風人日記 第四十五章
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今年も新学年
  2013年4月1日〜6月30日






感想や連絡はMAILでどうぞ。



               お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)


『季刊文科』(鳥影社刊)53号より短篇連作「信州アカシア林住期」を開始

       http://www.choeisha.com/bunka.html 

 53号(2011年8月、本体1000円) 「信州アカシア林住期」


 54号(2011年11月、本体1000円) 「信州アカシア林住期その二 夏の転変」


 55号(2012年2月、本体1000円) 「逆接のウズベキスタン」(信州アカシア林住期 その三)


 56号(2012年5月、本体1000円) 「真冬の散歩者たち」(信州アカシア林住期 その四)


 58号(2012年11月、本体1000円) 「シークレット・ズー」(信州アカシア林住期 その五)


 59号(2013年4月、本体1000円)  「小諸の道」(信州アカシア林住期 その六) 

          
               

  大手書店、アマゾンなどのネット書店にて発売中。鳥影社から直接購読も可。


『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社刊 2200円+税) 


 
              


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集で、境界地域としての奄美や沖縄の人の出入り、歴史と現状、そしてウタキ信仰や創世神話に象徴される神秘主義を描いたつもりです。
 もう一つはそれらを通じての人々の人生、そして私自身のインド以来の旅人生を描いたとも言えます。写真に出した宣伝チラシでは、編集者はそっちに注目しているようです。

 大手書店およびアマゾンなどネット書店にあります。毎日新聞2009年9月20日に書評(川本三郎氏)、週刊朝日8月7日号に著者インタビュー、沖縄タイムス8月28日に紹介記事、ほかに図書新聞(中沢けい氏),mixiレビュー欄等に書評があります。この日記30章の中の日記からリンクしているものもあります。御覧ください。




 昨年、いろんな推移の中で三ヵ月ほど日本の全原発五十四基が停止したことがある。現在は大飯原発が稼動しているほか、新首相安倍は「今後新たな原発建設も指向する」と言い出している。原発ゼロは早くも夢のかなたというのだろうか。情けないことである。
 私は現在と未来の人類のために、原発が少しでもなくなっていくことを望む。
                                

                                
2013年1月1日
                                        日本大学教授・作家
                                                   夫馬 基彦
    

                        *これより日記                      

6月30日 気がついたら今日で 

6月も最後である。つまり今年の前半終了。

今年は定年退職の年なので、その半分が終了という気持もある。だんだん名残惜しい日々だ。大学へ行ってもしばしばそう思うし、通学の列車なぞに乗っていてもそう思う。

木曜日には故郷の一宮市へ行った。97歳の母がしばらく前からケアハウスへ入ったので、どんな部屋か見に行ったのだ。建物とロビーへは以前行ったことがあるが、その時はまだ入所前だったので、部屋までは見られなかった。よって、大体の想像はついても、具体的にどんな部屋のどんなベッドで寝ているのか、情景が思い浮かばないのだった。人間は一度見たものでないと明確には思い浮かべられないものである。

いわばそのために行ったわけだが、やはり行ってよかった。部屋は清潔で割合広かったし、窓からは濃尾平野やその向うの伊吹山系がよく見え、個人で買った歩行器や屋内便器の様子も分り、安心した。

間もなく98歳になる母は、顔を見れば私と分るらしいが、室内の新しいテレビをさして「それはマサカズとあんたがこの前もってきたんだったか?」なぞと言う。マサカズとは15年前死んだ兄の名だ。つまり時間や事実関係がごっちゃになったり間違ったりしている。

折から来合せていた叔母(もう92歳だが、頭はしっかりしている)と話していると、母はいつのまにか寝てしまい、やがて眼が開くと、私の方をこれは誰かというようなまなざしで見つめていたりする。

今年2月初めに訪れた時はもっとしっかりしていたから、たった4ヵ月半でずいぶん進行したものだ。この調子だと次に訪れるときにはもう私を認識できないかもしれないと感じた。

帰途は必然的に憂鬱になった。来ても分ってもらえないならつまらないというかもの悲しいし、しからばいつごろ来ればいいのかと悩みが生じる。往復7時間かかるので、帰りの新幹線内ではだいぶぐったりした。私ももうじき70歳なのである。



6月26日 ホ、ホ、ホタル来い! 

昨夜、小諸市界隈でホタルの有名地に行くつもりだったが、雨が降る可能性があったのと、だいぶ涼しかったので取りやめた。ホタルは雨が降ってしまってはダメだし、なるべく蒸し暑い晩の方がいいからだ。

今日からまた3日あまり東京界隈なので、今年のホタル見物はそのあととなる。ま、ほぼ例年通りの日程だ。
今朝は朝から湿った感じだから、本当はこういう日が一番いいのだが、なかなか都合は合わないものである。

ホタルよ、待っていてくれよ。



6月24日 さわやかな朝、木を刈り込む

木を刈りこむといっても正確には繁茂しすぎた枝類を整理刈りこみする、である。実際、夏は、とくに雨が降ったあとは1日か2日であれよというほど枝葉が繁る。

それで、今朝、ほんのちょっとのつもりで始めたら、ここもあそこもとなり、刈り取った枝類だけで小山になった。対象はほとんどが合歓で、この柔らかな葉や枝ぶりを私は好きなのだが、伸びだすと繁茂率もすごい。

寝室の周りなど窓や壁、軒下までワサワサの感じだったのを、両手で使う大型木鋏で刈りこんでいったら、1時間ちょっとで家の周りが実にサッパリした。連れ合いなぞ「わあ、明るーい」と叫んだ。代りに陽を防いで涼しくもあったのだが、さすがに鬱蒼としすぎていたのだった。

それにしても夏はほんとにあっという間に緑が繁茂する。たくましい生命力だ。



6月22日 小諸へ帰着、乾いている

やっぱり涼しくていい。途中の軽井沢はひんやりと寒く、湿気も感じたが、しなの鉄道でだんだん小諸に近づくと、湿度が減り、暑からず寒からず、ほどがよい。

実際、小諸と軽井沢は大体2度ほど気温が違うことが多い。小諸と上田がまたそれくらい違う。つまり信州東部界隈では軽井沢が一番寒く、小諸は涼しく、上田はちょっと暑い。

小諸、佐久市は晴天率全国有数の地域であるから、雨もあまり降らない。ゆえに過ごしやすいが、難点は農作物関係だ。連れ合いは早くももう一日くらい降ってくれないかしら、と恨めしそうに天を仰いでいる。



6月19日 今日からまた東京へ行くが……

向うは蒸し暑いだろうな。汗っかきで暑さに弱い私には、これからしばらくはこたえる季節だ。

なんとかやり過ごせますように。



6月17日 暑い!

