風人日記 第四十六章
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懐古園の傍らで
  
2013年7月1日〜9月30日






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『季刊文科』(鳥影社刊)53号より短篇連作「信州アカシア林住期」を開始

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 53号(2011年8月、本体1000円) 「信州アカシア林住期」

 54号(2011年11月、本体1000円) 「信州アカシア林住期その二 夏の転変」

 55号(2012年2月、本体1000円) 「逆接のウズベキスタン」(信州アカシア林住期 その三)

 56号(2012年5月、本体1000円) 「真冬の散歩者たち」(信州アカシア林住期 その四)

 58号(2012年11月、本体1000円) 「シークレット・ズー」(信州アカシア林住期 その五)

 59号(2013年4月、本体1000円)  「小諸の道」(信州アカシア林住期 その六) 

          
               

  大手書店、アマゾンなどのネット書店にて発売中。鳥影社から直接購読も可。


『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社刊 2200円+税) 

 
              


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集。



 昨年、いろんな推移の中で三ヵ月ほど日本の全原発五十四基が停止したことがある。現在は大飯原発が稼動しているほか、新首相安倍は「今後新たな原発建設も指向する」と言い出している。原発ゼロは早くも夢のかなたというのだろうか。情けないことである。
 私は現在と未来の人類のために、原発が少しでもなくなっていくことを望む。
                                

                                
2013年1月1日
                                        日本大学教授・作家
                                                   夫馬 基彦
   

                        *これより日記                      

9月30日 今日で9月も終る

早いものだ。もう秋も半ばを過ぎた感がある。10月の声を聞けば後半に入った雰囲気になり、そして11月となれば寒い信州では冬の入り口だ。

暦の推移は当然のことだが、肌で感じる実感が少しづつものさびしくなる。庭にぶら下げたひまわりの大きな花というか種も、すっかり鳥に食べつくされた。鳥は今度は何を食べるのだろうと少し心配になるが、人間の気付かぬ草の種や虫などを食べるのだろう。

柵に絡んだ朝顔のつた類も今朝半ば以上を取り払った。種はまだ大半が緑色のままだが、あまりたくさん出来すぎると、来年繁茂しすぎるのである。おととしくらいまではこちらで種を柵の周りに撒いて歩いたのだけれど、今は逆になった。

東の畑はまだトマトが日々赤らんでいくのでそのままにしているが、いずれ抜きとる時期が来るだろう。そうなれば東の畑全体を地ならしするつもりだ。日当たりが午前中中心になるので、野菜にはどうも向かない気がするから、来年からは花畑にしようかと心づもりしている。それともトマトだけはまた作るか。少し迷う。



9月28日 1週間ぶり

今日小諸へ戻ってきた。22日の日曜AO入試からずっと東京界隈だったから、ほぼ1週間ぶりである。

東京もわりあい涼しかったが、こちらはもう完全に秋風の中だ。下着を東京に合わせてきたせいか、寒いとさえ感じる。あわてて上のシャツはジーンズ生地のものに着替えた。その格好で庭仕事を少ししても汗を全くかかない。この1週間は丁度季節の変わり目だったのだろう。

しかし、外は行楽シーズンだ。大宮からの長野新幹線も満員で自由席は座れず、やむなく指定席に変更したし、軽井沢からのしなの鉄道も観光客風の人が目立った。確かに空気はさわやかで、ちょっと出歩きたくなる感じだ。小諸駅から自宅までの道に懐古園を通ったが、ここも観光客でいっぱいだった。

部屋に入ってパソコンを開こうとしたら、パスワードが思い出せず、しばらく焦った。たった1週間なのに使い慣れたパソコンを自分で開けないなぞ、われながら気恥しい。連れ合いが、確か数字じゃなかったの、というのを聞いて、そうそう、とやっと思い出した。かなりのボケぶりだ。

これではならじとパソコンの一番目につく部分にパスワードを書いた紙を張り付けた。みっともない限りである。



9月26日 東京も寒いねえ

朝のうちだからか、結構寒い。昨日はほぼ雨で、やはり涼しかった。今年は秋が早いということかしら。

今日は午後出校。会議ばかりいくつかある。



9月24日 東京界隈も秋風だったが

AO入試のため22日からこっちに来ている。私の後期授業は25日からなので、昨日今日と時間が空いた。おかげで昨日は近所を歩きまわった。
午前は柳瀬川の上流を満開の彼岸花を見てまわった。

午後は下流へ歩き、市役所界隈まで行った。かつてはよく歩いたあたりだが、小諸へ行くようになってからは、めったに来ていない。歩く速度も歩行力もだいぶ衰えているのが自分でよく分る。小諸は緑に包まれ、敷地も広く、すぐ近所の懐古園(城址)もあるので、それで満足してしまい、案外距離は歩いていないことを実感した。

市役所近くからは敷島神社まで足をのばした。ここもかつてはよく来たところだが、境内にある田子山富士(かつての富士講用の小型模擬富士山)がだいぶ傷んでいるのが気になった。中ほどの碑など半ば倒れかかっている。立ち入り禁止のロープがなんだかもの寂しかった。

そのあとやはりよく歩いた道を通って柏町まで来たが、その辺りから道を迷ってしまった。ところどころに見覚えがあるので、あ、こっちだなどと歩いているうち、全く分らなくなった。

普通ならさほどでもない距離をたぶん一旦志木駅方面に行き、戻って柳瀬川に帰りついた時は、往復2時間45分かかっていた。いっそ志木駅へ行き、そこから電車で帰ればよかったのだが、柳瀬川駅も近いはずという先入観があってかえって面倒になった。

臨機応変が出来なくなっているなと痛感した。それが久々の散歩のせいか、ひょっとしたら歳のせいかが判然としない。どうも後者じゃないかという気持がいささか憂鬱にさせた。

