大谷崎の中(ちゅう)
                                         夫馬 基彦            

 1 大谷崎のゆえん

 私がこれまでに一番、文学、わけても小説を多読したのは三十代だったように思う。
 それまでの私は大学を文学部の仏文科を選んだせいもあり相応に文学青年だったが、同時に同等ないしそれ以上に政治青年であり、また映画青年だった。
 映画に関しては、レンタルビデオなどはもちろんなかったばかりか、四畳半一間の下宿にはテレビさえなかった時代だから、最大の娯楽にして無聊しのぎでもあり、学生時代は年間三百本以上見たと思う。文字通り内外の名作を安く見せる名画座二本立てをはじめ、土曜オールナイト三本立て「唐獅子牡丹シリーズ」「座頭市シリーズ」なぞというものまでを毎週見ると、そうなるのだった。

 政治の方は、背景にベトナム戦争という世界史的大事があったせいもあり、学生運動が興隆期に向うさなかだった。高校時代に六十年安保闘争を体験した早熟な左翼青年としては、次なる七十年闘争はあわよくば革命の導火線ぐらいにしようなどと願望ないし妄想に燃えていた。ゆえに読む本もマルクスやらトロツキー、日本のものでも社会科学系が優先し、部活の文学研究会ですら読むものは実存主義のサルトルや、シュールリアリズムのアンドレ・ブルトンらが多く、彼らと共産党との関係なぞが議論のテーマだったりした。私はフランスではカミュが好きだったが、「政治性が足りないのが物足りない」と批判したりもしていた。日本で一番愛読したのは、武田泰淳や堀田善衛などいわゆる第一次戦後派、それに高橋和己や吉本隆明、花田清輝など政治性の強い作家評論家たちだった。

 ところが、七十年安保闘争が革命どころかさしたる衝撃力もないままあっけなく終息していき、一方で出来れば映画監督をと思っていた職業的志向も、多少知った映画界の実情等から萎んでいき、やがていよいよ齢(よわい)三十を迎えるころから、急に小説および小説家が最も親近出来るものに感じられてきた。大勢の人を動かさなくてはならない映画とちがって自分一人だけで出来ること、紙とペンさえあれば書ける、といった現実的理由もあったが、人間やこの世界とは結局おのれを通じてしか見ることが出来ない、そのおのれの存在の井戸を深く覗き込むには「小説」という形式が一番向いていそうだ、と思い至ったからである。

 それで本腰を入れて読み出した小説は、経済的理由からほぼ文庫本に限られ、ということは当時の文庫本の性格から古典やかなり精選され評価の定まったものになったし、自分でも丁度いい、一度こういう読み方をしてみるべきだろうと考えていた。いわばわが人生の中で初めて近現代小説を、邪心なく、ある程度体系的に読もうとしたわけだ。

 対象は九割が日本文学になった。理由はどうも翻訳というものが好きになれなかったからである。それまでにも外国文学はある程度読んでいたし、それなりの感動や影響も受けていたのに、いざ自分が書くことを視座に考え出したら、翻訳の文体はどこか生きていない気がしたのだ。翻訳文はしょせん訳者のフィルターと語学力によって、歪められたとまでは言わぬにしろかなりの変更がされたもの、作者の真意は完全には読みとれないもの、という気がしてならなかったのである。もっと平たく言えば、作者の文体を本当には味わえない、それではつまらない、と思ったのだ。

 つまり私にとって小説の魅力とは、ストーリー性や内容と共に、文体・語り口の味わいが重大要素だったのである。
 こうして私は漱石・鴎外からはじめ、半ば経年的に当時の文庫本に収録されている日本の主だった作家の作品を読んでいった。私は読むスピードは決して速くないので、とても数種類ある文庫をすべて読んだとは言えないものの、それでも三十歳ごろから始まって十年ほどの間には、これはと思う作家の本は各数冊以上は読み、そこから触発されて新たな作家をまた数冊読む、気に入った作家は読み通せるか否かは別としてともあれ文庫にあるものは一通り目を通してみる、といったふうに進めた。

 そして当時、私より二世代上のいわゆる「第三の新人」(吉行淳之介、安岡章太郎、遠藤周作、庄野潤三ら)くらいまでは、まあほぼ読んだと言っていい。そのあとの「内向の世代」に関しては私と十歳ほどしか違わないせいもあって、古井由吉や後藤明生ら一部の作家しか読まなかった気がする。
 途中、私は三十三歳のとき、自分としては二作目の小説で中央公論新人賞を受賞し、以降、少数ながら具体的に小説執筆の注文を文芸誌から受けるようになったので、その意味ではよりプロフェッショナルに、具体的参考、目標になるかどうかを意識しながら、一作一作をかなり吟味しながら読んだ。

