察発表だけのがあったりする。そういうマスコミもだんだん信用されなくなっていくだろう。近頃ではマスゴミという言葉も出来たそうだ。

それにしても昨日の国会デモの動画を見ていて一番感じるのは、実に賑やかで、楽しげで、活気に満ちていることだ。太鼓やドラム缶、楽器類を鳴らしているグループも多いし、服装もカラフル、年齢層も幅広く、みんな大きな口をあいて元気いっぱいのシュプレヒコールも分りやすい。「原発はんたーい」「再稼働反対」。誰も異存はあるまい。プラカードも創意があって面白いし、見ているだけで楽しい。

私なぞ昔の全学連世代、新左翼世代には、思わず腕組みして見とれてしまうような光景だ。昔は組織されスクラムを組んで機動隊とぶつかるのが定番で、機動隊に警棒で頭を殴られるし、けが人も出るし、個人的には正直怖い時もあった。が、勝手に逃げ出すわけにもいかず、デモ参加はある程度の怪我は覚悟、が常識だった。だからプラカードなどもまず持たず、旗竿は横に倒して突撃用に使うものだったりした。

それが、今は赤ちゃんを抱いた人や家族連れまでいたりする。警官はかなりいるが、ヘルメットや盾で武装した機動隊は今のところ目につかない。平和になったものだという気がする。これなら誰でも参加できるし、現にずいぶん遠くの地方からわざわざ上京して加わる人もいるらしい。物質的にも精神的にも豊かになったということだろう。

いい時代になったと言いたいところだが、ほんとにそう言えるか否かは、こういう動きを為政者がどれだけ正当に受け止めるか次第だろう。無視されたり、先の警察発表のように詐欺的に操作されるようなら、世はますます虚しい閉塞社会になっていくだろう。


7月28日 野菜満杯

昨夕は一人食事だったのだが、晩酌のつまみに生きうり、ルッコラから始め、以降、食事中もソーセージと山椒ちりめん以外はトマト、じゃがいも、再びきうりと、野菜ばかり食べ続けた。

1本目のきうり、トマト、じゃがいもは我が家の畑産、つまり自製、ルッコラはお隣の畑産(種は我が家提供)。2本目のきうりは御近所からの貰いもの。貰いものきうりはまだ冷蔵庫に4,5本はある。

そこへ今朝になってまた別の人(すぐ裏の畑の耕作主のひとり)が裏門にビニール袋を懸けていってくれた。中身はきうりといんげん豆と茄子がいっぱい。これで今晩のおかずは自動的に決まりだろう。昨日は鰻を食べなかったし、今日はテレビニュースでやっていた「茄子のかば焼き」でいくか。

本日は連れ合いの畑の収穫物もあるはずだから、ズッキーニやピーマンも加わるだろう。かぼちゃはもう少し先か。
田舎はいい。どこからともなく野菜が集まってきて、まさに満杯である。夏の間は買うことは殆どないし、従って買い物に出かけることもだいぶ減る。

今朝、懐古園隣の市立動物園へ散歩に行ったら、ペンギンがすいすいと水中を泳ぎ、上ってよたよた歩いていた。きうりでもやりたかったが、果して食べるかしら?


7月25日 なぜのんびり日記を書くか

私はmixiとHPの両方にほぼ同じ日記を掲載している。両方の読者を合わせると何人くらいになるのか定かでないが、それらの方々のなかから時に、「夫馬さんの日記は緑や自然のことが多く、のんびりしていますね」と言われることがある。

ツイッターもほぼ同様で、私はおおむね気候のことや身のまわりの自然のことなどをごく私的に呟いている場合が多い。自分が受信している人のツイッターはもっと社会的なことや専門領域にかかわることが多いから、自分は私ごとをつぶやき、ひとには社会的に役立つことを望んでいるとなろうか。

どうも勝手なものだが、書こうとする時はたいてい何か社会的なことなぞをちらと考えたりしているのである。が、しばらくするうちにそのことを書くこと、あるいは考えることがいやになる。例えば原発問題をめぐる政府の動きや、経済界などの趨勢、いじめ問題に関する大人も子供も含めた陰湿と嫌悪感の伴う閉塞感、福島原発事故の後処理が何一つといっていいほど進まない、にもかかわらずそのことへの切迫感や責任感が、国や東電にも、いわゆる原子力ムラ関係者、マスコミにも具体的にまるでない感じがすること、等々に私はほぼ毎日苛立っているのに、書こうとすると嫌になってしまうのだ。