今日は一転、日差しが強く、すでにだいぶ暑そうだ。近所はもう歩き終えたから、今日は東京へ出ようかと思っていたのだが、はてどうするか。


9月21日 いよいよ今日で夏休みも終り

明日は日曜だが、学校でAO入試があるので採点等のため出校となる。たぶん夕方遅くまでかかる。そして25日からは通常授業が始まる。

よって、今日で夏休みは実質終了だ。まる2カ月の休暇終了。普通の職業の人から見れば恵まれた制度だが、作家や研究者にとっては貴重な時間だ。授業が始まれば個人的な仕事はやはりあまりできない。時間がないわけじゃないが、授業が挟まるとこま切れになるから、あまり集中できないのだ。

といって、私の場合、もう定年の年でもあり今年の夏休みはさほど集中もしなかった。むしろ、のんびり最後の夏休みを楽しんだ感じがある。暑かったし、そのぶん秋がめっきり涼しいし、ああ、季節が素早く進行していく、という実感がする。

明日からは久々の東京界隈暮しだ。まだ暑いのか涼しいのか。それも楽しみのうちである。



9月20日 めっきり寒くなった

私の日記を読んで「お天気の話ばかりではお手上げです」とコメント下さった方がある。外国在の方なので、確かに日本の天気のことなど書かれても面白くもないのであろう。

それは分るのだが、しかし、私はつい天気のことを書いてしまう。今朝などほんとに寒いほどで、門まで新聞を取りに行っただけで、しまった、上掛けを羽織るべきだった、と心配になったほどだ。そして、そういうつど、ああ秋になった、まもなく厳しい冬が近づくだろう、なぞと考えるのだ。

小諸の冬はほんとに寒い。長野県の中でも中部にありながら、北の長野市などよりよほど寒く、山や高原を除けば東信地方は一,二に寒いのである。冬は毎朝零下何度かが当たり前で、時には零下10度になったこともある。

その話を東京ですると、「なんでそんな所にわざわざ住むのだ」と言われたりするが、答えは、@夏が涼しいこと、A緑に囲まれて暮らせること、B空気と水がうまいこと、などであろうか。

空気は本当に透明感があるし、水は朝、洗顔の際ほんのちょっとコップから飲むのだが、これがうまい。小諸では水道水が自然の地下水というか湧き水なのである。

だから寒くても、それを飲む。



9月18日 日本は滅びるだろうな

東電の新発表とかによると、福島第一原発での汚染水はすでに1年8か月前から垂れ流され続けていたそうな。地下水などで薄められているそうだが、汚染物質の総量はいったいどれくらいになるのか。海水も昔からの言い方では「海は無限」だが、確実に汚れ、世界中においおい広がっていくだろう。

すでにツイッターなどで1,2度書いたが、日本は確実に滅びの道を歩みつつあると言えよう。いや、日本に限らず、世界合わせて数百の原発(2010年の数字で約400)があることを思えば、どこかでまた福島クラスの事故が起きる可能性は大だし、そうなれば世界ははっきり滅亡に向って歩きだすだろう。

人類は原子力という魔の火を点けてしまった以上、ゆっくりと終末に向ってスタートを切り、日本がその先頭走者になったということだろう。
毎日相当量の放射能が海水に流れ込み続けているとなれば、関東東北の太平洋側で獲れた魚はもはや食べない方がいいだろうし、海水はゆっくりと世界につながっているから、やがて地球全体が汚染されるだろう。

おそろしいことだし、これからその地球上で人生の多くを過ごし、子を作っていく若い世代の人たちは、なぜもっと怒らないのだろうと思うが、しかし怒ってももう何ともならないのかもしれない。廃炉にするにせよ核の火を消すには何十年もかかろうし、北半球で事故が起こってしまえばそれでほぼ北半球は健康な生命の場ではなくなる。

まったく妙なことになってきたものだ。人間の運命、地球の運命、そして祈り、沈黙、といったことを考えざるを得ない。



9月17日 台風一過、秋晴れなり

平凡ながら、今朝の文字通りの第一印象です。やっぱり明るい朝はいいなあとも思いました。昨日は雨を見ながら、雨のよさと同時に寂しさ、うっとおしさもじっくり感じたので。

庭の緑がさわやかで、遠景の浅間連峰も美しい。青空があってこそです。さ、これから散歩に出よう。


9月15日 今日は朝から雨、台風か

おかげでかなり涼しいのはありがたいが、嵐の前の不気味さもある。浅間連峰はもちろん全く見えず、厚い雲が覆っている。

まだ降りだす前に外を一回りした塀には、朝顔が満開だった。赤、青、紫、白、赤に白の縁どり、などとざっと5種類はあり、すがすがしい。

そういう花のためにも嵐はそれてくれぬかと思う。雨を見るのは好きな面もあるが、どこかさびしい感じもする。



9月13日 大ウソをつく首相を持つと

先だって安部首相が「福島は完全なコントロール下にある。東京は全く問題ない」とIOCで明るい顔をして大ウソをつき、2020年オリンピックを招致した。

簡単にだまされたIOC委員のレベルもこの程度のものかとアホらしくなったが、それにしてもこのウソに対しマスコミもろくな批判をせず、首相辞任の話もかけらもない。

明解な怒りの声が聞こえるのは、いわき地方の漁業関係者からだけで、東京ではどの方面からもほとんど声はない。東京では別に問題はないからかまわぬ、ということだろうか。

放射能の被害がはっきりするのは一番早く症状が出る甲状腺疾患でも被爆から5年後とされるから、あと2年半後だし、およその結果がはっきりしていくのはそれからだから、ひょっとしたらオリンピック開催もそれ以降に再検討ということかしら?