 そうしてその結果、私なりに明治以降の日本小説の見取り図を頭の中に作り、作家としてのベスト4、いわば四天王を策定してみたりした。むろん甲乙つけがたい人もあり、好みもありで、客観的には決めがたいのだったが、あれこれ出し入れしてみた末、当時の自分として決めたのは以下の四人だった。

 夏目漱石  谷崎潤一郎  太宰治  三島由紀夫

 異論はあると思うし、自身、志賀直哉や石川淳をどうするか、太宰ははたしてそれほど大作家かなど迷いはしたが、しかし四人という数字にこだわってみると、やはりそうなるのだった。そして、今もこの選択は満更間違っていない気がする。
 以後、私は人からその種のことを聞かれると、決まってこの四人の名を挙げたし、さらに十年近くたって私もどうにかプロの作家扱いされるようになっていたあるとき、某カルチャーセンターで開いていた「創作教室」生から、では、その四人の中で一番は誰か、と熱心な目で問われると、私はウームとだいぶ考えてから、「谷崎」と答えたのだった。

 品位と知性においては漱石、想像力の豊かさ華麗さにおいては三島、方法意識の多様さと捨て身の私(わたくし)性においては太宰、と思いつつ、しかしやはり小説としてのふくらみ、流麗な語りの日本語としてのまろみ・完成度から言って、谷崎が第一と考えたのである。

 それはこのころ、河野多恵子さんや瀬戸内晴美さんら女流の手練れがしきりに言挙げしていた「大(おお)谷崎」という言い方に賛意を感じていたせいもあったかもしれない。河野さんだったと思うがこんなふうに言っていた。
「大谷崎の「大」は大(だい)と読むのではない。大(おお)なのである。それは歌舞伎を大歌舞伎、相撲を大相撲というような意味での大なのであって、そこにこそ谷崎の谷崎たる魅力と華やかさがあるのだ」

 私は河野さんたちほどの谷崎ファン(贔屓というべきか)ではなかったが、なるほどうまいことを仰有る、その通りだと思った。歌舞伎や相撲の持つ、あの日本風の甍や姿の館小屋前にカラフルな看板や幟がはためき、着飾った老若男女が行き交う華やかさや大衆的吸引力、そして興行的ないし見世物的ケレンみ、日本文化的伝統、お茶屋的粋さ、ある種のいかがわしさを含んだ妖しさ、官能。そんなものたちが入り混じった独特の雰囲気。谷崎の世界には確かにそれらに通じるものがあるのだった。それは文学的うまさとか質うんぬんを超えた、もっと大きな国民的何ものかと言っていい。単に小説にとどまらず、芝居や映画にそのまま広がっていく世界である。実際、昔も今も谷崎原作の芝居や映画は実に多い。それも歌舞伎から新派、現代演劇、映画も時代物から現代物、外国作品まで、驚くほど幅広い。まさに「大谷崎」というにしくはなかろう。            

 2 谷崎作品ベスト四

 さて、その谷崎の小説作品を先の四天王ふうに格付けすると、当時、私が好みとして第一の作と考えたのは「吉野葛」だった。
 私はこれを三十代半ばで読んだとき、本当にぐいぐい惹きつけられるのを感じた。絶妙の語りだと思い、谷崎とはかくも知性ある人物だったかと見直し、いかがわしさ・妖しさが全くないところにも感心した。私はそれまで谷崎を「刺青」から始めて読み進めていたが、「刺青」や「秘密」「異端者の悲しみ」等初期作品は、通俗的な一種のアブナ絵的隠し小品にすぎないとすら感じていた。「刺青」以外は嫌いだったと言っていいかもしれない。

 それが関西へ移住した中期作品以降、ガラリと一変、古典的知性にあふれた、頭のいい名語り手として現れた印象があった。前後して読んだ「蘆刈」や「盲目物語」もかなりいいと思った。

 ただし、「吉野葛」はちょっと歴史考証的部分が長くて煩雑すぎる印象も持った。その部分になると折角の語りもどこやら考証学的になり、流麗な官能性を欠く気がした。そう、私は「吉野葛」は話としては殆ど官能性などないにもかかわらず、文章の流れに言いしれぬ心地よさと美しさを感じていたのだ。だから、二度三度と読み直したが、終結部近くの考証的部分にいたると、急に読むのが止ったりした。が、にもかかわらず、「吉野葛」は第一の作と長く思い続けた。  第二というかほかでは、小説の官能性・完成度として「春琴抄」が一番、また気ラクに読める面白さとして「猫と庄造と二人のおんな」が別格、と思った。そうして、先の四天王に習ってもう一作入れるとしたら、やはり「細雪」かなと思っていた。

