風人日記 第五十一章

寒くなる

2014年10月1日〜12月31日






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              お知らせ (*日記はこの欄の下方にあります)


『季刊文科』(鳥影社刊)53号より短篇連作「信州アカシア林住期」を開始

      http://www.choeisha.com/bunka.html 

 53号(2011年8月、本体1,000円) 「信州アカシア林住期」

 54号(2011年11月、本体1,000円) 「信州アカシア林住期その二 夏の転変」

 55号(2012年2月、本体1,000円) 「逆接のウズベキスタン」(信州アカシア林住期 その三)

 56号(2012年5月、本体1,000円) 「真冬の散歩者たち」(信州アカシア林住期 その四)

 58号(2012年11月、本体1,000円) 「シークレット・ズー」(信州アカシア林住期 その五)

 59号(2013年4月、本体1,000円)  「小諸の道」(信州アカシア林住期 その六) 

          
               

  大手書店、アマゾンなどのネット書店にて発売中。鳥影社から直接購読も可。


『オキナワ 大神の声』(飛鳥新社刊 2200円+税) 


 
            


 7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集。



 一昨年、いろんな推移の中で三ヵ月ほど日本の全原発五十四基が停止したことがある。現在は大飯原発が稼動しているほか、安倍首相は「今後新たな原発建設も指向する」と言い出している。原発ゼロは早くも夢のかなたというのだろうか。情けないことである。
 私は現在と未来の人類のために、原発が少しでもなくなっていくことを望む。
                                

                             2014年4月1日
                               作家・
日大芸術学部教授
                                            夫馬 基彦

 
  

                            日記


12月31日 いよいよ大晦日

外は霧で真っ白。寒そうな朝です。
今年も今日で終りとなると、もの寂しい。老いた母が田舎の病院で入院したままと思うと、もの悲しい。兄嫁が(たぶん)泊り込んでいると思うと、申し訳なく、胸が痛む。

そういう私も、昨日ほどではないにせよ、首や肩、両腕、足裏などが痛く、歳かなあともの悲しい気分だ。なんとか気分を取り直し、明るい正月を迎えたい。


12月30日 手足のしびれ

今日明け方、手足のしびれで目が覚めた。起きだし、朝食を食べてから、医院へ行こうと車に乗ったが、窓は凍っているし、道もかなり凍っている。医院の話では昨日はものすごく混んだそうだし、今日の午前が年内最後とのことだから、怖れを感じ、医院行きをとりやめた。

ま、症状もどうしても診てもらわねばというほどではなかったということだろう。掃除がまだ少し残っているが、それで体を使い、あとは年末年始とほろ酔いでいれば、なんとかなりそうに思ったのである。
手足のしびれについてネットで調べたら、糖尿病から来る場合もあるそうだ。それならじたばたしてもはじまらない気がしたのも理由のうちだ。

体の不調は歳とともにあれこれ起こる。いちいち気にしてもしようがないだろう。私の場合、あまり長生きをしたい気もないし、まあ、男の平均寿命(約80歳)程度で上々と思っているので、71歳の現在、ごく自然に食べ、暮していこうと思っている。酒も飲む。雪見酒はうまい。


12月29日 しんしんと雪が降る

今も外は雪一色だ。降り続いているから10数メートル先は見えない。いかにも寒そうだ。

26,27日と名古屋へ行っていたので、よけいこちら(小諸)が寒く感じる。名古屋からの中央線の帰途、列車が中津川(岐阜県)を過ぎ木曽福島(長野県)へ入ったとたん、雪が積もっていて、ああ、長野は雪降る山間の地だなと実感した。が、篠ノ井でしなの鉄道に乗り換えてからは、雪は少ししかなく、ホッとしたけど、今朝になって様相はだいぶ変った。

これでは買い物に行くのも大変だが、年末のこととて行かぬわけにもいかない。様子を見て午後二人で出かけるか……。

リウマチ(だろうと思う)で両腕、左足、腰などが痛い。ヤッパリ寒いと出やすいのかしら。室温はいつも通りで別に寒くはないのだが、新聞をとりに外へ出たりするのがいけないのかな?