オリンピックはしょせん短期間のことだから、さほどの問題ではないという観点もあろうし、もともとオリンピックにさしたる意義も認めていない私としてはまあどうでもいいのだけれど、しかし「スポーツ=健康」のイメージが強いから、それが大ウソに乗っかって実施されるのはやはり不可解な気がする。

日本および日本人はいい加減な奴を首相にしたものだ。



9月11日 ふと気づいたらこのごろ街へ

出なくなっている。夏で日差しが暑かったためだ。東信州は風は涼しいが、標高が高いので紫外線は強い。で、つい、歩かなくなる。

今年は空梅雨で雨が少なかったから、6月ごろからずっと外へ出る度合いが減った気がする。昨日、久しぶりに昼食に出たらわずかな坂道がしんどく感じた。足が萎えているのだ。

今朝、久々に朝の散歩を動物園まで伸ばしてみた。向うから「ウオーッツ、ウオーッ」とライオンの腹に響くような太い吠え声が聞えたせいもある。行ってみるとつがいのライオンは2頭とも檻の中に突っ立って、餌が運ばれてきそうな方向をじっと見つめていた。

彼らは3代続けての動物園生まれだそうだ。ここの同じ動物園ばかりか否かは分らぬが、なんだかかわいそうな気がした。どの動物園であれ檻はたいして広くはないだろうから、いわばおじいさんの代から親・自分たちと狭い檻の中だけで生きてきたのだ。ぐるぐる歩き回るくらいで、自由に野を跳躍したことなぞ、ついぞないのではないか。

人間は酷なことをする。といって野放しにもできない。人間も小さな家の中ばかりにいる。



9月10日 今朝は寒かった

7時半ごろ散歩に出ようとしたら、丁度お隣さんも出るところで、思わず「すっかり秋ですねえ」「寒いくらいですねえ」という会話になった。半袖など誰も着ていない。

懐古園へ行ってもそうで、水の手展望台で出会った旅の若者も黒っぽい長袖に黒いリュックを背負っていた。遠くのダムから流れる水も冷たそうに見える。対岸の御牧ヶ原の斜面林の松の枯れがさらに進行している。松枯れ病が勢いを増していなければいいが。

しかし空は青く、風さわやか、歩いても汗をかかないし、いい季節になってきた。今日は昼食に街に出ようか。



9月9日 facebookの不調、一応解除できました

パスワードを変更した結果です。


9月7日 (本日2回目の日記)facebook不調、なぜ?

昨日からfacebookの具合が悪くなり、あれこれ試みているが、何をやってもトップページが「友達検索」ページになってしまい、いつものページが出てこない。facebookの担当機関へ問い合わせようと探したが、それも見つからない。

はて、どうしたものか。御存じの方あったら、教えてちょうだい。それにしてもfacebookってそういう問い合わせ機関がないのかしら? もしそうだとしたら、おかしい気がするが。



9月7日 のど風邪をひく

昨日あたりからどうもおかしくなった。熱というほどのものはないのだが、少し頭がぼうとし、咳が出、痰がでる。

連れ合いが、そういうときは熱い番茶で喉の奥を何回か洗ううつもりで、ガラガラとやるといいと言うので、そうしてみたら少し良くなったが、今朝になってもやはり咳は出続ける。

のどの引っかかりはだいぶ減じたので、まあそのうち治るだろうとは思っているが、人間というものはちょっとした不調でも気分が悪いものだ。それに軽い風邪程度でも年をとると体に影響が大きく、ああ、気をつけなきゃと本気で思う。

それに少し風邪をひくと、もう外出が怖くなるし、外気が怖い。今頃の外気は涼しく、秋めいた風が心地よいのだが、それでも怖くて窓もきちんと閉めてしまう。そして、ふと、こういうことを昔おばあちゃんなぞがよくやっていたなと思う。同じことを今自分がしているわけだ。

今のど飴をしゃぶっていると、窓を閉め切ったせいで外の音が全くなく、飴をしゃぶる音だけが本当に「クチャクチャ」とし、ああ、これもおばあちゃんの音だったと思う。おばあちゃんは67歳で死んだ。私はもうその年を越えている。



9月5日 シリア爆撃

今日のテレビニュースによると、アメリカ上院がオバマ大統領が言ったシリア爆撃を、来週以降なら認めるみたいな議決をするとかしないとか。下院はまだ未定だから、どうなるのか分らないが、それにしても遠く離れた他国への爆撃をいったい何ゆえをもって行ったり、認めたりできるのか。

理由として挙げられているのは先般シリアで化学兵器が使われ死者多数が出たことだが、しかしそれを使用したのが誰で、誰を対象にしたものだったのかははっきりしない。アサド政権は自分たちではないとしているし、反体制派の一部にサウジ政府が化学兵器を提供した説も流れている。

なのに、アメリカは悪いのはアサド政権と決めつけ、アメリカの議会さえ容認すれば空爆を行うというのだ。シリアはアメリカ領ではないし、死者たちがアメリカ人でもない。むろんアメリカが世界の警察でもなければ、正義の実行者でもない。

にもかかわらずアメリカは強大な、ほとんどだれもが抵抗も反撃も不可能な強大な軍事力で、一方的に報復・制裁爆撃を行うという話なのだ。むろんそれによる死傷者も相当数出ようし、家々や生活も破壊されよう。それをすることがなぜアメリカに許されるのか?

