プロフィール
 スケッチ 東千賀 

 1943年12月愛知県生れ。

 名古屋の旭丘高校を経て、早稲田大学文学部仏文学専修中退。フランス、インド(3回行った)などを放浪後、放送作家、フリーライター、塾教師などをする。青年期前期は社会派、後期は体制離脱ヒッピー派。
 
 1977年33歳のとき「宝塔湧出」で中央公論新人賞。もちろん食えず。87年以降「緑色の渚」で第97回、「金色(こんじき)の海」で第98回、「紅葉(もみぢ)の秋の」で第99回芥川賞候補となる。

 1992年より日本大学芸術学部で、93年から早稲田大学文学部文芸専修でも非常勤講師となる。97年日大芸術学部文芸学科で専任教員となり、生れて初めてボーナスというものをもらう。不労所得かと思った。2002年より教授(小説、連句を担当)。

 このごろは日本ペンクラブ獄中作家(WiP)委員に加わっている。青年期以来の社会参加。03年〜04年ペン電子文藝館副委員長(リンク欄)。05年からWiP(獄中作家)委員会副委員長。07年獄中作家・人権委員会副委員長(09年辞任。委員としては残る)。
 2011年11月、ペンクラブを自然退会。会の活動に意義を見出せなくなったことと執行部体制に賛意を持てないため。


著書
  小説最近作


『オキナワ 大神の声』 2009年6月飛鳥新社 2200円

6月発売、3年ぶりの本です。

                                  

7年来毎年訪ねていた琉球弧列島を舞台に、喜界島から与那国島まで八百数十キロを歩いてゆく短篇連作集
。「季刊文科」に連作した9本に、かつて「中央公論文芸特集」に書いた記念作を、それぞれ大幅に手を入れまとめたもの。

境界地域としての奄美や沖縄の「人の出入り」、歴史と現状、そしてウタキ信仰や創世神話に象徴される神秘主義を描いた。
また、もう一つはそれらを通じての人々の人生、そして私自身のインド以来の旅人生を描いたとも言えます。写真に出した宣伝チラシでは、編集者はそっちに注目しているようです。


大手書店およびアマゾンなどネット書店にあります。毎日新聞9月20日に書評、週刊朝日8月7日号に著者インタビュー、沖縄タイムス8月28日に紹介記事などがあります。御覧ください。


その他の小説+エッセイ


『按摩西遊記』 2006年6月講談社 1800円


 旅小説集。旧作2篇を大幅に加筆訂正したものに、書下ろし2作を加えた。

 目次:
 1,イン・プリズン
 2,五十肩のベトナム戦争
 3,ニューヨーク・ミュージアム・ピープル
 4,按摩西遊記

 1,2,はかつてのベトナム戦争中サイゴン(現ホーチミン市)にいた体験と、30年後の再訪を重ね合わせた。
 1,はペンクラブ獄中作家委員会発行の小冊子に、2,は「すばる」01年2月号に発表したものに加筆。

 3,は、911事件のニューヨークの下町に滞在していた体験を元に、中国人街・ユダヤ人街の変化を通じて当時の緊張を描いた。
 4,は昨2005年夏、34年ぶりに青春の旅の欠落を埋めるべく涯へ涯へと歩き続けた中国領シルクロード天山南路北道の旅を舞台に、その因縁を書いた。

 つまり、直接的には三つの旅を舞台に、かつての二つの青春の大きな旅を重ね、38年間の時間の旅を描いたものでもある。
 私にとっては今までの人生の総括的作品でもあり、自分としてもよく書けたと思っている。

 書評類は、中沢けいさんが産経新聞文芸時評、評論家の川村湊さんが毎日新聞文芸時評「注目の1冊」に取り上げて下さったほか、週刊朝日(土屋敦さん)、週刊スパ(同)、図書新聞(野村喜和夫さん)、週刊読書人(小林広一さん)、新刊展望(福本順次さん)、日刊ゲンダイ・コラム(森詠さん)、図書新聞コラム(小嵐九八郎さん)、HP「海亀通信」(宮内勝典さん)など多くの方が書いてくださった。。
 私もHP「風人日記」や「本」7月号(講談社)に紹介や関連エッセイを書いたほか、mixiのブックレビュー欄には何人もの人が熱い文章を書いてくれている。
 ぜひ御一読下さい。

『籠抜け 天の電話』 2001年5月集英社 1800円

 久々の短編小説集。この数年文芸誌「すばる」に書いてきたものの中から6篇を選んで編んだもので、「日常の中の非日常」を大まかなテーマにもっぱら自らの周辺や時間それ自体を眺めてきた実感集とも言える。発売中。

