風人日記 第四十四章
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それでも新年
  2013年1月1日〜3月31日






感想や連絡はMAILでどうぞ。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)


『季刊文科』(鳥影社刊)53号より短篇連作「信州アカシア林住期」を開始

       http://www.choeisha.com/bunka.html 

 53号(2011年8月、本体1000円) 「信州アカシア林住期」


 54号(2011年11月、本体1000円) 「信州アカシア林住期その二 夏の転変」


 55号(2012年2月、本体1000円) 「逆接のウズベキスタン」(信州アカシア林住期 その三)


 56号(2012年5月、本体1000円) 「真冬の散歩者たち」(信州アカシア林住期 その四)


 58号(2012年11月、本体1000円) 「シークレット・ズー」(信州アカシア林住期 その五)


          
               

  大手書店、アマゾンなどのネット書店にて発売中。鳥影社から直接購読も可。


『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社刊 2200円+税) 


 
              


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集で、境界地域としての奄美や沖縄の人の出入り、歴史と現状、そしてウタキ信仰や創世神話に象徴される神秘主義を描いたつもりです。
 もう一つはそれらを通じての人々の人生、そして私自身のインド以来の旅人生を描いたとも言えます。写真に出した宣伝チラシでは、編集者はそっちに注目しているようです。

 大手書店およびアマゾンなどネット書店にあります。毎日新聞2009年9月20日に書評(川本三郎氏)、週刊朝日8月7日号に著者インタビュー、沖縄タイムス8月28日に紹介記事、ほかに図書新聞(中沢けい氏),mixiレビュー欄等に書評があります。この日記30章の中の日記からリンクしているものもあります。御覧ください。




 昨年、いろんな推移の中で三ヵ月ほど日本の全原発五十四基が停止したことがある。現在は大飯原発が稼動しているほか、新首相安倍は「今後新たな原発建設も指向する」と言い出している。原発ゼロは早くも夢のかなたというのだろうか。情けないことである。
 私は現在と未来の人類のために、原発が少しでもなくなっていくことを望む。
                                

                                
2013年1月1日
                                        日本大学教授・作家
                                                   夫馬 基彦
    

                        *これより日記                      

3月30日 こぶし咲く

一昨日の19度に比すと今日は最高でも11度の予想、目下はたった4度だから、大分寒い。

だが、お隣の辛夷が咲いた。2階のわが書斎の窓に、背の高いこぶしの木が大柄な白い花をいっぱいつけて上向いている。完全に開いているのは下の方の3輪だけだが、今日晴れて日中陽がさせば確実に5,6輪はさらに咲くだろう。

東京界隈では辛夷が咲くと間もなく桜が咲いたものだが、小諸ではどうか。桜はまだまだだいぶ先の感じがするし、梅でさえこのごろやっとほころびだしたところだから、こぶしの花だけが早い気がする。花が大柄だから、暖かさにより敏感なのかもしれない。

背後の浅間連峰が煙っている。春靄の気配だ。



3月28日 仰天!!

昼食を食べに出たとき、風もなく暖かい日だとは思ったが、午後3時の小諸の気温がなんと19度だそうだ。同時間の志木市は18度だから、それより高い。たぶん過去4年間で初めてのことだ。

どころか、埼玉南部や東京の温度は小諸市より平均7,8度、時に10度高いのが常だったから、まさしく驚き、ももの木だ。

こういうこともあるんだなあとただただ感嘆するばかりだが、おかげで畑仕事が楽しかった。東側の二畝(うね)に水をやり、赤カブと諸葛菜の種をまいたのである。ぽかぽかと日を浴び、なんとものんびりした気分だった。種まきという行為がいいのである。生産の根源、誕生、芽ぶきを待つ、そんな気分が穏やかな充実感をもたらす。

鳥の巣箱も木の股にはめ込み、しっかりと紐でくくった。去年は同じ場所で四十雀のひなが数羽孵った。そのとき雛にふれた柔らかい感触がよみがえってくる。今年も孵れよ。



3月27日 卒業式終る

25日が卒業式だった。1年ゼミからずっと夫馬ゼミだったBがぽろぽろ涙を流して泣くので、困った。彼氏もできたそうだし、今度は結婚式で会おうと約束した。

しかし学位記授与式で2時間くらいずっと全卒業生を見ていたが、知っている子は3分の1弱だったので、こんなものかとやや寂しい気もした。

これでゼミ担任した卒業生を送るのは最後になる。来年は4年ゼミはないし、そのあとはもう学校自体をやめる可能性大だ。

「小諸へ先生の顔を見に行く」と言ってくれた子も複数いたから、まあ楽しみに待つ。

その小諸はようやくこぶしがほころびかけ、梅が咲き始め、クロッカスが咲きそろった。畑に立ち葵やきんれい草など花の種をまいた。



3月23日 紫蘇ジュースの楽しみ

昨日、近くのアグリの湯直売所へ紫蘇ジュースを買いに行った。近在の立科町農協製のもので、熱湯で2〜3倍に薄めると香り・色・味も丁度良く、だいぶ気に入っている。

最初は農協と市共同経営の温泉風呂に来た際、農産物の多い売店でたまたま見つけたのだが、少年時代祖母が庭でとれた紫蘇で時々作っていた味が記憶に残っていて、すぐ買った。

