種田山頭火の書簡
                                                夫馬 基彦

                               1、孤独と通信

 私は今回、春陽堂版「山頭火の本」の書簡集『寂しければ』を、一ヶ月ほどかけて久々に読み返してみた。
これは明治四四年、彼がまだ山口県大道村で造り酒屋を営んでいた時から、昭和一五年愛媛県道後温泉近くの一草庵で亡くなるまでの彼の書簡を集めたもので、『定本山頭火全集』書簡編所収の全一二六八通から重複した内容のものを省いて、約三分の一の四一四通を収録したものである。

 ゆえにそれほど膨大な量とも感じなかったが、しかしその三倍の量、そしてその多くは多分に内容が重複していたらしいことを考えると、やはりともかく彼が次々と葉書(これが圧倒的に多い)や手紙をいわば書き散らし、出し散らしたらしいことが、改めて知れる。
 「出し散らした」なぞという言い方は失礼かも知れぬが、しかしそう間違ってもいまい。

 というのは私にも覚えがあるからで、私はかつて若き頃、伊豆の山村に傾きかけた茅屋を借りてひとり住まいをしたり、あるいはリュックを背負ってインドやらアフガンやらと旅暮しをしていたのだが、当時はやたらに郵便を出した。やはり手軽な葉書が一番多く、旅先だとしばしば絵葉書にもなるのだが、一応定住していた伊豆では時には絵入り図入りで、あれこれの思いやら日々のことなどをびっしり、あるいは二言三言だけ、気の移ろうまま、書いては出したものだ。そしてやがては地名をとって「××通信」なぞと名付け、一週間に一度は定期的に出したりもした。若くて人脈と言えるほどのものもなかったから、相手は大した人数ではないが、しかしこれが自分にはちょっとした支えになっていた。

「書く」とか「自然との共生生活」とかと称してそんな暮しを選んでみたものの、一向書けもせず、畑作なぞもすぐ草臥れて飽き、一日誰とも口をきかない日々が続いたりするなかで、オレは一体この若さで世捨て人なのかと懐疑する気分から己を保つには、そういうわずかな外部への葉書がかなりの意味を持ったのである。むろん、葉書は一方的な通信ではなく、相手からの返事も期待してのことで、ひょっとしたらこっちの方が大きかったかもしれない。つまり、人恋しかったのだ。

 形態や深度に差はあれ、そこいらの事情は山頭火も同じだったに違いない。だからこその「寂しければ」であろう。もっと時が下って電話が社会全体に普及している時代なら、何割かは電話ということもあり得たろうし、今ならそれこそメールとなっていたかも知れない。庵でひとり、パソコンやケータイに向っている山頭火を想像するとおかしいが、彼が今生きていたら、案外見られた図かもしれない。


                       2、貧窮と無心

 その山頭火の通信の相手はざっと四〇人ほどにも上っているが、一番多いのが四、五歳年下の医師・木村緑平であり、次が十七歳下の逓信局勤務・大山澄太あたりだろうか。むろんいずれも、俳人としてのつながりだ。数は少ないが師にあたる荻原井泉水宛のものもそれなりにある。

 そうして、師井泉水に対してはさすがにいつもいずまいを正して、俳句を語り志を述べる感があるが、後の二人に関してはほとんどが何かを頼む内容の印象が強い。殊に、全体の三分の一以上を占める木村緑平に対するものは、そのうちの三分の二近くが無心の手紙みたいな印象がある。

 無心、すなわち借金というより返す当てもない金の融通依頼である。申し訳ないが十円都合して下さい、またまた窮地に陥りました、一五円何とか願います、といった具合から始まって、其中庵建築計画の折などは、

「(前略)ゲルトがないと、手も足も出ませんから、その辺の事情お含み置き下さい。
  ここにおちつけ山ほとゝぎす   
(後略)」(昭和七年六月七日 川棚温泉、木下旅館にて))

 などと、何やらぬけぬけというか甘えきった感じの文面だったりもする。小なりといえど建物一軒となればそう少ない額でもなかろうと思えるが、一体いくらぐらいの話だったのだろうか。