 “「細雪」かな”と「かな」を付けるのは、正直、絶対と思っていなかったからだ。あるいは自信がなかった。世評、長さ、戦時中に陸軍省の忌諱にふれ連載禁止となったにもかかわらず秘かに書き続け、五年を経て戦後に完成・発表した経緯、流麗な語りの文章、華麗(そうな)内容、等からやはり大作、言挙げすべきだろうといわば情勢論的に考えて判断している面がどこかにあったのである。

 いや、もっとありていに言おう。
 実は私は、何回か挑戦したにもかかわらず、「細雪」をついに最後まで読み通せたことがなかったのだった。出だしあたりは、ウム、やはりさすがにうまい、きれいな文章だ、谷崎らしい語りだ、などと思いながら読み始めるのだが、新潮文庫で言うと中巻に入ったあたりから次第に倦み始め、なんとか努力しつつも下巻に入る前後あたりで、何かほかに忙しいことが起ったのを機に中断したままになったりするのが常だった。下巻もパラパラと斜め読みしたことは一度ならずあるが、ついにきちんと最後まで読めたことはない。

 理由は、私がこの作に限らず生来、長編があまり好きでない、長いものほど苦手のせいもあるが、もう一つはたぶん、話の内容と価値観、時代性のゆえではと思われる。
 「細雪」は要するに、大阪の船場のこいさんの縁談話の経過と、それにまつわる四人姉妹およびその連れ合い・恋人らのくちゃくちゃしたお喋り的世話話なのである。価値観は伝統的大店の相当頭(づ)の高い、金はあって当然の、堅固にして旧弊なもので、時代はまさに半封建的昭和十年代そのものだ。  

 私は古い時代のものを決して嫌いではなく、どころか「吉野葛」にせよ「春琴抄」にしろ相当古い時代背景なのだが、「細雪」はいわば現代風世話物の装いで進行し、当事者たちの価値観や生活風景が全面に登場するだけに、そういうものへの違和感がどうしても出てきてしまうのである。別にこの期におよんで元左翼的心情や革命精神が鎌首をもたげるわけではないが、この世界、なぜこうも見合いやら家の格、金のあるなしばかり気にし、おんなはしょっちゅう着物を着、帯を選び、もっぱら家の中だけで生きているのかと、うんざりしてくるのだ。登場人物の生態言動が相当緻密でリアルなだけに、よけいそうだった。私は現実的リアリズム社会(「細雪」は明らかにそうだ)として言うなら、もっと軽装の洋装で、てきぱき仕事をし、職業も持ち、行動範囲も広く、考えも自由な人たちの方がはるかに好きなのだった。

 だから、どうしても長引くにつれディテールに辟易してくる上に、いつ頃からか全体のストーリー展開は度重なる映画やテレビドラマ化でほぼ完全に知ってしまっている。実際、「細雪」は一九五〇年以来映画だけで三回、テレビドラマで五回映像化されており、どれも当時一流の女優陣を使っての力作だっただけに、どこかで目にしてしまっているのだ。
 どころかそれらには、どれがどのときの作か今や判然とせぬものの、映画では京マチ子やら山本富士子、テレビでは八千草薫や司葉子、新珠三千代といった名だたる美人女優の顔が幸子になったり雪子になってチラチラするばかりか、丁度私が四十歳のおりの三回目の映画化は、監督が私の好きな市川崑、主演四姉妹が岸恵子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子で、色彩・艶やかさともに確かに美しく、華麗であった。雪子のキャラクターなぞ私は先述通り好きとは言いがたいのに、学生時代、早稲田の校内でチラチラ見た、脚が太くて短い小百合が着物を着るとこんなになるのか、中々きれいじゃないかと印象が強かったり、一番若いいくぶん自由な四女役古手川祐子のセーター姿が意外にいいなどと、本筋以外に惑ってしまうのだった。

 で、そのあと、小説の方を読み直そうとしても、吉永小百合や古手川祐子の映像が瞼にくっきり浮んでくるばかりか、話の展開は完全に分ってしまっているわけだから、いっこう興趣が深まらない。結局最後まで読み通せない、となるのである。           

 3 谷崎原作の映画作品

 話がすっかり映画女優にまでいってしまったが、谷崎にまつわるとどこかそういう華やぎが生じるのである。実際、谷崎ほどその作品が映画や芝居化された作家も少ないのではないか。ほかに三島、川端も多かったが、数においてどうも谷崎が一位のような気がする。