以来、もう4年間ほとんど毎夜グラスに一杯飲む。夏の湯あがりの場合は冷たくして飲むこともあるが、おおむね熱くして飲む。その方が胃や体にいい気がするのだ。

紫蘇ジュースはほかの直売所へ行くと違う種類もあるが、いろいろ試した結果、ほかのは甘すぎたり紫蘇が薄すぎたりで、いまのものが一番いい。野性味も一番ある。

うまいと感じ、楽しんで飲めるのが、体にもいいのだろう。紫蘇は我が家の敷地内にも自生のものがかなり生えるのだが、どういうわけか色が薄めで香りも弱い。場所によって種も出来具合もそれぞれ違うのだろう。目下立科産礼讃である。



3月21日 野猿公苑、北斎館

19日は長野県北部の湯田中温泉へ行ったついでに、この頃テレビニュースなどに時々登場する野猿公苑へ行ってみた。猿が温泉につかる場所だ。湯田中から車で10分、そこからぬかるみ道を片道30分歩かねばならなかったが、行ってみると確かに楽しい気分になれた。

温泉が地中から噴き上げている地獄谷から少し先の野天風呂に、猿の親子やカップルがのんびり浸かったり、蚤とり(?)ごっこをしているのである。猿は人間にずいぶん慣れていて全く警戒感なし。路上に腹をだして寝っ転がったりまでしている。

湯田中の温泉ホテルの若女将が「あそこは猿と外人ばかりで日本人はいませんよ」と言っていたが、その通りだった。外人の中にはタイ人なぞも数人いた。周りは雪があるし、南国人には珍しいらしい。

翌20日に行った小布施の北斎館は、予想以上に良かった。北斎自筆の天井画や彫刻が満載されている祭用の山車が2基展示してあり、極彩色、鮮やかそのもののデザインが、実に見事なのである。

北斎は「自分の画業と言えるものは77歳から。100歳になってどうにかの域に達するだろう」と言ったそうだが、90歳まで生きた彼の晩年作は確かに晩年なぞと感じさせない生き生きはつらつとしたものだった。このごろ時折年齢を口にする私は、いささか恥じた。口にしてもいいが、創作欲を衰えさせるべきではない。



3月18日 いよいよ畑を耕す

このところの暖かさで、寒冷地小諸の土も軟らかくなったので、昨日から耕しだした。といっても庭の中のほんの3畝(うね)ほど。

昨日はまず鍬で雑草類を取り除き、うねにも空気を入れた。今日はうねの中ほどに溝を作り、化成肥料を少々まいた。私は原則有機農業を心掛けているが、化成肥料も少し入れないと肥料成分が偏るらしいので、種まきや苗植えのかなり前に少しだけまき、土にとけこむようにする。

小諸は暖かくなったとはいえ、3月中または時に4月になっても雪が降ることがあるので、種まき等はまだだいぶ先の話である。なのに暖かくなると体がむずむずして、畑仕事のまねごとをしたくなるのだ。プロはもちろんまだ本格始動はしない。素人だけが粋がって気だけはやらせる。

しかし、それが楽しい。また春だ、まもなく種まきだ、今年は何をまくか、西側のうねはみな花にしようか、野菜は東側だけにし、きうりとトマト限定とするか、などと考えるのが楽しいのである。野菜類なぞ実際だいぶ先の話だが、畑の周りに雑草類がだんだん青々してきたので、おちおちしておれぬような気がしてくるのである。



3月16日 TPP

いま問題になっているTPPなるものについて、私はよく知らない。が、こういう場合、どういう人たちが賛成し、どういう人たちが反対しているかで、ある程度の見当はつくものである。

今回の反対者は日本国内では農業関係者、医療関係者であり、自動車など工業関係者は賛成。アメリカはそもそも推進役で、日本に積極的に勧め(人によっては押しつけ、と言ったりする)、トップ会談で日本に了承させたのだが、アメリカ国内でも自動車業界などには日本の車に進出されるから反対、の意見もあるらしい。

それらから推すと、どうやら農業品はアメリカからコメや肉、乳製品、野菜などがどっと入ってきて日本農業は打撃を受ける。アメリカの保険業が一方的に入ってくると、日本の健康保険制度も揺らぐ可能性あり。一方、工業製品は日本がアメリカに進出しやすく有利、ということらしい。

賛成者は経団連、自民党の多く、反対者はJA(農協)、医師会。間に立った多くの国民はどちらがいいかよくわからず。

食いしん坊の私は本能的に自分が食べるものは値段が少々高くなっても国産がいい、それもなるべく無農薬のもの。アメリカ産などは何が使われているかわからないから、原則避けたい。保険制度は目下の日本の国民総健康保険制度は公平で、安く済み、とくに欠点もないから現状のままでいい、と感じている。

よって全体としても現状維持がいいと考えるが、政府と自民党の動きはどうもおかしい。特に自民党は、野党時代はTPP反対だったのに、安部政権になったとたんTPP推進に転じたのはなぜか。

