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日々、思うこと

 このページでは、日々、思うことや感じること、考えることなどを、 その都度、暇にあかして書いています。暇と興味があれば読んでみて下さい。 ただし、あまり重要なことは記述されていないと思います。

横断歩道
 今日、道を歩いていると、私の目の前で、横断歩道を渡っている子供が車と接触しそうになった。 このような場面を目にするのは、今日に限ったことではなく、今までにも幾度となく目にしている。 その度に、横断歩道というものを無くしてしまう方が安全なのではないかとも考えて しまう。
 これは私だけなのかもしれないが、横断歩道で歩行者が渡ろうとしているからと、車が歩行者のために停車する場面を、 今までに一度も目にしたことがない。これは大げさな言い方でなく、子供の頃から目にしたことがない。 車の運転手が横断歩道を渡っている子供に怒っている場面や、横断歩道を渡っている歩行者を威嚇する ようにスピードをあげて突進する場面は、幾度となく目にしたことがあるが。
 子供は道路を横断する時は、横断歩道を渡るように教育されている。「車に気を付けて渡るように」と 注意されていても、横断歩道では歩行者が優先であると思っている。一方、車の運転手はというと、 横断歩道などはなから眼中にない。それどころか、横断歩道の存在する意識していない。
 この両者の意識の違いのなか、子供は横断歩道では車が止まってくれるものと思って渡るが、 運転手の方はというと、止まるなんて意識は、これっぽっちもない。これでは、横断歩道の存在 自体が事故を誘発してしまう原因になりかねない。
 この前も横断歩道を渡っている人が車にはねられたと、ニュースでやっていた。車の運転手は、 歩行者がよけると思ったと供述しているとのこと。そう、車の運転手が気を付けているのは、 自分達と同じ種類の車のみで、歩行者や自転車に関しては、歩行者や自転車がよけるものだと いう思いが強いようだ。
 確かに、スピードの速いものは、スピードの遅いものが邪魔に感じる。自転車に乗っていると、 歩行者が邪魔に感じ、車に乗っていると歩行者や自転車が邪魔に感じる。

 横断歩道だけではなく、近頃の大阪の街では、青信号でも恐くて横断できない交差点 が増えている。何とか渡れるのは、信号が青に変わった時に渡り始める時だけである。信号が 青に変わった時でも、多くの車がかなりのスピードで右折や左折をしてくる。まるで 自分の進路からどきやがれと、脅しているように。
 信号が変わった直後でもこうである。青だからと途中から渡ろうとしても、とてもではないが 渡らせてはくれない。青で渡ろうとしている歩行者にクラクションを鳴らしている運転手を目撃 したのも、一度や二度のことではない。恐怖感を抱かずに渡れるのは、警察官がよく見える場所に いてくれている時だけである。
 青信号で渡っている歩行者を車がはねる事故が多発しているのもうなずける。特に、大きな交差点 で対向車の合間をぬって無理やり右折しようとスピードをあげてくる車は、対向車線の車のみを意識 しており、信号を渡っている歩行者は無視している。私も何度かひかれかけたことがある。
 自分が気を付けて歩いていても、車の方から突っ込んで来るご時世である。ニュースで もまさかというような事故を最近特に目にすることが多くなった。
 交差点での歩行者用信号に関していえば、信号が青に変わると直ぐに点滅するようにした 方が安全なのではないかと考えている。今の交差点では、青信号の途中から渡ろうとすると 非常に危険である。次の青信号に変わるまで待つ方がよい場合が多い。しかし、 点滅していなければ、まだ渡れると、急いで渡ろうとする。しかし、車の運転手の方は 容赦がない。これでは事故の原因となってしまう。
 しかし、青信号に変わると直ぐに点滅するようにしておけば、信号が変わるから、次の青信号 まで待とうという気持ちが強くなる。
 とにかく歩行者は「交差点は車のものである。我々歩行者 は車の運転手から渡らせて頂いているのだ」という感覚で交差点を渡る必要があるということを 肝に銘じておくべきである。

