風人日記 第五十章

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夏が来て秋へ

2014年7月1日〜9月30日






        感想や連絡はMAILでどうぞ。huma.motohiko@blue.plala.or.jp

              お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)


『季刊文科』(鳥影社刊)53号より短篇連作「信州アカシア林住期」を開始

      http://www.choeisha.com/bunka.html 

 53号(2011年8月、本体1,000円) 「信州アカシア林住期」

 54号(2011年11月、本体1,000円) 「信州アカシア林住期その二 夏の転変」

 55号(2012年2月、本体1,000円) 「逆接のウズベキスタン」(信州アカシア林住期 その三)

 56号(2012年5月、本体1,000円) 「真冬の散歩者たち」(信州アカシア林住期 その四)

 58号(2012年11月、本体1,000円) 「シークレット・ズー」(信州アカシア林住期 その五)

 59号(2013年4月、本体1,000円)  「小諸の道」(信州アカシア林住期 その六) 

          
               

  大手書店、アマゾンなどのネット書店にて発売中。鳥影社から直接購読も可。


『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社刊 2200円+税) 


 
            


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集。



 一昨年、いろんな推移の中で三ヵ月ほど日本の全原発五十四基が停止したことがある。現在は大飯原発が稼動しているほか、安倍首相は「今後新たな原発建設も指向する」と言い出している。原発ゼロは早くも夢のかなたというのだろうか。情けないことである。
 私は現在と未来の人類のために、原発が少しでもなくなっていくことを望む。
                                

                             2014年4月1日
                               作家・
日大芸術学部教授
                                            夫馬 基彦

 
  

                            日記


9月30日 今日で9月も終り

季日に関わる接頭辞「早いもので」という言い方が、リアルそのものに感じる日々だ。毎朝、寒いなあとか、今日はウインドブレイカーを着なきゃとか、感じる日が続く。姫シャラや桜など紅葉が目立つ木も増える。

門から玄関までの通路わきに生えている何本かの合歓の木のうちの1本が、どうもじゃまな気がして、伐った。すると、もう1本の木も要らないような気がしてきたのだが、さすがに一度に2本も伐ってはあとで後悔しそうなので、しばらく様子を見ることにした。木は伐ってしまえばまた数年は待たねば復元できない。

半ば自然林の庭だが、合歓は家を建てるとき、工事車両の出入りのためやむなく伐った親木が、それを察してか死に花を見事に咲かせ、その実から10数本の子木を伸びさせた。そのうちの1本である。

とりあえず2,3日考えてからと思っているが、来春に花を見てから考えることになるかもしれない。合歓の花は柔らかいピンクで、匂いも甘酸っぱく、いかにも春を感じさせる。だからなかなか伐れない。

木と暮らすと、半年とか1年単位で物事を考えるようになる。いいことかもしれない。


9月27日 紅葉がチラホラ

まだ少ないが、でも、朝、懐古園に散歩に行くたび、お、また紅葉が増えた、と思うようになった。昼どき、街へ出たら、駅近くのせせらぎの丘や停車場ガーデン前も同様だった。真昼なのに、風が吹くと、少々寒い感じもあった。

こうなると、もう一気に秋で、出るたび紅葉の進捗に目がいくだろう。いい季節でもあり、もの寂しい季節でもある。

田舎の母はどうしているだろう。顔を見に行った方がいいだろうか?


9月25日 降ってきた、どしゃ降り!

今日の午後は出かける予定だったが、予報に従って取りやめた。しかし、午前中晴れ模様になったので、しまったと思っていたが、やっぱり雨となった。予報ってあたる時もあるねえ!


9月24日 今朝は曇天

秋の曇天はうそ寒く、物悲しい。昼過ぎからは雨になり、そのまま2日ほど降り続くらしい。台風の影響かもしれぬが、なんだか寂しさが増す。明日はちょっとしたハイク・ウオーキングの予定だが、ダメかもしれない。まあ、お天気待ちそのものだ。


9月23日 1時間半歩く

きのう、参加している「60代以上の体力トレーニング教室」の催しで、布引ウオーキングに加わった。最初は下の道路側から上の布引観音堂まで登るだけで約20分だったが、そのあとぐるっと回って降りることになった。

これが予想外に長く、1時間ちょっとかかった。先頭者が健脚でどんどん行き、遠いほうの道を選んでしまったせいもあったが、とにかく引き返すわけにもいかず、途中いささか不安になりながらどうにか歩ききった。

おかげで今朝、まだ足が痛い。が、久々に運動後の心地よさもある。こういうことをちょくちょくしていればまだまだ足腰は大丈夫だろうなと思ったが、そのちょくちょくが出来るかどうか。なるべく心がけようとは思った。


9月21日 寒くなったなあ

今朝、散歩に出たら寒かった。念のためと思って毛糸のカーディガンを羽織って出たのだが、途中できちんと袖に腕を入れて着込み、ボタンまでかけた。別に風もないし、青空で太陽も出ているから、つまりは空気自体がそれだけ冷えたということだろう。

この分だとあとしばらくで紅葉が始まるかもしれない。懐古園の楓なぞすでにいくらか紅らんでいた。出口近くで会った藤村記念館の女性館員に「寒くなりましたねえ」とあいさつされた。