理由は多分、書いたところでしょせん蟷螂の斧だ、どうにもならない、書けば書くほど腹が立ってくる、嫌な気分になってくる。それくらいなら緑の優しさ、庭仕事で流す汗、心地よい涼しさ、などについて書いた方がよほど気分がいいし、筆も進む。ひょっとしたら読んでくれる人たちにも多少の清涼感を与え得るかも、といった心理が働くせいだろう。

最後の清涼感云々に関しては「あんたが気持がよくたっておれには何の影響もないよ」となるかもしれないから、まあ結局は自分自身が不快なことをしたくないだけというのが正直なところだろう。

だから、時には話題にバラエティーを持たせようと努力はするのだが(例えば最近だと「サラリーマンの定年」)、それとても結局は私的思いが中心になる仕儀である。そりゃそうだ、老年の人生には詰まるところ「私」や「おのれ」、そして日常の平穏、しかない気もするのである。


7月23日 梅に鶯

今朝早く玄関前にどさりと梅の実2袋を頂いた。昨夜メールで予告されていたから、もちろん贈呈者は分っているが、こんなに多いとは思っていなかった。大きいビニール袋二つにぎっしりで、両手に持ち切れないほどだ。青いのから少し黄色になったものまで、粒も大小とりどりである。

連れ合いとさてどうするかと相談になった。近所にお裾分けしてから、青いのは梅漬け(信州では干さずに青いうちに漬け、カリカリのまま食べる)、黄色いのはジャムか何かほかのものにと考えている。それにしてもこれだけ生るためには木は1本ではなかろう。かなりの木が何本かあるに違いない。どんなだろう、花のころはきっといい香りが一面漂っていただろうな、などと想像する。

そこへ折しも外で鶯が鳴き出した。ホーホケキョ、ホーホケキョ、ケキョケキョケキョ、ときれいなものだ。先だって連れ合いがあれは藪うぐいすだといっていたが、調べてみると藪うぐいすは冬にチャチャチャと鳴くとある。通常の鶯は早春から夏いっぱいホーホケキョと鳴くとあるから、まさに鶯そのものである。梅に鶯とはこのことだろう。


7月21日 いやあ寒い!

昨日、学内で食堂へ行ったとき、外気の方が寒いなと感じた。授業後、たまには学校から小諸へ直行しようと列車を乗り継いで軽井沢へ着いたら、濃霧のせいもあって相当寒かった。しなの鉄道車内までも寒かったので、たまたま持っていたTシャツを長袖の上から着こみ、小諸駅に降り立ったら、まだ寒かった。

夜は一旦しまった合布団をまた出して寝た。
そして今朝、6時ごろの外気温は13度くらいだった。いやあ寒い、寒い。さっき畑のトマトの支柱を補強していたら、夏とはとても思えず、早々に引き揚げた。

今日は最高でも19度だそうだけど、雨も降るらしいからもっと下がるかもしれない。昨日の軽井沢以来、何やら右こめかみ上あたりがズキンズキンと時折痛んだりする。脳梗塞の予兆じゃあるまいなと、心配なり。


7月17日 本日朝からのツイートを掲載

今朝7時55分のツイート:
暑い。今日はヤフーの天気予報では、午前9時23度、午後12時で最高になって26度だが、間違いなくそんな程度ではなさそうだ。昨日も最高26度のはずが30度を超えた。今日も最高は30度を超えるだろう。いっそ梅雨明けでカラッとなればいいのに、まだ少し雲がある。ゆえに蒸し暑い。


10時56分のツイート:
早朝と違って空は真っ青に白い羊雲となった。完全に真夏の様相だ。整形外科の1カ月検診に行き、車のナビの修繕を依頼してきた。雑用終り、明日は久々の出校予定。暑そうだなあ。

午後13時19分のツイート:
やはり梅雨明けであった。暑い。入道雲がにょきにょきだ。なのにヤフー天気は小諸市正午雨だそうだ。ふざけている。断言するがこの数年見てきた結果、ヤフーの天気情報はほとんど役に立たない。何たるいい加減さ。情報訂正というものはないのか。