涼しいと思ってる小諸でも、今日の日差しはまさに暑い。完全に夏である。庭仕事、畑仕事も朝のうちか夕方の日陰でなければ、汗だくになる。

おかげでトマト、とうもろこしはすくすく伸び、トマトなぞは間もなく収穫できそう。枝豆の伸びもいいから、今年はまた自前の収穫でビールが飲めるかもしれない。

昨日までの雲も晴れ、浅間山が久しぶりに峰々までよく見える。アカシアの枝が2階の窓ぎわまで迫ってきた。豆の葉みたいな柔らかい緑が微風に揺れている。

暑いので出かける気にならず、久々に家で昼食をとった。



6月15日 埼玉も雨、東京も雨、小諸も雨……

12日に快晴の小諸をたち、所沢校舎へ向ったら、東所沢駅以降ずっと雨だった。学生たちに聞いたら週初めから毎日雨だとのこと。どうやら台風の影響らしく、太平洋側に雨雲がかかっているらしい。

翌木曜日は小雨のなか江古田校舎へ行き、昼過ぎから会議1個だけを済ませ、また小雨の中を傘をさして帰った。

金曜日は風が強かったのだったか、雨も少しぱらついたのだったか、台風がどこかに消えたとかどうとか聞いたような、あいまいな記憶がそよいだだけで、あとは何も覚えていない。

今日は東京界隈にしては涼しい気温のなか列車に乗り、小諸へ着いたら暑からず寒からずほどよく晴れていた。入場券を使って懐古園を気持ちよく通り抜け、自宅で昼食後、2時ごろになって雨となった。

以降ずっといかにも梅雨らしく降りつづけ、今午後9時に至るまで降り続いている。庭は2週間以上前からカラカラに乾いていたから、雨はまさに慈雨で、先月末買って植えたばかりのひば類15本もやっとこれで一息だろうと胸をなでおろした。

ひばだけではない、畑のトマトも茄子もトウモロコシも枝豆の芽も、すべて潤った。人間も午後3時ごろからビール、日本酒、ワインとしょぼしょぼ飲み、だいぶ潤った。



6月12日 苺の実

桑の実のことを書いたのに、片手落ちの気がするので書く。
我が家の庭で一番よく食べる実は苺なのである。それも庭を歩くたびにちょいと一つ二つつまんで食べるやり方なので、たぶん日に2,3度は食べる。

連れ合いはセシウムなぞが付着しているかもしれぬといって手を出さないが、私は平気だ。確かに付着しているかもしれないが、ここらは東京界隈よりだいぶ少ないはずだし、それにもうじき70歳の身にはそんなことはもうどうでもいい気がするからだ。

味はやや酸味が強い場合もあるし、ちょっと手の届きにくい場所でよく熟していたものほど甘くなる。熟しているのは実の中まで赤い。軟らかくじゅっと溶けるようになる。

ほかにもブルーベリーとグミがあるが、これらはまだ熟すまでに少し時間がかかりそうだ。あと姫りんごとかりんの実がだんだん育ってきたが、これらは食べない。見るのが楽しみである。



6月10日 鳴き声

このごろ外気がここちよいので窓を明けきりにしている。するといろんな鳥の鳴き声が聞えてくる。まず鶯。これは藪うぐいすで一夏じゅう鳴く。次いで「ピーコラピッ」と聞える声、鳩の「ググー、グっグー」、何者か見当のつかぬ「ヒーチャリーチャリ」「ぴっ、ぴっ、ぴ」などの声。

カラスの「カアカアカア」も含めれば最低6種類はいる。どれかが鳴きだすと、すぐあとを追うように他が鳴きだす感があるから、鳥たちも互いの鳴き声を意識しているように思える。

鳥は地上の生き物に比べると、空を飛べるぶん声も動きも闊達な感じがする。天敵も相対的に少ないのではないか。人間は敵が多いとも言えるし、少ないともいえる。地上にへばりついて、のろのろ歩く。

鳴き声は? 
鳴くような気もするし、鳴かないような気もする。



6月8日 桑の実

今日小諸へ帰ってきたら、庭に赤黒い桑の実がいっぱい落ちている。3日前、ここを出るときは実はまだグリーンばかりだったから、たった3日でこれだけ熟したわけだ。

拾って食べてみると甘さも十分だ。これから毎日ごまんと落ちるだろう。が、例年少し拾って食べるだけで、あとはそのままほおっておく。とても拾いきれないからだ。近所の人から、集めてジャムにしたらと言われたこともあるが、その拾い集めと、多少の選別、茎などの除去、そして煮ること自体がなかなか手間がかかり面倒なのだ。

ゆえに、これからしばらくは庭や表の道は桑の実が潰れて赤黒色になる。それを掃除するのがまた面倒となる。しかし気にしだすと、毎日掃除をせねばならないし、しても数時間後にはほぼ同じ状態になるから、結局根競べであきらめ、ほおっておくことにしているのである。

どなたか好きな方あれば、どうぞご自由に拾って食べてやってください。



6月4日 2020年東京オリンピックなぞ必要ない

このごろしばしば東京オリンピック誘致の話題がマスコミに登場するが、あれは一体なぜなのかよく分らない。言いだしっぺは頭(づ)の高い御騒ぎ好きの前知事チン太郎だったのかしら。東京自慢だか己個人の気炎だったかを吹き上げているうち、いつとはなしそんな話になっていったような気がする。

チン太郎がやめ、威勢はちっとも良くない、あごだけ突き出した猪瀬が知事になったから、オリンピックの話は打ち止め、少なくとも再検討になるのかと思ったが、知事にしてくれた恩人の置き土産は止めるわけにいかないのか、そのまま方針続行の様子だ。