アメリカに押しつけられたのだ、日本は実質アメリカに隷属しているのだ、という意見がかなりの説得力を持ってくる次第である。しばらく心してこの推移を見ていようと思う。



3月14日 落葉の下

今日は最高気温3度と冷たい日だが、しかし日が照っている下ではさほど寒くない。で、庭仕事をした。門脇のミニ築山の落葉や蔓の整理をしたら、下から続々水仙の芽が見つかった。すでに蕾をはらんでいる者もいる。

裏の畑からは葱を掘り出した。2,3日前までは土が凍っていて、スコップも刃が立たなかったのに、すっかり土が柔らかい。

落葉をのけるとあちこちで緑の草が顔を出す。春はずっと進行していたのだ。今日は久しぶりに信州飯田の酒「猿庫の泉」で早めの晩酌をしよう。この頃好きな酒である。こくがあって透明感があり、飲むと猿酒を飲んでいるような気分になる。



3月13日 春である

今日は朝からほんとに暖かく、ジャンパーを羽織って散歩に出たら、暑くて途中で脱いだ。懐古園の噴水も凍った気配はまるでなく、錦鯉がのんびり体を伸ばしていた。

昨日行ってみた千曲川畔もこぶしの蕾がずいぶん膨らんでいた。ダムも全開放流で日ごろのダム湖底が見え、下流が水豊かで、全体が春の流れの様相だった。

春がすみふうに曇った天候ゆえ浅間はかすみ、遠いアルプスや白馬山系は全く見えないが、その分暖かく感じる。

今日は午後車検のためガレージへ行くほかは用がなく、のんびりした気分だ。



3月11日 災害2周年

今朝テレビを見ながら、あの時自分たちはどうだったかを連れ合いと考えた。場所は小諸の自宅のリビング、天井の蛍光灯がゆさゆさ大揺れするのを何とか止められないかと思いつつ自分自身が机につかまっている状態だった。

さいわい大したことはなかったが、志木市のマンションの方は娘に見に行ってもらったところ、私と連れ合いの書斎はスチール製本棚の大半が倒れ、足の踏み場もないほどだったらしい。娘夫婦が応急処置をしてくれたため、翌日駆けつけた時はまあまあどの部屋にも入れたが、後片付けにはかなり骨が折れた。

がまあ、東京界隈は大したことはない。福島をはじめ東北は大変だったろうし、問題はさらにそのあとの原発事故だった。最初に2号機が爆発したのが翌3月12日だったか。1号機(?)や4号機の爆発はさらに日を置いてからだったし、テレビ報道なども国内では「大したことはない、爆発というほどのものはない、音がして煙が出ている」みたいな言い方だったので、すぐには緊張感が生じなかった記憶がある。

だが、同じころ、外国報道はすでに「原発爆発!」の生々しい映像を続々放映していたのだった。いったい国内報道はなにゆえ同様に出来なかったのか、誰かがそうさせなかったのか。日本のマスコミは信用ならぬとあの時から痛感したものだ。

東電は全く信用ならぬ、政府は当てにならぬ、そしてマスコミも信用ならぬ、となったとき、この国はかなりおかしいぞ、いい加減な国だぞと感じたが、それは今も基本的に治っていない気がする。私は間もなく70歳で、ある意味もういいが、若い世代は一度冷徹に世の中を見直してみないと取り返しのつかぬことになりそうな気がする。息子たち娘たち、身を引きしめよ。



3月10日 3月11日福島被災者の現状

ゆうべNHKテレビで被災者の現状を報じるレポートを見ていて、少なからず憂鬱になった。まる2年たったのに被災者の多くがいまだに流転したり家族ばらばらだというのだ。理由は、1、仕事のため(元の場にはろくに仕事がない) 2、病気入院など(体調を崩す人が多い) 3、子供(放射線量問題) ということだった。

3の子供問題は、とにかく子供を放射線量の多い所に置いておくわけにいかないということだから、これが全ての上にあるともいえる
その上で親の仕事や家族の入院などが重なるのだから、一種の放射能ディアスポーラ(難民)だ。

悲惨というか胸が詰まるが、同時に沸き起こってきた思いは「東電や政府はこうした人たちにちゃんと補償をしていないのか」ということだ。避難地域指定の場など30年は住めないことは明らかなのだから、もはやなくなったも同然だろう。とすれば東電等は土地家屋に対し相応の賠償をし、特に国は新しい生活の場を作り出せるよう、最大限の努力をすべきだろう。


だが、その気配はない。いったい何をしているのか、責任感はないのか、これが我々日本の政府なのか、と情けない思いがこみ上げる。補償費用、つまりカネの問題ならこの際赤字増大になろうとも、まずはそれを優先すべきだろう。そのための赤字増大なら、国は国民のためにはちゃんとしてくれるという信頼感の増大で差し引きゼロになると思うがいかがか。



3月9日 うまくいけよ

数日来HP用に使っている「ホームページビルダー15」が不調。HP更新ができなかった。
今日のこの更新ができなければ当分見込みなし。いや、修復の可能性もないではない。


たった今、どうにか修復できた気がする。


3月6日 めっきり暖かい

昨日くらいからどこも暖かい。春そのものという感じ。
今朝も暖かく、志木市も午前8時で全く寒さを感じなかったし、10時半に着いた小諸も同様だった。

小諸は今日の最高は12度くらいになるそうだ。毛糸の帽子もマフラーも要らず、駅前の停車場ガーデンの前庭や、懐古園も雪なぞまるでなく、すっかり春めいていた。懐古園中央のいつもは大きな氷塊になっている噴水の周辺も、今日は半分以上融けて小さくなっていた。

3月中にもう1,2度雪は降るだろうが、今年は冬が厳しかったぶん春が早そうな気もする。
浅間の雪もそのぶん少なく、景色としてはややさびしい。


3月2日 やっぱり春 

今朝は昨日よりだいぶ寒いが、それでも視界がどこも白くない。2月まではたいてい降った薄雪の影もないし、霜で白くもない。ただいまの気温は零下2,3度のはずだから、霜は降りないはずはないが、白くは見えないのである。どういうことかしら?