不可思議、理不尽なことだが、数日前、日本政府はそれを当然のごとく支持すると口走ったし、わけのわからぬことどもが進行する。

もう一度言っておくが、アメリカがシリアを空爆する理由なぞ断じて何もない。腕力があるからといって何をしてもいいわけじゃないぞ。心せよ、アメリカ。



9月3日 朝の草むしり

昨日の雨でまた草が伸びそうな気がするので、先手を打って今朝、気になっていたところの草をむしった。雨上がりだと、土が柔らかく、根も抜きやすい。

だんだん庭がきれいになっていくが、しかしどうせ秋から冬にかけて草は大部分枯れるのにとも思う。いや、真冬のさなかでも緑の草があったような気もするか。

いずれにせよ、これからは日に日に気温が下がり、秋めいていく。今朝なぞ起きぬけ(午前6時)は寒かった。

昨日、メダカが1匹死んだ。これで2匹目。あと4匹、いつまで生きていてくれるか。



9月2日 秋雨

今日は午前から雨である。
しとしと降り続き、気温も20〜23度くらい。

連れ合いは東京へ所用で出かけたが、向うは30度以上らしい。10度違うと体調もぎくしゃくする。無事過ごせればいいが。

今日は雨でなければ遅まきの土用鰻でも食べに行こうと思っていたのだが、外出する気になれず。雨の音を聞きながら、庭の緑を眺めている。雨にぬれた草木はきれいなものだ。



8月31日 いよいよ8月も終り

太平洋岸なぞはまだまだ猛暑らしいが、信州ではもう数日前から秋風が吹いている。それでも8月というと何となく「夏休み」と感じるのは小学校以来の学期のせいだろう。

もっとも信州では夏休み自体が8月の20何日かで終わり、代りに冬休みが長い学校が多いそうだから、子供たちはもうとっくに秋気分だったのかもしれない。

しかし蝉はまだ鳴いている。いくぶん元気なく。
桑とアカシアの黄葉がチラッ、ホラッと落ちてくる。
浅間は曇ってひょっとしたら頂上部は雨か。

壁のカレンダーを新ページに変えるのが気分がいい。



8月29日 朝顔満開

我が家の敷地は金属製の縱柵によって取り囲まれているが、その3分の1くらいに朝顔がびっしりからみつき、今朝満開になった。

赤、青、紫、赤青それぞれの白ふち付き、白、と6種。
それぞれにきれいだし、所々地面でも咲いていて、おもしろい。

早朝6時ごろにはどれもピット上向きに鮮やかに咲いているが、7時半ごろには早くも少しふちが垂れかかったり。そして8時過ぎにはいささかしおれだす。短い命である。



8月27日 どこも涼しい

昨日東京へ行き、今日、小諸へ帰ってきたが、涼しいなあ。
朝出てくるときの志木市も涼しかったし、着いた小諸も涼しい。

蝉だけは相変わらず鳴いているものの、完全に秋の気配である。猛暑がウソのようだ。トマトだけがまだ赤い。



8月24日 最後のゼミ合宿

昨日から軽井沢の大学研修所で1年ゼミの合宿だった。

いわゆるゼミ合宿はたぶん10年ぶり以上だった。私はどうもその種のものー若い衆と大勢で泊まり込んでワイワイやるものが億劫なたちで、そのため久しくさけていたためだ。

それが今年は1年ゼミ生から「先生、もう最後でしょ」と言われ、なんとなくOKしてしまったのである。それも3,4年生ならともかく1年生だったから、つまりは18歳の、孫に近い年齢の諸君11名と1晩寝食を共にすることになったわけだ。

場所は小諸の家からいわば御近所の軽井沢だから、ちょっと早めに行き、私が学生諸君を出迎える形で午後2時ごろから始まったのだが、それからゼミ誌編集会議、夕食、食後のお菓子パーティー……と予定は目白押し。

若い衆諸君、それも1年生の夏だから多くの者がいわば大学生活初めての合宿で、ノリノリである。もうじき70歳の私はとてもそういうエネルギーについていけるわけもないから、なるべく教師用の個室に引きこもっていたが、夜8時半過ぎに女子学生たちが「先生、トランプしましょ」などと誘いに来る。

予測していた私は「いやあ、さっきから一人でビール飲み始めちゃったから、今日は失礼します」と考えようによっては理由にならない理由で断った。ビールを飲み始めたからトランプをできないわけじゃないけれど、どういうわけか女子学生たちはあっさり「あ、そうですか」とひっ込んでくれたのは助かった。

これが3,4年生だと「あたしたちも飲みますから」などとなりかねないのだが(以前そういうことがあった)、1年生はそこらが純朴なものだ。皆未成年だし、大学生としての飲み会などにもまだ慣れていないから、飲む大人と自分らは別と、ごく自然に感じているのだ。

おかげで私は本当に一人でビールを飲んだのだが(食後、一人でビールを飲むなぞ極めて珍しいことだ。せめて食事時に飲みたいものだが、誰も飲まぬところで一人だけ飲むわけにもいかない)、食後の一人ビールなぞあまりうまいものでもない。結局私は、日ごろの就寝時間9時半ごろには寝てしまった。

今朝聞いてみると、男子など早い者で午前2時、女子の遅い者は4時までお喋りしていたそうだ。「消灯時間があったはずだが」(大学の施設だから、実際に管理人さんが午後11時になると大きなアナウンス後、全館消灯してしまう)と聞くと、「ええ。でも、暗い中でおしゃべりしてました」と楽しげに答える。

こうなれば、仮に消灯時間後、見廻りに行ったとしても、その時だけ「はーい」と返事して、またこっそり起きだしておしゃべりが始まれば止めようがない。経験的にそれを知っているから、私は最初からこっちが先に寝てしまったのだ。

7時半からの朝食時にはさすがに「眠い、眠い」の声が複数あがっていたものの、「でも、修学旅行みたいで楽しかった」「大学へ入ってこんなに話をしたの初めて」などと言われると、これでいいだろうという気がしてしまう。

朝食後には、折角来たのだから軽井沢界隈をあちこち歩いてみなさい、と美術館のあり場所などコースのアドバイスを多少して、現地解散とした。

こういう体験はもう生涯ないだろうな。
70歳目前の若き合宿だった。



8月22日 東電を解体、責任者たちを処罰せよ

福島第一原発から一日300トンの汚染水が海に垂れ流されているのをはじめ、タンク内の水も漏れていることが明らかになってきたが、不思議なのはそれでもだれも責任を問われていないことだ。

一昨年の3月11日以来の事態に関して、なぜ東電社長らは厳しい処分を受けもせず、収監もされないのか。多数の人に害を及ぼすことが明らかな大事故を引き起こし、大量の有害ごみを捨て続けたら、社会常識としてその者は厳しく罰せらるべきではないのか。

にもかかわらず何も罰らしい罰はなく、今回の事態も今になって気付いたみたいな言い草は人をばかにしているか、よほど無能としか言いようがない。尻拭いをする国もなぜ東電の引責解体、処罰をしないのか。