要するに歳かな、とも思う。名古屋程度へ出かけるのがしんどくなってきた。


12月28日 母に会ってきた

今年98歳の母が入院したので、名古屋まで会いに行ってきた。腸に故障が生じた。

すっかり白髪になった頭を横たえている姿を見たら、ああ、おふくろもずいぶん生きてきたなあ、と改めて感じた。もうじき1世紀分になるのだから、大したもんだ。

手術をしたが、なぜそんなことになったかがまだのみ込めていないらしい。何度もしきりに聞いては、「なぜ」というような顔をしている。排便に関して今のところは付き添いの兄嫁や看護婦さんがその都度手助けしてくれるが、退院したら自分で対処せねばならない。「へーえ!?」と自分でもどうなるかしらといった表情だ。

1日目の午後、2日目の午前と、ベッドの脇の椅子に座りつづけた。起きているときは話し、眠っているときは母の顔をじっと見続けた。話はとりとめのない日常の事やら昔話やら、ぽつっ、ぽつっという感じだ。そしてまた眠っていく母の顔を見ていると、子供時代からのいろんなことが浮んだ。母は早くに夫(つまり私の父)を亡くしたので、私と兄を母子家庭で育てた。

その兄も50代で死んでしまったから、子は私一人だ。私は信州に住んでいるから、そうちょくちょくは行けない。2日目昼ごろになって、名古屋に住んでいる孫が、ひ孫二人を連れて来てくれた。2歳と半年の子だ。小さい子はあどけなくてかわいい。事態を何も知らず、ただ笑顔を振りまいたり、きょとんと見つめたりする。

母も私もそれを見て和んだ。母は子供の名を呼んでにこにこしている。文字通り世代交代、生命交代の図だ。

私はそれをしばらく眺めていてから、まだ子供たちがいる間に立ち去ろう、賑やかなうちに、と思ってそうした。



12月22日 なんと1週間も 

この日記を書かなかったのである。こんなことはたぶん今までなかった(外国旅行中とかを除く)。かなりの忘れようだ。

このごろ物忘れが多いので、改めてうーむと唸った。忘れていること自体を忘れている感があるから、よけい腕組みしてしまう。ほかの日常事でも、このごろ類したことがあり、いよいよ歳かなあとかなしい気にもなる。

尤もその結果不都合事は何も起きていないし、別に問題ないとも言える。あるいはだからこそ忘れているともいえよう。気にせず済ませてもいい気がするが……。

いや、そういう考え方自体が、老化現象なのだろう。何も不都合はないというなら、まさに存在自体がいてもいなくてもいいということだろう。やっぱり定年後ののんびりモードが根底にありそうな気がする。

去年末定年になり、授業も1月末で終り、2月にはマンションを引き払い、以降信州オンリーの暮しになったのが大きい。当初は解放感に快哉を叫び、はればれしたが、いつの間にか何もせぬこと自体に慣れてしまったのだろう。

代りに久々に新しい作品を書くことにしたはずだが、活字発表の場がすぐにはないため、ついついそのままになっていってしまった面もある。つまり締め切りも媒体もせっついてくれる編集者もないから、こういうことになる。

うーむ、確かにもう引退者だなあ、と改めて思う。 はて、どうするか。
もの寂しい気もするが、穏やかでいい気分もある。
それらが並立するところが難しい。

うーむ、諸先輩方、どんなふうに過ごされたのか、佐々木基一さんやら、那珂太郎さんやら何人かの方を想いうかべ、老後の過ごし方を探る……。



12月15日 つまらぬ結果だなあ

総選挙結果を今朝の新聞で見たが、なんの面白みもなかった。自民党と与党が圧勝というか、ほぼ今まで通り。民主党の海江田代表は落選し、代表辞任となったが、後任に果たして鮮やかな人物がいるのか、心許ない。

ダメな民主党である。いや、ダメな日本である。



12月14日 一面の純白世界

昨日は遠景としての浅間連峰が白かっただけだが、今日は朝カーテンを開けるなり視界すべてが純白だった。今冬初である。小諸で雪が積もること自体年に1度程度だから、ひょっとしたら今日がそれかもしれないし、まだ12月であることを思えば、冬のうちにもう1,2回あるのかもしれない。

木の上に積もった雪のことを着雪というそうだが、雪がやんだ後も、それが時折バサッと落ち、しばらく余波でそのあたりだけ雪が降っているように見えたりする。着雪はいつ落ちるか分らぬし、落ちる木や場所も分らぬから、しばらく、歩く場所に気をつけねばならない。

遠景の浅間連峰は山裾近くまで雪にまぶされている。峰部は純白、下にさがるにつれ少しづつ白色が薄くなる、めったにないきれいな風景だ。この白がだんだん消えていく様を眺めるのも退屈しない。いわば雪変化である。

こういう時は外歩きも楽しいのだが、昨日以来筋肉があちこち痛むなどどうも体調不十分なので、午後の投票の際も車で行こうと思う。残念だが、やむをえない。


12月13日 浅間連峰が真っ白

書斎の窓からは右端の浅間岳から、左へ順に黒斑山、高峰山、三方が峰、烏帽子岳、奥烏帽子岳、と連峰がちょうど見渡せる。いつもはそのうち右端の浅間岳と一番左の奥烏帽子くらいしか冠雪しない。