 で、ここで、いわばちょっとした幕間かカデンツァのつもりで、彼の映画化作品を少し調べてみる。 一九二二年から始まるが、以下の通りである。 (題名・監督名・製作年代・製作会社・出演者の順)

おつやと新之助  中川紫郎 1922・9 実川延松・嵐笑三

本牧夜話  鈴木謙作 1924・9 日活京都 林正夫・酒井米子

お艶殺し  阪田重則 1925・10 東亜甲腸 出雲美樹子・森英治郎

お艶殺し  辻吉朗 1934・11 日活京都 黒田記代・尾上菊太郎

お琴と佐助(春琴抄)  島津保次郎 1935・6 松竹蒲田 田中絹代・高田浩吉

お市の方(盲目物語)  野淵昶 1942・9 大映 大友柳太郎・荒木忍

痴人の愛  木村恵吾 1949・10 大映 宇野重吉・京マチ子

細雪  阿部豊 1950・5 新東宝 花井蘭子・轟夕起子

お艶殺し  マキノ雅弘 1951・2 東映 市川右太衛門・山田五十鈴

お遊さま(蘆刈)  溝口健二 1951・6 大映 田中絹代・乙羽信子

お国と五平  成瀬巳喜男 1952・4 東宝 木暮実千代・大谷友右衛門

春琴物語  伊藤大輔 1954・6 大映 京マチ子・花柳喜章

乱菊物語  谷口千吉 1956・1 東宝 池辺良・八千草薫

猫と庄造と二人のをんな  豊田四郎 1956・10 東宝 森繁久弥・山田五十鈴

細雪  島耕二 1959・1 大映 轟夕起子・京マチ子

鍵  市川崑 1959・6 大映 中村鴈次郎・京マチ子

痴人の愛  木村恵吾 1960・4 大映 船越英二・叶順子

お琴と佐助(春琴抄)  衣笠貞之助 1961・10 大映 山本富士子・本郷功次郎

瘋癲老人日記  木村恵吾 1962・10 大映 山村聡・若尾文子

台所太平記  豊田四郎 1963・6 東宝 森繁久弥・淡島千景

白日夢  武智鉄二 1964・6 松竹 路加奈子・石浜朗

卍  増村保造 1964・7 大映 若尾文子・岸田今日子

紅閨夢  武智鉄二 1964・8茂山千之丞・川口秀子

悪党(顔世)  新藤兼人 1965・11 東京映画・近代映画協会 小沢栄太郎・岸田今日子

刺青  増村保造 1966・1 大映 若尾文子・長谷川明男

堕落する女(愛すればこそ)  吉村公三郎 1967・6 近代映画協会 桑野みゆき・細川俊之

痴人の愛  増村保造 1967・7 大映 安田道代・小沢昭一

鬼の棲む館(無明と愛染)  三隅研次 1969・5 大映 勝新太郎・新珠三千代

おんな極悪帖(恐怖時代)  池広一夫 1970・4 大映 安田道代・田村正和

讃歌(春琴抄)  新藤兼人 1972・12 近代映画協会 渡辺督子・河原崎次郎

鍵  神代辰巳 1974・5 日活 観世栄夫・荒砂ゆき

春琴抄  西河克己 1976・12 ホリ企画制作 山口百恵・三浦友和

ナオミ(痴人の愛)  高林陽一 1980・3 東映セントラル 水原ゆう紀・斎藤真

白日夢  武智鉄二 1981・9 武智プロダクション 佐藤慶・愛染恭子

花魁(人面疽)  武智鉄二 1982・2 親王塚貴子・伊藤高

卍  横山博人 1982・10 横山博人プロダクション 樋口加南子・高瀬春奈

細雪  市川崑 1983・5 東宝 佐久間良子・吉永小百合

鍵(THE KEY)  木俣尭喬 1983・12 オディック・インターナショナル、若松プロ
          岡田真澄・松尾嘉代

刺青  曾根中生 1984・12 にっかつ 伊藤咲子・沢田和美

鍵  ティント・ブラス 1984 イタリア S・サンドレッリ・F・フィンレイ

卍  リリアナ・カバーニ 1985 イタリア・西ドイツ  グルドン・ランドグレーベ・ケビ   ン・マクナリー

鍵  池田敏春 1997・10 東映 川島なお美・柄本明
                 
    (湘南国際女子短大ホームページより)

 実に四十二作であり、このうち私は明確とは言いがたいが以下の十二本を見た気がする。名画座で見たり、中にはパリのシネマテークで見たものもありで、順序はこの通りではないが、制作順に言っていくとこうなる。

