風人日記 第四十七章
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定年前後
2013年10月1日〜12月31日






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『季刊文科』(鳥影社刊)53号より短篇連作「信州アカシア林住期」を開始

       http://www.choeisha.com/bunka.html 

 53号(2011年8月、本体1000円) 「信州アカシア林住期」

 54号(2011年11月、本体1000円) 「信州アカシア林住期その二 夏の転変」

 55号(2012年2月、本体1000円) 「逆接のウズベキスタン」(信州アカシア林住期 その三)

 56号(2012年5月、本体1000円) 「真冬の散歩者たち」(信州アカシア林住期 その四)

 58号(2012年11月、本体1000円) 「シークレット・ズー」(信州アカシア林住期 その五)

 59号(2013年4月、本体1000円)  「小諸の道」(信州アカシア林住期 その六) 

          
               

  大手書店、アマゾンなどのネット書店にて発売中。鳥影社から直接購読も可。


『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社刊 2200円+税) 

 
              


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集。



 昨年、いろんな推移の中で三ヵ月ほど日本の全原発五十四基が停止したことがある。現在は大飯原発が稼動しているほか、新首相安倍は「今後新たな原発建設も指向する」と言い出している。原発ゼロは早くも夢のかなたというのだろうか。情けないことである。
 私は現在と未来の人類のために、原発が少しでもなくなっていくことを望む。
                                

                                
2013年1月1日
                                        日本大学教授・作家
                                                   夫馬 基彦
   

                                  日記

12月31日 ついに大みそか

今日で今年も終りである。時間の推移は自然の流れで別に殊更なことではないが、しかしそれなりの感慨はある。

私は今年で古希を迎えたし、大学は定年になった。授業はまだ少し残っているが、日常の過ごし方は、あと1か月ほどで大幅に変わるはずだ。信州に完全隠棲となろう。

愛知県で生まれ育ち、18歳で上京、人生の大半を東京界隈で過ごし、そして晩年は信州暮らしというわけだ。信州は私自身はもともと何のゆかりもない地だから思えば不思議なものだ。

高校時代、初めて信州に旅に来、涼しくて、きれいな、いい所だなあ、と感じたのが初めで、以来、学生時代、その後、と訪れるたび、同じ思いを新たにし、結局、住みつくことになった。

ゆかりはないけど、縁は十分すぎるほどあったわけだ。冬は寒いけど、それを乗り越えるのが楽しみでもある。昨日は手製の小さな門松を左右2本作り、門扉に飾った。紅い錦木の実も添えた。なかなかいい。

さあ、正月を迎えよう。



12月29日 明け方零下7度、午後3時零下3度

今日は予想最高気温でも零下3度だから、当然終日零下ということになる。冬の小諸では珍しいことではないが、今年度としては初めてか、2度目くらいだと思う。

12月でこうということは、来年1月2月はもっと下がり、終日零下の日が何日も続いたりということになるだろう。東京というか埼玉県志木市界隈では、明け方でやっと零下1度、最高は7,8度だから、身が縮むという感覚はない。

分っていたことではあるが、なぜこんな寒いところに自分は好きこのんで住むのだろうと我ながら思うが、それでも周りの木々(枯れ木も含め)や草々の風情がいいからだろう。

近づいてみると、木々の枝先には赤い芽がプチっとついており、春の芽ぶきを期待させる。それらが次第に膨らみ、やがて新芽となり、蕾と化し、花になっていったりするのは本当に心温まる。

人生はもはやそういう具合にはいかないが、それでも春は何がしかの希望は抱かせる。いや、もう希望なぞ持たなくてもいいのだ、ただ暖かくなって新芽が伸びていってくれるだけでいいのだ。そう思えるだけでいいのである。



12月28日 浅間サンラインを突っ走る

暮も28日ともなると、車の通行量も減る。で、この際北アルプスや白馬山系なぞを眺めながらドライブをしてやろうと、試みた。

長野高速道より標高的にはもう少し上にあるサンラインは、小諸辺から上田近くまで伸びていてほぼ一直線、真っ正面にアルプス類が見え、帰路は左手に浅間連峰がずっと見える。

通行量は少ないし、景色はいいし、突っ走るのは爽快この上ない。といってさほどスピードを出す必要もなく、5,60キロで十分スピード感が生じる。道幅がわりあい狭いからか、折々坂があるからか、景色がどんどん変化するからか、理由は定かでないが、とにかく気持よいスピード感に身をゆだねられる。

で、私はごくたまにこの道を一人で「突っ走って」みるのだが、やっぱり気持がいい。そして、山国のよさをつくづく感じる。三方に白く雄大な山々が見え、視界は広く、人や車は少なく、空気も澄んでいる。

途中ちょっと西宮という集落に入り、「歌舞伎舞台」を外観だけ見物した。この界隈は江戸時代から民衆歌舞伎が盛んで、まわし舞台のある歌舞伎場がいくつかあるのだ。冬の人っ気のない閉め切りの古い小屋というか歌舞伎舞台の建物を見ていると、江戸時代のこのあたりの農村のなりわいが少し感じられる。

祭りや芝居の日はさぞ賑やかだったろう。田舎役者が大見得を切り、村の若い男女らが互いを意識してウロウロ歩き回り、大人連は酒を酌み交わす。豊作の年はさぞ盛り上ったろう。

いい時代だった気もするし、相当貧しかった裏面も少し浮き上って来る。何より冬は寒かったろう。



12月27日 靖国神社参拝について

昨日、安部首相が突然靖国神社に参拝した。

「突然」と思ったのは国民の側で、御当人は首相就任ちょうど1年、以前の首相期にはついに参拝せず終ってしまい、「痛恨の極み」だったそうで、今回は何が何でもと思った、とのことだ。

よほどの思いがあったらしく、礼服に身を包み満足げな表情だったのは、個人としては勝手だが、平和憲法を守る立場にある現職首相としては、A級戦犯をまつり、かねがね軍国主義右翼のメッカとされている場所への参拝は、やはり許されることではないだろう。

神社への参拝だけならさほど目くじら立てなくともという意見もある気がするが、しかしあそこは単なる神社の一つではない。私自身、かつて見に行ってみて驚いたが、境内には「遊就館」なる建物があり、これはいわゆる「ゼロ戦」特攻機をメインに、戦車や大砲など明治以来の日本軍の武器を一覧させる武器展示場なのである。

私はかつてここを高校時代のある友人に勧められて見たが、その時かねがね保守派を自任するその友人が「あれは完全に軍国主義博物館ですよ。いくらなんでもあれはいけませんね」と言ったことを思い出す。私なぞは、よくこんなものを作ったもんだ、これが靖国の本性か、と呆然としたものだ。

日本国民は一度はあの遊就館を見ておくべきだし、マスコミは靖国神社を報じるときは遊就館についても触れるべきだろう。



12月26日 今日は寒そう

朝からどんより雲が覆っているし、外気も冷たい。予報では午後から雪の可能性あり。

年末最後の雑誌・雑紙類ごみ出しデーなので、早朝から出してきた。だんだん世間の雰囲気が歳末・正月前ふうになっていく。

浅間連峰は曇って中腹以上が見えない。上は雪かもしれない。


12月25日 だんだん暮も……

昨日、病院、今日、歯医者、と懸案も片付き、あとは予定はなし。ま、さがせば何かは出てくるのだけど、予定に計上されていなかったから、一通り片付き、さっぱりした感がある。

ということはやっぱり掃除かなと、早くも大どころのなすべきことが浮上してくるが、まあ、あわてる必要はない。庭や柵の周りはすでに昨日おとつい、一通りしてあるから、ほっておいてもいいし、屋内はさほど汚れていない(と思う)。車も、2,3日前の雪落しついでに一種の掃除をしたから、まあいいだろう。