ところが今日はそのすべてが冠雪し、純白の山脈となって見えている。高峰山の肩口あたりは、スキー場と温泉があり、小諸駅からそのあたりまでバスが通っている。上はきっと一面の雪世界で、土曜日の今日なぞきっとスキー客でにぎわっているだろう。

スキーに関心のない私は、夏場に年1回くらい散策に行くくらいのものだから、人によってはもったいないと思えるかもしれない。が、私は頂上部の白、7,8合目の針葉樹の森、その手前の飯綱山、問いながらにして眺められるだけで至極満足している。

更にはずっと手前の鈴生りの柿の実や、早くも来春用の蕾をいっぱいつけているこぶしの木、などまでの変化が楽しい。惜しむらくは動くものが2,3種の鳥くらいしかないのが残念だ。昔1年ほどいたインドなぞだと、色とりどりの鳥のほか猿や栗鼠など獣も何匹かは動き回っていたものだが。


12月12日 選挙が近いらしい

14日が投票日だとは、頭の中では知っていた。だから「らしい」という言い方はおかしい。
が、これまで我が家の近辺には選挙カーの類は1台も来ず、また天候その他の理由で町へもろくに出なかったので、いわゆる選挙風景といったものにからきし出合ってこなかったのである。

が、ついさっき初めて選挙カー、それも候補者のではなく市か選管の広報車が選挙日を告げながら通ったので、そうそう、選挙だった、と改めて認識した。けれど、投票したい候補はいない。従来こういう時は政党名だけで判断して投票してきたが、今のところ今回はどうもそういう気にもならない。

困ったものだ。政治に関心がないわけではない。選挙の結果に期待が持てないのだ。面白さとか意外性といったものがほとんどない。つまらないねえ。



12月10日 選挙期間

新聞で見て、改めてそうか、と思うのだが、まだ選挙カーも1台も来ないし、静かなものだ。町へ出れば違うのだろうが、寒くてろくに外へ出ないから、情勢分らず。

田舎の98歳の母はどうしているだろう? 妙な時に思い出すものだが、彼女、選挙なぞこの頃どうしているのかしら、とふと思った。


12月7日 今日は寒い

明け方が零下7度、日中の最高気温が0度とか3度の予報だそうだ。これは寒い。

全館暖房の我が家は、屋内にいる限りあったかいが、うかつに外には出られない。明日は上山田に出かける予定なので、風邪なぞひかぬよう、本日は終日家にいよう。

浅間連峰は雲に覆われている。どうやら雪らしい。



12月5日 浅間連峰雪化粧

書斎の北窓からは浅間連峰がちょうど正面に横一列に見える。右端から浅間山、黒斑山、高峰山、三方ヶ峰、烏帽子岳、奥烏帽子岳で、間に通称赤ザレや、ぎっぱ(ぎざぎざの歯の意?)なぞもあるので、正確には何峰あるか分らない。

ふだんは一番標高の高い浅間山(2568メートル)ぐらいしか冠雪していないが、今日は右から左まですべてがほぼ純白に雪化粧しており、見事だ。比較的低く平らな三方ヶ峰の後ろにふだんは見えない連峰がもう一つ横に伸びており、それが真っ白なので、こんなに山が幾重にもあったかしらと目を瞠る。

これは今の我が家に住みだして数年目の発見で、我ながら半ばほんとかしらと思うほどだ。雲というのはいつも同じ場所にあると、そこに山が隠されていると気づかせないのかもしれない。いやあ、きれいなものだ。そして早くも雲が広がりだして、後ろの山系は見えなくなった。うーむ、つかの間のパノラマだった。


12月3日 71歳になる

もう60代のころからどんどん速く年をとる感じになって来ているので、あまり驚きもなくなっているが、去年くらいから大台は越えたなという実感はある。古希なぞという感はいまはないが、老人になったなとは思う。

今朝、市の胃がん検診というのに行ってきた。2,30人が座って順番を待ったが、隣のいかにも老人ふうの書類をチラと見たら、72歳と書いてあった。一つ違いだ。うーむと思ったのは、してみると自分も他人からすれば同じように見えているのだろう、と考えたからだ。

しかし、体力的には私に限らず同年配者がまだまだ元気に感じる。体力トレーニング教室や行きつけの喫茶店へ行っても、むかしなら老人とされる人たちが極く活発だ。男の平均寿命が80歳の時代だから、当然かもしれない。

私が少年時代は確か平均寿命が男は63歳くらいじゃなかったかしら。いや、67歳だったか?
いずれにせよ60代だった気がする。村に喜寿(77歳)の人が出ると、赤飯が配られたものだ。今じゃ、そんな赤飯なぞまずないだろう。

ゆえに私の歳なぞめでたくもなんともないわけだが、ちと残念な気もする。



12月2日 一昨日、寺浦・井子遺跡へ行く

一昨日の日曜日、隣の東御市・小諸市の境界界隈にある縄文時代の遺跡を、友人のEさんとともに歩いた。寺浦遺跡には簾の子や藁でできた縄文住居が1戸あり、往時がよく分った。真ん中に囲炉裏があり、背というか屋根の頂上はかなり高い。