@「痴人の愛」(最初のもの) 随分古い作だが、私は情けない顔の宇野重吉に馬乗りになったシュミーズか下着姿の京マチ子の図が確かに浮ぶ気がするから、まず間違いない。まだ原作は読んでいない時で、なんとふにゃけた中年男がいるものよと思った記憶がある。

A次が「お遊さま」 これはもっぱら監督が溝口健二だという理由で見た。

B「乱菊物語」 内容自体をはっきり思い出せないが、たぶん八千草薫に惹かれた可能性大である。

C「猫と庄造と二人のをんな」 当時、森繁久弥が喜劇俳優として一番脂がのっており、気弱にして飄々、ユーモラスな味わいが適役であった。

D「鍵」 これも市川崑監督で、中村雁次郎のあの狐目が、自分の妻京マチ子の豊満な中年女性の肉体をめぐってウロウロするさまが、何やらおぞましく内緒事めいていて、今も鮮やかに目に浮ぶ。

E「痴人の愛」 映画化回数最多かもしれない作だが、これは最近亡くなったばかりの人の良さそうな船越英二と可愛いグラマー女優叶順子の配役が、前の宇野重吉よりいい気がして見に行った。

F「瘋癲老人日記」 谷崎老境の話題作であり、まだ若かったこちらとしては、ここまでやるかという人間および作家への驚きの方が強かった。作品としてはあまり面白くなかった。

G「台所太平記」 これも森繁主演で、淡島千景や確か淡路恵子なぞも出て、いかにも東宝映画らしい健康な喜劇タッチで、私は好きだった。

H「白日夢」(最初のもの) 当時、武智鉄二はきわもの演劇人の印象があったが、そのポルノ映画として公開されたのではなかったか。少なくともいかにもいかがわしそうな十八歳未満お断り映画で、学生だった私は公開を待ちかね、満員の映画館で立って見た。

I「卍」 監督増村保造に惹かれて見に行ったはずだ。

J「鬼の棲む館」 確か見たと思うが、はっきり憶えていない。

Kそして最後が先述した「細雪」(市川崑監督のもの) これは本当にはっきり憶えており、雪子の見合い相手の男優細川俊之らの表情や装いまでだいたい思い出せる。

 こうして俯瞰していると、それにしても随分あるし随分見たものだと思う。
 しかも、谷崎にはこれ以外に脚本作品もある。谷崎は若いころから映画(当時は活動写真と言っていた)にたいそう関心を持っており、一九二〇年頃からしばらくは「大正活動写真」(大活)という映画会社で作や脚色を担当していた。

 そのときの作は以下の通りだ。

「アマチュア倶楽部」 原作:谷崎、脚色・監督:栗原トーマス  内容は、湘南海岸での水着美人をめぐるスラップスティックもの。当時は珍しい水着姿が話題になったが、この役でデビューした女優葉山三千子はのち「痴人の愛」のモデルとなったせい子(谷崎千代子夫人の妹)であった。この映画にはちょい役で千代子夫人、娘の鮎子も出演している。

「葛飾砂子」 原作:泉鏡花、脚色:谷崎、監督:栗原トーマス  肺病で夭折した歌舞伎俳優尾上菊之助がモデル。谷崎はアドバイスだけだったとも言われる。失敗作との評価。

「雛祭りの夜」 原作・脚色:谷崎、監督:栗原トーマス  幼女が雛祭りの夜に夢のなかでいろんな人形と遊ぶファンタジー仕立て。特筆すべきはその幼女役が谷崎の長女谷崎鮎子、「人形の精」役が葉山三千子であること。谷崎はまもなくこの葉山三千子との不倫関係が原因で千代子夫人と離婚、千代子夫人は谷崎の友人の作家佐藤春夫と再婚し、いわゆる「細君譲渡事件」として社会的スキャンダルとなる。その直前の奇妙な家庭劇である。

「蛇性の婬(いん)」 原作:上田秋成、脚色:谷崎、監督:栗原トーマス  秋成の古典「雨月物語」中の一作を素材にしたもので、蛇に見込まれた漁夫を描いた神秘系。かなり大がかりな作りで経費過剰となり、このため大活は傾いたとされる。

 これだけ読んだだけで、何かが浮び上がってくるだろう。妖しい幻想性が好きな若手売れっ子作家が、第七芸術、二〇世紀の新しい魔術とも言われた映画にすっかりのめり込み、あまつさえ自分の情人や三角関係の妻、子まで登場させ、いわばやりたい放題。挙句は会社まで左前にしてしまったというのだ。
 おまけにこれらの映画のタイトル、その後の先述した原作映画化作品名、例えば「お艶殺し」だの「おんな極悪帖(恐怖時代)」「人面疽」といったものを見ていると、いったい何たる題、という気がしてくる。昨今ならレンタルビデオ屋のアダルトコーナーとか、ホラーものミステリーファンタジーもの等の、率直に言って相当俗悪な棚に並ぶ類を思わせるではないか。何たるいかがわしさであろう。