つまり、暮の大掃除類は一段落済みというわけだ。ああ、何と都合よく頭は動くことよ!
昨日、病院で、70過ぎたら1日1時間はウオーキングを、と言われたので、それを実行するとしよう。



12月24日 落葉をどうするか

昨日、家のまわりに積もった落葉をかたづけていて、はたと困った。集めると落ち葉の山が4個もできたのだが、燃やすわけにいかないのだ。

以前は当然焚火にしていたのだが、2年前3月の一件以来、市から、燃やすな、焚火禁止、のお達しが出ている。では、どうするか。春から秋までは区内清掃日に市の清掃車が引き取ってくれるから問題はなかったが、冬場はその清掃車が来ないのだ。

止むなく家の周りに落ち葉の山が数か所、つみあがったままになっている。風が吹けばだんだん飛ぶし、積み上がったものが腐敗堆積土化していけば、その部分が他よりだいぶ放射線量が高くなろう。燃やして灰にしなくても、放射線量の原理は変らない気がする。

このためだけにわざわざ清掃車を呼ぶのか、はたして来てくれるのか、来てくれたとしてその落葉類の集積所の放射線量はどうなるのか、と首をひねることばかり。目下、落葉の山のままにしてあるが、どうすればいいか、御存知の方、教えてください。



12月23日 北の異変

毎年Wさんから頂くお歳暮はスライスサーモンである。今年もまた頂いた。冷凍でかたいそれを冷蔵庫に移して、次第に解凍されていく途中あたりから待ち切れず手を出し、まだ半冷凍状態のを少し取って皿に移し、、芯に多少氷が残るくらいのをシャリッと噛みながら燗酒を飲むと、何とも言えずうまい。

それを食べると、ああ、今年も年末だなあと思う次第だが、今年は北の地方の気象具合が例年と違い、サーモンのとれ具合があまりよくないそうだ。で、例年より送付も少々遅くなったとか。

こちらはそんな事情も知らないから、ああ、サーモンの季節になったんだ、と単純に喜んでいるが、関係者はだいぶやきもきしたらしい。

先ほどから30分ほどですっかり浅間連峰の雲がとれた。最初は中腹部も白く凍った感じだったが、だんだん樹氷がとれていく。雪をかぶった峰部だけが美しく光る。



12月22日 本日は冬至、雲浮び空青し

浅間連峰もきれいだ。浅間嶽なぞ純白そのもの、小諸側からみると、その下の通称「ギッ齒(ぱ)」が白黒ぎざぎざと牙をむいている感じ。厳しい山に見える。

黒斑岳も雪で白斑岳に見える。三方ケ峰さえ雪山のように見える。冬本格化ということだろう。年末年始の山景色が楽しみである。



12月21日 今朝は雪

昨日からすでに雪だったが、今朝もまだ小降りだった。今はやんでいる。

純白の景色というのはいいもんだ。今日は外出も無理かなと思ったりするのも、新鮮でいい。尤も、2時間もすれば雪も融けだし、道路は支障なく通れるだろうけど。

あ、晴れてきた。青空も覗きだした。



12月20日 今朝も霜なし

明け方小雨が降ったらしい。霜はどこにも見えず、表へ出ても案外あったかくすら感じる。

浅間連峰はだいぶ曇っているが、しかし中腹部はだんだん明るくなっており、北の空はいくぶん青くさえある。ひょっとしたらだんだん晴れるのかしら。

昨日、10数羽のカラスが前の原っぱに来てちょっと異様感があったが、今も北側2軒先の柿の木に数羽来ている。まあ、朝の食事だろうと思うけど、カラスというのは群れているとなんだか不気味感がある。黒いせいと鳴き声のせいだろうな。人間以外の動物にも嫌われるのだろうか?


12月19日 雪のち小雨

朝カーテンを開けたら一面の雪世界、それもだいぶ積もった印象があった。

ところがまもなくやみ、融け始め、2時間ほどしたら雪も消えてしまった。空気は案外あたたかい。

で、懸案の用を片付けようとまず銀行、次いで郵便局、それから医院、とまわり、さらに薬局、最後はスーパーへ行き、用足しは終った。スーパーでは味付け数の子がうまそうに見えたので購入、今夕はこれで一杯と行こう。

昨日から一人暮らしだが、たまにはいい。今日は布引温泉にでも入って、温まったところで早めの晩酌となるだろう。


12月18日 今日は雪になるか

早朝から周りに全く霜が降りてないし、門まで新聞とりに出ても一向寒くない。車もどこも凍ってない。

が、予報を見ると午後から雪である。連れ合いによると、雪の前はあったかいものだそうだ。土地っ子の言うことだから確かだろう。

こういう日は畑をどうするとか何かすることがありそうな気がするが、知らないので何もしない。いいのかしら?



12月16日 まる5日ぶりの信州小諸、非人情の冬枯れ

さすがに冷える。昨日駅を降りたとたんそう感じたし、今朝はほんの少しだが小雪がぱらついたそうだ。

まあ、このあたりは寒いけれど雪はあまり降らず、晴天率日本一の界隈(隣の佐久市及び岡山県の瀬戸内側と並ぶ)だから、青空が広がっている。が、向うの浅間連峰は本峰はもとより隣の黒斑山、高峰山、三方ケ尾根、湯の丸山まで、ほぼ雪で白い。

浅間おろしは冷たそうだ。

けれど、外を眺めていると、やはり気持がいい。住宅街の一番最後、我が家の向うはもう森や博物館・美術館などで人間の生活臭は全くないから、漱石いうところの「非人情」の世界である。それが冬枯れで、枯れ森(こんな言葉あるかしら)が続くから、ある種さっぱりする。

さあ今日から3週間はここにいられる。臨時の用もありうるが、師走も半ばを過ぎたからさほどのことは起こるまい。寒くとも正月休みとなれば気分は暖かい。買い置きすべき酒の銘柄なぞに心が動く。



12月15日 布団干し

しばらく使わないので念入りに干しておこうと、朝から陽のあたる場所に少しづつ移動させては、表、裏とひっくり返し、陽を当てている。折から好天で、陽も明るく暖かい。

ベランダの鉢類も陽をさんさんと浴びている。奄美原産の「奄美芭蕉」(私が勝手に命名した)やアロエなどがんらい南方産が多いので、この陽射しは彼らもうれしいだろう。

先月の最終講義日にもらった蘭や花がまだ咲いており、これも陽を浴びて元気だ。
午後、久々に小諸へ帰れそうだ。あっちは殆ど終日零下に近いらしいが、やっぱり自然に囲まれているのがいい。



12月14日 東京も寒い

昨日で大学の授業は今年最後の分を終えたが、日曜によんどころない用があるので、私一人マンションに居残っている。午前中には「台所排水管洗浄」なるものもあり、外出もできず。午後は用はないので、友人に電話し、夕方から一献やることにした。

久しぶりである。同じ路線の割合近くに住んでいるので、こういう時、声をかけやすい。歳も10カ月違いの同年、大学同窓、純文学の編集者が長かった人、酒量も似ており、話題も幅広。つまり気が置けず、話も弾む。それでこういう時、いつも真っ先に電話することになる。

70を過ぎてこういう友人がいることは得難い気がする。向うは定期的に病院通い中だが、差し迫って悪いところはないようで、こちらも気がラクだ。今日は彼お勧めのうなぎ屋だそうで、これも楽しみだ。私はうなぎ好きである。


12月12日 秘密保護法は治安維持法と似ているか

つい先だって成立した秘密保護法について、そのような言説がかなり根強くある。今の私は厳密に調べてみたわけでもないばかりか、秘密保護法自体についても明確には知らず、およその印象的把握しかない。

