著書 小説最近作
その他の小説+エッセイ
このほか雑誌に発表はしたが、単行本にならなかったというかいわゆる未収録作品が、枚数にして約900枚分ある。それらを全部列記してもいいが、しかしなんだか淋しいのでやめておく。 初出誌は、「文学界」、「新潮」、「中央公論文芸特集」、「潭」(書肆山田刊、古井由吉さんらが編集同人だった)、「すばる」など。 中で一番心に残るのは、「神の山」(1985年潭4号、45枚)と「五十肩のベトナム戦争」(すばる2001年2月号、120枚、このホームページの小説欄に掲載)だ。 前者は短いけど私のインドと宗教に対するある意味での象徴的まとめであり、後者は青年期前期かなりの左翼であった私の青春の蛮行とベトナム戦争への記憶そのものである。 (2002年4月30日記) |
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このページ全体へのコメント: 幼時のことでも一言で片づけられないし、少年時、青年時ももちろんそう。学生運動や思想のことなどかすかな匂いしかたっていないし、大人になってからでも別にここに書いたことだけで生きてきたわけもなく、家庭のこと、女性関係のことに至ってはろくに出番すらないありさまだ。 文学、特に小説というのは、そういう抜け落ちていることにこそもっとも視力がいくことどもで、だからこそ私は書いてきたし、小説家になったはずである。 が、それもこうして著作一覧を書いてみると、家族や恋のことを含めてとてもとてもと言わざるを得ない。そもそも寡作というか売れない作家なので、あまり大した量がないせいもあるが、それにしてもこれを全部読んだところで世界はおろか己のことすらろくに語っていない気がする。過してきた人生、考えたこと、やりたかったこと、知ったこと、味わったこと、その他諸々の80%は風の彼方、時間の彼方に消え去っている。 哀しいし、むなしいし、悔しいが、しかし詮ないことでもある。この世とは不可解なものだし、時間とは不思議なものだし、人生は不可知なものだ。そしていづれ死んでいくということだけがはっきりしている。 といって私は別に虚無的でも元気を喪失しているわけでもない。変哲のない見慣れた近所でもそよ風に吹かれて散歩するときは結構いい気分だし、毎年あちこち外国に出かけていく元気もある。いろんなことにしょっちゅう腹を立てているし(特にブッシュとシャロンに関しては殴り倒してやりたいと思っている)、「改革」が必要だともいつも思っている。正義はあった方がいい。幸せもあった方がいい。人間は悪を含めて面白い存在でもある。 私は花鳥風月も好きだが、人にも大いに関心がある。それで技術オンチを省みず、この「風人通信」を始めてみたのである。みなさん、よろしくおつきあい下さい。 |
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2002年4月12日 夫馬基彦 記 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
とはいうものの、世の中にはこんな私のことについて実に熱心に読み、語って下さる方もある。文芸評論家の多岐祐介氏がそうで、氏が最近刊行された著書『文学の旧街道』(2002年2月旺史社 3000円)中に納められた『風狂のコストー夫馬基彦を読む』(100枚)は、私自身がおのれとおのれが書いてきた本(『美しき月曜日の人々』以前の作)の実像について、成程そういうことだったかと、初めて明快に分った気がしたほどである。 氏によれば、私は妻や家族も放っておいて、勝手にどこかでひとりボウッと空を眺めていることが好きな困った男、だそうである。評論家というものは成程うまいことをおっしゃる。 みなさん、御覧になってみて下さい。 |