9月20日 前回の日記のタイトルどおり

いつの間にか20日になっていた。気候はもう朝は寒くさえ感じる秋たけなわだ。我が家の垣根をおおっている朝顔は、咲いてはいるが花の大きさが半分くらいになった。いかにも寒そうな風情である。

隣地の桜も懐古園の桜も、ちらほら葉が赤らみ、紅葉シーズンの始まりを予感させる。あと10日くらい、つまり10月の声を聞けば、界隈はずいぶん紅葉しているだろう。懐古園の水の手展望台に立つと、風が冷たい。見下ろすダムの水音も冷たそうだ。



9月16日 さわやかな時間はたつのが早い

今朝は実にさわやかで心地いいが、しかし昨日あたりに比べると少し温度の低さも感じる。たぶんあと少々で寒さを感じるようになるのではと思う。秋はそういう時間の進捗も早い。

木々にもほんのちょっとだが、紅い葉が現れ出した。あれは何か理由があるのか、とにかく秋のさきがけという感じがする。桜に多い気がする。

人生も秋は早く進む印象がある。冬になる前に、まだ何かすることがある気がこのごろしている。何かしたい意識の表れかもしれない。ところが、その何かがなかなか具体的には浮ばない。私は何か書きたい気がしているが、いいアイデアが浮ばない。小説にするか、エッセイにするか、それらとは全然違う何かはないか……。そこらで意識が停滞してしまうのである。

外を歩いた方がいいかな。くたびれるほど歩くと、何かが浮んでくる気もする。



9月14日 秋天愁風

絵にかいたような青空に白雲ふわりふわり、そよ吹く風にアカシアの葉が揺れ、きのう枝打ちした桜やブナの切り痕が白い。

切り痕は気になったので、ホームセンターまで買いに行った切り痕塗布剤を塗った。その色が黄色で、今度はあちこちに黄色の傷痕が目につき、何かちょっと痛々しいような面白いような……。

きのう受けた桜の育て方講習に従い、地上2メートルくらいまでの枝はみな切ったので、木の下も広々し、歩きやすい。従来は木は切りたくないと思い込んでいたので、庭が狭くなり、歩きまわるなぞなかなかできなかったが、こうしてみると、低い枝は確かにない方がいい。庭は歩けなければ価値が半減する。

停車場ガーデンでの無料講習会は有効だった。


9月11日 雷雨ごうごう

いま、時折の雷鳴とともに猛烈な雨がごうごうと降っている。形容語としてもっと適切な語がありそうな気がして少し調べてみたが、まだ見つからない。しゅうしゅうでもないし、もちろんしとしとなんてものじゃない。

時折、ガラガラっ、ピシッなぞとも鳴る。おそろしい感じもある。稲光も恐ろしい。

さっき外出した時は何もなかったのに、ほんの1時間足らずで激変するものだ。あ、今、明らかにすぐ近くに落雷があった。びしっとすさまじい音がした。

うーむ、自然とはすさまじいものだ。しばらく見物だ。いっぱい飲むか……



9月8日  おそるべき記事

とにかく御一見あれ。

 http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&id=3042937&from=home&position=2


9月7日 寒くなってきた

多少オーバーな言い方だが、しかしこのごろ朝そとへ出るとそう感じるようになってきた。門の新聞受けへ新聞をとりに行くのに、シャツ姿だとぼつぼつカーディガンが要るかなと思うのだ。いつも垣根の外側にまわり朝顔の咲き具合を見て回るのだが、今朝はシャツ姿では寒くてやめた。

きのう、日中に街まで歩いて行ったが、往復ともやはり暑さは感じなかった。
もうそんな季節なんだなあと、しみじみというほどではないが、多少の感慨を持つ。「秋風が立つ」という謂いが自然条件のことだけでなく気分や心にもつながるからだ。

私の年齢になると、人生の秋というより、もう人生の冬の入口あたりかもしれぬが、冬というほどの切迫感というか寒冷感は正直まだないので、「秋」を感じている。うちの連れ合いなど同い年だが、毎朝懐古園の馬場を7周走ったりしている。まさに秋も始まったばかりか夏の続きくらいに思っているだろう。

それにしても今年は実生から育った朝顔が満開である。気分がいい。


9月4日 碧天白雲

今日は真上が見るも鮮やかな青空であり、あちこちに大きな白雲が浮んでいる。風はそよ吹きさわやかで、いかにも秋らしい。

どこかへ出かけたいような日だが、まだ散歩もしていない。安倍改造内閣に女性が5人も入閣という新聞記事に読みふけってしまったからだ。5人は日本としては多い。

が、メンバーを見ていると、がっかりする。保守それも明らかな右派が多いのだ。女性はなんとなく反戦平和派が多いという先入観がひっくり返される。自民党となると、むしろゴリゴリの右派となるのだろうか。何人かが「鉄の女サッチャーを目指す」みたいなことを言っている。

穏健派もいるようだから、ま、しばらくは様子見で行こうと思うが、それにしても女性の右派、強硬派とは、どうも肌触りが悪い。自民党にどうも親近感や信頼感を持てないのは、長年の体質のせいかしら。自民党の女性たちよ、サッチャーばかり目指さないで、柔らかい母性派たれ。