だから大したことを言う資格はないのだが、ただかつての治安維持法も最初はさほど恐ろしげには感じられない文面だったのが、審議不足のまま強行採決され、成立後何年かして「違反者は死刑も可」といったふうに改定されていき、いつしかあの恐ろしき弾圧法になっていったと聞く。

事実とすれば、少なくとも前半の経過はそっくりだ。今のところさほど厳しい感もせぬので、緊張感のないままついつい進行させてしまっているというところだろうか。

だいたい強行した安倍首相自体が、強行してから、ちょっと強引過ぎた気もするみたいなことを言っていたのは、ずいぶん無責任な話だ。それこそもっぱら立法の中心になったという公安関係などの主張・解説にひきづられ、感覚的右派体質のまま「うむ、うむ、それでいこう」と突っ走ってしまった感がある。

自己反省を含めて「しまった」という気がするが、こうなった以上、少なくとも今後の運用、強化改定の動き等には細かく監視していく必要があろう。その影響を一番受けるのは、いま働き盛りの現役世代から20歳前後の若者層までだ。

あとでほぞを噛むことがないよう、みんな心しましよう。権力はいざとなると怖いですよ。



12月11日 今週で今年最後の授業

今日から学校だが、来週は卒業試験や補講期間となるので、授業としては今年最後となる。年度は来年3月まであるし1月も授業はあるけれど、まあ、今年最後の師走の講義というわけ。

いろんなことがだんだ終りに近づきつつある。代って家のことや別種のあれこれが増えるので、今回は今日から15日まで東京界隈滞在となる。久しぶりにちょっと長い。ひとりの時間も長い。


12月10日 嵐はいずこ?

タレントのことではない。天気の嵐のことだ。
今日は午前中、かなりの風雨、正午前後は強雨との予報だったのに、目下青空だ。どうなっちゃったのか。

久々に庭仕事を小1時間した。グリーンは常緑樹のひば類とそよご2本以外はなく、落葉ばかりザクザク積もって、まさに冬の庭の風情である。

山椒や山吹などの枯れ枝をちょっと刈りこんだりしたが、あまりやることもない。草本系の方もあやめだったかの葉以外ほとんどない。改めて冬枯れだなあと思い、季節の変化の顕著さに感心する。日本は自然をいつも感受できるところがいい。



12月9日 寒さの記憶

昨日午後、所用があって3時過ぎに歩いてある喫茶店へ行った。すぐ近くの気がしていたのだが、行ってみると20分かかり、相当寒かった。帰りは車で迎えに来てもらうかなどと考えていた。

が、店での用が終ったあと、相手と一緒に表へ出た時点で、相手は車で方向が逆だし、自分は歩いて帰るかと歩き出してしまった。しばらくして、寒さの中で「しまった、あの人の車で送ってもらえばよかった。逆方向でも車なら大したことはないから」と気がついたが、時遅し。

結局、また20分歩いて帰ったら、連れ合いに「この寒風の中往復歩いたの!」と呆れられた。「そんなときは、送ってと頼めば断る人はいないわよ。友達なんだし」と言う。

全くその通りなんだが、私は街へ行く時は運動を兼ねていつも歩くことにしているので、いつもより倍の距離があるのについ歩いてしまったのだ。

その寒さの記憶が5時間以上たって寝てからよみがえり、明け方まで夢の中で寒風の中を歩き続けた。部屋も布団も全く寒くはないのに、夢の中だけが寒いのだ。

風邪をひかなければいいが、風邪をひかなければいいが、そうつぶやき続け、朝、目を覚ました。今、いくぶんのどがひっかかかる。妙な気分である。


12月8日 ただいま零下1度

午後の最高気温予想が3度。ああ、本当に真冬になったものだ。門まで新聞を取りに行くのをためらってしまう。

代りに景色はいい。西の広場の向うの木々がすっかり葉が落ちたので、対岸の布引温泉の建物までが見える。東御市滋野の集落もよく見える。北窓からは浅間連峰がきれいだ。雲が中腹近くにたなびいている。



12月7日 9時9度C→12時5度C

朝9時に志木市では摂氏9度だったのが、列車で移動し12時に小諸へ着いたら、摂氏5度だった。5度だと「寒い」という言葉が思わず出、身がいささかしまる。

零下とか雪とかと違って体が外界と対立しきゅっと警戒するほどではないが、しかしのんびりした気分はなくなる。志木市とか昨日の東京江古田界隈にいたときは、オーバーなぞ全く要らなかったし、穏やかな春みたいな気分だったのに、一気に「ふゆー!」という感じである。

まあ、今更始まったことではないが、しかし移動すると体がびっくりしているのがよく分る。オーバーを着てきてよかったと実感する。

さあ、風邪をひかぬように、といくぶんの緊張をする。



12月5日 午前2時間、午後1時間歩く

好天好温に恵まれ、歩きだしたら止まらなくなった。いずれも数年前までよく歩いたなじみの道だが、今回歩きながらだいぶ久しぶりだと痛感した。

ちょっとバリエーションを工夫すれば道はいくらでもありそうで、平地というか東京郊外の幅の広さは小諸の比ではないなと思った。小諸だと気持のいい場所はあるにはあるが、歩いていける範囲内は案外限られる。

志木市界隈だと、それが関東平野のせいかどの方面へ少し道を変えても新たなルートが次々現れる感じで、360度歩ける感じすらある。

山国の良さと平野それも大都市近郊の良さの差異だ。田んぼの広さも、信州にはないものだ。農家に出会うと、柿、みかん、かりん、など果物が何種類もたわわに実ってもいる。これも信州にはない。せいぜい柿くらいだ。

太平洋側は豊かなもんだというのは、改めての実感である。



12月3日 70歳、明けて一日たった感想は

と今朝、連れ合いから聞かれたが、しばし虚空を見つめて考えたものの、何もない。

70の翁になろうとも、すべて世はこともなく、我またこともなく、外は雲もなく、青空が寒いだけである。

あとは12月1月のわずかな授業を除けば、ただ果てもなく生き年生きるかぎり、時間はこのまま続き続けるだろう。

永遠である、と言えなくもない。まっさら、透明、わりあい健康(常用薬は必要)、まだ多少のやる気あり。そんなところのようです。みなさん、よろしく。


12月2日 記念すべき日ーその2

本日をもって齢七十、古稀の歳となった。

古来稀と言うが、むろん今ではほぼ誰もが通る通過点に過ぎない。平均年齢が男で八十歳くらいだから、七十七歳の喜寿でさえろくに祝われない。

昔、私が住んでいた愛知県の村では、六十歳になると老人会入り、七十で一人前の年寄り扱い、七十七歳の喜寿で祝われる、というふうだった。

今では米壽にでもならないと祝われたりしないだろう。

当人自身も年寄りなぞとは実際思えない。筋肉はまだピンと張りをもっているし、庭仕事をしていても力に衰えを感じない。まあ、坂道の登りがいくぶんきつくなってきたが、これは要するに運動不足のせいという気がする。

しかし、大きな違いはなんといっても大学が定年になり、要するに世間一般から「もう引退してくださって結構ですよ、お年寄りとしてのんびりしてください」と言われたことだろう。

別に不平はない。確かに妥当な気がするし、社会的に何かやろうという気もない。

ただ、軛が何もなくなったからこそ、いよいよまっさらな状態で何か本来の自分らしい仕事をしたいと思うだけだ。その本来の自分の仕事とはやはり書くことだろう。小説とは必ずしも限定しないが、広い意味での文学としての文章を、年相応の味わいをもって、じっくり落ち着いて書いてみたいと思う。