井子の方は、平たい石がたくさん点在し、なかには「会食席」と通称される、往昔の宴会時のテーブル石があるというので探したが、それらしきものはいくつかあったものの、特定はできなかった。近くには発掘途中の長方形の穴がいくつもあり、かなり大きな集落あとだったと知れる。

雷電の出身地がこの近くにあるらしい。界隈は全体に見晴らしがよく、ずっと下の千曲川をはさんで、御牧ヶ原方向まで広く見渡せる。往昔の人々も川を見下ろしアルプスと対坐する形で、雄大な景色を楽しんで暮したに違いない。



11月29日 今日は寒そう

朝、いつもの起床時刻になっても部屋が暗いままなので、つい起き出すのが遅くなった。カーテンを開けてみると、雨だった。

門まで新聞をとりに行く際はさほど寒さを感じなかったが、これからずっと降り続くとなれば、気温は下がるだろう。浅間連峰も全く見えない。昨日、きれいに冠雪していた浅間岳の雪も融けてしまったかしらと心配だ。上の方は雪にでもなっていればいいのだが。

西側の斜面林との境界木たちも7−8割がた葉が散ってしまった。向う側が透けて見えるのは少し新鮮感もあるが、淋しい感じもある。いま気がついたが、「淋しい」という字、水に林と書く。まさにいまがそうで、淋しげで寒げである。



11月24日 長野地震、城所昌夫画伯のこと

一昨日の夜、長野県北部(新潟県境近く)でかなりの地震があった。東信地方と呼ばれる小諸市でも揺れは相当強く、しばらくは椅子の手すりをつかんで照明具の揺れ具合なぞを不安な気分で見つめた。二階で何かが倒れる大きな音がしたが、テレビで「余震の恐れあり」と報じていたので、そのまましばらく動かなかった。

しばらくたって二階へあがってみると、書斎のサイドボード上に置いていた50号ほどの重くて大きい額が他の置物ともども床に転げ落ちていた。額およびサイドボード、床にいくつか傷が付いていたが、まあ、大したものではなかったのでホッとした。

額はもう40年近く前、知り合いの城所昌夫画伯から買ったもので、ほぼ全面ブルーの画面左やや上部に紺色の茄子が1個だけ生っている図柄だ。私はこの絵が好きで、埼玉のマンション時代も、小諸引っ越し後も、大げさでなく毎日見て暮してきたのだが、どちらの場合も壁にかける形でだった。

それが一昨日来、床に置いた形−−つまりだいぶ低い位置で見ることになった。机の前に座った位置からでも茄子は目より下にある。おまけに北窓のカーテンを開けておくと、外の木や風景が画面上部に映って見える。窓際の壺なぞも映っている。

おかげで茄子が外の木々や壺の下にある形になり、だいぶ印象が変る。茄子が孤独でなくなり、しかも外界と対照して見える。これも悪くないなというのが率直な印象で、思わぬ発見だ。絵はそれ自体だけではなく、周りとの関係で見え方も変る、ということだろう。

生きておられればもう九十何歳かだと思われるが、どうしていらっしゃるか。懐かしいかぎりだ。地震の余波で思わぬ思いがよみがえった。



11月21日 茄子を伐り、葱を植える

東側の小さな畑に茄子の木が2本あったのだが、さすがにもう生りそうにはないので、伐り、近くに太ネギを2本植えた。こんな寒さのなかで果たして育つかしらという気もするが、葱は寒さに強いから、少なくとも枯れはしない。生きていて、新鮮さを保ってくれればそれでいい気がする。

それにしても葱は強いものだ。そして年じゅういつでも食べられ、便利なものだ。近所を見ていても、どこの畑にも葱はある。ひょっとしたら、日本で一番植えられている野菜ではないかしら。



11月19日 だいぶ御無沙汰

その間にすっかり冬になりました。浅間の冠雪は当然として、もっと下のお隣の野原なぞがこのごろ、朝は真っ白です。霜ですが、朝、カーテンを開けると、おお、寒そう!と感じます。

紅葉は御近所でも庭樹の類はもう散り終り、自然木だけが半分残っています。懐古園は紅葉平だけが少し残っているかしら?