東京は以前一度やっているし、福島原発事故による放射能汚染はかなりの度合いと言われているし(汚染度は2020年になってもほとんど減らない)、そんなところでわざわざ二度目をする必要はあるまい。どうしても日本でやりたいのなら、大阪や名古屋、福岡など他の都市でやればよい。経済負担が大きすぎるというのならやらなければいいだろう。

経済負担の問題は外国に関してもそうで、あまり大規模にせず、アジアやアフリカ、南米などでも開催可能な程度にちぢめて、できるだけ世界各地を巡回する方が本来の趣旨にも合うのではないか。



6月1日 夏、母、梅雨、いちご、アカシアの花……

つい2日前だったか関東梅雨入り宣言が出、さりながら翌日からからりと晴れ、そして今日からはもう6月で、小諸は緑に包まれている。植えたばかりの15本の常緑樹がろくに目立たぬほどわが庭は緑の葉に覆われ、外から人の目はほとんど届かない。

アカシアの葉がマメ科らしい柔らかい葉をつながらせ、小ぶりの白い花房を所々に見せ始めた。あれは食べるとうまい。サラダや酢の物、一番はどうやら天ぷららしいが、我が家は揚げ物は好まないので、例年サラダか酢の物となる。

畑のトマトはもう花がだいぶ咲き、たぶん小さな実をつけ始めたはずだ。茄子はどうも成長が悪い。1本が日当たりが悪そうだったのでもっといい場所に植え替えたのだが、それがいけなかったらしい。ちっとも伸びない。それで今日、佐藤青果店で新しい茄子の苗を1本追加購入し、南の畑に植えた。

トウモロコシは割合順調に伸びているが、大きくはない。果たして連れ合いは好きなトウモロコシの実を腹いっぱい食べられるか否か。
苺は今日の収穫だけで笊いっぱいとなった。採りくたびれたので4割ほど残したから、明日また笊いっぱいとなろう。

ブルーベリーは今年はどうなるだろう。あれも生るまでが楽しみで、生ってしまうとあまり食指が動かないのはなぜだろう。
今年は桃を1個ぐらいは食べたいものだ。実の付き具合は過去最高で、3日前半分ほど摘果したが、うまくいくかどうか。
桑の実はまだ緑色のままぽとぽと落ちている。


5月28日 常緑樹15本を植える

昨日、かねて依頼しておいた庭師のI君が常緑樹を持ってきてくれた。3種類で、いずれもひば系のものだ。幅広黄色っぽい葉のものがヨーロッパゴールド、中幅緑一色がエメラルドグリーン、細く丈長がタワーロケットというそうだ。

なんだかちょっと笑いだすような名だが、おかげで覚えやすい。それらをとりまぜ計15本、南側西側の柵近くに植えてもらった。丈はおおむね1メートル50センチから70センチ弱、柵の高さにちょうど釣り合う。

わが庭は夏場は緑がいっぱいだからいいが、冬場は落葉樹はみな枯れ落ちてしまうので、リビングにいても丸裸のような気分になる。こちらからの見晴らしもいいが、外からも丸見えになるわけで、どうも落ち着かなかった。それでもっぱら冬場用に常緑樹を植えたかったのだ。

まだ小ぶりだが、さすがに常緑樹は今頃でもふくらみと落ち着きがあって、庭全体も落ち着く。人のあまり通らない北側はまだ2本植えただけで、しばらくというかもう一冬様子見だ。そちらには広い野原もあって気にいっているので、それを見通せるようあまり木を増やしたくない。

今朝は起きるのが楽しみだった。6時前に起きだし、早速如雨露で水をやりに歩きまわった。



5月26日 昨日は疲れて早寝

昨日は入門講座の2回目だった。前回がとにかく本を読め、先人の作にできるだけ多く触れなさい、だったので、今回は小説には掌編もある、たとえば川端の「掌の小説」という文庫本もある、と本を見せながら(といっても壇上からだからよく見えないだろうが)紹介した。

そして、たった2ページ足らずの作もあるから毎日の通学時間に何作か読めるだろう、初期の作には川端自身の少年時代の思い出作などがあると説明。君たちもそれを真似て一番思い出に深いことを5枚から10枚くらいの小説にしてみなさい、と勧めた。
そんなふうに始めれば、小説を書くこと自体に慣れていく、構えずにすむ。

果たして何人が実行してくれるかはわからぬが、ともあれこれで私の入門講座は完全に終わりとなった。今年で定年だからもう2度とこういう機会はなかろう。土曜日出校ももうないし、ホッともする。

一方で、所沢校舎の1年生諸君とは、ゼミ生を除いてもうたぶん触れ合う機会はなかろうとちょっとさびしい気もした。
だんだんこういう思いが増えていき、やがて全部が終了するのだろう。退いていく者の気分がわかる。学校からそのまま小諸に向かい、午後3時前に帰宅した。



5月21日 白眉芯3頭の運命

朝、家の周りの草を刈っていると、隣の林業小屋の方から何やら音が聞こえてくる。「クツ、クツ」とも「トン、トン」とも「グウー、グウー」とも聞える。何事ならんやとしばらく考えているうち、はたと気づいた。

昨日2頭の白眉芯が農林課の小型ライトバンで運ばれてきたのだ。しかも前日にも1頭が運ばれてきた。計3頭がどういうわけか扉の外に檻ごと置いて行かれたのだ。

夕方だったから係員が早く仕事を終え帰りたかったのかも知れないが、ともかく鉄扉前に檻が3個放置され、中に白眉芯が1頭づつ閉じ込められている。しかも1頭は鼻と額がすりむけ赤く血がにじんでいた。白眉芯ならぬ赤眉芯である。

それが朝までまだ放置されていたのだ。近寄ってみると、赤眉芯は「ググ、ググ」と敵愾心を示し、1頭はおどおどしたねずみかうさぎみたいな小さな目でこちらを窺っている。当然ながら空腹らしく、あまり元気がない。

一昨日最初の1頭が来た時も、昨日の2頭の時も、アレ、今回はすぐ殺処分しないのか、とちょっと不思議に思った。ほかの時はすぐ小屋の中に運び、ガスであっという間に殺し、ビニール袋に入れて冷凍庫に入れるのが常だったからだ。