いいものが書けたら、ひょっとして一年か二年かかるかもしれないが、みなさんの目に触れるような形にしたいと思っている。みなさん、それまでしばしお待ちください。



12月1日 記念すべき日ーその1

今日をもって私は日大芸術学部教授でなくなる。というか今日までは教授なのである。尤も折しも日曜だから、どのみち学校はなく、要するにのんびりした休日にすぎないのだが、いわば教授最後の日ではある。いわゆる定年の日だ。

明日からは身分としては非常勤講師となり、言ってみれば嘱託かアルバイト教師だ。授業は学期途中なので、何も変らない。週4コマちゃんとやる。

が、やはり大学教授をしている友人の作家青野聰が先だって「もうじき辞めると決まったら、なんだかやる気がなくなっちゃった」と言ってきたが、確かにそういうところがある。

おまけに世は師走だし、12月は授業も2回だけで4年は卒業試験もあってそれが終ると、もう学校へ出てこない。よって江古田校舎の方は1月は3年生だけでメンバー半減だし、後半はもう年度末ムードだ。

つまり、ちゃんとした授業が進行するのはせいぜい12月前半までとなる。大学とは暇なところというか、かなりいい加減なところだが、今更そんなことを言ってもしょうがない。教師としては何か多少は学生教師双方の気持に残るようなことをしたいと考えるし、おまけに今年で教師生活も最後となればなおさらだが、なかなか名案も浮ばない。

私が大学で担当してきたのは、小説と連句だから、まあ12月は、卒業後も小説を書いていくにはどうしたらいいか、といったことを語り、1月は正月明け句会からはじめ、連句のまとめとやはり卒業後も連句を何とか続けてちょうだい、といった話になる。

毎年のことだが、言わずにはおれない。が、現実には卒業後も小説や連句と接点をもっていく者はきわめて少なくなる。実社会にそんなゆとりはなく、あまりいい就職のできないうちの卒業生の多くは食べていくことに必死になる。

止むをえないのだが、せめて頭の片隅に小説や連句をとどめておいてもらいたいと、何かいいアイデアはないか、気のきいたことを言えないか、と考えつつ、あと2カ月授業をすることになる。

ああ、教授よ、さらば。いい給料よ、さらば。


11月30日 小諸では神経痛が出る

3日ぶりにすぎないのだが、小諸へ帰って来るとだいぶ久しぶりみたいな気がする。木々がすっかり枯れ落ち、紅葉の影もなく、空気が凛と冷え、駅にも街にもレストランにも人はまばらで、静けさがいきわたっているからである。

おかげで街で昼食をしていても穏やかな気分に包まれるし、駅の直売所で野菜をドカッと買って、懐古園(小諸城址)をタダで通って家へ向かうと、ああ、帰ってきたなという思いが湧く。

郵便物などの整理をした後、すぐに庭に出、枯れ枝を整理し、桑の落ち葉を集めて片付け、家の裏側の落ち葉の吹き溜まりを移動させると、やっと落ち着く。と同時に、寒さに反応したのか左脚に神経痛がつと走る。そして、庭自体がもうこれ以上は落葉がたまりそうもないくらい枯れ模様なので、ああ、冬が本格的に来ているなと感じる。

日中はいいが、明朝など早起きすればきっと身がキュンと寒さで引き締まるだろう。東京界隈とは空気の成り立ちが違うのである。
さあ、明日から12月だ。私にとっても記念すべき月だ。


11月29日 教授終了 

妙なタイトルだが、2回前の日記で書いたように小生は今月いっぱいで専任としての教授は退任する。あとは12月1月と非常勤講師として残りの授業をすることになる。

実体は何も変らないが、ま、要するに勤め人としての身分の問題だ。会社で言えば正社員だった人が定年で嘱託に身分変更になるようなもの。どっちでもいいようなものだが、平たく言えば給与が大幅に変る。

研究室はこんな途中では整理も交代もばたつくだけで実利なしだから、まあこのまま年度いっぱい現状維持らしい。おかげでのんびり引っ越し準備ができる。といっても元々私は私物をあまり持ち込まぬ方だったから、段ボール箱3つほどですべて終りそうだ。

そして、それもほぼ出来ている。気楽なものだ。だんだん去り行く者の目であれこれを眺めるようになってきている。



11月27日 今日からまた東京界隈

向うの方があったかいから、冬はある意味歓迎。しかし代りに小諸の散りゆく木々の風情を見られないのが残念。帰ってきたときにはもう葉はほとんどないだろう。

今朝の白馬連峰は純白の美しさ。これを見るといよいよ本格的に冬だ、と思う。
北側の浅間本峰の雪はだいぶ減った。ま、南側だけだろうけど。


11月25日 新たな活力

22日金曜日の会はほんとに活力が出ました。こういうことは珍しいです。

志木市のマンションの整理がついたら、書くことに本腰を入れようと思っています。

小諸はすっかり冬枯れ景色になってきました。寂しいような、あっけらかんと見晴らしのいい感じ。
老年の人生もこんなかもしれません。



11月24日 最終講義

といっても「教授としての」という意味で、非常勤講師としての授業はまだ12月、1月とある。

わが勤務先は、定年は誕生日の前日としているので、そういうことになる。形式主義ともいえるが、至極明解・客観的な決まりともいえる。
また、今年は12月1日が日曜なので、よって私の身分・仕事は11月いっぱいで上述のごとくになるという次第だ。

そして、最終講義は「教授」であるうちに、というので、あんまり押し詰まる29日よりは1週前の、丁度教授会での退任挨拶の翌日に設定したわけである。

昔から学者・大学教授として名声のあった人の最終講義というと、卒業生や外部のゆかりの人も詰めかけ、ちょっとしたイベント並の盛況だったそうだ。私はたまたま今年は江古田校舎でのゼミはなく授業もこじんまりしたものが一つ(連句)だけなので、まあ卒業生が10人程度に在学生ぱらぱらかと思っていた。

が、当日たる22日の5限4時20分に西館303教室に行ってみたところ、数十名の人が集まってくれていたので驚いた。しかもざっと眺め渡して見ると、初めて非常勤講師で日芸に来た22年前の教え子第1期生から所沢校舎に在学中の現役2年生まで、20年以上にわたる幅の諸君が、つまり42歳の中年から20歳の若者までほぼ教室いっぱいにいてくれたのである。

これは本当に感激だった。幹事がいかに頑張ってくれたかだが、2時間半かかる遠方から来てくれた人、仕事を午後休んだという人、小学生の子供を言い含め留守番させてきたという人、などいろいろで、本当に「ありがとう、ありがとう」の連続だった。

おかげで最終講義の内容も初めて来たときの思い出から始まって、いわば22年の懐古に終始してしまった感があるが、まあやむをえないことだったろう。

講義後は卒業生諸君にも懐かしい江古田の「おしどり」(学生が最もよくコンパをする店)の2階で飲み会となった。これにも大勢来てくれ、私は記念の琉球ガラス製の杯をもらい、それに注がれた、これまた板前をしている教え子が新宿歌舞伎町の料亭から持ってきてくれた特上の日本酒で乾杯をした。

あとは次々と教え子が前にやってきては注いでくれるので、私は彼らの現職を尋ねたり昔のことをちょっと言ったりしつつ、どんどん酔っていった。20年分の教え子を一人づつ想いだしていくのはなかなか大変なのだ。

しかし、実に嬉しくもあった。中にはいかにも金まわりのよさそうな者もおれば、まだ苦労途中の印象の者もいて様々だったけれど、皆にこにこと私を祝福してくれた。定年がめでたいかどうかは少々疑問でもあるが、何人かから「先生、おめでとうございます」なぞと言われ、花束もいくつか貰った。

花束は研究室にも大きなものが届いた。自宅近くに住む教え子1期生にも持ってもらい大きな紙袋二つをもって帰ったところ、わが狭いマンションは花の香りでいっぱいになった。