            目次
    籠抜け
    瀬戸の海
    コトン
    天の電話
    師弟の交わり
    渡しもの

「籠抜け」は朝日新聞で川上弘美さん、日本文芸家協会編『文学2001』で中沢けいさん、ほか多くの人に取り上げてもらった。また、「天の電話」は師匠筋でもあった作家森敦さんを描いたもので自信作。

『恋の呼び出し 恋離れ』 1995年7月中央公論社

 タイトルは連句の恋の座にかかわる用語からとったもので、恋を主題にした、6篇の短編を連句ふうに連鎖させて作った、いわば連句小説。全編、季節、色、人称を連句的に変化させつつ、恋の諸相を書いてみた。実験作でもあるが、古典と伝統にも根ざしたつもり。谷崎賞候補作。
 目次は、雪、櫻、螢、白桃、乳房、ほか。
装幀は司修さん。


『美しき月曜日の人々』 1994年3月講談社

 これは私と縁のある秋山祐徳太子、平賀敬、上條陽子など超個性的6人の美術家をモデルに、芸術家小説ないし美術家列伝のつもりで書いた連作。
 私はほかに『美術館のある町へ』という紀行美術エッセイも書いているように、かなりの美術好きで、このホームページにもあちこちに彼らの作品を画像として使わせてもらっている。装幀は菊地信義さん。

『風の塔』 1991年7月講談社

 唯一の長編。「群像」に一挙掲載したもので、私的にも時代的にもヒッピー時代への挽歌のつもりで書いた。 この題を見ていると自分が本当に風とか塔という言葉が好きだなと改めて思う。
あのころはいつも風に吹かれていたし、どこかに空にそびゆる塔はないかと探していた。これを書くとき胃潰瘍になったことも思い出す。その瘢痕は今でもある。

『菊とヒッピーと孤独』 1990年7月福武書店(現ベネッセ)

 昭和天皇が亡くなった日を書いた「その日のこと」、ヒッピーのその後を描いた「ロナと青空」、ドッペルゲンゲルの手法を試みた「同伴者」の3作を収録。
「その日のこと」はあの日を描いた唯一の作として某評論家にえらくほめられたほか、韓国語にも翻訳された。『ロナと青空』はこのごろさらに続編を書けそうな気がしている。装画は平賀敬さん。

『六月の家』 1989年3月福武書店(現ベネッセ)

 聖地にて、雛まつり、六月の家、の3作収録。「聖地にて」はなぜ評価されなかったか未だに分らない自信作。


『紅葉の秋の』 1988年8月福武書店(現ベネッセ)

 いわゆるステップ・ファミリーもの2作を収録。芥川賞候補には表題作がなったが、「花家族」は秋山駿さんら大勢にほめられた。


『金色の海』 1988年3月福武書店(現ベネッセ)

 ブルー・エイシア、緑色の渚、金色の海、の色彩3部作。あとの2作が芥川賞候補になった。この本がやはり代表作の一つか。


『楽平・シンジそして二つの短編』 1985年9月福武書店(現ベネッセ)

 「シンジ」は幼年時代の自分を描いた作、「白い秋の庭の」は当時一番好きだった画家熊谷守一を書いた。何人かの人から名品だと言われた。自分でも完成度は高いと思っている。楽平(らっぺ)はヒッピー時代の友ポンのこと。


『夢現(むげん)』 1980年9月中央公論社

 小説としては初の本。宝塔湧出、詩人の休暇、夢現、の3作。「宝塔湧出」は中央公論新人賞作品で私のデビュー作。これで私の人生が決った面もある。

これよりエッセイ

『美術館のある町へ』 1984年9月創隆社

 紀行エッセイ。初出は「小原流挿花」に3年ほど連載したもの。全国各地の美術館巡りで、美術館ブームのはしりとなった。わが本としては売れた。装幀は荒川じんぺいさん。


『塔と花そしてインド』 1978年5月ジャパン・パブリッシャーズ

 このころあちこちの雑誌に書いた「塔巡り」や花、インドにかかわるエッセイ集。編集者土器屋橿人さんにほとんどを負う。土器屋さん有難う。


『印度巡礼』 1978年2月ジャパン・パブリッシャーズ

 処女作『熱と瞑想』の改題改訂版。このころ世は印度ブームといわれており、私は横尾忠則さんらと並んでその担い手と見なされており、「インドの夫馬」なぞと言われたりした。装幀は横尾忠則さん。