それもかわいそうな感じがあったが、殺さぬ代り断食攻め、しかも1頭は負傷中、というのもあまりいい扱いとはいえなかろう。おまけにだんだん日が照って来ると、日が檻の上にもあたる。もともと夜行性、暗いところ中心の白眉芯にとってはかなりの拷問なのではなかろうか。

連れ合いも、あれはかわいそう、と言っている。私も気になって何か餌でもやれないかと近寄ってみたが、檻は厳重にかぎが掛かっており、網目も細かく、物はまず入らない。それにやっぱり脇から手を出すのはよくない気もする。

で、そのままにしてあるのだが、午前10時半現在、窓から見たところまだそのままのようだ。うーむ、ひょとして忘れられたのか。しかし思い出されれば即ガス殺だろうし……。



5月19日 万緑や勲章草に纏わられ  南斎

書斎の窓からも、リビングのウインドウからも、すべて外は明るいグリーン一色である。3日前まではほんの少し若芽が出た程度だったアカシアや桑も、昨日小諸に帰ってきたら、「うわっ」と驚くほどに緑一色だった。

「万緑」という言葉はかつて「万緑の中や吾子の歯生えそむる」の草田男の句から知ったが、ほんとにその通り、ほかに言葉が浮ばないほどにぴったりの語だ。ただし私に関しては「吾子の歯」にはつながらず、「我がツム薄まりぬ」とつながりそう。ツムとはお頭のことである。

その緑の中で庭の草むしりをしていると、一面に伸びた勲章草が、とってもとってもまだつながり、しかも手袋や衣類にべったりくっついてくる。すぐくっつくから勲章草というのらしいが、確かに勲章というのはそういうものかもしれぬななぞとも思うものの、やはり困る。勲章草のよい退治法はないものか。



5月18日 最後の春祭(はるさい)

今日、所沢校舎で「新入生歓迎行事」こと通称「春祭」(はるさい)があったので出校した。教職員は出校義務があるのだ。

9時半ごろ行き、まだテント張り中もある出店類を眺め茶を一杯。10時過ぎどうやら整った屋台類を見物に中庭を1周、何人かのゼミ生や元ゼミ生に声を掛けられ、「カレー一杯どうです」などと勧められたが、とても朝からそんなもの食べる気になれず、まあ言葉かけだけで済ませた。

文芸棟内には同人誌サークルがいくつか雑誌を並べて売っていたが、これもまあ毎年近づかぬことにしている。買わされても困るし、贈呈されて読後感想を求められるのも困るからである。

テントがブルーと白のツートンカラーに新調されていて、きれいだった。何事も新しいもの、新しいデザインは清新でいいものだ。

そしてふと気付いたのだが、私はひょっとしたらもう2度とこの春祭に来ないかもしれぬと思った。今年度で定年になるから、たぶん大学自体を退くし、今後江古田校舎に行くことはもしかしたらあるかもしれぬが、所沢はまずなかろうと思えるからだ。

この17年間毎年来た春祭だが、たぶんこれが最後かと思ったら急に意味深く思えた。その年に新しいデザインのテントが揃ったのもいい記念だ。記憶に残りそうな気がする。

新1年諸君、18歳諸君、若々しく清新たれ。何年か後にどこかでひょっとしたら会おう。



5月15日 また出校日が

1週間くらいあっという間にたつもので、早くも授業日である。今日は所沢校舎、ところがそのあとは今までと違い、木曜は授業がなくなった。金曜に時間割変更となったのだ。

隔週に教授会はあるが、ない週は出校しなくてもよさそう。ただし、今月は代わりに土曜出校が3回もあるから、全体としてはあまり変わらない。

今週の土曜は新入生歓迎行事(新歓行事)こと通称春祭。所沢のお祭りである。教職員も出校義務がある。

外は暑そうだ。小諸でこうだから、所沢はもう夏日確実である。暑さに弱い小生にはいささか憂鬱なり。


5月13日 これで半年はOK

歯医者へ行ってきた。毎年の定例みたいなものだが、いつもながら治療中は一種の拷問の如く感じる。小生の場合、水がのどに詰まりそうになって息ができにくくなるのだ。あああと叫びたくなるが、今必要事をしているのだという認識もちゃんとあるし、どうしても我慢できないわけではないから、頭の中であああと言いながら、つまりはちょっとした拷問もどきとなる。

が、ともかくそれも終った。これであと半年はよし。そのころには拷問苦を肉体的には忘れているから、たぶんまた行く気になる。覚えていれば行かない。そしてその場合は1年1回の検診となる。

実はこれまでずっとそうだった。さて、今度はいかがなるか?



5月12日 緑に酔う

関東平野ではもう緑はだいぶ前から濃くなっていたが、小諸へ来ると、まさにいま緑が一斉に芽吹いてきたという感じになる。庭のどこもかしこもがいかにも最初の葉という感じで、明るく鮮やかだ。

アカシアや桑など大どころはまだほとんど緑はないが、ぶな、桜、姫沙羅、楓、姫りんご、かりんといったところが若葉を伸ばしている。柿がほんの少し、桐がさらに少し新芽をのぞかせたばかりだ。

我が家の庭はアカシア10数本、桑の大木数本、合歓の若木10数本が主力だから、これらが芽吹き、若葉へと変化(へんげ)していけば、あっという間に敷地全体が緑で囲まれる。道路側からはほとんど中が見えなくなるくらいだ。

私はその状態が好きで、そうなってこそ初夏到来と思える。文字どおり緑に囲まれ、包まれ、地表も畑の畝以外はすべて草の緑でうずまる。ちょっと緑に酔うぐらいになるのだが、その酔い心地がいいのである。



5月11日 入門講座第一弾

今日は土曜日だが、出校して授業である。
所沢校舎での新1年生用の入門講座で、今年は私が一番バッターになった。

毎年何を話そうかと考えるが、今年は一番バッターでもあるし、文芸学科とはどういう学科であるかという話から始め、数が多い創作志望者のために、まず何をすべきか、を述べようと思う。

それは「できるだけたくさん読むこと」だ。書くためには読まねばならない。世の中にはどんな小説、詩、評論、エッセイ、等があり、先人はどんなものを書いてきたかをまず知らねば、何も始まらない。