 が、にもかかわらず、それゆえにこそ谷崎なのだ、谷崎らしいのだ、という気もまたしてくる。大谷崎の「大」たるゆえんは、このいかがわしさ、通俗性、興行界的大衆性を伴ってこそあると言えよう。彼は近代的理知の世界の住人でもなければ、古典的文人でもなく、ひどく新らしものがり、快楽好きの、身勝手なスター気質の人物なのである。          

 4 二、三十年ぶりの谷崎作品

 こんなあれこれの思いを持ちながら、私は今回、相当久しぶりに谷崎を読むことになった。三十歳ごろで読み始めた時からすればすでに三十年以上、あの映画、三回目の「細雪」から数えてももう二十年以上だろう。
 そうして、だいぶ時間をかけ読んでみて、随分と面白かった。作品自体も面白かったし、それらへの感想が自分のうちでだいぶ変っていたのも面白かった。

 まず最初に読んだのは、自分がかつて谷崎第一の作とした「吉野葛」だった。あれは今読んだらどんな気がするだろう、当時の自分の判断は間違っていなかったろうか、あの頃私は何を求めていたのだろう、そんな自己検証的気分も働いた。

 結果は極めて意外であった。しばらく、自身で驚くほどだった。
 「吉野葛」はとても第一の作どころか、四天王にも入れられないと思ったのである。
 最初のうちは以前通り快調に読めた。文体はいかにも落着き、ゆったりと語りのリズムが滑らかに進み、このころ谷崎はすでに関西の磨かれた日本語の美しさを十分自家薬籠中のものにしていると感ぜられて、さすがだと思えた。やはり自分の読みは間違っていなかった、この文章こそが「いかがわしさ」から脱しての、流麗にして知的な日本語の一つの到達点なのだと感じられた。

 ところが、作半ばごろにいたって事柄が次第に古典的考証の部分に及んでくると、なぜここまで堅苦しく、考証学的に過ぎてと思えるほど、よき意味での大衆性を離れ、細部にこだわりすぎるのだと思えた。話は要するに友人の母恋いとそれにかぶせての質朴な山家での嫁探しで、一向に色っぽくもなければ深い味の官能もないまま、谷崎本来の姿と思えぬ妙に文人ぶった気配でばかり進行するのだ。いかがわしさはかけらもない。

 私は後半ところどころ相当退屈し、読むのを放棄しようかとさえ思ったほどである。が、何にせよかつておのれが第一の作と判じ、長くそう信じ広言してきただけに、ともあれ読了せねばと努力したのだったが、やっと読了の結果は、溜息と共に「こんなはずじゃなかった」だった。
 むろん、作品として全くダメという意味ではない。どころか、やはり中々のものであり、いかがわしさで人を釣ったり欺くことなく、「知」を前面に、まっとうで美しい文章でのみ引っ張っていくのは大したものだった。だが、それにしては構成もバランスに欠け、物語的完成度は低いと感じられた。

 私は腕組し、考え、第一の作はもちろん、四天王もためらわれると思った。
 これで少なからず緊張した私は、次に「春琴抄」を手に取った。ひょっとしたらこれにも似た思いを抱きはしまいか、そうなったらどうしよう、と思いながらだ。下手をしたら三十代の若きおのれの文学観、判断力が崩壊しかねない。それは大事である。

 が、これは外れなかった。仔細に読んでいったが、どの一ヶ所といって停滞するところなく、本質において相当いかがわしさ・秘事を感じさせつつ、緊張を持ってズイズイと引っ張り、途中何度か、ことに終りに近づいて深い官能の溜息をつかさしめるのである。
 話は見事であり、完成度と感動は第一級である。私はこちらこそが第一の作ではと考え出したほどだ。

 で、私は次に何を読むべきかと考えた。四天王というなら自ずと「猫と庄造と二人のおんな」になるが、あれはもともと前二作とは雰囲気の違った作だ。目線の低い、気どらぬ作だし、いかがわしさもまあない。しかし今まで感じたところでは、どうやら谷崎の眼目はいかがわしさにあるのではないか。それがどのように発露しているか、どのように文章と相まっているか、それが問題ではないのか。そう感じていたのだ。

