アメリカの二都市を巡って
   サンフランシスコとニューヨーク  
                          夫馬 基彦      
 1、サンフランシスコ  

 今回の海外研究の主要目的は、@アレン・ギンズバーグらビート・ヒッピー文学の背景、Aアイザック・バシュビス・シンガーらユダヤ人文学とアメリカの関わり、の二点およびB小説家としての創作取材であったが、@に関してはまずサンフランシスコから開始した。

 ヒッピー文化は元来1950年代のビート潮流(詩人ギンズバーグや作家ジャック・ケラワック、ウイリアム・バローズらの文学、ジャズとのクロスオーバーなど)が1960年代に入って東洋文化、特にインド文化のヒンズー教やインド哲学、日本の禅、チベット密教などの仏教、更には自然との合一志向等への関心が、折から続いていたベトナム戦争への反戦気運と相まって形成されていったもので、教祖的存在としてはギンズバーグをはじめ日本に長く滞在して禅を学んだ詩人ゲーリー・シュナイダー(ピュリツアー賞)らがいた。ギンズバーグはビート時代はニューヨークのグリニッジ・ビリッジにいたがヒッピー運動時代は活動の場をもっぱらサンフランシスコ周辺などカリフォルニアに移しており、またシュナイダーは日本滞在以前も以後も一貫してカリフォルニアなど西海岸にいた。

 ゆえにヒッピー文化はアメリカのなかでもカリフォルニアが中心であり、ヒッピー文化内でも重要な位置を占めるロック音楽の中には「西海岸(ウエストコースト)ミュージック」と呼ばれるものが存在したぐらいである。 また反戦運動的出発点も1964年カリフォルニア大学バークレー校(サンフランシスコ郊外)でのいわゆる「フリー・スピーチ・ムーブメント」とされるが、これはベトナム戦争をめぐって学内で学生らが「ともかく自由に討論し、意志表示をしよう」という運動を展開したのに対し、当時の大学および州政府が抑圧的姿勢を示して警察機動隊を導入、数百名が逮捕された事件が象徴的である。以降この運動は教官・市民らも巻き込んで大きく発展し、アメリカにおけるベトナム反戦運動の起点ともなっていき、同時にヒッピー運動の一つの性格づけともなったのだった。

 そのため私はサンフランシスコではまずこのバークレー校を訪れたのだが、学内はまことに聞きしにまさる広さの敷地と小川まである自然に富んだ環境であった。そこにいくつもの学部の建物が散在するわけだが、行き交う学生・教師らは白人にまじってアジア人(中国人、日本人、韓国人、ベトナム人ら)が多くみられたが、黒人の数は極めて少なかった。これはかつて青年時代、私自身がインド・ネパール・アフガニスタン等の旅で出会ったアメリカ人ヒッピーの中に黒人はほとんどいなかったことを想起させ、問題点の一つであることも感じさせた。つまりバークレーはアメリカのなかでも恵まれた中産階級以上、あるいは教育による上昇志向の強い民族たちの一種の租界的場所ではないのかといった点だ。

 が、歩きだした学内で私はまもなく予想外の物を発見した。それは校舎の一つに入ったとたん目に入った壁はめ込みの記念碑で、そこには  「マリオ・サヴィオ(1943〜1966)  彼は1964年この学内において起ったフリースピーチ運動のリーダーであった云々」と当時の経過とともにオマージュが捧げられていたのである。加えてその脇には「マリオ・サヴィオ・カフェ」と名付けられたカフェがあり、壁には彼の死後5周年記念の講演会が予告され、講師には現在のバークレー校教授の名があった。

 つまり1964年の運動は今でも評価され確実に継承されていること、かつてヒッピー世代であった若者たちが今やこの学内でも大学運営にあたる教授になっていることが知れたのだ。マリオの生年1943年は私と全く同じでもある。小さなこととも言えたが、かつてインドなどで彼の名を聞いたこともある私には感慨無量のことであった。  じっさい、かつてこのバークレー校をはじめカリフォルニア大はこの事件以降、ギンズバーグやシュナイダーらを講師や客員教授に招聘し、ヒッピー潮流を知的にも大衆的にも大きなものに成長させていったのである。

 けれども、学内を出て正門前通りなどを歩くと、かつては両側に軒を連ねたというインド関連ショップは今や2軒ほどにクリシュナとかラージャと名前が残るだけで面影はなく、サンフランシスコ市内に戻って昔ヒッピーの聖地とも言われたヘイト・アシュベリーを歩いても、インドショップやサイケデリック模様は風俗的デザインとして形骸をとどめているだけであったのは、まさに時代の流れというものであろう。

 2、ニューヨーク

 8月初頭に移動し9月一杯いたニューヨークでは、もっぱらユダヤ人街や黒人街を歩きまわった。宿も下町、かつての移民街ロワー・イーストサイドの一角にとり、かつてはニューヨーク最大のユダヤ人街であった界隈を踏査したのだが、この界隈の変遷はニューヨークおよびアメリカ合衆国の生成過程そのものであり、まことに興味深いものだった。  すなわち1800年代以降アメリカへ移民してきた人々は、まず自由の女神像の対岸にあるエリス島に上陸し、ついでマンハッタン南東のロワー・イースト(以下こう呼ぶ)のテナメント・ハウスと呼ばれる劣悪な環境の移民住宅に住んだのだが、やってきた人々はまず最初がアイルランド人、ついでドイツ人、イタリア人、ユダヤ人、東ヨーロッパ人、中国人といった順であり、環境が劣悪だっただけにいかに早くここを抜け出し、もっといい場所に移動していくかが移民共通の目標になったわけである。

