北京とアメリカ
                             夫馬 基彦

 四年前の夏、私は一ヶ月北京にいた。師範大学の中国語夏期講座に若い人にまじって参加したのである。
 その期間中に師範大学の教授宅で、一夕、お茶会が開かれた。2DK程度のごく質素な教員住宅の一室で茶を飲みながらお喋りするだけの会だが、そこで私が日本の作家兼文芸教師だと分ると、中国側(教授ほか家族とその友人の計3人)から中国作家ではどんな人を知っているかと質問が出た。
 で、私が莫言、史鉄生らと並べて鄭義の名を挙げると、彼らが「え、誰?」と聞き返した。
「『古井戸』の作者だ、映画にもなったから日本ではよく知られている」
 私は相手が理科系の人たちゆえに知らないのかと思い、そう答えると、相手は顔を見合わせるようにして黙った。この時点で私はうっかり鄭義の経歴を忘れていたのだ。
 まもなく彼らのうちの一人がちょっと困ったような顔をしながら、
「彼は今はアメリカにいるはずだ。私たちは彼のことはよく知らない」
 といった答をした。それで、あ、そうか、と天安門事件のことを思ったのだが、えい、この際聞いてやれと、当時学生側のリーダーだった師範大生ウーアルカイシの名を私が出すと、それに関しては皆、彼はどういう学生だった、内モンゴル人で、あの時まだ一年生だった、などとかなり闊達に話したから、その種の話が全くタブーというわけでもなさそうだった。鄭義、あるいは作家は、扱いが少し違うのかなという疑問が残った。

 二年後の夏、私は今度は二ヶ月ニューヨークにいた。そしてあの九.一一事件に遭遇した。 私が滞在していた宿はチャイナ・タウンに近いエジプト人経営の長期型ホテルだったのだが、あの騒ぎに表へ出てみると、表通りは頭に真っ白の灰をかぶった避難民らが続々歩いてきており、彼らに向ってチャイナタウンの商人らが靴下とか衣類を売りつけたりしていた。そしてブルックリン橋の袂まで行ったとき、見物の群衆から大きな悲鳴が上がり、見ると貿易センタービルの二棟目がちょうど崩れ落ちるところだった。
 チャイナタウンはそれから微妙な変化をしていった。当初暫くは、レストランなぞも表は半分休業ふうでも中は満員に近く、みな目はキラキラ元気そのものだったが、やがてどこの家や車にも紙製のアメリカ国旗が張られるようになり、なんとなくシンとしていった。チャイナタウン内の消防分署にあの時の灰まみれの壊れた消防車が返されて来、路上に置かれると、大勢が花束やろうそくを置き、死んだ消防士たちを悼んだ。死者たちの名の中にはエスニック系も何人かあった。私は当時、鄭義さんはニューヨークにいるものと思い込んでいたので、今どんなふうに思っているのだろうと考えたりした。そこらにいないかと何となく中国人インテリふうの顔を探したりしたが、実は鄭義さんの顔さえはっきりは覚えていないのだった。
 ある時、タウン中心部の公園に行くと、大勢の中国人たちがパネルや旗を立てて集会をしていた。法輪功のメンバーで、中国では実際は三桁を超える多数のメンバーが殺されている可能性があるといった内容だった。
 法輪功は天安門事件以降、中国では殆ど唯一の組織的反政府運動とも言える。私はまた、鄭義さんはこの件についてどう考えているのだろうと、まるでそこらにいるかのように人々の顔を見回した。
 鄭義さんはずっとワシントンにおられたわけだが、今日ここでお会いできて嬉しい。いくつか質問もしてみたい。 
         (2003年10月7日 日本ペンクラブ「WiPの日」集会パンフ所収)