昨日の土曜日、花束の一つをもって小諸に帰ってきたから、小諸の家も花の香に満ちている。今頃人はいぬが、大学の研究室、埼玉のマンションでも花は大いに香っているだろう。

幸せな日だった。本当にうれしいことだった。22年前、別になりたいとも思っていなかった大学教師を依頼され、顔を突っ込んでから、非常勤講師5年、専任助教授・教授を計17年間してきたわけだ。

現役作家として文芸科生に小説の書き方を教えてほしい、というのが依頼された趣旨だった。うまくいったのかどうかはまだ何とも言えないが、しかし教え子の中にはノンフィクション作家として今売れっ子の石井光太君もいるし(彼は今年出版する本はなんと6冊もあるそうだ)、つい3日前にデビュー本を出したばかりの皆川ちか君もいる。

漫画家、シナリオライター、編集者、IT関係職、大学職員など職域も広い。いやあ、一夕では語れども尽きぬ感じだった。もっと時間と体力がほしかった。11時過ぎ教え子の一人と一緒に帰途につき、12時半近くやっと帰宅したが、疲れているにもかかわらずなかなか眠くならず、ひとりで酒を飲んだ。

幹事の皆川さん、安蒜さん、言いだしっぺで当日司会をしてくれた石井君、そして学校にいる現役院生として連絡役雑事一切をこなしてくれた大谷さん、本当に御苦労さま、そして大勢の諸君、本当によく来てくれました、ありがとう、ありがとう。


11月22日 昨日は退任あいさつ、今日は最終授業

昨日は小生にとって最後の教授会だったので、会の終りに退任あいさつを行った。学部長の紹介のあと、部屋の最後部に行って、マイクを持って話した。

22年前に非常勤講師として日芸に呼んでもらい、5年後から専任助教授、次いで教授にしてもらい、17年間お世話になった。学生がよく書き、自由でのびのびしているのが何よりよかった、といった趣旨で、長からず短かからず、ほどよく収めることを目指した。終るとかなりの拍手が起きたから、まあまあ出来は良かったのだろう。

会終了後エレベーターを待っていたら「名スピーチでしたね」と声を掛けられ、満更でもなかった。

今日は夕方近くに「最終授業」である。最終と言っても、このあと12月1月とまだ今学期の残り授業はあるのだが、教授としては今月いっぱいで退任、以後は非常勤講師として残りを消化、というわけだ。

所沢校舎の1年生や10年前の卒業生らも来るらしいので、どんなメンバーになるか楽しみだ。まあ、結局、初めてこの学校へ来たころはどう、その後どう変化し、いつのまにか70歳、といった話になるだろう。半ば懐古的になるのはやむをえまい。

卒業生に会えるのと、そのあとの飲み会が楽しみである。



11月19日 今日は風が冷たい

今日は外で昼食をしたくなり、街へ出た。天気はいいのだが、風が冷たく、やはり冬だなと感じさせられた。

行きつけのイタ飯屋ミナト食堂でアペリチフに飲んだ白ワインは、さわやかだがちっとも酔わないのはなぜか。まさかノンアルコールじゃなかろうに。

本町みはらし庭から見た空が青く、浅間連峰が鮮やかで、西遠景に見たアルプスや白馬連峰が雪で白かった。

帰ってしばらくたった今、右脚あたりに神経痛が出た。情けない。



11月18日 今日はあったかい

今朝はどこを見まわしても霜が全くない。朝霜はもう1週間以上前から真っ白に降りていたのだから、かなりの異常事と思える。

が、おかげであったかくて気持ちがいい。朝のごみ捨てのあと、道端から前面に広がる浅間連峰に見とれてしまった。上の方は少し雲がかかっているが、気配では白く冠雪していそう。中腹から山麓にかけての森がすべて紅葉している様子だ。

手前のそこここには赤い柿の実がいっぱいなっている。このごろは田舎でもちっとも人が採らないらしく、いつまでも生ったままだ。時々ベチャリと下に落ちて潰れていたりする。手の届くところのものは時々ちょうだいしているが、上の方はほんとに誰も採らない。昔だと子供が採ろうとしただけで「コラッ」と怒鳴られ、持ち主の大人が頃合いを見てきれいに収穫していったものだが。

散歩日和だな。



11月17日 本日は日曜出勤

推薦入試、留学生/帰国生入試があるため。さっき出勤してきたら、構内で高校生達にいっぱい会った。制服姿の彼らは大学生とさして歳は違わないのに、ずいぶん幼く見える。

代わりに態度は礼儀正しく、気持がいい。大学生になるときちんとした挨拶はしなくなるものだと改めて痛感した。そういうものかもしれないなあ。

さて、面接の高校生らはどんな顔で入ってくるか。緊張しすぎないといいのだが。



11月16日 マンションで一人ごろごろ

今朝連れ合いが帰ってしまったので、私はやむなくずっと一人だ。明日、日曜日だというのに入試の仕事がある。というか、入試は来るのが高校生だから、たいてい日曜日にこそ設定される。

私学としてはまさにやむを得ぬのだが、おかげで今日、私はただ明日のためだけに終日ぶらぶらごろごろである。午前中、土手に散歩に出たのだが、案外寒くというか温度が低く、すぐ部屋に戻った。昼食時、また近所のそば屋へ出てみたが、やはりどこか寒々しい。

で、結局、終日屋内でゴロゴロとなったのだが、こういう時、小諸の自宅はいいなと思う。寒いにしても敷地内に木や畑があるから、やることが何かあるのだ。枝打ちもあるし、畑に堆肥の埋め込みもある。どちらも1時間もやれば汗ばんでくる。いい運動になる。

マンションではそうはいかない。見晴らしはいいし、狭くて便利だし、買い物は3分の場所ですむし、実にラクだ。が、それで終ってしまって、体も気分も淀む。ベランダの6個の鉢植えじゃ、大して間も持たない。

本を読むたって、どこか浮遊感があって、締まらない。
こんな時は早く相撲でも始まらないか。そうすれば晩酌をする気にもなる。


11月14日 マンションを掃除する掃除も物をしまった状態で掃除機をかけるとかけやすく、隅々まで行きわたる感が。時々はこういう掃除をしようた次第。掃除も物をしまった状態で掃除機をかけるとかけやすく、隅々まで行きわたる感がる。
誰でもすることだし、私だってちょくちょくしてはいるが、今日は連れ合いと二人でかなりきちんとやった。布団を全部押し入れにしまい、和室中央に座卓を置き、リビングにいつもあった室内小型物干しを片づけた。

来客があるからだが、いやあ、こうするとずいぶん印象が違うものだ。普段は週3日だけ、そのうち1日は私一人だけ、の使い方なので、だんだん住まいというより「東京宿泊所」の様相を呈していたのだ。

掃除も物をしまった状態で掃除機をかけるとかけやすく、隅々まで行きわたる感がある。時々はこういう掃除をしよう、と思った次第。



11月12日 ついに浅間冠雪!