1年生は多少の例外を除けば99%が2か月前まで高校生か受験生だった連中だから、ろくに本を読んでいない。小説と言えば教科書に抜粋が出てくるような作家のものか、さもなくばラノベ、少女小説の類しか知らなかったりする。

ゆえにまず現代小説を幅広く読ませる。純文学はもちろん、直木賞範疇くらいのものまで、とにかく読ませる。たとえば最近直木賞をもらったばかりの朝井リョウなどを、彼はまだ23歳だ、書きだしたのは学生時代だ、君たちと同じ年頃だ、などといって関心を持たせる。

だから君らも書け、というわけだが、しかし読みだす者自体が何割いるかもよく分らぬし、読んだとして、じゃオレも書こうと思う者はさらに少ないだろう。

でも、いい。1学年に5人でも10人でもそういう学生が現れてくれれば、教師の役割としてまずは達成である。1学年に10人いれば4学年で40人。それが一斉に書いて日大文芸賞なりに応募してくれれば、その選考をするにも熱が入る。私は今年で日大文芸賞選考委員最後の年だ。教え子の目の覚めるような作品にぜひ授賞したいものである。


5月9日 東京界隈

初夏だろうと思ってやってきた埼玉南部は、きのうは案外寒く、今朝は一転だいぶ暖かそうだ。

昨日の学生たちは1年生は多少学校に慣れてきた様子、そして1、2年ともにもう課題をだした。今日は江古田に行ってそれにゆっくり目を通す。江古田は午後の教授会類だけ。

早稲田松竹で昔の名画をやっているらしいので行こうかとも考えたが、来週以降たっぷり時間があるので今日はやめておく。2週間ぶりの研究室には書類もどさっとたまっているだろう。



5月7日 今日は寒い

今、懐古園を一巡してきたところだが、5度Cくらいの気温。ジャンパーがあって丁度いいくらいだ。昨日は初夏の暑さだったから1日で激変である。

今年はこういう変化が多い。暑かったり、と思うとえらく寒かったり。そして気がつくと連休も終り、小生の場合、明日からまた授業だ。朝出て、列車を乗り継ぎ、昼ごろ所沢校舎につき、3限4限と授業をし、5時過ぎに志木市のマンションに入る。いつものルーチンワークが始まる。

いや、今年は5月の土曜日に新入生用の入門講座も担当するから、水・木・金・土と4日連続出校だ。結構大変である。が、これも今年限りだから、まあいいかという感じ。

季節がいいのが助かる。東京界隈は初夏だろう。



5月5日 信濃国分寺12年ぶりの御開帳

御開帳とかいて「お開帳」とここでは読むそうだ。12年に1回で、今回は今日が最終日というので、連れ合いと丁度訪れていたその娘も一緒に行ってきた。

10時からの開帳を30分ほど待った。文字通り帳を開けるだけで、丸っぽい布状のものの向うに御本尊、左右に日光菩薩月光菩薩が並んでいる(らしい)のがぼうと見える(みたい)。

ありがたいような、どうでもいいような気がして、私は本堂を離れ、脇の庵で甘茶を馳走になり、境内を一巡した。ほどほどの広さの中に三重の塔やら蔵、ナントカ殿、それに屋台の出店が数軒、通りをはさんで寺務所と一揃いあり、人出も多すぎず少なすぎずだった。田舎の、程よい規模の寺、という感じである。

寺を出てから歩いた近所の村の風情も、蔵なぞのある豊かそうなきちんとした家が多く、折からの初夏の日に明るく光っていた。そう、今日は立夏であり、それにふさわしく暖かい日差しだった。信州としては暑いとさえ言える気温だった。

前から時折行っていたうまいそば屋「かみしな」が近いはずと思い、カーナビで探して行ってみたら、なんと五分少々のところだった。

ここの胡桃そばはいつ食べても実にうまい。飴で練り上げたような胡桃の粉をそばつゆに溶かし、そこへ田舎風手打ちそばをザクッとつけて食べると、実にうまい。これぞ信州、という味がする。むろんそばも胡桃も近所の産だ。



5月3日 昨日、医者に行ったが……

採血がいやだいやだ、と言ったら、そんなら今日は採血なしで行きましょうとなった。薬は1か月前に飲み終えているし、そうなるとやることがないから、糖尿病とは何かの講釈をかなり長く聞かされて終った。

結論はカロリー摂取量を減らすためには、運動なぞほとんど役に立たない、食事を減らすのが一番、500カロリー減らすにはごはん1杯減らせばいいみたいな話だったけど、私はそもそもごはんを1杯しか食べない。ということはゼロにすべきなのか……。

医者も難しい仕事だ、食生活は人によってだいぶ違うし、一般論はあまり役に立たない。さて、私の場合、どうすべきか。私は何も言わず、帰ってきた。



5月2日 5月なのに小諸はまだ寒い、医者に行く

外へ出たら寒かった。外気温は3度くらいか。明け方前は零下だったらしい。早く植えすぎた茄子とトマトの苗が心配だが、さいわいしおれてはいない。
浅間ヶ嶽も雪の筋は増えていないから、大勢に変化はないのかもしれない。

今日は2カ月診療日で、医者に行く日だ。採血検査が嫌でしようがない。しかし行かねばならないから、なお嫌なのかもしれない。



4月30日 うぐいす、そして四十雀

前信でうぐいすがまだ鳴くのは違和感ありみたいなことを書いたが、考えてみたら、ここらのうぐいすは自然の藪うぐいすだから夏の間ずっと鳴き続けるのだった。

「梅とともに」云々は要するに鳴き始めがそのころだということだろう。

今日も畑の見まわり、ちょっとした草むしり中もずっと鳴き続けている。周りは崖につながる森を含めすっかり新芽若葉に充ちたから、うぐいすの居場所も増えたはずだ。

気になって庭樹の間にある巣箱のふたを開けて覗いてみたら、ふっくらした巣ができていた。去年は中でたぶん四十雀の雛が数羽孵っていたので、今年もと期待してそっと指先を伸ばしてみたが、何も触れなかった。もう巣立ってしまったのか、まだ卵が産みつけられていないのか。