7月15日 小諸まつり

昨日は小諸市民祭り。昼間から子供みこし、ゆうがたからは大人神輿が出て繁華街を練った。今年は飲みながら見物できる食事処の座敷に席をとって来客と一緒に見物した。

神輿衆がやってくると、店がお祝儀を出すので、神輿は必ず店の前でちょっと練って見せる。おかげでこちらは居ながらにして旦那衆気分というわけだが、今年は神輿の数は減った気がした。あるいは駅前での演技が長引いているのか、順番待ちの神輿が店の前で腰をおろしてしまう場合も多く、少し熱気に欠ける面もあった。

客は全く酒を飲まないばかりか食べる方もあまり進まない人だったので、飲むのは私だけ(連れ合いもほとんど飲まない)となり、ややさびしかったが、まあ私はだいぶ飲んだ。

今日は祭りの2日目、実はこっちが伝統の祇園まつりだが、朝からだいぶ雨が降っている。今も外は雨音が強い。昼近くに天王社、健速神社の両所から2基だけ神輿が出る予定だけど、果して無事出せるかどうか。小諸へ来て以来毎年見続けてきた行事だけに心配である。



7月11日 いい気分である

いつもなら水曜日の朝ちょうど今頃は、出勤スタイルで上着を着、肩鞄をかけて駅へ向っている時間なのに、今日は悠然とこうしてパソコンに向っていられる。今週は大学の日程で出校しなくていいのである。

いやあ、いい気分だ。まだ夏休みというわけじゃないのに、1週間授業なしなのが儲けものをしたような気になる。折から雨も降らず、庭には合歓の花が今年初咲きでだいぶ開いた。かすかなピンク色とほのかなそよぎ、そして鼻を近づけると品のいい香りがする。

今年はアカシアや桑など他の木の葉や枝の伸びが悪いのに、合歓だけは例年よりいい。今年一気に40センチほど伸びた枝まである。敷地内全部で20本ほどはあろうか。全部を今後も育てきれるか否か分らないけど、だんだんアカシアのお株を奪って「合歓屋敷」の様相を呈してきた。

今日から2,3日、林の中でひとり暮らしだ。これもまた良し。


7月9日 サラリーマンの定年

御近所のAさんが今朝記念すべき日を迎えた。定年を迎えたのである。
正確に言えば定年は確か2年前だったのだが、以後2年間は嘱託として週2回か3回出勤という態勢だった。だから、先週までは毎週月曜朝にはちゃんと背広を着て肩鞄を下げ急ぎ足に出勤、という光景が長年当然のことであった。

それが今朝からなくなった。代りにその時間になると、彼はスポーツ用ジャージーを着て門前に現れ、奥さんと愛犬とともに3人(?)で仲良くウオーキングに出かけた。連れ合いによると、先方の奥さんがこの日からはそうするとかねがね宣言していたそうで、まさに予定の行動であろう。

私は窓越しにその姿を見送りながら、彼は今どんな気分だろうと心境を想像した。氏は確か大学の理工系を卒業後すぐ地元企業に就職し、そのまま40年以上勤めあげ、今日の日を迎えたはずなのである。スポーツ好きの、まじめで、几帳面な性格がよく伝わる人で、健康そうだし、たぶんこれまで大きな欠勤や変事は一度もなかったのではと思える。

言い方を変えれば、40年間ほぼ確実に月曜の朝は、「さあ、仕事だ」とよきにつけ悪しきにつけ気を張って出かけたはずである。それが今日からない。おそらく永遠にない。

私は通常の意味でのサラリーマンであったことは、25歳の時の3ヶ月間を除けば全くない。この15年ほどは大学に勤務し給料をもらっているが、大学という所は結構なところで週3日好きな時間に授業設定をすれば済むから、満員電車に乗ったこともなければ、早朝せかせかと早足で家を出ていくこともまずない。帰宅時間もかなり自由だ。行った先では若い男女の学生たちから「先生、先生」と言われ、個室も貰えている。