昨夜からの寒さにきっと今朝こそはと思っていたが、やはり冠雪していた。それも頂上にチョビッとなぞというのではなく、浅間本峰浅間嶽の小諸側から見えるほぼすべてがそっくり真っ白だった。

いやあ、見事見事。これくらいだと寒い戸外をしばし歩いても気分が実にいい。山の見える地はいいなあ、これだから信州はいいなあ、と何とも機嫌が良くなる。こんな寒い地に何で住むのかと時折人からも言われ、自分自身でも思う疑問への答えが、ここにある気がする。

夏の清涼感と冬のピリッとした美しさ、この二つが信州に住む気になった理由だろう。

その寒さの中で街へ出、昼食時から燗酒を1本飲み、北国街道沿いの「本町町屋館みはらし庭」へ寄って、正面180度近い浅間連峰、西はるか遠方の北アルプスから白馬連峰を眺めるのは、何とも雄大、爽快である。呵呵。



11月11日 4号機燃料棒とりだし

今日は朝刊がないので確認していないが、福島第一原発4号機の燃料棒取り出しがぼつぼつ始まっているのではないか(11月8日開始の予定だったはず)。

燃料棒なるものは確か直径1センチ長さ4メートルくらいの長い棒で、それが1533本あり、セシウムだけで広島原爆1万4000発分あるというのだ。

それを機械の長い腕で1本1本そっとつかんでは取り出し移動させるということだが、1本落しても放出する放射線量は多大で、東京方面まで相当の影響を受けるらしい。

それをぎこちなく機械の先でガタコトと1500回以上続けると聞くと、途中でうっかり落しはせぬかと心配になる。確率の度合からいっても十分ありうるのではないか。

東京周辺の住民は少なくとも相応の心構えをしておいた方がいいと思うが、じゃ、どうすると言ってもすぐ安全地へ逃げ出せる人なぞそうはいないだろうから、半ば運を天に任せる以外ないかもしれない。

そしてこれが、諦念の強い、長いものにまかれろ思考の日本人には、要するにじたばたしてもしようがない、なるべく忘れて放っておく、ことにしてきたのかもしれない。

私は東京周辺がだめなら長野県へと思ったりしたものの、考えてみれば長野県も福島からの距離は大差ない。つまりことは同じようなものだから結局じたばたせず放っておこうとなっている。

いや、その際、長野と群馬県境には浅間連峰という2千メートル級の巨大防護壁があるなぞと心のどこかで頼みにしているが、果たしてどの程度現実効果があるのかどうか。

だが、とにかくまあ、浅間山よ、頼むぞよ。



11月10日 町内会のお祭り

今日は小諸で私の住む町内の祭りである。私の家は町内では、月に1回の「区内清掃」くらいしか行事に参加していないが、今日はチラシによると町内会館で餅つき会があり、参加者はあん餅きなこ餅をただで食べさせてもらえるそうなので、私はタッパーをもって出かけた。

私は子供のころからあんころ餅(私の田舎ではこう呼んだ)きなこ餅が大好きで、搗きたてを待ちかねてほおばるのが実に楽しかった記憶がある。で、年がいもなく午前10時半に出かけたのである。

さいわいお隣のAさんと餅つき中の臼の前ですぐ顔が合い、どうぞどうぞ搗きたてが2階にありますと案内され、そこでビニール容器入りのあんこ餅2個きなこ餅2個をもらった。しかも広間ではこれから地元ボランティア劇団「信州中村座」の芝居まであるという。

どんなものか牧歌的気配が想像され、見たい気持ちもかなり動いたが、時間まで15分以上あるうえ、座って待っている面々が95%おばあちゃんおばさん連に子供たちである。

私はしばし餅をもってウロウロしたあげく、結局家に帰ることにした。そして連れ合いと餅を1個づつ食べたのだが、連れ合いはそもそも出向こうともしなかったくせに、餅だけは懐かしそうにパクパク食べた。やっぱり子供時代を思い出しているようだった。



11月7日 秋雨が身にしみる

今朝は埼玉のマンションで一人目覚めたが、外はずっと雨だったようだ。空は雲が覆い、しとしとと雨が降り続いている。いかにも寒そうで、実際ちょっと窓を開けてみると、冷気がすっと入ってくる。下の地上を歩く人たちはみな傘をさしている。

こういう時一人でいるのは、もの寂しいものだ。ベランダの鉢植えに水をやる必要もないし、もう朝顔も終りかなと花のない鉢類を眺めるだけだ。

午後には教授会出席のために出校せねばならない。冷たい雨がやんでくれないかしら。


11月5日 紅葉すすむ

3日まで埼玉のマンションに数日一人でいた。配管工事、それに伴うトイレ室の壁紙張り替え、床張替などのためだ。やっと終わり、小諸へ移動したら、周囲の木々の紅葉がずいぶん進んでいた。

が、我が家の敷地に関してはアカシアが少し黄色になったぐらいで、緑のままみたいな印象だった。それが昨日今日で一気に進み、アカシアはほぼ7割が黄色に変じた。お隣さんや道向うの市有林、火山庭園などの木々は完全に紅葉で赤い。

こうなると我が家もスピードは速まるはずで、ブナや桜もかなり色づきはじめた。姫シャラや檪も同様だ。問題は桑で、これが色づかないと大木2本に中木(こんな言い方あるかしら?)2本がどっしり鎮座する庭は、基本が緑のままである。

桑の赤ん坊の顔ほどある大きな葉っぱよ、早く黄葉してくれぬか。


11月3日 佐々木基一全集出版完結記念パーティー

昨日は東京吉祥寺で表記の会があった。
佐々木さんは私にとっては青春の師であり、父のような存在であった。初めてお会いしたのは小生25歳の時。佐々木さんは53歳くらいであったか、すでに文芸評論家として著名人であり、活動期さなかの人であった。

杉並シネクラブという、非商業映画を自主上映で見る市民運動的な会で友人から紹介されたのだが、鼻筋通った美男にして見るから自信に満ちた表情で、「やあ、夫馬君ですか。佐々木です。これから一緒にやりましょう」と真っすぐ顔を見て言われた。

その態度は年齢差や知名度・実績の差なぞ問題じゃない、みんな平等だ、それが運動です、といった雰囲気が身に付いており、生意気な左翼青年だった私はいかにも対等に扱われた気がして、いっぺんに敬愛感をもったものだ。

それが機縁で以来20数年間、私は杉シネの仲間とともに佐々木さんに親近した。佐々木さんは当初かなり熱烈な「運動論者」だったから、最初はいわゆる左翼文化運動的匂いを持ちながらだったが、いわゆる70年闘争が終焉したころ、私が「もう運動なぞ止めて、連句でもしませんか」と提案したのがきっかけで、以降ずっと毎月1回もっぱら佐々木さんを囲む連句の会として、長く続くことになったのだった。

年格好がちょうど私にとって父の世代だったし、父のいなかった私はいわば佐々木さんに「理想の父」を見るような気持で接していった気がする。

亡くなったのは確か佐々木さん78歳、私が50歳ごろではなかったか。さすがに晩年は病気気味で、弱弱しい表情も漂ったが、そういう経過を含め、私には佐々木さんはやはり父のごとき「人生」を見せてくれた人だった。

全集が出だしたのは1年ちょっと前からだったか、そして昨日の会となったわけで、集った50名ほどの人たちの半分は私もよく知る人たちだった。青年期の仲間たちといってもいい。

会は2時間ほどで終わり、折から埼玉の自宅マンションが内装工事中だった私はなるべく早く帰宅する必要があり(職人衆が働いている状態のまま、私は抜け出してきたのだ)、早々に帰路についたが、本当は旧友たちと酒でも飲みたい心境だった。

実際、惜しい機会だったと思う。そういう旧知の人たちの年齢は90歳から68歳くらいまでだったから、ひょっとしたらもう2度と会えないかもしれないのだった。えい、マンション工事め、と呪いながら、私は青年時代以来のあれこれを思い浮かべながら電車に揺られた。


11月2日 東京も寒くなってきた

2日前、東京界隈は暑からず寒からずと書いたばかりだが、今日あたりは少々寒くなってきた。やっぱり霜月だなあと、改めて暦の的確さに驚く。

今日は20年ぶりくらいに会う人たちとの会がある。みんなどんな顔になっているか、もう現役で働いている人は少ないだろうな、などと想像が巡る。思い浮かぶ顔もあるが、誰が来るかそもそも分らないので、想像はそこで途絶える。