しかし、これで2年続けて巣作りがされたことは確認でき、ほのぼのした気分になった。四十雀よ、また来年も来いよ。



4月28日 うぐいす鳴く

先ほど敷地内の畑の手入れをしていたら、周りでうぐいすが「ホー ホケキョ」と鳴いていた。

今日に限らずこの頃ずっとそうである。鳴きはじめがいつだったかはしかと覚えがない。1か月ほど前だった気もするし、半月ほど前の気もする。

うぐいすといえば梅で、梅はこのあたりではやはり4月に入ってから咲くし、うぐいすは梅とともに鳴きはじめた気もするから、要するに時期が太平洋側より1カ月程度遅れているだけで、組み合わせとしても妥当なのかもしれない。

が、もうゴールデンウイーク、梅も桃もとっくに枯れ、桜も小諸八重紅枝垂れ以外はほぼ散った今頃、ホーホケキョ、ホーホケキョ、と鳴き続けるとちょっと妙な気がする。

それを聞きながら私は茄子とトマトの苗を植えたのである。


4月27日 東京の被曝

今日、いつも見ている某氏のHP中に別の人の文章として下記の文言を見つけた。

* 今の東京は人が出歩くのに危険な場所になってしまいました。チェルノブイリ事故の教えてくれることは、呼気からの被曝が一番健康への影響が大きいことです。首都圏は呼気からの被曝をもうどうしようもできません。日本では報道されませんが、海外の日本を見る眼は極めて厳しいものです。被曝はより一層の健康被害をもたらすとも読みました。

信頼できる人の言と思えるし、心すべき内容と思い、ここに孫引きで掲載させていただく。



4月26日 4月の授業終る

新年度の授業というものは、メンバーにもなじみがないし、授業のペースもまだできていないし、どうしてもぎくしゃくするものだ。だから疲れる。今日も、授業の講座名も私の名前も知らず来たアホがいて、私に向って「先生の名前は何ですか」と聞きおった。

それこそアホらしくて涙が出るが、ま、それでもなんでも、ともあれこれで4月の第2回授業が一巡終了し、ヤレヤレである。次回はもう5月、2週後だから、一息つく。

それにしても東京界隈はもう初夏の気配だった。日が照ると暑いくらいだった。それに引き換え小諸へ戻ると、駅を降りたとたん空気がひんやりとし、顔なぞ寒い。それでも軽井沢以降かなり緑が増え、木々はほぼ若葉を出した感じがした。つい3日前の水曜日、こちらを出て行く時は木々は赤い芽がある程度で、緑はほとんどなかったのだ。

変化が激しく、時がどんどんたっていく。自分もそういうふうに老いていっているのか、あるいは案外若いのか。

3日ぶりの我が家の庭はほとんどの木が薄緑の若葉を萌えたたせており、見違えるようだ。明日から畑をいじろう。


4月23日 教え子S来る

21日日曜のひるごろ、教え子が彼女を連れてやってきた。今年37歳の彼は、学部4年間のあと大学院へ6年間在籍したから何と計10年間、日芸にいたことになる。

もっとも、大学院時代は直接私は教えなかったから、たまに研究室へ遊びにくる彼とおしゃべりしたり、一緒に寿司やそばを食べに行く程度だったが、学部時代は確か4年間私のゼミだった。同期生より3年年長だったうえ、勉強好きで明るくよく喋るタイプだったので、ずいぶん親近した。

社会人になってからもネットを通じていつも交流があったし、パソコンに詳しいので時々分らぬことを尋ねたりで、ずっと接点があった。まあ、私の教え子のうちでも最も親しい存在と言っていいだろう。

小諸までやってきたのは、同伴の彼女が「実は小諸出身なので」というのが理由だった。彼としてはこの際彼女の実家と交流するついでに、私とあれこれ話そうというわけだ。

会うなりすぐ私の行きつけの「刻そば」で酒を飲みつつ2時間話し、ホテルに荷物だけ預けるとそのまま私の家へ来て(徒歩5分だ)、4時まで喋りつづけた。喋ったのは8割が彼である。

そして去りぎわ、わが連れ合いに向って「奥さん、先生をよろしくお願いします」とまるで保護者のように依頼し、私と二人で記念写真をぱちぱち撮り、この間私の連れ合いや彼女は全く一緒に入れようとしなかった。

翌22日は彼女と一緒に彼女関係の親せき宅や牧場などをまわった後、また夕5時に私たち夫婦と寿司屋で落ち合い、飲んでは喋り、飲んでは喋り、夜8時半までほとんど声がやむことはなかった。わが連れ合いも途中かなり喋ったが、私はほとんど喋らずただ飲み、聞いていた。

そして私が言いだしてお開きにし、駅へ行った。その駅で別れる前、彼はまた記念写真を撮ろうと、今度は制服の駅員に依頼して、改札口前構内で私の連れ合い、彼女も含め4人並んで、もう1枚もう1枚と5枚ほど撮ってもらい、「では、では」と強く握手して去って行った。私の計算では彼らが自宅へ帰り着くのは深夜0時近かったはずだ。


4月21日 4月21日の雪の小諸

今朝おきたら、視界は真っ白だった。雪である。
昨夜少し降りだしていたそうだが、まさかこんなに積もるとは思っていなかった。積雪7,8センチ、気温零度前後。4月も下旬になってからのこんな雪とはまれにみる異変だ。

雪は10時半ごろまで降り続け、今は止んでいる。が、浅間をはじめ山は全く見えず、木々にはまだ雪が残り、やはり4月下旬としては不思議な光景だ。きれいだし、桃や紫つつじの花の上に雪が積もったさまは、薄ピンクの得も言われぬ色合いである。

こういう中、東京から教え子のSが彼女同伴でやってくる予定だ。いいときに来るとも言えようし、え、小諸ってこういうとこ!と驚くやもしれぬ。いずれにしろいい記念になるだろう。


4月18日 緑の東京界隈

昨日、長野新幹線で関東平野に入った時からそう思ったが、どこも緑の木々がゆさゆさ若葉を揺らしている。軽井沢以前の長野県内は緑はまだろくになく、せいぜい木々は先の方に赤い芽を結びつつある程度だったから、劇的に違う。