と書きながら、私はもう虚しい思いで、怒ってみてもこの国はどうにもなりはしないと考えだしている。実際、どうせだらだらと無策が続いたあげく、ゆっくり汚染に包まれ、汚染した魚や食物を食べ、5年後くらいから次第に増える甲状腺がん患者や心筋梗塞の数値にいら立ちながら、結局は日常的事象としてあいまいに受け容れていくのだろう。

分っているのだ。私はもう驚かない。日本人とはそういう種族であり、日本はそのようにして続いていくだろう。いつ滅びるかはわからない。滅びるときは世界の滅びの始まりだから、まあ早いか遅いかの違いだと諦めも生じやすかろう。すべておだやかなものである。



8月20日 エジプトの不可解

エジプトで7〜800人もの人が治安部隊や軍によって殺されたというニュースが伝わっている。

追放か秘密拘束されたままの前大統領ムルシ氏を支持する民衆が標的にされたらしいのだが、軍側(暫定政権)はムルシ派が銃撃してきたからと言う。が、それまで伝えられていたニュース映像などではイスラム同胞団民衆がいた広場は女子供までおり、取材した日本人ジャーナリストも平和的だったと言っている。

それがいきなり銃撃で多数の死者となると、まさに「虐殺」(同胞団側の言)だが、銃を持った者もいた説もあるから、事実関係はよく分らない。が、仮に一部に銃を持った者がいたとしても大多数は素手の民衆だったことは事実だから、一気に軍が攻撃・大量殺害はやはり虐殺に近いだろう。

そして分らぬのは、なぜイスラム同胞団がいけないのかだ。名前だけからいうとむしろ体制派・右派みたいに思えるが、それなら軍は何なのか。ムルシ派は民主派だったそうだから、軍はやはり民主派つぶしのための行動だったのか。

いずれにしろ、日本のマスコミは虐殺の実態を一向伝えないから真相が分らない。これに限らず近頃の日本のマスコミはまるでシャープさがなくて、ただある種の結果だけを後追いしているだけに思える。海外情報の方がよほど鋭く、早い。



8月18日 30年最高の暑さ!?

ツイッターで30年近く日本在住のインド人の方が、今年は今までで一番暑い、と書いておられたが、さもありなん、と思わせられる。
寒暖の記憶はデータより印象中心になるので、正確度の根拠があいまいになるが、しかし、今年に関しては私もその通りではという気がする。

数日前、東京界隈では一日の最低気温が30度以上だったというニュースがあった。まさに驚きである。バンコック在住者が一昨日まで数日滞在していったが、彼女も日本の方がよほど暑いと言っていた。

しかし、朝は気持ちがいい。今も(たぶん)気温23,4度の中で蝉や虫、小鳥の鳴き声がかまびすしいが、夏らしくていいと感じるくらいだ。浅間の山がいつも曇り気味なのも、春霞ならぬ夏霞という感じで風情がある。これがピンと青空に屹立するようになれば、もう完全に秋で、ここらでは寒い。

さて、今のうちに少し草むしりをしておこう。



8月15日 お盆にして終戦記念日

毎年8月15日になると、いささか微妙な気分になる。たぶん私だけでなく多くの日本人がそうなのではと思う。

理由はこの日が敗戦の日であると同時に、お盆の中日であるからだ。敗戦の日を終戦の日と言い換えた上に、それがお盆の中日とは、かなりうまいやり方だ。日本人の誰もが「お盆」と言えば何がなし特別な気分になり、かつ穏やかな心持になる。その日を狙って終戦とすれば、みななんとなく納得し、「ああ、それがいい、それがいい、今日からしばらく静かに死者を悼もう」となったのではないか。

と書きながら、いや、待てよ、当時はお盆と言えば旧盆すなわち9月15日ごろがお盆らしいお盆だったのではないかという気がするからだ。
だが、また同時に、すでに新暦は使われていたから、やはり8月15日をお盆とする感覚もあったのではと思える。

とすれば、やはりお盆を持って戦争を終える、敗戦ではなく終戦とする、という言い方は絶妙という気さえする。これなら強硬派も強い反対をしにくいし、皆ともあれ矛をおさめられたのではないか。

この日を敗戦記念日とはっきり言え、とか、日本人はそういうふうに物事をうまく丸めこむ、ごまかす、という意見も昔からあるが、私はなかなかいい知恵ではないかとも思う。

「お盆だし、もう殺し合いは止めようや、みんな合掌して死者を弔い、甘い牡丹餅でも食べようや」。やっぱりうまい収め方ではないか。



8月13日 朝、草刈りをする

猛暑で草刈りもしばらくしなかったが、今朝はする気になった。気になっていた何箇所かに次いで、草の逕2か所まで刈り込んだ。

それでもさほどの汗にならなかったのは、だいぶ涼しくなった証左か。最高気温はあまり変わらぬままだが、昨日、今日と、確実に朝晩の温度は下がっている。

明日はもっと下がることを期待する。下がれば下がっただけ庭の草も刈り取られる。



8月12日 朝6時が一番人が多い

曇り空の今朝6時、懐古園に散歩に行ったら、展望台はもちろん馬場にも人がかなりいた。むろんワサワサいるわけじゃないが、それでも展望台なぞはおばちゃん(おばあちゃん?)連たちのおしゃべり声でいささかうるさく、近寄る気になれなかったほどだ。

2,3日前、5時半に散歩した時はさほど人けはなかったし、7時以降もこれほどではない。

つまり曇りの時としては6時が一番散歩適切時間というわけかもしれない。確かにほどよい気温で、日射しもなく、小鳥の声が心地よくて、丁度いい。蝉も少しは鳴いているが、昼間のようにうるさくはない。

というわけでおのずと散歩タイムとなるのだろう。おばちゃんたちの声はまあ鳥のさえずりだと思えばいい。



8月11日 落葉がちらほら

うちの敷地内では早くもアカシアと桑の葉が、時折ヒラッ、ヒラッと落ちるようになった。まだとても落葉シーズンというわけではないが、しかし見上げると緑の葉のなかに所々黄色じみた葉ができつつあるから、やはり秋の兆しではあろう。秋立つとはよく言ったものだ。立秋からもう4日たつが。