自分も人から見ればずいぶん歳をとったとなろうな。昨日、近所の店で「年寄り」と言われ、えらく腹が立った。が、相手からすればごく自然に出ただけだろうなと、あとで思った。腹を立てること自体、独り相撲だ。こういう体験を積み重ねて、だんだん年寄りらしく落ち着くのだろう。

同世代諸兄、慰め合おうじゃないの。


11月1日 霜月となる

東京界隈では実感がないが、たぶん今朝がたあたり小諸では霜が降りたのではないか。玄関から門まで新聞を取りに行く時、サクサクと音がしたのではと想像する。

志木市では昨日より空気は冷たいが、それでも爽やかな、ほどよい気候だ。

もう3日続いているトイレ室の排水管取り換えにまつわる工事が、どうにか終盤に近付いたらしく、さっきから二人ほどが検分に来た上、じゃあとは便器をとりつけて今日は終りです、と挨拶していった。

これだけの仕事にもいろんな種類の職人衆が次々と交代して現れ(他の部屋も一斉にやっている)、手順やら、時間配分があるようで、なかなか大変だなと思う。普段めったに接することのない仕事や人たちなので、一日在室していなければならぬ束縛感は別として、結構面白くもあった。

こういう人たちはどんな人生を送るのか、どんな稼ぎなのか、親方となると人集めなどがかなり大変ではないのか、などと結構思い浮かべることになる。私は子供のころから大工や左官やこの種の人たちとは私生活を含め割合接してきたので、それなりの見当がつく面もある。近所にこういう人たちが住んでいたのだ。昔の田舎の小都市近郊でのことだが。

向うから見ると、こちらはどんなふうに見えているのだろう。「一日中うちにいてパソコンばかり打っているどうもひとり者らしい変なじいさん」かしら。



10月31日 今ごろの東京界隈の外気温は

暑からず寒からずで心地いい。一年で一番い時期かもしれない。

が、窓を開け放しておくと、いろんな騒音が入ってくる。車の音、いろんな呼びかけの拡声音、そして階段部分からの折からの工事音。

小諸だと自然音が中心だが、ここでは人工音が中心となる。当然とはいえ、都市部はやはり違うなあという気がする。いや、東京界隈としてはここらは都市部と言うほどでもなく、まさに閑静な郊外部なのだが。

小中学校の生徒による校内放送なぞは、音は大きいが牧歌的な気分になっていい。先ほど二時半に小学校の退校時間が知らされた。中学校はまだだいぶ先だろう。そして夕方になると、行方不明のお年寄りに関する放送があったりする。

今ごろの気候ならどんなお年寄りでもさほどの心配はなかろう。ついこちらもおだやかな気分になる。それに私はまだそういう「お年寄り」ではないという気がするのも、悪くない気分の要因の一つかもしれない。


10月29日 今夕からしばらく東京界隈暮らし

マンション工事のため誰かが在宅する必要があるためだ。
うす寒くなってきた秋に一人暮らしはどこかさびしいが、東京界隈は信州よりはだいぶあったかいから、寂寥感はないかもしれない。

まあ、のんびりやります。きっと晩酌が進むでしょう。


10月28日 米国家安全保障局(NSA)とは何ぞや 
ドイツのメルケル首相が10年以上にわたって、携帯電話を盗聴されていたニュースがある。ほかにも世界の要人数十人が同様に盗聴されていたそうだ。

そこにわが安倍も入っているかどうかは知らぬが、いずれにせよ世界中の主だった情報がアメリカの情報機関には筒抜けだったということだ。アメリカ大統領も当然重要事に関しては耳にしていただろう。恐れ入ったる事だ。

大統領や首相ならずとも、ネットに乗ったことはすべて知ろうと思えば知りうるらしく、まさか自分ごときが監視されているとは思わぬものの、情報機関に監視される可能性もあると思うだけで不愉快である。

が、一体いかなる権限でそんなことができるのか、などと問い詰めてもはじまらないかもしれない。情報機関とは秘密裏にそういうことをする機関なのだから。その能力が想像以上に発達していることに改めて驚く、といえば正確かしら。

それに人間というものは、他人の言動や内緒ごとを知るのが本能的に好きな面もある。そのどこまでが可で、どこからが覗き、越権行為なのかは、にわかに決め難い気もする。ある意味では新聞やテレビのかなりの部分はそれによって成り立ってもいよう。

ひそかに覗かれるほどの重要人物や有名人でなくてよかったとホッとするとともに、世の中というものは怪しく、奇々怪々な側面があるな、と痛感せざるを得ない。


10月27日 秘密保護法案に強く反対する!!

この法案は政府が「秘密」指定した事柄は国民に公開しなくていいというものだ。30年後にはそのことを公開する規定が一応付いているらしいが、自民党の石破幹事長は「それも必要ない」と言っているようだ。

ということは、政府が何を秘密にしたか自体が永久に知らされないわけだから、「秘密」はまさに闇に葬り去られることになる。秘密があるかどうかさえわからない、知っているのは権力者だけ、となる。

なんと恐ろしいことよ。国の主権は国民にある、という民主主義の原則はどこへ行くのか。安倍政権は柔らかそうな口調で恐ろしいことをやっていく。警戒すべき情勢だ。


10月26日 寒い信州

3日ぶりに信州へ帰ってきたのだが、軽井沢で新幹線を降りた途端、寒かった。軽井沢は信州の中でも北信の上田や長野市なぞよりはるかに寒く、むろん南信の伊奈や飯田よりもはるかに寒い。

知らない人は意外に思うようだが、信州では東信がひょっとしたら一番寒く(山や高原は別)、その中でも軽井沢が一番寒い。小諸は東信の中だが軽井沢より平均2度ほど暖かく、上田はその小諸より2度ほどあったかい。

だから東京方面から行くと、大宮からたった40分少々の軽井沢へ降りたとたん冷やっとし、しなの鉄道に乗り換えて24分、小諸に着くと少し寒さがなるむという仕儀になる。

だが、それでも東京界隈というか埼玉県南部に比べると8度ほどは寒いから、ブルっとする。朝出て着くのは10時半くらいだから、陽が出ていれば寒いというほどではないはずだが、今日は直前まで雨模様だったらしくひんやりした。

懐古園を抜けて家まで来る道が更に寒かった。台風27号か28号の影響で風がかなり強く、我が家の庭もアカシアの黄葉がはらはらと散っている。葉の半分以上が黄色い。家を出る3日前はまだ緑が大半だったから、3日でずいぶん変ったものだ。まさに季節の変り目、これから一気に紅葉の季節になるのだろう。



10月25日 台風よ、逸れてくれ 

台風27号28号が近づいているらしく、天気が悪い。若いころは台風や嵐は緊張感があって好きだったのだが、このごろは穏やかにしてほしいと思うようになった。

雨風に身をさらすというか、身を守るのが億劫なのだ。体力がなくなったのだろう。嵐に対峙しようという気力もなくなったのかもしれない。
こうして歳をとっていくというか、歳をとった結果、こういう気分が生じるのだろう。

今日は午後から雨風が強まるそうだ。早めに学校を出るか。


10月22日 浅間、未だ冠雪せず

秋晴れで大方は鮮やかな青空だが、山の方だけはどういうわけか白雲がたなびき、浅間本峰も峰部が見えない。

が、黒斑山、高峰山などの状態からもまだ冠雪はしていないようだ。冠雪を迎えるには一晩ピリッとした寒さが必要なのだろう。

行った人によると、今頃の高峰山界隈は紅葉が見事らしい。長野県の紅葉情報にも高峰山は登場する。名所なのだ。今日あたり行ってみようかとも思うが、車のバッテリーが劣化している、ぼつぼつ交換を、といわれている状態では危ないかしら?