9月2日 窓を開けていると……

蝉の声が聞えてくる。しばらく前までーつまり夏の間はうるさいくらいで、気温も高まる日中は窓を閉めた。

このごろは秋の涼しさが心地よく、窓を開け放していたりするが、今日はつい今さっき閉めた。寒いのである。下着プラス長袖シャツ(7分袖まくり)だが、もう完全に夏は去ったと実感する。むろん太平洋側ではまだまだ暑いのだろうが、それでも秋風は立っているのでは。

信州ではこれから一気に秋が深まっていき、外出時はカーディガンからセーターが必需品になっていく。心地よいがもの寂しくもある時節である。夏の間は暑くてあまり外出しなかったので、これからはせいぜい外へ出ようと思う。そば屋とか図書館など、ちょっとした外出が楽しみな時期だ。


9月1日 小諸よそもの会

きのうは表記の会があった。小諸出身者ではないが小諸に住んでいる人たちの会、の意で、発案者は私だ。小諸が好きでほぼ骨をうずめるつもりだが、出身は他所(よそ)という人が案外多いことを知ったため、顔の広いUさんに頼んで組織してもらった。

組織というほど大げさなものではなく、要するに時折つどってお喋りしたり一杯飲んだりするくらいのつもりだったが、昨日なぞ昼に会を設定されたせいもあり、ビールを飲んだのは私一人、みなしらふでランチをパクパク食べ、相生町に溜り場兼事務所を設ける、という極めて建設的な話になった。メンバーに働き盛りの人たちが多いせいかもしれない。

わたしなぞはへーえと感心しながら、どんなふうになっていくのかと期待感も沸いた。とりあえず会の名称を少し変えようとなり、「小諸エトラン会」となった。「エトラン」ははじめ「エトランジェ」だったが、なんだかすぐ「異邦人」という言葉が浮ぶし、フランス語っぽ過ぎる、ジェを省くと呼びやすいし多少日本語ぽくなる、ということでこうなった。

溜り場は、今年度いっぱいただで貸してくれる所があるとのことで相生町になった。メイン街だからちょっと面映ゆいが、結構なことではある。今後、どうなっていくかしら。


8月31日 朝の散歩が寒い

爽やかでいいとも言えるのだが、そこはかともの寂しい。見晴らし台からダムを見ていると、寒さが少しづつ流れている感がする。
今日で8月の水も最後だ。


8月28日 完全に秋だ

数日前から秋めいてきたとは思っていたが、今日なぞ涼しさそのもの、秋そのものだ。垣根には朝顔が青、赤、紫、白など咲きそろい、清楚なものである。

7時ごろ懐古園を散歩したが、30分歩いても汗は全く出なかった。見晴らし台から見下ろす千曲川のダム界隈もまもなく寒くなるだろうと感じさせる。

軽装で散歩できるのもそう長くないかもしれない。秋が本当にもの寂しく感じられるのは歳をとった証拠かもしれない。


8月26日 ウオーキングは無理だろう

今日は午前10時から「体トレ」(体力トレーニング)教室のウオーキング日だが、いま外は雨だからまず無理だろうな。ちょっと残念。代りに室内トレーニングかしら。機械を使ってのトレーニングも自宅では出来ないから、私は割合好きである。

問題は時間がどうなるか不分明な点だが、まあなんとかなるだろう。



8月25日 寒いくらい

つい先だっては「まだまだ暑い」と書いたが、今日は朝から雨模様で、はだしの足など寒い。一気に気候が変った。

こうなると、昼食に街へ出ようかいささか迷う。気にいりの店「久兵衛」でランチ御膳の揚げたてのてんぷら部分なぞを食べたいのだが、出かけたら降りだしそうで、迷ってしまうのである。

それにしても、「暑い」からではなく「寒い」から迷うようになったとは、一気に秋めいたものだ。歳もこういうふうにとっていくのかもと、ふと思った。


8月24日 秋雨、秋風

今朝は雨が降っていて、ちょっと小寒いほどだ。蝉は鳴いているけど、秋だなあと思う。雨なので散歩には出ていないが、歩いてもあまり汗をかかないかもしれない。いや、やっぱりかくかな……。

連れ合いが明日トレッキングに行くと張り切っている。天気はどうなるか。歳の割に健脚だから、行けば歩きまわって来るに違いない。浅間山にまで登るかしら。

小生はどうも動く気になれない。近くに点在する日帰り温泉に行けば満足してしまう。もう少し出かけた方がいいかしら。


8月21日 まだまだ暑い

今現在27,8度と思われます。と書いたところで東京の温度を調べてみたら、最高35度と出ました。ほんとですか?!

本当としたら、やはり今年は暑すぎる気がします。一体どうなってるのかしら?!


8月19日 朝の畑仕事

今朝、連れ合いの畑を少し手伝った。夏はさすがに暑くて早朝以外は無理だから、短時間で済むようにと思ってのことだ。

ポイントは枝豆の収穫で、今までは一日1本採っていたが、今日は残り4本すべてをとった。どれも豆部分がぷくっと膨らんできたし、1日おくだけでずいぶん成長するからだ。

これでしばらく毎夕枝豆をつまみにビールが飲める。そして枝豆が終った頃には秋風がそよ吹き、今度は秋刀魚の季節へと移っていくだろう。健康で晩酌が楽しめるうちが一番だ。田舎の母の体調も一段落したようで、ほっとした。朝と夕に締まりがあると、一日が心地よい。