 と思うと、こんな手紙もある。これは葉書ではなく封書だ。ちょっと長いが面白いので、全文を引用する。

「ーたうとう最後の場面に立ちました。私は今、死生の境を彷徨してをります、十四日が生きるか死ぬるかの岐れ目です。
ー庵から警察へ、それから検事局へ、そしてどこへ。
ー私はあなたにお願いするだけの気力をなくしましたけれど、検事の勧告を受け入れて、もう一度立ち直ろうかと思ひます。
金高は四拾五円、期限は十四日。
あなたに余裕がありますならば、そのいくらかを貸していただけますまいか、大山君へも同様な手紙を書きました、その返事を待ってをります。
ー自分で自分にあいそがつきました、誰もがあいそをつかすのはあたりまへです。
ー先日の分もあのまゝこんな事を申上げられる義理ではありません、何といふ愚劣、醜悪、ああ。
十日夜                」
(昭和十二年十一月十日 山口県小郡町より)

 どうやら前の借金もそのままにしたままの更なる無心で、しかもなんだか自分は本当はこんな事をしたくないが、検事が勧めるからする、みたいにもとれる妙な文章である。
 が、切迫感は確かにある。

 では一体、山頭火は何をしたのか、何があったのか。彼は大正十三年四十三歳の折には、熊本市公会堂前で進行中の電車の前に仁王立ちしたことがあるし(これがもとで参禅、翌年出家)、年譜にも昭和十三年の項には「泥酔失策多し」とある。
 実際、このあとしばらくの十一月二十九日付け同じく木村宛の葉書には、「自分の変質的無軌道行為」を許してほしい、そして過去のこととして忘れてほしい、と書いている。変質的? やはりどんなことをしたのかと、私なぞ知りたくてたまらないが、これは研究者間ではすでに既知のことなのだろうか。

 このとき、山頭火はもうほぼ五十六歳になっており、息子の健からしばしば親孝行の金をもらったりする境遇にもなっていたが、一方で亡き父や弟(自殺)の命日供養、母(若くして井戸に投身自殺)への思慕多しとされているから、おそらくそこらあたりのことが孤独な心の中にうごめいていたのであろう。

 そういえば当人自身、こんな文面も書いている。

「(前略)此矛盾の苦悶に堪へかねて、幾度か自殺を企てました、昨年の卒倒も実は自殺未遂だったのです、此旅行だって死場所を見つけるためでした。(後略)」(昭和十一年六月三十日 宮城県鳴子にて 木村宛)


                        3、やはりこの一筋

 けれども、山頭火はこのころ、あるいは行乞をしつつ、あるいは大阪弘川寺の西行塚、伊賀上野の芭蕉の跡、長野柏原の一茶の墓、伊那の井月の墓、更に少しさかのぼっては小豆島の放哉の墓、と漂泊の先達たちの墓巡りをしているのである。

 これはいわば一種の聖地巡礼であろう。インドで二十年三十年と漂泊遊行を続けるサドゥー(漢訳で沙門)たちが歩むのは、各地の聖地から聖地への旅だが、山頭火の旅もまたそれにいつしか似たとも言える。
 事実、彼はこんな文面も書いている。

「(長文略)私もついに無能無力、この一筋を精進するより外なくなりました。
 このみちをたどるほかない草のふかうして

草の中で虫がいろいろ鳴き出しました、いづれまた。山生」(昭和十三年七月十四日 大山澄太へ 封書)

 これはいうまでもなく、あの芭蕉の「幻住庵の記」中の有名な一節「ついに無能無才にしてこの一筋につながる」を模していることは明らかである。故意か偶然か、芭蕉の「無能無才」が山頭火では「無能無力」となっているが、これはどう解釈すべきだろう。
 酒乱失策気味の山頭火の単なる間違い、誤記か、あるいは彼、無意識のうちにも「無力」としたかったのか。その辺が私には少しく面白う思えるのである。
                                         (日本大学教授・小説家・俳諧師)
          「国文学 解釈と鑑賞」2004年10月号 「特集 種田山頭火の世界」所収