街へ行くにも寒くなりつつありますが、少しは歩かなければと、なるべく出ることにしています。そばか紅茶、そして図書館。プレハブの仮図書館が近くて便利です。すぐそばに行きつけのベル・コーヒーもあるのが利点。地元の新聞類はたいていこの2か所で読みます。



11月14日 昨日はハイク・ウオーキング

友人のEさんの車で郊外まで出、そこから佐久市の八幡神社界隈を歩いた。八幡神社には往昔の渡来人ゆかりの高来社(高麗社)があるのが眼目。二つの門が実に凝った造りで、彫り物が満艦飾だった。ただし、色ははげ落ちている。

中山道も昔の風情を少し残しており、面白かった。風が強くて寒かったので、早々に引き揚げたが、天気が良ければ中山道界隈のウオーキングもよさそうな気がした。



11月13日 浅間連峰冠雪

浅間冠雪ではなく、連峰冠雪であることにご注目ください。つまり浅間岳だけならすでに何日か前からそうなのですが、今日は連峰のほかの峰々ーギッパや前掛け山、黒斑、高峰、奥烏帽子なども頂上部が白いのです。

いよいよ冬だなあという実感が強く迫ります。特に高峰まで冠雪となると、書斎の窓から正面なだけに、「冬山ぁー」という感じになります。ぐっと手前の柿の実との対比がまた目立ちます。

今日は午後、御牧ヶ原の高来社へ行く予定。高来つまり高麗、むかし渡来人が望月の駒なぞを育てたあたりらしい。そういえば駒も高麗の字をあてられるのは偶然かしら?


11月12日 柿の生り年

2階の書斎の窓から2軒先の家に、柿の木がある。そこに実がいっぱい、まるで花のように生っている。ざっと数えて200から300個。我が家にそこからもらった柿が30個はあるから、総数はどのくらいあったのだろう。むろん、実はすべて甘い。

それとは別に、我が家の前の坂道を少し登っていくと、やはり同じくらい鈴生りの柿の木があり、さらに少し行くとまた鈴生りの柿の木がある。この木は少し渋いが、焼酎を吹きかけ1週間も置いておくと、至極甘くなる。置いておくだけでもいい。

なのに、どの木もろくに実は採られない。いつまでたっても鈴生りのままで、だんだん落ちたり、鳥に食われたりしていきそうな様子である。

この界隈には子供というものがいないし、柿の持ち主にしてもわざわざ木に登って採る人はいないみたいだ。数年前、書斎の窓から見える柿の木に登って実を採ろうとした80歳の老婦人が、木から落ちて死亡したから、もう誰も登らないのかもしれない。

ゆえに実が柿色の花のように生りつづけている。登らずに採るいい方法はないものかしら。



11月9日 寒い朝 

敷地内のアカシアなどがほとんど葉を落したので、西窓からも見晴らしがいい。その西も北も紅葉で多くが茶色。遠くの柿の実がまさに柿色に満ちている。
曇天なので薄暗く、遠景は雲に覆われ、浅間連峰の峰部はうっすらとしか見えない。

寒々しい視界であり、実際、寒い。なんだか死にたくなる。
近来、明け方、ベッドのなかできまってそう思っていたが、今日なぞは起きてからもそう感じている。
実際、もう死んでもいい歳かもしれない。特にやりたいこともないとも言えるし、死んでも困る人はあまりいないような気もする……。

冬がこれからどんどん進行していくだろう。



11月7日 冬立つ

今日は立冬なのですね。今年の冬は寒そうな予感がします。
小諸は信州のなかでも寒いですね。長野などの方がよほどあったかい感があります。



11月5日 10数メートルの蔦が一気に

正式名を知らないのだが、我が家のアカシアの木に、今年春ごろから下から蔦が2本するすると伸びだし、夏には高さ10数メートルまでになっていた。

以前、出入りの庭師さんは、ああいうものは早めにとらなきゃいけない、木のためによくない、と言っていたが、私はグリーンがするすると伸びていくさまが面白くてそのままにしていた。

さっき庭の手入れをいていて、その蔦を何気なく引っ張ってみたところ、さほどの労苦もなく取れそうな気がした。で、思い切って力を込め引っ張ってみたところ、面白いように引きはがれ、10数メートル分そっくりとれた。面白くて2本目も試みると、これまた、そっくりとれてしまった。

あっけないくらいで、こんなことなら1本は残しておけばよかったかなと思ったりしているが、しかし来春になれば、どうせまたするする伸びるに違いないという気もする。この際は、いつかの庭師さんの言に従っておくことにし、来年はもっと意図的に楽しんで蔦を伸ばしてみようかと思っている。

こういうこと、よくご存じの方あれば、何かアドバイスをください。



11月3日 浅間冠雪 

今朝、北の窓から覗いたら浅間岳が冠雪していました。真っ白というほどではなく、薄白い感じですが、しかし雪は雪、ああ、まもなく冬だなと感じます。

手前は姫シャラや辛夷がきれいに色づき、一年で一番きれいな時です。西空遠方は今は雲が出ていますが、、雲が消えればこれから冬にかけ純白の白馬連峰が見えるはずです。きれいなもんです。