8月17日 今日は曇天

天気のことばかりで恐縮だが、今朝は暗い曇天である。雨がないのにはホッとするが、暗い空も文字通り気が晴れない。

朝の散歩もどうも気が進まない。



8月16日 まだ雨、いよいよ梅雨か

12日の日記に「暗い空、降り続く雨」、ついで14日に「またしても雨、今頃梅雨か」を書いたが、今日になってもまだ雨が続いている。今年は例年の梅雨どきに雨が少なかったせいか、1か月遅れになった感がある。

おかげで涼しくていいとも言える。きのうはその涼しさのなか、荒町の先、与良町界隈で夕市があった。歩行者天国になった区間に露店が立ち、私も椅子に座って漬物、いなりずし、熱いうどん、なぞを食べた。手づくりらしい漬物は50円である。どれもうまかった。

おかげで晩御飯がいらないような、少しは要るような中途半端な感じになったが、夏まつりらしい気分ではあった。
その時だけは少し晴れていたのだが、夜になるとまた雨が降り出したのだったか? 今朝はかなりの雨である。8月はやはりカラッといきたいものだ。


8月15日 終戦記念日、敗戦記念日

かなり以前から言われてきたことだが、今日を「終戦記念日」と言うと、いや、敗戦記念日だ、終戦という言い方は日本人らしいごまかしだ、との言説がある。

一理あるが、ごまかしとは限らない気がする。人間の心理として「敗戦」なぞわざわざ記念したくないし、しかしその日を境に長く苦しかった「戦争」から解放された、戦争は終ったのだ、という実感は多くの日本人が持ったのではないか。

ゆえに一種の解放記念日として記憶したいが、しかしどう言うか、となった時、「終戦」という言い方はうまくはまっている気がする。解放では直接的過ぎるし、イデオロギー的ニュアンスを感じる人もあり得よう。よって、終戦。

その終戦記念日が69回目になった。もう今の青年たちにははるかな彼方だろうし、戦争のイメージも具体的には浮ばないだろう。

私だって戦争そのものは浮ばず、そのしばらくあとの戦後の混乱期、食糧難時代なぞが想起されるだけだ。いや、今でも鮮やかに目に浮んでくるのは、少年時代、近所の火の見櫓横の家に、垣根代りに焼夷弾の殻(というか大きな薬莢のごときもの)がずらりと並べてあった光景だ。

小学生だった私は前を通るたび、あれが焼夷弾だ、あれが無数にB29(ビー・ニクと読む)から落され、あたりを火の海にした爆弾だ、と思わされ、しかし何年もたつと、次第に妙に懐かしいような気分になった真鍮製の物体だった。

あれはさすがに今はもうなくなっていようが、私はあれによって焼夷弾の大きさ、形状、材質感などを知った。場所は少々離れたところだったが、我が家(というか父母の家。病院だった)が5月ごろだったかの空襲で燃やされたのもその焼夷弾だったそうだ。家に落ちたのはたった2個、男手があればはしごで屋根に上って取り除けた程度だったと、後々大人たちから聞いた。

が、その男手は我が家も近所も皆軍隊にとられていて、どうにもならなかった、赤児だった私を抱いた母は遠方から、燃えていく家をただ茫然と眺めるだけだったという。口惜(くちお)しい話である。


8月14日 またしても雨、今頃梅雨か

梅雨どきにあまり降らなかったせいか、今頃になってよく降る。緑に雨はまさにみずみずしくなっていいが、はて、今は何月だろうと季節感に惑うことにもなる。

8月はやはりカラッと晴れてくれた方がいい。



8月12日 暗い空、降り続く雨、母の余命

明け方、寝床の中で、今何時だろうと考えていた。いつものようにごく自然に目が覚めたのだが、寝室はえらく暗く、いつもの朝の光がまるでないからだ。変だなと思いつつ起きだしてみると、外はかなりの雨だった。

その雨はいま午前9時近くになってもやまない。窓を開けるとザアーッと音たてて降り続いており、更にやむ気配はない。今日は庭の草や枝刈りをしようと思っていたが、これでは手が出ない。遠景の浅間連峰や白馬連峰なども雨に曇って全く見えない。

きのう、愛知の兄嫁から電話があって、母の体調異変を知らされた。大腸に腫瘍らしきものが出来たらしいというのだ。どの程度のものかは判然としないそうだが、98歳の母は「検査などはもういい、このまま自然に任せる」と言ってるそうだ。

母はかつて喜寿のころ、わざわざ私に手紙をよこし、「歳をとるというのはつらいことです。なかなか(思うように)死ねないし」と言ってきたことがある。その時も「うーむ」と思ったが、このごろ自分が70歳になって一層「うーむ、その通りだなあ」と感じるようになった。

だから私はその後母に向っても、他のお年寄りに向っても「いつまでもお元気で」とか「長寿、おめでとうございます」などとは、言ったことがない。いつまでも元気でいたら当人も周辺者も大変だ、つらかろう、と思うからである。

だから、今回の母の気持もよく分る。検査やら治療やらとあれこれ老体をこねくりまわされるより、あるがままに任せて死んでいった方がいい、というのは真実だろう。だから私は電話してきた兄嫁とその息子である甥(母にとっては孫)にも「母の言う通りにしましょう」と言った。医師になったばかりの若い甥も「ぼくもそう思います」とうべなってくれた。