遠景の浅間連峰も薄白く煙ってはいるが、さほど雪模様とも見えない。冠雪も少ない気がする。

だんだん春が近づいている気がする。


3月1日 こりゃ暑い

今朝、東京界隈を出てくるときはあったかい日だなあと思ったが、軽井沢に着いても印象は同じままでちっとも寒くない。小諸ー志木の往復経路で、いつも軽井沢が一番寒く、どっちから着いてもここのプラットホームでは「ブルルっ」と震えるものだが、今日はそれが全くない。

小諸駅に着いても同様で、いつもの刻そばに入っても燗酒より冷たいビールにしようかと思ったほどだ。結局燗酒にしたけど、オーバーを着たままでは暑いくらいだった。ここではいつもコートのままじゃないと寒いのに(暖房が弱い)。

ただし、明日からはまた劇寒(さむ)に逆戻りだそうだ。浅間も雪が半分融けてまだら模様となっているが、明日にはまた冠雪するかしら。

3月は気候の変化が激しいから要注意だ。そして次第に春になっていく。


2月27日 暖かくなるのか寒くなるのか

予報では今日からかなり大幅に寒さがゆるむとのことだった。
だが、目下雪が降っており、気温も寒そう。山も曇って見えず、灰白色が覆っている。

車は車検検査のためガレージに預けてあるから、歩いてとりに行かねばならない。早く晴れてくれないかしら。


2月25日 凍った道

本日は午前9時零下7度、最高気温と思しき現在(午後2時)零下4度である。今冬1,2の冷え込みだろう。道が凍っていて車も危ない。


2月24日 天気のことばかり書くわけ

理由は、今年が例年になく寒いこと、雪が多いことが第一だが、もう一つはこのところほかに取り上げたくなるほどのことがないこともある。

大状況的に言えば新聞の一面記事に出るようなことでも、「安倍訪米」にせよ「次期日銀総裁」にせよさほど関心が向かないし、2面あたりになるともっと関心が低まり、いわゆる3面記事(実際は30何面)になると一応開いてみるだけでほとんど素通りだ。

一方、眼前の光景は朝カーテンを開いた瞬間から「わっ、また雪だ!」ととにかく眼を見張らされるし、今も降り続く雪を見ていると今日は一日降り続くかもしれん、外出はまず無理だな、などと一日の大雑把な方針を立てざるを得なくなる。

と言うわけでお茶を飲んでも雪、新聞を取りに出ても雪、読み終わっても雪、で、2階の書斎に上っても雪で遠景も浅間山も何も見えず、一面の白と灰白色の雪降り模様を見るだけである。

よって頭の中も雪色となり、雪ののことばかり書くことになる。


2月22日 終日零下の地の仕事

もうだいぶ慣れたはずなのに、小諸へ帰ってくるたび、やはり寒いなあと思う。昨日の午後までいた東京界隈も朝など寒く、毛糸帽子に長マフラー、厚手のコートが必要だったが、しかし寒さの質が違うのである。東京はいわば寒さがやわらかく、身に緊張はない。

小諸とか軽井沢に来るとホームに降り立つだけで、ピリッと体が緊張する。緊張してしまえばさほど「寒い、寒い」と言うほどではなく、すぐ慣れる感じもある。

が、一度家に入ってしまうや、まず外出する気にはならないから、やはりある種の恐怖感に近いものを感じる寒さなのであろう。

そうして今日、午前9時の気温が零下7度、終日零下のままと聞くと、郵便局へ行くのに何時に出ればいいだろうなどと考える。午後2時ごろは0度になるとの話もあるので、その頃が氷も融け始めてよろしかろう、とか考えるのだ。

郵便出しひとつちょっとした仕事なのである。


2月18日 雪籠り

今日は一日雪らしい。無論すでに降っている。こまかくみぞっれぽい、いかにも冷たそうな雪だ。郵便局への用もあるが、まあ是非にと言うわけではないから、今日はやめておこう


2月17日 今日は只今零下4度、最高で零下3度だそうな

いやあ寒い。少し運動がてら外を歩きたいが、さすがにこの温度ではいささか二の足を踏む。

ただし、日は出ているようだから、日当たり部分だけを歩けば体感温度はもっと暖かいに違いない。

確定申告のめどはついたし、さあウオーキングに出るか否か。


2月15日 雪やこんこん

朝から降り出していたが、どんどん積もり、目下8センチとか。終日降るそうだから、夕方には15センチ以上になるだろう。今冬最大になるかも。

あとは雪かき、道路スリップなどで大変だが、降っているかぎりは実にきれいだ。純白の世界というのはそうあるわけじゃないから、やはり心というか目が洗われる感がある。

今年は寒い、とは少し寒い年にいつも言われることだが、今年はほんとに寒い。たぶん過去4年で一番だ。おかげで今日は午前から燗酒を飲んでしまった。確定申告の計算もする気になれない。