埼玉県南部に入ると、緑は更に豊かになり、所沢校舎界隈もニュータウンの庭もまさに緑に包まれていた。

今日、小竹向原駅から江古田校舎に向って歩くと、小竹町界隈も緑一色である。色は若葉色だが、厚みがあり、豊かな感じがする。ああ、太平洋側だな、日も空気も暖かいなと痛感する。

教室で久々に見る学生諸君の顔もどこか明るい。若々しさが生きている。ロートルたるこちらも少し若さが乗り移る気がして気分がいい。大学へ来る楽しみがある。最後の年だからよけいそう思うのかしら。


4月16日 明日から東京

9日の新入生ガイダンス以来だから、8日ぶりの東京界隈ということになる。いよいよ新学年の授業開始というわけだ。言い換えればのんびりした春休みは完全に終了である。

明日は新1年生、新2年生との顔合わせだ。2年はまあどこかで顔を見ていたりするし、向うも大学に慣れているからどうということはないが、1年は文字通り初顔合わせだから、学生の方が緊張しきって来る。というか好奇心と今年1年間の己の運だめしみたいな表情で来るので、こちらもくたびれる。

1年ゼミは専任教員へ12人くらいづつ自動振り分けなので、学生の方もどんな先生に当たるかと戦々恐々なのだろう。たとえば私はもっぱら文章の書き方中心に授業を進めるから、文章書きに元来関心が薄い者にとってはかなり大変かもしれない。

文芸科は作家志望者やジャーナリズム志望者が多い建前なので、作家が担任教師というのは悪くないはずだが、しかし作家とか小説といっても、今の18,9歳の諸君が考えるそれと私はだいぶイメージが食い違ったりする。

彼らは小説といえばライトノベルだったり、少女小説だったりするのだ。村上春樹が好きですなぞという子が一人でもいてくれれば御の字である。むろん私の経歴を見ても、予備知識として私の作品を一つでも読んでくるなぞという殊勝な学生はまずいない。「69歳の元純文学作家」(「元」というのは私がそう名乗るわけではない)とはどんな顔かと珍しいものでも見るような眼でじっと見つめてくるだけだ。

だから、私はくたびれるわけだが、そういう真剣なまなざしで見つめられることなぞ、ほかではまずないから、まあある種の心地よさもないわけではない。で、まあ、少なくともかなりの熱意をもって文学とは何か、書くとはどういうことか、作家とはいかなる生き物か、といったことをまず語ることになる。

いいことのような気もするし、疲れる次第でもある。
それをしに、あすは所沢まで出校する。


4月15日 桜三昧(サマーディ)

今日は初夏のように暑い。おかげで小諸の桜も一挙に爛熟し、どこへいっても満開である。

朝、カーテンを開けるなり、御近所の桜が咲き誇るのが目にとびこみ、それにひかれ10時過ぎには寿司を買ってきて近場の桜の名所━その名も花川へ出向き弁当を食べた。無論酒・ビールも飲む。

おかげで真昼間から、歩くだに汗をかく仕儀となったが、一休み中の今も夜になったら近所の懐古園へ夜桜見物に行こうと考えだしている。たぶん今日が満開日で、ウイークデイであれ人出もある程度あろう。というか、こういう日に来るのは市内の事情通ばかりだろうから、ふむふむおたくたちも、といったまなざしを交わしあって、観光客ではない満足感を味わうことになるはずだ。

而して、朝から晩まで桜三昧の一日完成というわけである。三昧とはサンスクリット語でサマーディ、法悦無我の状態のことだ。長らく忘れていたその状態のことを少し思い出した。



4月14日 北朝鮮はオオカミ少年か

たぶんそうである。だいぶ肥ったツルツル顔だが。


4月12日 吉本隆明のことをチラと思う

このごろ吉本の文庫本『老いの超えかた』を少し覗いてみたりしている。著書というよりインタビュー集だから、彼の最近の思索をまとめたというわけでもないが、つい買ってしまったのは表紙に彼の写真─杖をつき背を丸めガニ股でよちよち歩いている図、にひかれてのことだ。

おお、あの吉本もこんなふうになってしまったか、歳をとったなあ、それにしても好々爺顔だ、こういう写真を世に晒すというのは彼らしくもある、いさぎいい人だ、いや、単なる人のいい老化か、そんな思いが浮んだりもする。

私は学生時代、彼のファンで、『芸術的抵抗と挫折』や雑誌「試行」を愛読したクチだが、(彼も私も)歳をふるとともに読まなくなり、何年か前に彼が「文明史の到達点としての原発に反対なぞ出来ない」みたいなことを言った時、「ああ、この男はしょせん観念・思想・言葉だけの男だな」と感じ、「生活者としての市民感覚なぞないヤツ」として訣別した。

亡くなったのは去年だったか。最近1周忌がどうのという文字が複数回目に入ったので思い出し、そして前述の文庫本の表紙写真を見て少し読みだした次第だ。

まだたいして読んでいないから感想などとまとまったことも言えないが、今のところの印象では、よく言えば相変わらず「考える人」であり、悪くというか別の言い方をすれば「ともかく考えるふりをし続けざるを得ない運命の人」というところだ。つまらなさを含めて面白くもあり、自分自身の変遷を含めて、思想とかいうものの訳の分らなさを思う。


4月10日 関東平野に桜なし、信州小諸に花あり

暖かい志木市を出て、列車に乗ったら関東平野はどこにも桜の花はなく、散った葉桜ばかり。トンネルを過ぎて信濃国へ入ったら、ひんやりした軽井沢以降はあちこちに花の7分咲き、小諸駅に着いたら関東ならまだ3月半ばごろの肌寒さ。

しかし歩き出すと、懐古園入口の桜はほぼ満開、以降道沿いにあちこち7,8分咲き。我が家の周囲も昨日はまだ3分咲きだったのがもう6,7分咲き。プラムも咲きだし、杏はもう勢いを失い、桃と紫つつじの蕾が大きく膨らんでいる。