あと1年ぐらいらしい。


8月10日 ヒロシマ、ナガサキの日が過ぎて

8月6日、9日の両日を過ぎると、私はなぜか少しほっとする。別に自分がそのどちらか生まれでもなければ、何か特別の個人的理由があるわけでもないのだが。

なぜだろうと考えてみて、要するに原爆の恐ろしさ、被害、そういうものを人間が作り出し、使ってしまったこと、などにいわく言い難い思いがするからだろう。何であんなものを、1発で10万人が即死するものをなぜ、などの思いが、しかし人間はそういうものを作り出し、そういうことをするのだ、との思いと混然となって渦巻き、解答が出ないからだ。

解答が出ないことは苦しい。そしてその解答の出ないものが今現在この地上に何千発か(正確な数字は知らないが、アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、そしてたぶんイスラエルなどその他の国にも少々あるはずだ)貯えられていると思うと、人間とは変なものだ、この地上は不気味な所だ、と感じざるを得ない。

6日からこの数日はそのことをいやおうなく思わずにいられないから、苦しくなる。若いころはだから直接的な反戦運動や反核運動に関わったりもしたが、年とともにだんだんその度合いが薄まり、70歳を過ぎた今はもう何もする気はない。

次世代に任せるというより、はたして人間はどうしていくのだろう、今ある核爆弾はその抑止力となっているのだろうか、などとの思いも浮ぶが、一番強いのは諦念だという気がする。どうにもなりはしない、人間とはそういうものだ、という諦念。

あれから69年、ともあれ地上で大きな核爆発がなかったのは(小さいものはあったという説もある)さすがにかつての記憶と後遺症が続いたせいだろう。

今後ともその記憶が続くことを望む。


8月7日 朝の畑、原爆記念日のこと

連れ合いが早朝のうちに畑仕事をするというので、私も一緒に行った。私が種を播いた落花生がすっかり大きくなって、黄色い花を咲かせていた。落花生は根のようなものが地上部で伸びて放物線状に土に入っていき、地中で豆をならせる。

だから、柔らかいうね状に土を盛り上げておくと、その根が伸びやすく収穫が多くなるらしい。見ると、お隣の落花生畑は若木の両脇にかなりの高さに土寄せがしてある。さすがプロは抜かりがない。私はそれを横目で見ては、ははあ、こうするのか、これぐらいでいいかな、などと自問しながら、ぎこちなく、わずか数株の落花生にスコップで土寄せをした。

7時前の涼しさだったのに、それだけで汗だくになり、早々に帰宅してシャワーを浴びた。めったにしないが、朝シャワーというのは気持のいいものだ。連れ合いは汗ついでにジョッギングをすると出かけ、帰ってからシャワーを浴びていた。走っている間に額からぽたぽた汗が流れおちたそうだ。これも気持がよさそうだ。

さて、昨日は広島の原爆記念日、69年たったが、やはり忘れることはできない。1発で瞬時に10万人が死に、その後の死者を合わせると20万人以上になるそうだ。怖ろしいものが作られ、それが長崎と2か所に落された。黄色人種だから落された、白人のヨーロッパには落しはしなかった、という印象はどうしても消えない。

人間とは、地球とは、不可思議なものだ。



8月5日 塀際の枝打ち

きのう、北西側の塀の外に伸びたアカシアの木の枝打ちを少しした。
道具(長い枝切りばさみ)が壊れていたので、新しいのを買いに走り、割合うまく伐採した。が、高いところは届かないし、お隣の意向も聞く必要があるので、その分は残した。片がつくのはそれまでお預け。

木が多いとこういうことの管理もなかなか面倒だ。


8月4日 朝の北国街道

銀行へ行く用があって、9時半に車で出た。といってもたった4分ほどの道程だが、途中の大半は旧北国街道で、黒の古い家並が続いている。人通りはもちろん車もろくになく、静かな街並だ。

銀行のATMもその街道筋にあるのだが、用を済ませてボックスから出てきてもやっと車が一台通っただけで、ほとんど往来はない。静かなものだ。ま、いつもこんなものだったかもしれぬと思いつつ、やはり真夏のせいかなとも思う。お盆休みはまだだが、小諸は土曜はお祭りだったし、なんとなく祭り明けの休日感みたいなものが漂っている。

ふと、真夏感があるうちに近場の温泉旅館にでも行こうかと思った。


8月2日 暑中お見舞い申し上げます

この1週間ほどさすがに暑く、8月の声を聞いてさらに頂点に達した感があります。
信州は夏涼しく、東京界隈に比すと極楽なのですが、今頃だけはさすがに逃げ出したくなります。といってもはや北海道くらいしか残る地はなく、お手上げですが。

みなさんも、どうか夏負けせぬよう、栄養摂取に御留意下さい。
小諸は今夕、「ドカンショ」まつりです。5時ごろから、「♪ドカンショ、ドカンショ、小諸ドカンショー」と歌いながら、町内会や団体の集団がメイン道路を練り歩きます。比較的新しいまつりらしく、小諸っ子の連れ合いは、昔はこんなのはなかった、いつできたお祭りかしら? と首をかしげています。御存知の方、御教示ください。


8月1日 八月の声

誰かの小説の題みたいだけど、今日から8月だと思ったら、何か声が聞えてきた感じがした。
暑い、だけどもう2週間もしたら今年の夏も終りに近づく、という期待感とちょっと寂しい感じである。
夏は早く終ってほしいんだが、秋風も寂しいという気分。