さあ降れ、どんどん降れ。30センチでもいいぞ。


2月14日 北朝鮮はなぜ核実験をするか

北朝鮮がミサイルを飛ばし核実験を行うと、世界中が批判する。日本など平和国家ばかりか、アメリカがその先頭に立ち、国連の安全保障理事会が北朝鮮非難決議をする。

しかし、考えてみると、常任理事国とはアメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランスで、いずれも核保有国である。つまり、すでに核を持っている国が新しい保有国が現れると非難し、何とか持たせぬように圧力をかける。ミサイルに関してももまた同様だ。

「俺たちが持つのはいいが、おまえたちほかの国は持つな」

これが勝手きわまる言い草であることは、子供でも分るだろう。しかしそれがまかり通り、彼らが世界秩序を仕切っている。

反発する者が現れるのも当然だろう。小国だろうと途上国だろうと、ミサイルと核を持って何が悪い。いや、核とミサイルがなければ対等に口をきけないというのなら、持ってこそ話が始まるだろう、だから必死に努力してそれらを持つ。そうなるのは当たり前だ。

アメリカや国連安保理が何を言う権利があろう。批判できるのは日本など核開発力を持ちながらあえて持とうとしない国だけである。その日本も要するに最大の核国家アメリカと同盟国と称し、アメリカの核の傘のもとに入っているのだから、北朝鮮から見ればアメリカとほぼ同列に見えるに違いない。

日本が北朝鮮を非難するなら、しからば日本は国内の米軍を撤退させ、核兵器を一切存在させるな、と言うだろう。反論不能に思えるが、多くの日本人たちはどう考えているのか。


2月10日 そば屋でいっぱい、ちょっとおしゃべり、小諸の日常

小諸へ帰って2泊たった。帰った日はまだ移動の余波が残り、昨日で小諸の寒さに何とか慣れ(終日零下)、そして今日は昼ごろプラス2,3度になる予報で、日差しも明るくホッとした気分である。

昨日は久しぶりに刻そばで昼酒プラスそばを食べ、常連の山貞さんと少しおしゃべりをし、銀行へ行った。路上で知り合い二人にも会ってちょっと言葉を交わした。つまり小諸での日常感覚が身を包んだ。

家にいても寒すぎて庭仕事も何も出来ない。畑も凍っていてシャベルも使えない。散歩も具体的用がないかぎりする気になれない。どうも運動不足になるのが困る。連れ合いは「もう冬に飽きた、飽きた」とちょくちょく叫ぶ。確かにそういう気分になる。

立春は過ぎたのだし、ぼつぼつ春の気配にならぬかと首をながくしているが、せめて3月の声を聞かなくてはダメだろう。冠雪した浅間など、山だけは美しい。


2月8日 年齢、97歳の母

今日丸四日ぶりに小諸へ帰ってきた。5日が入試と院の修士制作面接、7日が愛知県の入院中の母の見舞いだった。入試では一室の試験監督責任者だったから18歳くらいの若者と2〜3時間顔を突き合わせ、かつ立ちんぼうだった。

院生は平均26,7歳、ひとりは32歳だから、まあだいぶ大人で、付き合いも最大6年と長いから、落ち着いた気分で万事が進行した。

母は今年97歳、背骨の圧迫骨折で入院中である。寝たきりかと思って行ったら、思った以上に元気で、歩行器に手を添えてなら院内をかなりすいすい歩けたので、一安心したり、この調子だと100歳までいくかもしれんなと想像したりした。

35歳の娘が同行し、考えてみれば15年ぶりの親子二人旅だったのも思わぬ感慨があった。

18歳から97歳まで、そして若者の場たる学校から老人ばかりの病室まで、小諸から埼玉南部の郊外都市のマンション、東京、新幹線で名古屋、そして懐かしい濃尾平野のど真ん中の田園地帯の病院と実家まで、と短期間にずいぶん移ろったわけだ。

体も疲れたが、頭もだいぶ攪拌され、くたびれた。人も世も、そして母も自分の人生もだいぶ変遷したものだと、否応なく感じさせられた。母には2年か3年ぶりだったろうか。それ自体がはっきり思い出せなかったが、母は泣いて喜んだ。面倒を見てくれている兄嫁も65歳とかで、すっかり皺深くなった顔でやはり別れしなに涙を見せた。

「また来る、また」、思わず二人にそう言い、帰途の車内で、娘に「これからは2,3ヶ月に一度は来たほうがいいかな」と呟いていた。そのとおり実行できるかどうかは自信がないが、なるべくそうしようとはしんみり思った。


2月6日 志木市は雪、昨日で院面接も終り

予報通り明け方あたりから降り始め、7時半ころピーク、こりゃ大雪になるかと思ったが、今(8:15)は小降りになってきた。屋根の上はどこも真っ白だが、道路は黒いから、融けやすい雪なのだろう。