 よって私は、しばし考えた末、「刺青」を選んだ。なんといってもこれは谷崎の原点であり、いかがわしさの原点でもあり、実質的処女作である。そこへ帰ってみよう、という次第だ。
 そうして読んだ、この文庫本にして僅か十ページほどの短篇に私は感嘆した。僅か二十四歳の学生が書いたとは思えぬうまさである。そこには浅草の若い刺青師清吉の入れ墨への偏愛と官能が描かれる。ある日足だけ見たどこの誰とも知れぬ女性への疼き、やがて思わぬ僥倖あるいは必然からその十六、七歳の女性に出会い、麻睡剤で意識を奪ったうえ、その柔肌に渾身の思いを込め巨大な女郎蜘蛛の刺青を彫っていく経緯。やがて完成すると、女も清吉も耳に凱歌の声が響くごとくに陶然とする結末。どこをとっても間然するところなく、読み出したらもう止らぬまま、この若造のくせに、と清吉と作者両方に微妙な嫉妬を感じつつ、見事なできばえだと読み終えたのである。

 明らかにいかがわしいし、いわばいかがわしさの根元を描いているのに、しかし通俗に堕してはいないし、むろんポルノではない。文章に一定の品位は保たれ、むしろある透徹した美的官能性と緊張感が貫かれる。
 参った、私にはない才能だ、二十四でこういうものを書かれた日にはもうお手上げだ、そんな思いが正直に湧き起った。そして同時に思ったのは、かつてなぜこれを四天王に入れなかったか、いいとは思ったはずなのに、なぜ外したか、だった。

 それを探るために、私は新潮文庫版『刺青・秘密』を読んでいった。まずは本のタイトルにもなっている「秘密」、ついで「異端者の悲しみ」「母を恋うる記」というふうに。
 結果はばかばかしいほどつまらなかった。「秘密」なぞはっきり言って通俗そのもの、多少の理解は出来るものの主人公の感性および作の主調は低劣である。なぜこんな作を新潮文庫は「刺青」と並ぶタイトルにまで採用したのかと疑念を持ったほどだ。

 「異端者の悲しみ」もアホらしかったし、「母を恋うる記」は作者年来の母恋いものの原点とは思えたが、作りは平板で退屈、なんだかアマチュア少年が「お母さん、お母さん」と呼ばわりつつ書いたみたいな印象で、プロフェッショナルな小説としては一人前と言いがたい気がした。「幇間」とか他の作はもう読む気さえしなかった。
 つまり一番短い、しかも殆ど処女作の「刺青」のみが一つだけ抜きんでて、輝いていたのである。

 理由はたぶんいかがわしさへの美的緊張感と抽象度が高いからである。「秘密」など他の作はそれが低いし、「母を恋うる記」は技術的まずさの上に、母恋いばかりを前面に出し、いかがわしさがないからだ。つまりその点は、「吉野葛」とも似ていると言える。

 私は今度は「猫と庄造と二人のおんな」を手に取った。これはかつて他の作とは別種の、気ラクな庶民的作物と感じたものだが、とにかく楽しく、好きで、あえて四天王に入れたものだ。

 読み進めていくと、今回も楽しかった。抵抗感は全くなく、主人公の境遇や生活感覚など私とは随分違うにもかかわらず、情景がいかにも親近感を持って浮んでくる。自分とは違うが、ついそこらにいる知人のような気がしてくる。そして何より文章が実にいい。関西弁の庶民版が持つあの滑らかさ、柔らかさ、曖昧そうでいてどこか含蓄あるふくらみ、それらがまさに活字に書かれた文体として、「流麗」とも仰々しく言わせないくらい自然に、平易に、流れていくのである。

 かくしていつのまにか読了。何の疲れもなく、何の違和感もなく、ふふふとつい笑い出しながら、うまい緑茶に町の菓子舗で買った出来のいい薯蕷(じょよ)饅頭か羽二重餅でも食したあとのごとき、いい気分である。ちょっと幸せで、優しい気分でもある。

 改めて気づいたが、これは極めて上等、殆ど完璧な作なのである。庶民話で目線は低いが、文章の練度、語りのうまさ、小説的構成と完成度の高さにおいて、谷崎のなかでもひょっとしたら最高の作ではないのか。近代小説ではよく語り手の視点について、これは登場人物中誰の視点で語られているかなどと問題にするが、この作は福子が語っているかと思うといつのまにか庄造の視点に移行しており、と思うといわゆる客観視点に転じているふうで、オヤと思うと、今度は品子の視点に移っているのである。普通、こういうのは読者に肌ざわりの悪さ、論理的整合性のなさを感じさせ、文芸科の創作指導授業なぞでは「やってはいけないこと」と指導するのに、ここではそれが全く問題なく感じられ、どころか本来の日本語はこういうもので、これこそ小説の自由さではないのか、とさえ思わせる。