この間、場所によってはだいぶ降ったらしいが、信州小諸では全く降らない。さすが晴天率日本一地帯だが、真夏には少しお湿りもほしい。これでは早朝以外、外へ出る気が起きない。おかげでだいぶ久しくそばも食べていないし、久兵衛のランチ御膳も食べていない。

街へふらっと出られる距離に住むメリットは、そういうふうに昼飯を選択できることなぞもあるはずだが、この暑さではそれもままならぬ。ああ、熱暑はあと何日続くかしら。


7月29日 朝の涼しさ

信州小諸は軽井沢よりは2度気温が高いが、上田よりは2度低い。早朝はTシャツ一枚だと寒いくらいなので、散歩に出てから軽いジョッギングに切り替えた。

このごろは長らく走ってなぞいなかったので、足が重く、スピードも歩いているのと大差ないが、ともあれ走る形で懐古神社前から藤村記念館前を通って懐古園裏口まで至った。あとも走ればよかったが、鹿島神社前で柏手を打つため歩きに切り替えた。

うっすら汗ばんだ肌に冷気が心地よかった。


7月26日 暑い!!

朝7時ごろに散歩に出たら、懐古園を1周してくるだけでもう汗いっぱいだった。

今は9時半だが、2階の書斎の室温が30度。我が家はクーラーは一切なしだから、さすがに暑くて長居は出来ない。下のリビングに行けば26度くらいだから、まあ許容範囲内だ。

5年前家を建てた時、外断熱方式の外壁の厚い家にしたので、朝の冷気を2時間くらい入れてから閉め切ればほぼ1日涼しく過ごせるのだが、さすがに真夏の1週間くらいだけは2階は暑かった。それが今年は3週間くらい続きそうな気がする。

今年が特に暑いのか、だんだん地球温暖化が進行しているのか、はっきりしないが、今年はどうも両方影響しているような気がする。汗っかき、暑さに弱い私は、それを避けるためにこの信州にやってきたのだが、どうもあてが外れた感が少しする。まあ、これでも東京方面より格段に涼しいとは知っているのだが。

何かいい方策はないか、と考えるが、それよりこの日記書きを早く切り上げ、下に行くのが一番か。


7月24日 暑さと蝉の声

梅雨明けしたはずなのにどんよりと曇って蒸し暑い。そこへ窓外から「ミーンミンミン」と蝉の声が聞こえてくる。夏らしいな、と思う。

面白いことに蝉が鳴き出すと、それに刺激されるのかカラスも「クワ、クワ、カア」となきだす。合唱がしばらく続いたところで、どちらともなくやめ、しばらくして今度は烏が鳴き出す。すると蝉も鳴き出す。今度は雀までが「チク、チク、チ」と鳴きだした。

みんな明らかに他者の鳴き声を意識しているようだ。人間も鳴いてみたいが、どう鳴けばいいかが分らない。


7月22日 学生・生徒諸君は夏休みかな

ワクワクするだろうな。
忘れてならないのは教師関係もそうだということで、わたしも去年まではそうだったけど、今年からはもうずっと休みだから、新鮮感がない。

おまけにわたしの居住地周辺には2年ほど前から小学生がいなくなってしまったから、目につく変化も何もなく、夏休みの実感も生じない。静かすぎてものさびしいものだ。

このごろ時折思うのだが、大学の勤めに行かずずっと家でのんびりしているのと、少々しんどいが週に1度くらいは東京がよいするのと どっちがいいかしら?


7月21日 孔雀全開

朝、懐古園へ散歩に行ったら、隣の動物園の門が開いていたので、久々に入ってみた。折しも孔雀が2羽、見事に羽を広げているところだった。この生き物は人間に飼われる前、森の中で同じように羽を広げていたのかと考えると、不思議な気がした。


7月19日 娘宅へ行く

日記が前回から5日もあいてしまった。娘宅へ行っていたためだ。

といっても滞在は2日だけだが、ともあれ娘宅へ泊ったのは初めてだった。今年の2月までは私自身のマンションが隣の駅にあったから、娘宅へ泊る必要なぞなかったのである。

いささか不思議な気分だった。マンション11階なので、視界は広く、かつての我が家のあった建物を含め志木・新座界隈がずいぶん見渡せた。ふーむ、関東平野だなあと思う。
が、窓を開けていると、下の道路の車の音が「シャアー、シャアー」とかなり強く耳に入り、信州の町はずれの静けさに慣れた身には落ち着かない。

で、窓を閉めると、関東南部は湿気を含んだ気温が小諸より7,8度は高い。よって朝からクーラーが必要となり、一日中つけっぱなしとなる。クーラーも私の体にはどうも肌触りが悪く、落ち着かない。

用足しに街へ出ると、駅近くまで歩いただけで、もうじっとり汗ばむ。2日目の夕方、友人の青野聰に会う用があって池袋まで出たが、電車に乗れば冷房がきき、降りると汗ばみ、屋内に入るとまた冷える。
おでん屋で飲み、ついでビル屋上のビヤガーデンへ行った。久々の語らいと酒は楽しく、予定を越え10時まで飲み、あわてて娘宅へ帰ったらもう11時近かった。

翌朝目覚めたら、もう7時過ぎだった。娘の亭主殿は出勤済みだった。娘に作ってもらった紅茶とパンの朝食をとり、持参のパジャマとシャツが古びすぎているから捨てていきなさいと命じられ、ふーむ、としばしそれらを眺めてから、その通りにした。