しかし、みぞれ模様は終日続くとの報道もあり、だいぶ寒そうだから、愛知県行きはやめて明日に延期。明日は晴れ、気温12℃だそうだ。

昨日5日、大学院修士の卒制面接も無事終わった。副査が3人の先生の入れ替わり交代だった上、うち一人が会議で忙しかったので、ちょっと綱渡り時間割だったけど、なんとかうまくいった。卒制の出来は3人が上、1人がぎりぎり可。まあ全員合格でよかった。

院生諸君、2年間御苦労さん。特にうち2名は学部の1年ゼミからずっと6年教えてきたし、私は今年4月から学部の3,4年ゼミも院の指導教授も持たないので、いわば最後のゼミ生教え子となる。いささか、いや、かなり感慨あり。

卒業後の歩みを知りたいので、ぜひ時折近況を知らせてほしい。出来ればmixiかツイッター、Facebookなぞでコンタクトできるようにしてくれるとありがたい。

では、ボン・ボヤイヤージュ!


2月4日 今日は東京方面への移動日

明日から来年度の入試が始まる上、院の修士制作面接もある。特に後者は私が指導教授をしている院生が4名もいるから、重要日程だ。院はこれをもって本年度終了となる。

入試、特に初日は9:00に顔合わせがあるから、今日中に移動しておかねばならない。
あさっては田舎の母が入院中なので、愛知県まで見舞いに出かける。背骨の圧迫骨折だそうだ。97歳の母がどんな顔で寝ているか、想像するのが憂鬱である。

「歳をとるのはつらいことです」と、以前母が言っていたことが思い浮ぶ。自分自身70近くになってきたこのごろ、その意味がよく分る。若い頃は早く歳をとりたいと思ったこともあるが、いざ歳老いてくると、文句なく若い頃のほうがいい。

当り前だが、その当り前が分るのに時間がかかる。言い換えれば若いうちは若いうちでそう楽しく、面白くばかりもなかったということだろう。人生とは難しいものだ。


2月1日 本日4ゼミ終了

今日午前10時より、4ゼミの卒制面接だった。これで4ゼミの全日程が終了、あとは卒業式のみである。ということは3年以下を含め、学部の全日程が終了したわけでもある。さすがにホッとした。

まだ来週に院の修士制作面接があるが、これは人数も4人だし、いくらか荷が軽い。そしてそれが終れば今年度日程は文字通り終了だ。やれやれの感が今からある。

あとは入試関係が毎週あるが、これはまさに来年度の入り口とも言える。来年度は私にとって最終年度でもあるから、いわば終りの準備でもある。これで最後と思えば苦にならない。

それらが終る頃には春の気配も忍び寄ろう。いい春になるだろう。


1月28日 安倍首相よ、思い違えるな!

朝日新聞の報道によれば、安倍政権は2013年度予算で防衛費を400億円増やし、生活保護費を670億円減らすそうだ。また物価は2%増を目標とするともいう。

生活者にとっては物価など上がらないほうがいいに決まっているし、生活保護費減額とは貧困層が一番困るだろう。防衛費増額とは要するに戦力拡大ということだろう。

「日銀は無制限に円を発行しろ」との言い方もずいぶん乱暴な感じがする。とにかく目先の金回りさえよくなればいいというのは、責任あるトップの言う事ではなかろう。

なんとも思慮、知恵に欠ける首相が登場したものだ。あの舌足らずの甘えん坊みたいな口調は3代目ボンボンのせいかと思っていたが、むしろ思考力のなさ、おっちょこちょいのせいらしいとだんだんはっきりしてきた。

野田前首相から安倍に交代してからは、毎日ニュースで否応なく見せられる顔としては野田のなまず顔よりだいぶいいと感じさせたものの、中身がパーなばかりか反動的では何もならない。

自民党が圧倒的多数派になったのは選挙の結果というが、投票率自体は24%にすぎず、自民党の得票総数も前回選挙より少ないのである。多数になったのは現行小選挙区法のせいであって、国民の支持が増えた結果ではない。

自民党および安倍はこのことを肝に銘じるべきであり、国民はこのことを忘れず安倍政権の政治を強く監視すべきである。


1月25日 やっぱり小諸は寒い

今回は東京界隈は1泊しただけで、今日ひる近く小諸に帰ってきたが、駅を降りたとたんピリッと寒い。急いでいつもの刻そばに飛び込んで燗酒を注文したが、待っていた連れ合いも相客の山○さんも「今日の小諸はあったかいよ」という。

とんでもない。乗り換えの軽井沢ほどではないが、調べると正午の気温零下2度である。東京界隈は8度とのことだから差し引き10度の違いだ。これじゃあ移動してきたばかりの人間には寒い。体にこたえる。

それで道を歩き出してもつい早足になる。ゆっくり歩く気になれない。コートの襟とフードをたてマスクをかけ、せかせかと、しかし滑らぬよう気を使いつつ、足を動かす。

やっと家へ入ると、ふわっとあったかく感じる。室温22,3度だから、実に外気と24,5度違うことになる。ほっとするが、この激変も体には驚かせることになりはせぬかと思う。