柿の実たわわな木があちこちで目に付きます。まさしく鈴生り、例年に比べて実に多く、さては「なり年」かと思わせます。


11月2日 はや11月も2日

早いものでどんどん日がたつ。紅葉に見とれているうちに、秋が通過していく感じだ。今も隣家の紅い姫沙羅の葉がはらはらと散っている。西側の黄色い桂の葉も半分は散ってしまった。南側のユリの木だけは黄葉の最盛期という感じ。

今日あたりは懐古園の紅葉を見納めるためにも、散歩に行く必要がある。馬場は終り近くてももみじ平はこれからかもしれない。

御牧ヶ原の高来社あたりにも行ってみたい。往昔、高麗からの渡来人が駒を飼ったあたりらしい。


10月31日 秋も終盤

今日は曇天のせいか、めっきり寒い。先ほど、近所の日帰り温泉に行こうかと思い立ったのだが、行くのはいいが、帰りが寒くはないかと心配になり、取りやめた。

書斎の窓外も紅葉が日ごとに増しており、曇天だとうす寒く感じる。紅葉が風情があるのは好天の場合であり、曇天の夕だと寒々しい。それより熱い風呂をなぞと考えるのは、歳のせいもあろうか。
しかも出かけるのは嫌で、うち湯で行くか、となるのは、まさにそれだろう。困ったものだ。



10月28日 母に会う、98歳

一昨日は久々に郷里へ行き、母に会った。少し背が丸まり、小さめになっていたが、顔も意識も元気なものだった。一緒に行った娘のことも一目見てすぐ名前を呼び、前に会ったのがいつだったか正確に言った。

私も娘も内心、ここらで会っておかぬともう会えないかもしれないと思ってのことだったが、母の方も「もうこれが最後かも知れんね」などと同じ認識を示した。だからかえって、もう何年か大丈夫かもしれない、もう1回やそこらは会えるかも、と感じたが、むしろ心配は兄嫁の方の体調が悪いことで、近々手術かもという話だった。

兄嫁は当然母より一世代若いし、母を看取ってくれるものと思い込んでいたが、これは分らないぞという気がふとした。世の中、予測通りにはいかぬものだ。なんとか元気に生きてほしい。



10月25日 一気に紅葉すすむ

西側の崖際の木々も、今朝起きたらびっくりするほど黄色くなっていた。我が家のアカシアの葉もほぼ黄色になったし、これでどの方角を見ても紅葉オンパレードとなった。敷地内に10数本あるアカシアの葉が半分は落ちたため、木の向う側もよく見える。そこへ落葉がゆっくり、ヒラヒラと落ちていく。

いいものだ。春(ここらでは4,5月)の新芽時と、今頃の紅葉時が一番いい季節だ。毎日朝、カーテンを開けるのが楽しみである。



10月24日 懐古園の紅葉すすむ

今朝早く懐古園へ散歩に行った。馬場には菊花展のテントが立ち並んでいたが(早朝なのでまだ閉じたまま)、その周りの桜や楓はきれいに紅葉していた。一巡して藤村記念館前へ行くと、欅の巨木が見事に紅葉していた。例年は茶色に変じるだけみたいだったが、今年は少し紅らんでいてきれいだ。

水の手展望台へ行くと、下の千曲川上あたりいっぱいに濃い霧が立ち込め、ダムも川も見えない。対岸の袴腰も下半分は見えず、幻想的な光景だった。これからはどんどん寒くなっていくので、ここからの景色も変化していくだろう。



10月23日 ウオーキング延期

今日の午後は友人のEさんと高原美術館の向う側へウオーキングに出る予定だったが、どうも天候がはっきりしないので延期にした。さっきまで雨が少しぱらついていたし、予報では雨か曇り。降らないにしても、曇天のなか傘を用意して歩いてもあまり気は晴れまい。

紅葉はだいぶ進んだ。隣家の姫沙羅はもうほぼ赤だし、西側の林業小屋周辺は桜が真っ赤に近く、桂が黄色で、色どりがいい。昨日歩いた懐古園も桜や楓、檜など彩り豊かだった。西北西の崖の自然林はまだ緑が大半だが、それでもやや黄色がかってきた木もある。

散歩には絶好の季節である。暑からず寒からず、あちこちにもみじが見え、街の静けさも心地いい。



10月21日 ウオーキング昼食

昨日くらいから、夜中や朝起きてからもあし(大腿部)が痛い。特に左が、おもわず「いたた!」 と口に出してしまうくらいである。
今もそうで、パソコンに向いながら、左大腿部上部がチクチクっと痛んだり、と思うとすぐやんだり、また繰り返したり。