着替えをしてクーラーのついたマンション内にいると、もう出かけているような気分になり、すぐ出ようと思ったが、今はラッシュ時間帯だと言われ、そうか、ラッシュというものがあったなと思いつつ、9時まで待った。そして9時に娘に駅まで送られ、帰路についた。

小諸駅に降り立ったら、暑さは全く感じない。ああ、やっぱりここはいいなあ、晩年をここに住むことにしたのは正解だったなあと思いつつ、そのままいつもの「刻そば」に入り、常連仲間の「やまていさん」と東京は暑かったあ、なぞと話しつつ飲んだビールがうまかった。


7月14日 まつり終る

一昨日の市民まつり、昨日の天王社・健速神社祭礼とつつがなく終った。天王社はすぐ御近所なので、やっぱり見に行ってしまう。小さなおやしろだが、神輿前に祭壇がきづかれ、四、五〇名ほどの担ぎ手がはっぴを着て勢ぞろい、市長のあいさつなども受けて威勢よく「おい、よい」と練りに繰り出す。

「おい、よい」は、この地方独自の掛け声らしく、上田や長野市では違う掛け声という。むろん私は小諸に来て初めて聞くものだ。東京の「ワッショイ」や「えいや、そいや」とも全く違って、ちょっと優しい感じがする。

例年はこのあと健速神社まで行って、そこの別の神輿の石段落し(重い神輿を担いだまま石段をかけ降りる)も見るのだが、かなり時間がかかるので、今年は省略して街へ昼食をとりに行った。いつもの「久兵衛」が店前の路上に屋台風の店を出し、店自体は通常営業をしてなかったので、違う店へ行った。

食べ終わって帰路についた途次で、掛け声が聞え出し、先の神輿がメイン街へ向け練っていった。少し離れたところで聞くその掛け声がよかった。



7月12日 暑い小諸まつり

今日は小諸市民まつりの日だ。市民まつりというのは、明日の山王社・健速(たてはや)神社の祭が歴史と伝統の割にひっそりしたもので、神輿もそれぞれ1基づつ、という鄙びたものに比べ、各町内・企業・任意団体が競って神輿を出し計4,50基が繰り出す。

おかげで小さな小諸のメイン通り本町・田町や相生町は、神輿と人出で一杯になる。小諸は城下町でもあるが、北国街道の宿場町でもあるからいわば町人の町でもあり、まつりの日はおのずと町人色に包まれる。

その雰囲気を私は好きで、小諸へ来てから毎年この祭りを楽しんで見てきた。梅雨時なのでたいてい少し雨がぱらついたり、湿り模様なので、涼しいまつりという印象もあった。ところが、今年はどういうわけか快晴のかんかん照りだ。
まつりのピークは午後3時ごろからの相生町通りの練りだが、さぞ暑かろう。

というわけで、私はしばらく迷ってから、出かけるのをあきらめた。楽しさより日照りの苦痛の方が大きそうな気がしたからだ。何しろ今日は軽井沢ですら30度とかだ。小諸は32度にはなるだろう。それにまつりの本番は本来明日である。予報では曇り天気で、気温も低そうだ。ならば明日でいいではないか、という次第である。

それに今日は町内の神輿連が我が家の前を事前に通っていったので、それでいい気もした。
よって、今日は街のにぎわいぶりを想像しながら、家で静かに、涼しく、というわけだ。連れ合いもその方がいいと言う。ちょっとさびしい気もするが、だんだんまつりも年寄りぶりになってきたのかもしれない。



7月9日 アゲハツルの卵孵らず

8時ごろ、懐古園へ散歩に行き、動物園の門が開いていたので、久しぶりに園内へ入った。

ライオンはつい先だって雄のカイが死んだので、雌がひとり寂しげに寝そべっていた。近くのアゲハツルのコーナーでは前回来た時雌が大事そうに卵を抱いていたのに、もうその様子がない。アレと思って飼育員の人に聞いて見たら、「ダメだった」と悔しそうに答えが返った。

年配の男性だったが、本当に悔しそうだったので、彼もまた相当期待していたのだなと感じた。こういう施設の中で子が孵るのはめったにないことなのかもしれない。

ペンギンが二、三羽どういうわけか羽を随分よごしていた。いつもつるりときれいにしているのに、妙な気がした。交尾でもしたのか、あるいは雌をめぐって争いでもあったのか。動物の世界にもそれこそ人知れぬ問題があるのかもしれないと思った。



7月8日 まるで梅雨が上ったような快晴

昨日は一日雨模様で、いかにも梅雨時と感じさせたが、今日は一転、碧空に白い入道雲が浮ぶ夏空である。

懸案を片付けようと、早朝から庭のアカシアの枝を伐ったり、隣家との境界に急速に伸びてきた笹竹を2,3本伐った。竹の1本には昨日の七夕用に連れ合いが何枚かの短冊をぶら下げていたので、それが玄関脇に立てかけられることになった。