そして帰宅後約2時間、どうやら心身の諸般が落ち着いた感じがする。寒さでざらついていた喉もおさまっている。さて、次は2月1日の四年ゼミ卒制面接だけだ。いよいよ卒制を気を入れて一気に読もうと身構える。それが終れば卒業関係の校務はすべて終りとなる。それを楽しみにがんばる。


1月21日 日付の認識、定年の不思議

東京界隈に行っているときは今日が何日何曜日であるかは、常に意識している。学校での仕事があるから当然とも言えるが、小諸に帰ってきたとたん、そのタガみたいなものがすっとはずれる。

どうかすると帰ってきた土曜日の夕方過ぎにはもう自分がずっとここにいたような気がし、いつ帰ってきたんだったかと考えることがある。翌日曜日になると、もう完全にそうで、ずっとこの静寂と温和さに浸っていたような感じがする。

つまりは、居心地がいいのだろうが、いわば日付の感覚がなくなるのである。そして時々ふと、定年後もこういう感覚なのだろうかと考える。東京などどこかへ行くこともなく、学校へ行かねばならぬこともなく、毎日居心地よさの中にずっと何週間、何ヶ月、はたまた何年もいることになっていくと、はたしてどうなるのか。

それは居心地よいままなのか、だんだん退屈になるのか、あるいは次第にいわゆるボケ状態に近づきはしないのか。
その可能性は十分あり、それはいささか恐怖であり、さあらば今のごとく仕事も少しあったほうがよくはないか、などとの思念も生じる。

だが、一方で、あと1年したら完全に義務がなくなる、どこにも行かねばならない所はなくなる、いいなあ、との思いも消しがたくある。

勤め人だった人が定年に関して似た思いを抱くらしいとはよく聞くから、私のそれも要するに同じなのかもしれない。ただ私の場合は毎日勤めるサラリーマン諸氏とは違い、勤めは週に半分だけ、おまけに夏休み冬休み春休みが学生みたいに長くあり、そういう状態になったのがそも五十代になってからだった。

それまではずっとフリーの原稿料生活者だったことから、おのれがサラリーマンという意識を持ったことは一度もない。フリー時代は自由ではあったが、経済的にはかなりつらく、だから今のように、週に半分行く所があり、給料が保証され、というのは有難く、丁度頃合だという感覚もあった。

それが定年によってまたがらりと変る。原稿料生活者に戻るわけでもないから、思えば今まで未踏の状態になるわけで、さて、どんなものかな、とかなり切実にこのごろ思う。


1月19日 久々に飲んだ

昨日は修士2年の最終日だったので、飲み会をした。私を指導教授とする院のクラスは2年間持ちあがりなのに、今までどういうわけかろくに飲み会をしてこなかった気がする。幹事役がいなかったのか、授業時間が午前のせいか、よく分らない。

それで最後に一度くらいというわけで、私の方から声をかけて寿司屋の座敷に上がった。2年生男子4人のほか1年の女性も加わり計5人プラス私。飲めばやはり日ごろ知らなかったいろんな話が出るもので、男たち二人には彼女がおり、しかもうち一人は三十までには結婚する約束をしているという。

修士修了後の身のふり方はあまり定かでなく、世間的就職をする者はどうやらいないようだった。32、3歳一人、あと3人も26、7歳となると、今の社会状況ではおいそれと行く先なぞないのかもしれない。

あるいは、もともとそういう気がない者たちばかりだったのかもしれない。2名が高校は行かず大検進学者、1名が通信高校出身というのもヘーエという感じだ。みんな個性的で知性も頭もあり、文章もなかなかうまい。30代の1名は芥川賞候補の可能性もあるくらいだ。要するに皆、「これからも書いていきたい」みたいなことを言う。

それにしてもどうやって食べていくのか、いつまでも親をあてにはできまいと気になるが、あまり焦ったそぶりもなく、悠然としている。沖縄出身者も帰郷すればなんとかなるみたいに思っているようだ。

来年度は私はもう指導教授にならないので、院で教えるにしても学生の先行きにまであまり立ち入らないだろうから、こういう心配をするのも今年が最後かもしれない。私自身、その年齢のころは塾の教師をしたり、テレビの子供番組の台本を書いたりしながら、何となく生き延び、ぼつぼつ小説を書いたりしていたから、思えば似たようなものだった。

院生諸君、どんな人生になっていくか。月末には修士制作・論文が提出される。それが一つの試金石になるだろう。


1月15日 本日は晴れ、原稿送る

昨日降り続いた雪は夜中にもほんのちょっとだけ降ったらしく、今朝も純白世界だ。先ほどから明るく晴れてきたので、純白が光り輝いている。

浅間はつい先ほど中腹まで見えたが、今はまた雪雲らしきに覆われている。上の方はきっと降っているに違いない。
しかし、きれいなものである。

正月休み中ずっと書いていた連作短編「小諸の道(信州アカシア林住期 その六)」をチェックした上、メールにて送った。34枚の短編だから、さほど時間や労力はかからなかったが、送り終るとやはりホッとする。

晴れ晴れした気分で雪かきをこれからする。積雪20数センチくらいだと、腰が痛くなるほどではない。年に1,2回のことだから、むしろ気晴らし新鮮感がある。さあ、やるか。