実生で伸びてきた朝顔やコスモスも少しづつ咲きだした。どちらも秋の季語である。
これから1週間はお盆だが、これも秋の季語だ。今年は望月町の「榊まつり」見物を楽しみにしている。



8月9日 今日は長崎原爆記念日

これも忘れてはいけない。日本のポツダム宣言受諾がもう少し遅れていたら、新潟もやられていたそうだ。

3.11福島第一原発爆発日、これもむろん忘れてはいけない。住民にどんな被害が出たかはまだはっきり分かっていない。発生から5年くらいたってのちだんだん分っていく。

汚水水の垂れ流しは、今も、今後もかなりの期間続くだろう。魚類もどんどん汚染されていく。魚はどこで水揚げされるかわからない。漁船がどこの港に着けるかわからないからだ。スーパーや魚屋では水揚げ地のみが表示される。太平洋側で獲れた魚も水揚げ地が日本海側の港なら、日本海の魚として扱われる。

つまり被害はまだ現在進行中だ。



8月7日 信州に遷都を

今朝8時ごろ懐古園界隈を散歩した。やや曇り気味のせいで気温は19度Cほどだったと思われ、実にさわやかだった。速足で歩けば多少蒸し暑さは生じるが、普通に歩く限り真夏の不快感は全くない。東京界隈にいるときに比し快適さ抜群である。

8月6日の原爆だのかつての戦争だののこともまるで思いださない。それでふと思ったのだが、日本の首都がもしこういう涼しい地にあったら、戦争は起きなかったか起きたとしてもだいぶ様相が変わったのではなかろうかということだ。

たわいもない夢想であるのは承知の上だが、こういうさわやかな涼しさの中で人間は戦争なぞ発想しないような気がするし、また冬の零下10度くらいの厳寒を思うとそんな折に出撃なぞ考えない気がする。

なぞと言うと、やはり全く説得力なぞない気もするが、政治や軍事の指導部がみな信州にあれば、いろんなことがだいぶ違ったのではないかという妄想である。

そこでいっそ信州に遷都したら日本はもっと穏やかになるのではという、やはり夢想だが、30%くらいの信憑性はあるのじゃないかしら。そんなことをしたら信州が精神的に暑苦しくなって嫌だという意見も当然出てこようが。



8月6日 今日は原爆記念日、そしてまもなく母は97歳

だんだん忘れがちになってきたが、今日は「ヒロシマ・デイ」だ。そして9日ナガサキ、15日終戦、私の場合これに9月6日父死亡、と続く。

このとき私は1歳半。まだ何も知らない。

だんだん長じるにつれ、私は戦争の終末期に生まれ、戦後の混乱期に母子家庭で育った、と認識していくが、戦争の実感はもちろん何もない。ただ周囲の大人から聞かされるばかりだった。

故郷の愛知県一宮市の空襲がどんなふうだったか、立派だったという父の病院に焼夷弾が落ちどんなふうに燃えていったか、父はなぜ戦後疎開をしようとしたか、そして途中で発熱し伊勢市の病院でどんなふうに死んでいったか。母や祖母や叔母などから幾十回となく聞かされた一部始終は今でもほぼ全部覚えている。

父の死亡は37歳、母はその時28歳、以降二人の幼児をかかえて戦後を生きてきた。今年の8月で97歳になる。昨日兄嫁からかかってきた電話によると、悪かった脊髄骨も好転し、目下どこも異常なし、食欲も旺盛でとても元気だという。

慶すべきか、いささかのためらいがある。なぜなら母は以前、「年をとることはつらいことです」としみじみした調子で手紙に書いてきたことがあるし、その後「なかなか思うように死ねません」と書いてきたこともあるからだ。

実際、私自身70歳に近づいてみると、年をとることはちっともいいことじゃない、それに自分で死ぬなぞはなかなかできることではなく、生きたくたくなくとも生きなくちゃならないものだ、母の言った通りだ、としばしば思うからである。

69歳でいい加減うんざりしてきている身は、97歳を考えるとまことに呆呆然とする。



8月5日 医院へ行く

皮膚炎の薬が切れたのと、ついでに人間ドックの結果を見せに、小諸市内のかかりつけ医へ行った。内科皮膚科兼用医院なので、両方に持病のある身には丁度いい。

4時ごろ行ったらほんの5分くらいですぐ呼ばれ、診察もすぐ済んだ。人間ドックの結果解説も納得できるもので、全く問題なし。

終って玄関を出てきたら都合10分くらいで万事終了の感。こういうのはラクでいい。外へ出たら折からどしゃ降りだったが、穏やかな気分で小ぶりになるのを待った。



8月3日 今日はドカンショ

小諸の夏祭りで、夕方から夜までいろんな団体の40連ほどが街を踊り歩く。見事でも、華麗でもなく、規模も大したことはないが、しかしのんびりした地方都市らしいなごやかさがある。ドカンショというのは浅間山噴火の音だそうだ。

一杯やって眺めながら、めったに歩かない夜の街を散策するのも楽しい。東南アジアからの「研修生」という名の出稼ぎ者たちが、たくさん見物に出ていたりする。彼らには日本の田舎町の祭りが結構面白いらしい。


8月1日 いつしか8月

7月は暑かった。8月はお盆を過ぎればもう秋風が立つから、なんとなく7月よりは涼しげな印象がある。

昨日、小諸市とJA共同経営の「あぐりの湯」へ行ったら、全面一面に見える浅間連峰が青々としていた。秋以降は峰部がだんだん枯れ色から黒に変じて行き、やがて冬には白くなるはずだ。それが今は青い。

露天風呂が心地よかった。私は冷気に弱いので、秋以降は露天風呂に入らないが、今頃だけは露天にいると顔が涼やかで実に気持がいい。
JAの売店で好みの紫蘇ジュースを買ってきたので、折々飲むのが楽しみである。近隣の立科JA産だ。