10月20日 終日雨

寒い。もう冬が近いなと少し恐怖をまじえて思う。小諸の冬はほんとに寒いのだ。長野県内でも、北の上田や長野市よりだいぶ寒い。


10月19日 浅間初冠雪かと思いきや

新聞やテレビによると、群馬北部の山がいくつか初冠雪したそうだったので、さては浅間山も冠雪かと楽しみに来たのだが、しなの鉄道からもそうは見えず、小諸の自宅の2階書斎窓からもやはりそうは見えない。

早朝のみの冠雪もあるから即断はできないが、まあ今日のところはまだ本物にあらず、あと2,3日でだんだん本物となるだろう。冠雪すればきれいだが、やはり浅間おろしは冷えるから、うれしかなしだ。

紅葉は少し進んだ。木曜日午後出かけるときはまだ紅葉というより黄葉だったのが、今日はかすかながら紅葉しかかっっている感じである。

明日からは向うの懐古園も「菊まつり」入り。界隈はだんだん秋たけなわの気配になっていく。



10月16日 台風一過

まだ完全には過ぎ去ったわけじゃないが、お昼くらいまでで強風は終り、先刻来青空も広がってきた。まずは台風一過の気分である。

さほどの強風ではなかったが、雨は昨日からずっと降りつづけ、やはり嵐の片鱗はあった。で、久々の青空が見えると、「台風一過」という言葉がすっと出てきてしまう。

2階の窓からの景色もかなり広々と見える気がするのは、繁っていたアカシアの葉がかなり減ったせいだろう。まだ多くは緑のまま残っているが、地表を見ると黄色の落ち葉がいっぱいあるから、少し黄葉しかかっていたのがみな落ちてしまったのに違いない。

そこを風がさわさわとまだかなりの強さで木を揺らして通り過ぎてゆく。これで完全に秋だなという気がする。向うの懐古園も10月中旬から紅葉開始とのことだったから、名実ともに界隈は秋景色になっていくことだろう。

今日は台風のおかげで大学は休校、たまたま明日は教授会がない日にあたるし、金曜まで出校せずに済む。思わぬ休日という感じで、実に気分がいい。明日は夕方までにのんびりマンションに行って、金曜に備えよう。のんびりするなあ。



10月15日 早くも休校決定!10月15日

台風が近づいているらしいので、明日の出校計画を考えていたら、昼ごろ学部文芸学科事務室から電話があって、「あすは休校になりました」とのこと。素早い決定にホッとした。

信州では雨がだいぶ降っている。東京界隈はもっと風雨が強いのかもしれない。木曜は教授会がない週なので、これで今週の出校は金曜だけで済みそう。わーい、やったあ。やっぱり悪天候の日、信州から東京まで出て行くのは70歳の身としては気が滅入るから、本当にたすかる。



10月14日 今日は寒い

午前9時ごろから、連れ合いの畑のインゲン豆用の鉄棚を解体した。ぼつぼつインゲンやきうりのシーズンも終りだからだ。

体も動かすから汗をかかないようにとブルージーンズ地のシャツだけで行ったのだが、解体が案外時間がかかったのと、作業がほとんど動かず立って手先を動かすだけだったせいで、意想外に寒かった。風がヒューヒューと熱を奪った行くのだ。

1時間少々いて家へもどったが、どうものどが少しひっかかり気味になった。どうぞ風邪をひきませぬように。3時になったら、様子次第で温かい温泉にでも行くか。



10月12日 今日まで真夏日だそうだ

10月中旬に入ってもまだ、と思える暑さだが、小諸に帰ってきたら、さすがに涼しくホッとした。暑さに弱い私は東京界隈ではほんとにぐったりするが、こっちへ帰ると生き返る。

さあ、庭仕事でもしようか。



10月11日 東京は暑い

今、大学の研究室にいるが、あつい。カーテンを二重に閉めても外の暑さがじわっと室内に入り込み、つけっぱなしのクーラーでもなかなか追っ付かない。

授業が終ったので、ぼつぼつかえろうと思うが、外へ出るのがためらわれるくらいだ。真夏日の日中に外へ出かけるみたいな気分。

ああ、涼しい小諸に帰りたい。



10月8日 男ごころは秋の空  

午前中の空は一面の鰯雲に青空で、実にきれいだった。今はすっかり曇って、ひょっとしたら夕方には雨かというような気配。秋空は移ろいますねえ。


10月7日 昨日は日曜出勤

一昨日はマンション排水管工事の説明会、昨日曜日は学校で朝からAO入試面接と続き、昼過ぎには教え子のS君と結婚式の打ち合わせをした。5分ほどのスピーチをすることになった。

小諸に帰ると空気清涼、今朝になると寒くさえ感じる。空気よければ肌寒いわけだ。

11月は結婚式のスピーチで始まり、定年退職あいさつで終る感じである。それが済めば晴れてさっぱり、清涼感といささかの寒々感があるだろうな。



10月4日 寂寥

秋山駿さんが亡くなった報はじんわりこたえている。昨日の日記に書いたように、私にとっては恩人であったと同時に佐々木基一さん亡き後は文壇でのいちばんの先輩だったからである。

思えば若き日以来今までは、常に問いかけるべき先輩がいるという実感に支えられて、ある種の「安心」と「頼り」があった。それがカラリとなくなってしまったのだ。師はもちろんもう信頼する先輩もいない、というのはかなり寂しいことだ。同年輩の友人はないわけではないが、歳下となるとさらに知己は少なく、つまりより孤独になってきた感がある。

昔吉行淳之介さんとか安岡章太郎さんらの「第三の新人」やそのあとの古井由吉さんらの「内向の世代」はかなり仲間意識と結束力があったが、私たちの世代からはそういう要素はほとんどなくなっていた。みなバラバラに個に依拠し、好きな方向を向いて生きてきた。

文学というのは本来そういうものという気もするから別に残念とも間違っていたとも思わないけれど、歳とともにやはりいささかのさびしみがある。尤も、それは文学に限らずどのジャンルでもそうであろうし、人間は本来孤独であり、壮年期はそれを生きる上での諸々の雑事で紛らしていたのが、歳をとるにつれそれらがだんだんそぎ落とされてゆくのだとも言えよう。

これからどんどん裸に戻ってゆくのだ。


10月3日 秋山さん、亡くなる。祈る冥福

つい今しがた知ったばかりだが、文芸評論家の秋山駿さんが亡くなったそうだ。食道がんだったらしい。

私は20年ぐらい通称「秋山会」で親炙いただいた。当初は毎年1回温泉への1泊旅行、秋山さんの体力が落ちてからは新宿のレストランなどで晩さん会を開いていた。歳の順番もあってか私はたいてい秋山さんの隣に座ることが多く、乾杯の音頭をとったりもした。秋山さんは早稲田の仏文での大先輩にもあたるし、私が中央公論新人賞を受賞したとき、最初に新聞の文芸時評に作品評・紹介を書いて下さった恩人でもある。

だんだん縁深き方が消えてゆく。さびしいことである。そのうち年長の知己はなくなるのだろう。思えば先輩方も皆こんな思いをかみしめつつ、生きてこられたのに違いない。



10月3日 不可解

ホームページビルダーが不調なような、そうでもないような、訳わからず。いつものようには書けず、だけど、ひょんなところをいじったら書けている。??



10月2日 本日、日帰り予定  

せわしなさすぎかな。


10月1日 あと2カ月

ページのタイトルも今日の標題もなんだか風情のないものになってしまったが、自然にこう書いてしまった。それだけ意識しているのだろう。まあ、正直に、ということで、こうしておく。