1月14日 雪である、純白である

明け方前5時にカーテンの隙間から見たときはまだうっすら白という感じだったが、7時に起きたときは感動の純白世界だった。積雪7,8センチくらいだったか。

今(10時半)は更に降り積もって15センチはいってるだろう。いや、屋根の上なぞはもっとか。まだ降っているし、今日はずっと降る予報だから、夕方にはひょっとしたら30センチ以上になるかもしれない。今年度はもちろん、私が小諸に来てからでも珍しい大雪実現かもしれない。

東京で「小諸です」と言うと、「雪はどれくらい積もりますか」とよく聞かれ、「いや、めったに降らないし、積もりません」と答えるとがっかりした顔をされることがちょくちょくある。

「でも、寒いんですよ。ビリッと」と言うと、「なぜ、そんなところに住むんですか。冬の間だけ東京界隈へ来たらいいじゃないですか。マンションもあるんだし」ともよく言われる。

確かにその通りだが、しかし床下暖房の屋内は至極快適で、埼玉のマンションよりよほどすごしやすいのだ。マンションはエアコンの暖房だから部屋の上の方ばかり暖かくなっても、布団を敷いて寝る鼻先はどうもスースーと冷たく、朝になると喉が少しガラガラ引っかかったりする。

ただし、外はやはりあったかくて体がいかにもゆるむ感がある。それにひきかえ小諸は外へ出るのに心身ともに一種の覚悟がいる。さあ、外だぞ、寒いぞ、という緊張がないと、風邪を引きそうな不安があるのだ。

というわけで、おのずと外出が減るし運動不足になりがちだが、昨日は市内の山側の加増という所の喫茶店まで上り1時間半、下り1時間歩いたし、今日は一日雪となれば終日家にいていいだろう。

昼食時からはもう燗酒といくか。いや、よく冷えた地元産純米吟醸の旨い生酒もある。ぬくぬくとした部屋ではこれもいい。迷うなあ。


1月12日 忙しい一日

前回からいつの間にか5日たっている。この間に私は東京界隈へ出向き、新年初授業をいくつかし、初教授会に出、四年ゼミ生と飲み会をし、そして今日小諸へ帰り、殆どその足で整形外科へ2ヶ月診察に出かけ、常備薬をもらって帰ってきた。

帰宅後は鉢類に水をやり、郵便物や宅配物の整理をし、来週学校へ行く際必要な書類を整え、はがきを2枚書こうとしたが、買い置きのはがきがなくなっているのでかけず、今、これを書いているところ。

HPの日記は向う(マンションや大学の研究室)でも見ているが、更新はしない。向うで更新しようとすると、HP用のソフトを両方で使うためのかなり面倒な作業が必要になるし、ミスが生じやすいからだ。

早く外を歩きたいが、まずは屋内作業を済ませてから。それにやはり相当寒いので、うかつには出られない。少し体を慣らし、まあ明日くらいからウオーキングをする。

窓からの浅間山は峰部が雪で白く、そこへぼつぼつ夕日が赤っぽい色を投げかけていて、きれいだ。


1月7日 一段落

このところずっと書いていた「信州アカシア林住期 その六 小諸の道」が、今朝、一段落した。まだ完成ではないのでちょっと時間を置いてから見直すことになるが、ともあれ新春初仕事出来!といういい気持になった。

このシリーズは短編連作の形で信州小諸での日々を素材に、二年ほど前から少しづつ書きついでいる。何回で納まるか当人にも未定だが、まあおのずと定まっていくだろうと思っている。今年12月が古希の誕生日なので、その頃がひとつの節目かもしれない。

もっと小説っぽい、つまりフィクシャスな要素が多い作品を書きたい気もなくはないが、アイデアが浮ばない。浮ぶのは結局おのれの日々のありよう中心となるのだ。作家としての体質の根っこが私小説的なのかもしれない。

それでいいという気もしている。作家は何を書こうとも結局自分をを書いているというのは、昔からの謂いである。


1月3日 雪の正月3日

皆さん、新年おめでとうございます。
元旦は少し粉雪が路上を飾っていたが、昨日は比較的暖かく、そして今朝は薄いけど一面雪景色である。

浅間も今はだんだん晴れて上部は雪景色、西の白馬連峰は曇り気味で見えない。

昨日は連作短編の取材をかねて久々に1時間半ほど市内を歩きまわった。かのカルト神道「大和神社」にはけばけばしい色塗りの新しい建物が増え、相変らず得体が知れず。街は住宅街も商店街も松飾り類がろくになく、国旗も一つも見えず、正月風景も変ったなあという実感だった。

駅前ではじめて入った「寿徳」という喫茶店の紅茶が非常においしかった。しかもケーキつきで500円。妻ともども感心し、もっと早く来るべきだったと言い合った。紅茶好きの私にはうれしい発見である。


1月1日 皆さん、新年おめでとうございます

いつもこの挨拶をするたび、いくらかの迷いがある。ほんとにめでたくなんかないじゃないか、原発はあるし、何をやるかわからぬ政権があるし、個人の周りにも不快な事象があれこれある、などというわけだが、しかしまあ、やはりせめて元旦にはこう言っておくことによっていくぶんかは気が上向く効用もある。ゆえに、皆さん、やっぱりおめでとうございます。