小沼丹さんと大学の先生
                               夫馬 基彦

 私が小沼さんの名を初めて知ったのは早稲田の学生時代のことである。仏文科生だった私は作家志望で、文学研究会というサークルにも属して、出来れば学生時代中に芥川賞を取りたい、いや、いくらなんでもそれは無理だろう、しかしまあ、二〇代のうちにはなんとか取って、三〇の頃にはどこかの温泉に籠って小説を書いていたいなあ、などと夢のようなことを言い合ったりしている生意気盛りだった。
 そしてその頃、文学部の先生のなかに作家がいるそうだ、と話に聞いたのである。
「へーえ、誰?」
「小沼丹」
「知らんなあ」
 知っているのは文研のなかでもほんの二、三人だったと思う。文学部の女子学生などで、英語の授業で教わっているという者くらいだ。
「それで、どんな人?」
「うん、それがなんだかあんまり面白くもない普通の人なの」
「授業は?」
「ただリーダー読んでくだけ。発音も下手」「ふーん」
「そう。ふーん、これが作家か、って思うだけ」
「つまらんなあ」
 だが、誰か一人くらいがこうも付け加えた。「ただね、なんとなくどっか超然としたようなところがあって、ほかの先生とは一風違う感じもあるのよ」
「フーム。で、どんな小説書くんだ?」
「あの、家族が死んだ話とか、庭のこととか……」
「なに、ショボいなあ」
 なにしろ当時の私たちと来たら、小説といえばドストエフスキーにサルトル、カミュ、日本なら石川淳に安部公房、三島由紀夫、深沢七郎などといったところが主たる読書対象だったのだ。よって小沼さんはあっさり切り捨てられた。そういう人がいるらしいと名前だけは知ったが、読もうなぞとは全く思わなかったのである。
 初めて読んだのはそれから一〇数年後であった。私が中央公論新人賞をもらって三年ほどたち、第八次早稲田文学の編集委員に名を連ねた頃だったと思う。たぶん一九八〇年か翌年あたりか。早稲田文学がらみの何かの都合で、小沼さんの作を読んだ。作品名がどうしても出てこないのだが、確かその月あたりの文芸誌に出た作品で、庭に小鳥が来るといった内容だった。
 私はそれを読んで驚き、舌を巻いた。うまいのである。なんでもなさそうな、家庭だか家の周りのことが書いてあるだけなのに、実に淡々とし、かつ味わい深く、しかも小説技術的に極めてうまい。一〇年前だったらたぶん読んでも分らなかったろうが、ともあれ小説家の末端に連なって、毎日小説を書くことに呻吟していたときだけに、そのうまさと鍛錬がよく分ったのだ。人間の日常生活というものの意味も少し分りかけていたのかもしれない。
 以来、私は好きな井伏一門の作家の一人として小沼さんを読み出したが、お会いしたりすることはついにないままだった。そして多少なりとも直接関わったのは、一九九四年に出た『珈琲挽き』の書評を群像に書いたときである。
 このとき私は、著者略歴が「小説家、英文学者」以下たった二行だけであること、中身を読むと著者宅は、家の中を文鳥が自由に飛んでいるらしいことなどを取り上げ、「いいなあ。ほんとにいい」と二度も感嘆した。おかげで私はそのあと、友人の作家宮内勝典から、「あれ読んで笑っちゃいましたよ。夫馬さん、きっと狭いとこに住んでるんだろうなと思って。少しましなとこへ引っ越したらどうです」と言われたぐらいである。
 そして、このとき私は同時に、この「よさ」について、

――これはおそらく井伏一門的よさに加え、大学教授のよさだろう。平たくいえばここには毎月きちんと月給をもらえ、かつ休日がたっぷりある人の、品のいい安寧というものがある。

 と書いた。それは長年フリーの、食うや食わずで生きてきた貧乏作家たる身から出た本音でもあったが、このころ小沼さんはすでに目が悪くなっておられたそうだから、この私の書評は御覧頂いているか否か定かでない。 御縁は更に続く。
 私はこれから約八年後の昨二〇〇二年夏、八月一ヶ月をロンドンおよびイギリスで過ごした。しかもこのとき私は大学教授になっており、給料をもらいながらの妻と二人の優雅な休暇旅行だった。このほんの六年前から私は、日大芸術学部の文芸科で専任教員になっていたのだ。おまけに、このときロンドンには小沼さんの一番弟子にして、わが連句仲間でもある大島一彦早稲田大教授が、かつての小沼さんと同じ在外研究員として、場所も同じハムステッドにいたのである。
 となれば、もはや申すに及ばないだろう。私は着いてしばらくしてから、大島さんに連れられ、ジョンソン博士の家から誰々の家、ディケンズが行った飲み屋に誰々がよく行ったレストラン、ハムステッド・ヒース、テームズ近くのなんとか教会、等等々とずいぶんあちこち歩き回ったが、あとで気付くとその殆どが小沼さんの『椋鳥日記』に出てくる場所だった。大島さんが奥さんと住んでいたハムステッド近くの住居、また以前若いときの大島さんが住んだという下宿あとなども、要するに皆『椋鳥日記』に出てくる界隈ばかりなのである。
 ムムッ、さすが小沼直弟子、やるなあ、というところだったが、少しは大島さんの手を離れようと、私が妻の、これもむかし早稲田時代小沼さんの英語の授業を受けたというノンフィクション作家田村志津枝と二人だけで、独自路線開拓のつもりで訪れたテームズ下りも、カティサーク号のあるグリニッジ公園も、なんと皆、小沼さんの歩いたところばかりだったのである。
 いやはや、大学教授になったことといい、ロンドンでのこの体たらくといい、なんだか小沼さんの掌のうちで過ぎてきてしまったような気がしたものだ。
 してみると、私にもぼつぼつ「品のいい安寧」が訪れてもいい気がするが、それはどうもまだのようだ。私はつい今も、「つくりものとしての小説」、それも小沼さんは決して書こうとしなかった長編にあくせく挑戦した挙句、胃をこわして潰瘍を宣告されたところなのである。安寧はるか、小沼さんの境地遠し、だ。
              (小沼丹全集ー未知谷刊ー月報所収 2004年)