 そうして実際アイルランド人、ドイツ人らはいち早く抜け出し、グリニッジ・ビリッジやアッパー地区に瀟洒な家を得て移動していった。またユダヤ人にしても最初に来たドイツ系ユダヤ人らはある程度の資本も持参しており、すぐアッパー地区などに移動していき、逆にテナメントハウスの家主となって、次に渡ってきたポーランドやルーマニアなど東欧系ユダヤ人から利益を生みだすという経過を辿ったのである。  またその貧しかった東欧系ユダヤ人たちにしても、近来は大半がイーストリバー対岸のブルックリン区などに移動しており、ロワーでのユダヤ人コミュニティーは死んだと言われている。  

 が、面白いことに少数だがまだ住み続けているユダヤ人もおり、注意深くさがすと街のそこここの建物や看板にイディッシュ語(ポーランドやロシアなど東欧に在住したユダヤ人が使用したドイツ語とスラブ語、ヘブライ語などがまじった言語で文字はヘブライ文字)やヘブライ語の文字が読みとれ、古びて使われなくなったり、それでもわずかに一部だけ使われているシナゴーグ(ユダヤ教会)が発見できる。

 それらの中には19世紀創建のイディッシュ語新聞「ジューイッシュ・フォワード」社の元建物もあり、この新聞にこそかのノーベル賞作家、生涯イディッシュ語でしか小説を書かなかったアイザック・バシュビス・シンガーが作品を発表し続けたのである。

 その建物はかつても今も決して裕福な街とは言えないイースト・ブロードウェー通りに壁に消えかかった字で「FORWARD」と書かれたままあり、現在は中国人に買い取られ、折から大がかりな改装工事中であった。移転先はミッドタウンで、新聞は現在も発行され続けているが、貧しいユダヤ人の幻想譚的作品を書き続けた、おそらく当人自身相当貧しかったと思えるシンガー自身、1978年にノーベル賞をもらって以降はアッパー・ウエストの高級アパートメントに引越し(西86丁目にあり、通りは現在「アイザック・バシュビス・シンガー通りとも名付けられていた)、そこで1991年に亡くなっているから、これまた時の流れかもしれない。

 またそのフォワード社の並びにはシンガーがかつて通ったというカフェ「ガーデン」あとが現在は中華料理屋「永順茶樓」と化して中国人たちや界隈の白人たちもまじって賑わい、その向いのかつてアナーキストたちが貧しいロワー住民たちに社会改革を熱烈に訴えたという小公園は、現在、アナーキストどころか国家のために死んだ第1次第2次大戦および朝鮮戦争の戦没者碑の立つ場となり、その向うのかつてソ連の初代外務大臣ともなった革命家トロツキーが通った市立図書館は、今や英語とともにスペイン語中国語の掲示が多く、出入りするのも近所の中国人少年らが目立つ場所となっている。

 すなわち界隈は驚くほど中国人が浸食し、もはやチャイナタウンの一部と化しつつあるのだが、ほど近くにある小さな「チャイニーズ・アメリカン博物館」を訪ねると、アメリカへの中国人移民人口は1970年には40万人だったのが、1980年には80万人、1990年には160万人とまるで倍々ゲームのように増えているのだった。ちなみに、かつてユダヤ人と並び貧しかったイタリア人移民たちが作った街、ロワーイーストとチャイナタウンに隣接する「リトル・イタリー」もまた、レストラン街を除けば多くを中国人に浸食されているのである。  2001年の今、ひょっとしたら300万人以上になっているかも知れぬ中国人たちは、この先どんなふうになっていくのだろうか。事実、サンフランシスコではチャイナタウンは第2,第3から一説では第4まで4つもあったし、ニューヨークでもマンハッタンを離れたクイーンズ区などに第2の巨大なチャイナタウンが形成されている。

 シンガーの世代に代わるアメリカの作家は今後中国人などから現れるのかもしれない。現に映画のジャンルでのアン・リー監督、小説家ではエミー・タンが出ているように。

 また最後になったが、黒人文学の生みの街となったハーレムにもぜひ触れねばならない。ここはかつて白人エスタブリッシュメントに対して銃撃戦まで行った黒人革命党ブラックパンサーやマルコムXのブラックモスレムを生んだ街でもあるが、現在ではすっかり治安も安定し、中心街125丁目なぞは観光客や近来新たにブラックアフリカから移住してきた黒人らで賑わっている。そして黒人作家ラングストン・ヒューズの生家はウオーキングツアーの重要な訪問地になっている反面、それより後つい最近まで生きたジェームズ・ボールドウインの住んだ家はすでに市の住宅計画のせいか取り壊され、もはやなくなっていた。

 125丁目には来年(2002年)春には前大統領ビル・クリントン氏が事務所を構える予定ともいう。明るく賑やかになったハーレムから今後どんな文学が生れるか、期待が持てそうにも逆に持てなさそうにも思えるところが面白いところかもしれない。

終りに

 今回の海外研究はサンフランシスコとニューヨークの2都市に限ったが、この二つはアメリカ国内でも「カリフォルニアはアメリカではない」とか「ニューヨークは特別だ」と言われる地域であり、広大なアメリカのなかでほんの一部にすぎないとも言える。事実、アメリカ文学の多くの作家はフォークナーをはじめもっと田舎の地方にいたとも言える。アメリカの一つの象徴はディープサウス(深南部)であり、またもう一つは中西部であることを思えば、この国の全体像は文学的にもそれらの地を訪れなければ判断できないかもしれない。
 次にはぜひ南部、中西部を訪ねたいと思う次第である。 (了)