折から来訪中の連れ合いの娘、連れ合い、私の3人が短冊を書いているのだが、「歳はとりたくない」「もう七十だ」というのが私のだ。情けないことである。



7月7日 雨が降る、七夕の空は見えないだろうな

かなりの勢いで降り続いている。今日からジョッギング(ウオーキングではない)をしようと思っていたのに、出鼻をくじかれた。

小鳥は元気に鳴いている。というか呼び交わしている印象がある。交尾期なんだろうな。雨の日は木陰で、となるのかしら。



7月6日 風が吹く

今日はどういうわけか、風が強い。雨の気配はないのだが、代ってというか、風が強い。今もゆさゆさ木をゆすって吹き続けているので、まるで嵐のような気さえする。おかげで夏椿(姫沙羅)の花や杏の実がぽたぽた落ちる。

杏は毎年落ち始めた当初はいそいそ拾い、冷やしてかぶりつく。が、正直さほどうまいものでもないので、2,3個食べるともう飽きる。梅だと漬けて加工する手もあるが、杏はなまじ柔らかく少し甘いから、そうもいかない。

信州には有名なあんずの里・森もある。花見に出かけたことはあるが、実を食べに行ったことはない。そうそう、干しあんずはなかなかうまいので、スーパーで箱入りを買ったりはする。あれは何月ごろ出るのだったか。今度見かけたら、田舎の母に送ってやろう。



7月5日 今日はお留守番

連れ合いが映画を見に長野市まで出かけてしまったので、ひとりである。彼女の帰宅後話を聞いて、映画が面白そうなら、明日出かけよう。

ひとりで長野市を歩くのも新鮮だろう。ついでに善光寺へも行ってみるか。



7月2日 一内閣の決定で外国へ軍隊を派遣できるのか

昨日の閣議決定なるものによると、日本に近い外国で同盟国ーつまりアメリカが戦争態勢に入った場合、日本軍(自衛隊)も派遣されうる、ということになったようだ。

場所も条件もあいまいにしか表現されていないが、平たく言えば朝鮮半島や台湾で米軍が戦争に参加したら、日本も戦争に加わりうるということだろう。
その場合、「不戦」を誓っている憲法との関係には触れられていない。

つまり、憲法を飛び越え、国民に民意を問いもせず、一内閣の決定で戦争参加が出来るということだ。
いったいこんな重要なことが、一内閣、というより一首相の判断で決定できるのだろうか。これは戦後70年近く続いた平和憲法の精神を何気なさげに無視するものだ。

これは当然、国会および国民の間で広く討議され、時間をかけて意見集約をしていくべきことで、内閣、というより実質的には一首相安倍氏だけによって勝手に決めうることではなかろう。
全く安倍というのは、重要なことをいとも簡単、勝手に決めうると思い込んでいるように見える。

言っておくが、安倍がどう決定しようとも、国民はそんなことは容認しない。次の選挙で必ず安倍自民党を大敗させるだろう。



7月1日 新しいページを始める

時はたつ。それにつれ、ページも改まる。人間は一向変っていない面もあるが、どこか変化もしていよう。

一番の変化はこの4月からどこにも属さず、全く一人だけ(連れ合いはいる)の生活になったことだ。つまり勤め先の大学がなくなった。非常勤講師で残る選択はあったが、埼玉のマンションも処分したため、長野県から日帰り通勤する気にもなれず、もう退くことにしたのだ。

4月は実に解放感に満ち、5月はちょっとさびしくなり、6月はすっかり「出かけない生活」に慣れ、そして7月を迎え、まあ、こんなものかとしごく落ち着いている。

何かやらなくちゃというか、やりたい気もちゃんと生じており、今まで書かなかった種類の「何か」を書いて見たいと考えている。まだ書き出していないのは、その「何か」が具体的に形になって浮んでこないからだ。

日記なら簡単だが、それはもうずっとやってきている。作品にしたいが、小説は、少なくとも通常の形式のものは気が進まない。何か新しいエッセイ的なものを、なぞと思っているが、それがうまく思いつかない。

まあ、いいか、そのうち何か出てくるだろう、もうあわてる歳ではなくなった、……そんなことを思ってはのんびりしている。ひょっとしたらこれが、だんだん書かなくなっていくプロセスかもしれないが、それもよかろうといったところだ。

でも、結局、何かは書いていくから、皆さんの方ものんびり、少し時間をください。

風人日記 第五十一章

寒くなる

2014年10月1日〜






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      http://www.choeisha.com/bunka.html 

 53号(2011年8月、本体1,000円) 「信州アカシア林住期」

 54号(2011年11月、本体1,000円) 「信州アカシア林住期その二 夏の転変」

 55号(2012年2月、本体1,000円) 「逆接のウズベキスタン」(信州アカシア林住期 その三)

 56号(2012年5月、本体1,000円) 「真冬の散歩者たち」(信州アカシア林住期 その四)

 58号(2012年11月、本体1,000円) 「シークレット・ズー」(信州アカシア林住期 その五)

 59号(2013年4月、本体1,000円)  「小諸の道」(信州アカシア林住期 その六) 

          
               

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『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社刊 2200円+税) 


 
            


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集。



 一昨年、いろんな推移の中で三ヵ月ほど日本の全原発五十四基が停止したことがある。現在は大飯原発が稼動しているほか、安倍首相は「今後新たな原発建設も指向する」と言い出している。原発ゼロは早くも夢のかなたというのだろうか。情けないことである。
 私は現在と未来の人類のために、原発が少しでもなくなっていくことを望む。
                                

                             2014年4月1日
                               作家・
日大芸術学部教授
                                            夫馬 基彦

 
  

                            日記


10月1日