今日は朝方湿っていたものの、日中は日ざしが強くなった。蝉もかまびすしい。油蝉にみんみん蝉。いかにも夏らしい、昼寝日和である。



7月30日 5時半の散歩

むろん午前5時半のことだ。どういうわけか今朝は5時過ぎに目が覚めてしまったため、散歩に出た。そのくらいの時間に朝散歩している人が結構いることは知っていたので、この際自分もと思った次第だ。

近所の懐古園に行ってみると、馬場のあたりは樹木類に消毒散布中だった。こころなし飛沫がこっちの方まで漂ってくる感がしたので、水櫓(?)展望台から千曲川と対岸の御牧ヶ原を眺めた。いたるところに霧が立ち込め、川面からも霧(靄)がのぼり、かすかに動いていた。霧は幻想的で美しい。

戻って、我が家の垣根に絡みついている朝顔の蔓を伸ばしたり、東向きに方向を変えてやったりしたが、場所によっては東向きより南西方向の方がいいのか、そっちへ蔓先を泳がせているものも何本かある。

花の色は昨日までの白、紫、青にくわえ赤も初めて咲いた。4色揃うと豊かな感じがする。



7月27日 さわやかな朝

只今気温19度C弱。小諸はやはり涼しく、快適。よく眠れた。東京界隈とは当分おさらば、たぶん猛暑日に行くことはもうないと思う。

うぐいすや鳥のさえずりが心地いい。



7月25日 本日、前期校務すべて終る

今日、最後の学科会議が終った。授業はすでに昨日で終っていたから、これで名実ともに前期は終了である。あとは8月下旬にゼミ合宿、9月下旬に後期始動という段取り。

後期は11月が終れば定年退職だから(授業だけは非常勤講師として学年末の1月まであるが、会議とか校務は一切なくなる)、いよいよ残りわずかだ。ホッとするなあ。

ゼミ合宿は10年くらい開いてこなかったが、今年は1年ゼミ生から「先生は今年で最後でしょ」と要望され、何となく断れずに引き受けてしまったものだ。1年生は今後2年3年4年と他の先生とゼミ合宿をする機会はありうるのだが、「夫馬先生は最後」と言われるとどうも弱い。

まあ退職記念にやっておくかと、つい気が動いてしまった。18歳の孫みたいな諸君と1泊するわけだ。さぞ騒がしいだろうなあ。後悔半分、苦笑半分微笑半分。

ま、それまで1カ月は若い諸君と顔は合わない。解放気分である。



7月22日 参院選結果、フーン

意外でもなし、よくもなし。投票した候補は二人とも落選。ホウと思えたのは山本太郎の当選だけ。三宅洋平は落選、森ゆうこも落選。フーン。

もともと期待もしていなかったが、いささかがっかりすることも確か。だんだん日本や日本人に期待もしなくなった。日本はだらだらと現状が続いていった挙句、次第に失速、金さえもうかりゃとせっせと輸出した原発がどこかでまたしても爆発したりして、ぐじゅぐじゅと滅ぶだろう。

その時はある意味で世界も滅びの道に入る時だから、まあ地球全体、人類全体がいずれ原発で滅ぶということだろう。30年後か50年後か分らぬけれど、それくらい先のこととなるともう実感なぞわかぬからどうでもいい、というのが日本人の考え方かもしれぬ。

むろんその時私自身もとっくにこの世にいないはずだから、その意味ではどうでもいいとも言えるのだが。ああ、世の中とはわけの分らぬものだ。


7月20日 昨日で実質前期授業終る

学部の連句と大学院の授業が終った。授業日程としてはもう1度24日に所沢の2コマがあるが、これは夏休み前最終ということで、宿題の提示や「夏休み中のススメ」といった話になるので、まあ授業という感じは薄らぐ。

あとは約2か月の夏休みで、もう暑いさなかの出校はなくなる。後期はさわやかな秋だし、退職へ向け時間読みとなるので、だいぶ気分も変るだろう。

今朝はずいぶん涼しく、9時現在で18度C、6時過ぎに起きた時は12,3度で寒いくらいだった。東京界隈とはずいぶん違うものだ。向うでは起きた時から27,8度で、むろん夜なかじゅうもクーラーはつけっぱなしだった。小諸ではクーラー自体がない。

藪うぐいすが鳴いている。



7月19日 やはり暑かった

昨日、大宮へ着いた時は思ったほど暑くないと感じた。湿度がさほどなかったのである。

ところが所沢校舎に着いたあたりから、気温は相当高いと実感してきた。年齢のせいか、このごろ寒暖の変化を感じるのが遅いのかもしれない。

そうしてマンションに入ってクーラーをつけてから、クーラーがきいていない部屋に行ったりすると猛烈な熱気を感じて、ああ、東京の夏だと思った。当然、夜中じゅうもリビングのクーラーはつけっぱなしだ。寝室はさすがにつけずに寝たが、隣室との境界はあけっぱなしである。

小諸ではクーラー自体がないし、朝晩など薄寒いことを思えば、随分違うものだ。早く小諸に帰りたくなる。

よって今日は、授業後そのまま学校から小諸へ向かおうと思う。



7月18日 今日は所沢へ

教授会が夏休み前に1回、所沢で開かれるので、午後そちらへ直行する。小諸は今朝も朝は寒いくらいだったが、関東南部は猛烈に暑そうだ。列車を降りたらきっと汗が吹き出すことだろう。

明日は江古田で、連句(学部)と大学院の授業。終ったら早々に小諸へ直行しよう。
そして日曜日は参議院選挙だ。反原発反TPPで行きたいが、候補をどうも確信しづらい。落選して死に票になるのもつまらぬし、はてどうしたものか。