 ちょっと大げさになるやも知れぬが、私は小説を読み始めて数十年、齢(よわい)六十三にして初めてこういう感じを抱いた。谷崎の作としてもこれは一位の作と言うべきではないのか。

 となると、先に第一の作とした「春琴抄」との関係はどうなろう。これは考えどころだが、私はかなり思いをめぐらせたのちこう思った。完成度はいずれが甲とも乙とも付けがたい。それ以外の「春琴抄」のよきポイントは、いわばあの秘められたいかがわしさ、驚くべきストーリー展開にあり、「猫と庄造と二人のおんな」のポイントは、そのいかがわしさのなさ(猫との関係にいささかその匂いを嗅げる面もあるが)、庶民性にあろう。いわば両者は同格、「春琴抄」が歌舞伎の大看板なら、「猫と庄造と二人のおんな」は軽快な東宝コメディー映画の全国各地系列映画館や街なかでの数多い中小の看板・ポスター、といった趣なのである。

 さて、最後にまた「細雪」である。私は、昔あの市川崑の映画を見た直後もう一度読んでみようとして失敗以来、二十四年ぶりに取組んだ。本は書棚にずっと並べ続けてきた新潮文庫版であり、いま奥付を見ると昭和五十三年四十五刷とあるから、私が三十五歳ごろに買ったものとなる。今はいったい何刷なのだろう。

 結果はまた読み通せなかった。上巻は三分の一ほどまで読んだが、昔の印象と殆ど変らず、では、中巻は、下巻はと読み出してみたものの、やはり印象は変らない。かつて一度も到達しえなかった結末部分も一度くらいはと目を通してみたが、むろんこんな拾い読みふうではちっとも興が湧かない。

 私は諦めて本を投げ出した。
 そうして、なぜだろう、なぜだろうと考え続けた。かつて好きになれなかったのは、作の時代性が若いころの自分に合わなかった、登場人物たちやたぶん作者の価値観も好きになれなかった、ということなら、いまや時代性はもはやかなりの歴史的過去そのもの、作自体もすでに古典化したと言っていい。すなわち、この作はこういった時代の美しき絵模様であり、作者がそれをいかに巧みに、緻密に描いたかを味わえばいいのだし、文章はやはり流麗にちがいない、と思えるのに、どうしたわけかいわゆるノラナイのだ。

 「細雪」は誰もが認める谷崎の代表作であり、大谷崎を象徴する看板でもあるのに、いったいなぜか。しかも私は客観的にもかなりの谷崎好きであり、文章など明らかに相当の影響を受けているにもかかわらず、この変らぬ印象はなぜなのか。

 結論は、一つにはやはり描かれている世界の価値観への違和感、二つには谷崎の重要ポイントであるいかがわしさと意外性がないこと、そして三つめは長すぎること、であろうか。
 いかがわしさがないとした「猫と庄造と二人のおんな」はよくて「細雪」はなぜダメかの理由も、たぶんここに包含されていると思う。一と三の理由は明らかであろうし、二に関してもひょっとしたら、人間の女以上に猫が好きで、新婚の女房なぞもほっておいて猫と小鰺の酢の物をくわえ合ったり、酢の部分を「スッパスッパと吸」ったうえ猫に残りの身を投げてやり、都合小鰺十匹以上分も長々と共に食事を楽しむなぞというのは、考えようによっては実は相当いかがわしいことなのかもしれないからである。

 ただ、いづれにせよ、大谷崎の看板たる「細雪」を好きになれない私は、いわば谷崎および谷崎作品の中(ちゅう)の部分を好きなのかもしれない。

 さて、思いがけず長くなってしまったこのエッセイは、私としては珍しい、というか日本作家に関してはこれまでで殆ど唯一の作家論である。最初迷いつつ、しかし結構楽しく書いてしまったのは、谷崎への思いとともに、この谷崎特集の企画コーディネーターである尾高修也教授へのオマージュ意識もあってのことだ。氏は作家であると同時に長年に渡る谷崎研究家であり、前作『青年期 谷崎潤一郎論』に私は随分感銘を受けた。そうして今度また八年の研究成果を、『成熟期 谷崎潤一郎論』として上梓されるという。拝読するのがまことに楽しみである。
 願わくばその解析が私のこの小文の内容と食い違いませんように。 
 
   (江古田文学65号 2007年夏号 谷崎潤一郎特集)        (了)