代りにというか、大学勤務になる前の20代、30代、40代の計約30年は定収はろくになく、作家と称するようになってからでも原稿を1枚書いてなんぼ、1枚は一番いいころで4300円だったから、月に50枚書いても20万ちょっと、1割源泉徴収されると20万を切ることが多かった。長篇を半年かけて書いたときなど、それが没にされれば半年の労働対価がゼロになったこともある。

今から考えても厳しいかぎりで、勤め人はいいなあ、会社に行ってさえいれば月末には給料が入る、なんてラクな生活なんだ、とつくづく羨んだものである。

だからというか、だがというか、そのサラリーマンを生涯やってきた人の心情は、いまだによく分らない。むろん一定の類推はつくが、実感としてはどうしても分らないところがある。40年も勤めてきたのかあ、と遠い彼方のことのような、大変なことのような、フカシギな気がするだけである。

Aさん、近所の人の畑を見にいったりしているそうだから、自分もこれから畑でも耕すつもりなのか。それとも好きなスポーツの少年チームコーチに専念するのか。はて、どうなるか。私はかなりの興味を持って見守っている。


7月7日 どしゃぶりだあ!

今日午前10時半に小諸に帰ってきて、郵便物や新聞の整理をし、畑のトマトの色づき始めを確かめ、じゃがいもの茎や葉が枯れ始めていたので何本かを掘って新じゃがを収穫し、昼食にそのじゃがいもともぎたてのきうりを食べた。うまし。

食後、新しい今日の郵便物を点検し、思いたって郵便受け脇に急速に伸びていた桑の枝を刈り込み終えたところへ、ザーッと一気に驟雨が襲ってきた。いや、すごい勢い。小諸は梅雨時といえど関東に比べるとなんとなく雨量が少ない気がしていたが、これで、木々や草、土はいっぺんに瑞々しくなるに違いない。

にんじんの種を撒いたばかりの連れ合いは、大喜びしている。
私は桑の枝打ちをしておいてよかった、隣の姫シャラの木が伸び伸びし花がよく見えるようになったと喜んでいる。

小諸帰宅第1報なり。今日から10日間はこちらだ。ありがたい。


7月3日 やはり蒸し暑い

今、朝の一仕事をしてきたところだが、木の伸びた枝落し程度で大した労働量じゃないのに、じっとり汗ばんだ。気温は19度の表示なのに、湿気が高く、少し動くと汗ばむのである。

塀の外に伸び出た枝に関しては、いつもどうするか迷う。屋内から見ているぶんには外の道などを隠し、緑に包まれるようで悪くないのだが、外側から見てみると、塀際にだいぶ覆いかぶさって、他人の土地に進出というか侵食しているようにも見える。

で、ある程度の管理は必要だろうと、枝を切っていると、中から連れ合いが「あんまり伐らないで。せっかく緑が増えたのに!」と声を飛ばす。それも分るし、しかし土地所有者である御近所には悪い気もするし……。

というわけで、伐った枝を塀にぶら下げたり引っ掛けておくことにした。緑の目隠しになるし、2日もすれば枯れるにせよ、多少の目隠し効果は続きそうだからである。まあ、いっときの目くらまし。通行人などは、はて何をしてるのかしら、と思うだろうなあ。


7月1日 文月

今日から7月だが、昔この月を文月と言ったのは、たぶん「暑中お見舞い」の類の手紙を交し合った時期だからではと思う。今でもおおむねそうで、7月の梅雨明け以後8月のお盆くらいまでが、一番文が飛び交う時だろう。子供や学生の夏休み、帰郷、墓参り、旅行、とあれこれ行事もある。

前半はまだ梅雨の影響で天気がぐずついたりするが、おかげで涼しかったりもする。それでも東京界隈などではやはり次第に汗ばんできたりして、クーラーなしでは過ごしにくいけれど、信州では気温・湿度ともほどよく、かなり気持のいい季節である。

雨の湿りのせいで木々や草の緑もきれいで、そこに沙羅や山法師の白い花が咲いていたりすると、おだやかで清楚な気分になる。毎日少しづつとれ出すきうりやさやえんどうの緑っぽい味も季節らしい。
今日は第1日曜でもあったので「区内清掃日」で、朝6時ごろから表で近所衆の話し声が聞えたりするのも爽やかな朝を思わせた。こういう近所との交流もいい。