それにしても東京界隈で熱中症なぞにならなければいいが。



7月16日 蚊とのたたかい 

些細なことのようだが、私にとって毎年今頃は蚊との闘いの日々である。

蚊はすでに6月からいるが、やはり7月に入ってからが本番で、そして関東よりはだいぶ涼しい信州小諸でも今頃はピークである。

人にもよろうが私は子供のころから蚊や虫に弱く、夕食のとき蚊が出ると真っ先に食われるのはいつも私だった。しかもちょっと食われただけで赤く大きくはれ上がる。

さすがに年経たこのごろはそれほど腫れないが、それでも庭仕事に外へ出るたび顔から手、足、首、ズボンの上から太ももなど数か所は刺され、1,2時間はポリポリ掻き続けることになる。

それでも外へ出るのは、伸びた木の枝を切ったり、草をむしったりがどうしても必要だからで、緑に囲まれて気持ちよく過ごすための必需労働なのだ。それが一日平均一時間程度は必要となる。

蚊さえいなければ私は草取りや庭仕事は嫌いではないのだが、ああ、なんとかならぬものかしら。



7月14日 今日は祇園まつり

京都でもそうだろうが、信州小諸でも祇園祭がある。

まず朝11時に近くの天王社でみこし結団式があり、次いで「よい、よい」(小諸独特の掛け声)の声とともにゆっくり担ぎ出し、北国街道を登って健速(たてはや)神社へ行き、お堂のなかで祈願を受けた後、堂内で暴れだし、威勢よく石段を下って(石段落し)、街へ出ていく。

あとは昨日の市民まつりと違ってあまり人出もない街を相生町、荒町、与良、ふたたび荒町、本町、国道、駅前、そして最後に相生町筋、と実に10時間も練り歩く。途中、酒やら食事をふるまわれながらだが、さすがに後半はよろよろ、あっちへよろ、こっちへよろという感じで、たいてい薄曇りか小雨の町を淋しく「よい、よい」である。

そのさびしげで、物憂いさまが、なんとも言えずいい。
むろん、見物もずっと10時間とはいかぬから、12時前後の石段落しと最初の街練りのあとは家へ帰り、夜になってまた渡台神事や水かけ神事を見物に行く。

忙しいわけではないが、こちらも昼は石段前で振る舞い酒をいただき、夕食時はやっぱり祭り気分で一杯やりで、なんとなく一日ほろ酔って過ごす。
のんびりした祇園まつりで、いいものである。


7月12日 猛暑つづく

小諸で猛暑などという言葉を使うことはめったにないが、今年は特別のようだ。連日30度くらいになり、日差し・紫外線は強く(小諸の町は標高6〜7百メートル)、うかつに外へ出られない。

いつもは今頃東京界隈のはずなのだが、今年は私一人小諸在だ。さすがに東京並の蒸し暑さはないから、室内にいる限りまずまず問題はない。が、それでも暑いには違いないので酒も飲む気になれず、アカシアの風の音を聞いて読書三昧である。

明日は小諸の祇園祭だ。例年雨が降るが、今年はどうだろう。涼しいとたすかる。



7月10日 いやあ、暑い

毎朝近くの懐古園(小諸城址)への散歩を常としているが、今日は時間がちょっと遅れ8時だったせいか、だいぶ暑かった。昨日は7時20分ころだったが、やはり暑かった。

小諸としては真夏の気配である。

でも、クーラーはいらない。2階のこの部屋は今も30度をさしているからかなり暑いはずだが、多少の涼風のせいもあって、まあ我慢できないほどではない。1階のリビングに降りれば26度弱くらいだから、むしろ涼しい。

今夕からはしばらく独り暮らしとなる。さびしいような、気楽なような。



7月7日 雨でも…… 

早朝からずっと曇っている。早く雨でも降ってくれればいいのに。

トマトは大きくなった第1陣の実は2個とも傷が大きくついていて食べられず。茄子のみ1個収穫。まだ食べず。テーブル上に置いて、もっぱら眺めている。

連れ合いが好きなトウモロコシは5本ほど穂が咲きだしたが、実はまだまだの模様。ルッコラや赤カブなどはおいしく食べた。

お隣の沙羅の花が盛りである。白く、清潔感があり、満開でもうるさくない。4本も木がある。我が家は姫沙羅1本だけ。



7月6日 やっぱり小諸は……

3日間南関東にいて、そんなに暑かったわけじゃないけど、やっぱり昨日あたりはいささか蒸し暑かった。気温はさほどじゃないものの、夜もクーラーをつけっぱなしにしておかないと(自動調節)、湿度が下がらないのである。

今日小諸に来てみたら、駅では案外あったかいというか「涼しくない」と感じたのだが、家に入ったら涼しく感じた。

午後になって庭仕事に外へ出ると、それなりに蒸し暑く、汗をかいたが、それでも7月の午後に庭仕事ができること自体、やっぱり小諸の方がだいぶ過ごしやすい。

その小諸に今日から当分いられる。心身がホッとする。



7月2日 庭仕事をする

庭の、特に東のお隣との境界あたりが、合歓やアカシアの枝で鬱蒼としてきたので、大鋏で刈り込んだ。

合歓もアカシアも実生からの自然木で、伸びが早いので梅雨時以降は鬱蒼とする。どちらも葉の風情なぞは優しげで、私の好きな木だが、手入れはなかなか大変だ。おまけにアカシアは幹や枝に鋭いとげがあるので、気もつかう。

が、繁った枝をバサバサと刈り込んでいくのは気持ちがいい。で、つい刈り込み過ぎもするのだが、その度合いが難しい。今日もうっかりかりんの木の、実がなっている小枝を切り落としてしまった。2個しかなっていなかったうちの一つだからかなり残念である。

しばしうーんと唸ってしまったが、しかしまあやむをえない。木の枝というものは見る角度を変えると小さな実を見落としてしまうのだ。

さっぱりした木々を眺めまわすのは充足感とほどよい疲れがあいまって、気持ちがいい。定年後は庭仕事が一番の日常になりそうだ。



7月1日 本日より新ページ

何事であれ新ページというものは気分がいい。今日からまた内容も新しいことを書こうという気になる。
さりながら、その新しいことがなかなかないのが歳をとるということだろう。

でも、せめて心がけます。みなさん、旧前通りこのページ、折々覗いてやってください。