雪柳は白く満開、水仙、パンジーも同じく。椿の蕾が赤い。畑の畝には小さな芽がちらほら。諸葛菜だったかルッコラだったか、しかと覚えていない。

連れ合いの咳はまだおさまらず、あす果たして出校できるか否か。余はゆっくり昼酒を飲む。


4月8日 ミサイル迎撃は可能か

北朝鮮が韓国との間の休戦態勢を破棄し、戦時態勢に入ったとか言っている。それに対し、日本政府も昨日、もし日本が攻撃された場合の迎撃態勢を防衛大臣が命令したそうだ。

が、私がツイッターでよく読む外交評論家・孫崎亨氏によると、ミサイルの迎撃は高度が高すぎ捕捉不能、落下時はスピードが速すぎやはり捕捉不能とのことだ。

一方、なにかにつけ熱心なHPを書き続けることで知られる作家の秦恒平氏は、日本は北朝鮮から原発にミサイルを3か所ほど打ち込まれ爆破されたら全土がほぼパーだろうと言っている。

ということはつまり、北朝鮮が本気でミサイルを日本の原発に照準を当て何発か打ち込んだら、日本はいくらじたばたしてももはやダメということになりはしないか。

ということは、迎撃態勢をあれこれ策定してもしようがないような気がするが、といって何もせぬわけにもいかぬだろう。それに打ち込まれたら、迎撃はともかくこちらも向こうの本拠(つまり北朝鮮のピョンヤンや軍事基地)に同程度以上のお返しをするとなれば、抑止力にはなるかもしれない。

つまり迎撃態勢より実際は報復能力の誇示による抑止力、ということなのではないか。が、それを言うと攻撃能力そのものなので、専守防衛を建前とする日本は迎撃と言い換えているだけなのではと思える。

軍事関係の事は自国民にすら正直に語られないから、素人というか市民はただ困惑するだけだ。私はもうその種のことはだいぶ前からあきらめている。みんなでミサイルごっこシミュレーションをやるがよい。それでメシを食べている「軍人」というものも世には沢山いるのだから。



4月7日 咲きだした、咲きだした!

昨日からの雨がやんだ今朝、庭や近所の景色、大分向うの高原美術館の丘、すべてが芽吹きだした。赤っぽい芽、薄緑の芽、ピンクの蕾といろいろだが、とにかくほとんどの木々から芽が伸びている。

まだ緑はない木々の間から、純白の辛夷の花があちこちで満開の様子が見える。一番近いお隣の木はもう満開を通り越して爛熟、たぶん明日あたりからハラリハラリと花弁が散りだすだろう。

さすればあとはいよいよ桜だ。春の遅い信州の桜がいよいよ開き染めるだろう。我が家の庭の山桜はすでにちらほら咲き、道向うの桜は木全体がピンクの蕾で、1分程度が咲きだしている。

懐古園の小諸八重紅枝垂れもぼつぼつだろう。そうそう、今年からは我が家の小諸八重紅枝垂れもかなり咲くのではないか。去年はたった2輪だけ咲いたのだが、あれはまさに先触れという感じだった。

地表にはすみれも咲いている。これも小諸すみれという記念品種がある。



4月5日 志木市→大宮→小諸

昨日東京で会議3つをこなし、夜は志木市で何年ぶりかに御近所の知人と飲み、マンションへ帰宅したら11時近かった。風呂に入って寝たのが0時半だったか。

目覚めたら8時近かった。これは近頃ずっと早起きだった身にはかなり珍しい。ひょっとしたら何年振りかだ。なんとなくあわてて朝食を取ろうとしたら、10日ぶりに開ける冷蔵庫にはパンも牛乳も何もない。野菜庫に長持ちするじゃがいもと玉ねぎのみ。やむなくそれを剥いて小切りにし、フライパンで炒めて食べた。

塩こしょう味だけなのに案外うまく、ミルクもない紅茶と一緒の朝食はどこかアフガンかネパールなどの外国にでもいる気分だった。

そうして9時15分くらいに家を出たら、どういうわけか大宮駅ではいつもの新幹線にちゃんと間に合った。何だ、いつもこのくらいの時間でよかったんじゃないかとひとり呟きつつ10時18分発に乗ったら、40分後にはノンストップで軽井沢へ着き、すでにホームに入っていたしなの鉄道に乗ったら、5分後に発車した。

どうやら4月から発車時間が変更になったらしく、接続待ち時間がわずか5分になっていたのである。この列車だけがそうなのかよく分らないが、まるで東京並の便利さだ。

かくして小諸着は11時27分。大宮から69分だ。いつも大宮から学校までが大体1時間だから、それと大差ない。なんとなく大宮は東京圏の出入り口の感覚があったのに、ちょうど中間点なのかと新発見気分だった。



4月3日 雨、降り続く

昨夜からずっとかなりの雨が降っている。西側の窓ガラスには雨滴が次々とできる。遠景の浅間連峰や白馬山系は全く見えない。グレイ一色である。

その中に隣家の辛夷がほぼ満開に近く、大柄な花を咲き誇らせている。近くでは土佐みづきが薄黄色い釣鐘状の花を下げ、水仙が何本か黄色の花を咲かせだした。杏だけが薄赤く桜と桃に似た花を8分咲きにしている。

これから庭はどんどん花や緑が増えていくだろう。昨日からの雨が、播いた種を発芽させる効果もあろう。苺の花も白くつつましやかにいくつか咲き始めた。今年は実を収穫させてくれるかしら。



4月1日 新年度にして最終年度始まる

ついに4月。ということは4日の新年度第1回教授会から始まって、今後毎週大学へ出校せねばならぬことになる。

が、これも本年度限りだ。もう何度か言及してきたように、今年で定年になるからである。つまり70歳になる。70、すなわち古希の年だ。昔と違って希どころか大半が迎えるうえ、順当にいけば男でもさらに10余年は生きねばならぬから、なんだか近ごろの言葉でいえばうざったい年である。

しかし70を過ぎればもう行かねばならぬ所はなくなることでもある。ラクといえばラクだが、寂しいことでもあろう。
よって、今年はやはりその意味では最後の年として楽しみつつ過ごしたいと思っている。学部のコマ数は減ったし、大学院のコマ数も昨年みたいに多くはならぬだろうから、全体としてはロートルにふさわしいのんびりムードで行けそうだ。

今年で22年目になる連句(歌仙)の授業も最後だから、ひょっとしたら若い諸君と歌仙を巻くことももうないだろう。4年制大学で年間を通して歌仙を巻く授業はまずないはずなので、これは貴重な授業でもある。 できるだけ多くの諸君、いらっしゃい。