激しい運動のあとなぞになる症状なので、はて何だったかと考えてみたが、思い当たるのは1週間前の「体力トレーニング教室」での足(脚)上げぐらいだ。いすの横に片手を軽く椅子の背に置いた形で立ち、片足づつ直角に上げて伸ばし、ゆっくり10数え、足を左右変えてまた10数え、を2回づつ繰り返す簡単なものだ。

しかしやっている間も結構脚が痛く、10終ると皆ふーっと息を吐いたものだ。その後は多少痛みはあったもののさほどではなかった。それがこのごろになって夜中に目が覚めたり、今もこういう文を書きたくなるほどに痛むのである。

歳をとると反応が遅くなるというけれど、こんなふうに1週間置いてから痛むものかしら。妙なものだと思いつつ、しかしいかにも運動をした結果だという一種自虐的快感もあるから、悪い一方ではない。

きっと、しょっちゅう同程度の運動をしていればこんなふうに間を置いて痛まず、直後から時間とともにだんだん痛みは減じていくのではと思うのだが、違うかしら? 痛みをとるためには少し歩くとか運動をした方がよいのかもしれない。というわけで、これからウオーキングを兼ねて街へ昼食に出かけます。



10月19日 朝の庭掃除、木の根元

といっても庭全部ではないのだけど、東側の朝日があたる部分を少し整理した。刈った草が枯れてたまっていたからだ。そして、その枯れ草を柿や桜の木の根元に保温するように丸く置いたが、置いてからこれはいいのかどうか少し疑問にも思った。

いつぞや植木屋さんに根元は草が生えるのはいいけど、ほかのものは置かない方がいいと聞いたような気もしてきたからだ。どうも記憶があいまいなのが我ながら悔やまれる。枯れ草などを置けばあったかくてよさそうな気もする一方、しばらくすると湿気がたまって濡れたり、虫類がいっぱい集まったりもする。

御存知の方、教えてください。自宅ではこうしているといったことでも結構です。よろしく。



10月18日 初霜

今朝、窓外を見たら野原が霜で真っ白だった。例年よりちょっと早いような気がするが、そう違わないかもしれない。隣家の姫沙羅もだいぶ色づいた。我が家の木はアカシアが少し黄色になったと思ったらすぐはらはらと散って行ってしまうので、緑のままみたいに錯覚させる。

何はあれ寒くなった。


10月16日 寒い朝

新聞をとりに門まで出たら、寒かった。10月も半ばともなれば毎年のことでもあるが、しかし玄関近くにジャケットを常時置いておかなければならなくなると、ああ、冬が近いなとも思う。信州では11月になるともう冬なのだ。

紅葉も進行してきて、隣地の桜は真っ赤と言っていいし、近所の銀杏も色づき始め、銀杏がだいぶ落ちている。散歩のつど少しづつ拾ってくるだけで、晩酌のつまみが出来る。近所の道端の柿の木の実もいっぱいである。

その柿の実を拾ってくるので、我が家は今朝も柿を食べたが、柿の木の下には枝打ちをした枝がまだ実をいっぱいつけたまま打ち捨てられている。昔みたいに拾ったり採ったりする人がこのごろはいない。子供たちなぞもまるでとらない。というより子供たちがいないとも言える。わが町内にはひょっとしたら小中学生がゼロなのかもしれない。

おかげで静かなもんだが、やはり寂しくもある。近所はほとんど定年者ばかりだ。まるで定年町内である。



10月11日 観光客いっぱい

昼食を食べに外へ出たら、三の門まえあたりに観光客がいっぱいだった。隣の駐車場にもバス類がいっぱいだった。

秋の今頃は観光客が多いことは多いが、それにしても多いなと感じ、そうか、世間は連休かと思った。3連休の初日、世は観光客で満ちているのだろう。

それをしり目にいつもの刻そばへ行ったら、ここはいつもの常連やまていさんひとりのみ。やあやあとあいさつし合い、昔話に花を咲かせた。といってもどちらも見たことのない明治2年に、やまていさん家が群馬から小諸に引っ越してきた話。

ひい祖父さんだかが古着屋を今の場所に開いたそうだ。そのご婦人洋服屋になり、やまていさんで何代目なのか、とにかく明日は東京へ仕入れに行くそうだ。浅草の卸屋を歩きまわり婦人服を品定めして発注、佐久平へ送る手配をしてくるそうだ。

何気なく聞いていたが、男が婦人服の品定めをどんなふうに、どんな気持ちでするのか、ちょっと興味をひかれた。客は毎日あるそうだし、どんな女性客がどんなものを買っていくのか、やまていさんの頭にはちゃんと見込みが立っているのだろう。もう78歳の爺さんだけど、頭の中は婦人服のことで一杯かと思うと、不思議でもあった。