『こころある旅インド』 1977年11月エイプリルミュージック(のちCBSソニー出版) 夫馬基彦・プラブッダ・山尾三省ほか共著

 これもインドブーム渦中の本。インド派と称された大勢の仲間が集まって作った。プラブッダ、山尾三省の二人はそのご屋久島に住み、三省は昨2001年夏そこでガンで亡くなった。仕掛人だったC&Fの吉副伸逸は現在ハワイ在住、青山貢はガンで死去。時は移ろった。


『熱と瞑想
ーあるインド紀行』 1973年8月烏書房

 これぞわが懐かしの処女作。前年の春までリュックを担いでインドを放浪、途中A型肝炎にかかり生死の境をさまよった。おかげでものの見方が激変し、世をドロップアウトしたヒッピーに親近した。なんといってもわが原点の一つ。


 このほか雑誌に発表はしたが、単行本にならなかったというかいわゆる未収録作品が、枚数にして約900枚分ある。それらを全部列記してもいいが、しかしなんだか淋しいのでやめておく。
 初出誌は、「文学界」、「新潮」、「中央公論文芸特集」、「潭」(書肆山田刊、古井由吉さんらが編集同人だった)、「すばる」など。
 中で一番心に残るのは、「神の山」(1985年潭4号、45枚)と「五十肩のベトナム戦争」(すばる2001年2月号、120枚、このホームページの小説欄に掲載)だ。
 前者は短いけど私のインドと宗教に対するある意味での象徴的まとめであり、後者は青年期前期かなりの左翼であった私の青春の蛮行とベトナム戦争への記憶そのものである。
                                             (2002年4月30日記)

このページ全体へのコメント:

 こう書いてみると妙な気分だ。だいたい略歴とかプロフィールなぞというものはどう書いてもぴったりくることなぞあり得なかろうが、短い枠内に納めようとすると、どこか自分でなくなる気がする。
 幼時のことでも一言で片づけられないし、少年時、青年時ももちろんそう。学生運動や思想のことなどかすかな匂いしかたっていないし、大人になってからでも別にここに書いたことだけで生きてきたわけもなく、家庭のこと、女性関係のことに至ってはろくに出番すらないありさまだ。
 
 文学、特に小説というのは、そういう抜け落ちていることにこそもっとも視力がいくことどもで、だからこそ私は書いてきたし、小説家になったはずである。
 が、それもこうして著作一覧を書いてみると、家族や恋のことを含めてとてもとてもと言わざるを得ない。そもそも寡作というか売れない作家なので、あまり大した量がないせいもあるが、それにしてもこれを全部読んだところで世界はおろか己のことすらろくに語っていない気がする。過してきた人生、考えたこと、やりたかったこと、知ったこと、味わったこと、その他諸々の80%は風の彼方、時間の彼方に消え去っている。
 
 哀しいし、むなしいし、悔しいが、しかし詮ないことでもある。この世とは不可解なものだし、時間とは不思議なものだし、人生は不可知なものだ。そしていづれ死んでいくということだけがはっきりしている。
 
 といって私は別に虚無的でも元気を喪失しているわけでもない。変哲のない見慣れた近所でもそよ風に吹かれて散歩するときは結構いい気分だし、毎年あちこち外国に出かけていく元気もある。いろんなことにしょっちゅう腹を立てているし(特にブッシュとシャロンに関しては殴り倒してやりたいと思っている)、「改革」が必要だともいつも思っている。正義はあった方がいい。幸せもあった方がいい。人間は悪を含めて面白い存在でもある。
 
 私は花鳥風月も好きだが、人にも大いに関心がある。それで技術オンチを省みず、この「風人通信」を始めてみたのである。みなさん、よろしくおつきあい下さい。
                                    2002年4月12日 夫馬基彦 記


 追記:

 
 とはいうものの、世の中にはこんな私のことについて実に熱心に読み、語って下さる方もある。文芸評論家の多岐祐介氏がそうで、氏が最近刊行された著書『文学の旧街道』(2002年2月旺史社 3000円)中に納められた『風狂のコストー夫馬基彦を読む』(100枚)は、私自身がおのれとおのれが書いてきた本(『美しき月曜日の人々』以前の作)の実像について、成程そういうことだったかと、初めて明快に分った気がしたほどである。
 
 氏によれば、私は妻や家族も放っておいて、勝手にどこかでひとりボウッと空を眺めていることが好きな困った男、だそうである。評論家というものは成程うまいことをおっしゃる。
 みなさん、御覧になってみて下さい。