10月8日 死にたい

友人のmixi日記を見ていたら、こんな彼自作の歌が出てきた。 

  青空にひつじ雲が浮かんでる今日は死ぬにはかなりよい日だ 蝶人

後半部ちょっとこなれが悪いが、しかしそこが妙に胸に合う。絶対の死ぬ日びよりなぞというものにはまだ出くわしたことはないが、ちょうど今朝なぞは青空を眺めわずかな紅葉模様を見、いつもは行かない神社の境内裏手から千曲川のダムを遠望し、いっぱいに落ちているどんぐりの大群を避けて歩き、いつも行く懐古園へは行かず自宅近くに戻って野原を一巡したあたりでふと、もう死んでもいい歳かな、と思ったのだ。

理由は別にない。しいて言えばこのごろ、オレも70歳になったんだな、という思いを時々持つようになったからかもしれない。肉体的には大した変化を感じてもいないが、七十歳という語感が老年というイメージをかなり強く感じさせる気がするのである。

そしてイコール「死」というイメージも無意識に喚起させているのかもしれない。いまのところ多少の高血圧、多少の糖尿病、多少の高脂血症くらいしか持病もないから、そうそう早く死ぬ可能性もなさそうで、ま、要するに男の平均寿命くらいまでは生きるんだろうなと思っているのだけれど、それでも「老年」と「死」が現実としてだんだん近づいてきたということではあろう。

別に感傷もない。ただ秋空に誘われて、そういう事実を想いうかべたというだけである。別に死んでもいいし、死ななくてもいい。あと十年生きてもいいし、もう少し長くなったり短くなってもいい。あまり、「何かへの思い」といったものもない。しごくたんたんとした気分なのだ。

で、「死ぬにはかなりよい日」という言い方が胸に合った。


10月7日 快晴碧空

秋のさわやかさプラス寒さ少し。紅葉はあまり進まず、桜や姫シャラ、楓くらいが目立つ。我が家に多いアカシア(10数本ある)は部分的に黄色くなった程度。例年もこんなに遅かったかしら?

懐古園の桜も半分はまだ緑のままだから、こんなものかもしれない。これから一気に進むのだろう。それにしても青空がきれいだ。



10月6日 ずっと雨、孫の顔

今朝も朝から降り続いている。台風の影響であろう。おかげで空は暗く、木々も暗く、寒々しい。
雨自体は庭の草木や畑のためにも歓迎なのだが、暗く寒いのはやはり憂鬱になる。外は明るく、日差しのもとが暖かいのが一番だ。

こういう時はふと、遠くに離れている母や娘、古い友人などがどうしているかと想いが浮ぶ。母は98歳だ。娘はまだ子も作らない。「孫の顔が云々」という言い方が昔からあるが、私もふと孫の顔を見てみたい気がたった今、初めてした。

考えてみると、孫の顔を見るのは未来を見ることになるから、老人には明るい気分をもたらすのかもしれない。



10月5日 寒そうな一日

さっき新聞をとりに門まで行ったら、寒かった。予報では日中は雨だそうだから、一日寒い日が続きそう。雨は台風のせいもあろう。

雨がぽツンポツンと落ちてくるから朝の散歩も取りやめたが、連れ合いは、なに、これくらい、とジョッギングに出かけた。彼女は毎朝、懐古園の馬場を6,7周走るから、これくらいは平気らしい。いざとなれば走り帰る自信があるのだろう。

この寒さでたぶん木々の紅葉も一気に進むだろう。アカシアの葉に黄葉が目立っている。


10月4日 神無月

日本の神さんはみんな出雲大社に集まってしまうので、他の国は神さんがいなくなるとされるが、田の神とか留守の神はいるそうだから、日本は便利だ。

秋たけなわの月で、来月にはもう立冬となり、冬入りするから、ある意味では秋も終りの月である。そのせいか今朝あたり、散歩に出た時、毛糸のカーディガンを着て出たが、暑い感じは全くなかった。水の手展望台から見下ろしたダムは寒そうに見えた。

今日は街へ昼食に出るつもりだが、いつものビールが燗酒に変りそうな気がする。
書斎の窓から見える木々の葉も赤や黄色がチラホラし始めた。赤は桜、姫シャラ、黄はアカシア、桂だ。

どれも好きな木で、毎日の変化が楽しい。


10月1日 10月の朝 

さっき懐古園を歩いてきたが、寒くなかった。桜の木なぞはだいぶ紅葉しているが、まだまだ全体としては緑が大半で、水の手見晴らし台に立っても、対岸の袴腰も緑中心だった。

紅葉はこれから進行し、10月中旬完成というところだろう。毎年見ているのに、日にちや進行具合はほとんど忘れている。記憶力が衰えたのか、この種の記憶というのはそういうものなのか。いずれにしろ、そのうち「おお、さむっ」という日が来、それを境に一気に冬模様に入っていくだろう。

寒さは歳とともにやはりこたえる。なるべく穏やかに願いたい。