   毎年毎年、交通事故で死傷者が何万人にのぼる原因は一体全体どこにあるのであろうかと 考えてしまう。毎年である。戦争や災害での死傷者の数は衝撃的に受け取られるが、 それよりも多くの数の死傷者が毎年でている交通事故に関しては、慣れっこになって しまったのか、あまり驚くこともない。
 これだけ多くの死傷者が毎年出るということは、やはり何らかの根本的な原因があるのではないだろうか。
 その原因が、車という機械にあるのか、運転する人にあるのか、それとも交通制度にあるのか。どこかに 何らかの問題があるとしか思えない。
 よく聞く話が「使う人間に問題がある、使う人間の責任だ」というものである。それにも かかわらず、車を運転できる人間を制限しようという話は一向に出ない。一応年齢制限はあるが、 だれでも免許が持てる。そう、大悪人でも気が狂っている人間でも、簡単な試験で誰でもが 車という凶器を持つことができるのである。
 私としては、これだけ車の事故が多発している現状では、車という凶器を手にしては いけない人達には、持たせるべきではないと考えている。せめて何らかの性格検査ぐらい はした方がよいのではないかと考えている。
 よくテレビなどでも、面白おかしく、誰々はハンドルを握ると性格が変わるという話をやっている。 性格が変わってもらっては困る。自分一人が傷つくのであればよいが、車という凶器が厄介なのは、 多くの人を巻き込んでしまう場合が多いということである。
 自分から自慢げに、車を運転すると性格が変わるということを自慢している手合いもいるが、 このような連中からは、即刻免許を取り上げるべきである。まあ、このような手合いも、自分が 歩行者である時には、無謀運転をする車に怒っているのではあるが。しかし、我々人間の悲しさ。 自分のことは分からない。

 経済至上主義の今の日本であるから、経済の牽引役である車という凶器を売るということに 関して、規制をかけるのは難しいであろうと思われるが、何らかの対策はして欲しいものである。
(平成17年11月23日記)

環境保護
 近所に面白いスーパーがある。
 このスーパーでも、近頃、あちらこちらで見受けられる環境保護の一貫としての ビニール袋の節約運動をやっている。当方にて袋を用意し、スーパー側のビニール袋 をいらないようにしておくと、店員がご丁寧に「有難うございます」と言ってくれる。 この「有難うございます」という言葉は、多分、地球に変わって言ってくれているのだと 思う。
 これだけであれば、別段、何ら他の店と変わるところがない。今では、コンビにでも ビニール袋の節約運動をやっているほどだ。
 このスーパーのどこが面白いかというと、ビニール袋の節約運動をやっているくせに、 一つの袋分で十分まにあう少量の買い物の時でも、どばっと袋を買い物かごに入れてくれる ことである。一つのビニール袋でまかなえる時でも、三つ四つのビニール袋を入れてくれる。 なかなかサービス精神が旺盛である。持ち帰って、普段の生活で利用しろ、と言ってくれて いるのであろう。

 しかしである。何か奇妙ではないか。
 方やビニール運動の節約運動をしており、方や一つのビニール袋で十分まにあう量に複数のビニール 袋を提供してくれる。これは非常に面白い現象である。

 ここで何が言いたいかというと、環境、環境と言っても、我々は別に何とも思っていない、ということを 言いたいのである。今の自分が環境悪化で死ぬようなことが無い限り、別段、何の関係もない。それよりも、 環境のために不便になる、自分が損をする方が腹が立つ。
 まあ、あまりいい子ぶることもないかもしれない。死んだ後のことまで我々は知らない。
 今、子供、孫の世代につけを残すなということを、どこいら中で言っているが、前述のスーパーと 同じで、今の自分に利益があれば従うし、損をするなら誰が従うか、というのが我々の本音である。

 今、環境保護、環境保護と叫ばれているが、以前より一度聞いてみたいことがあった。
 それは、我々人類が、今後一切環境を破壊しないとして(人間以外に環境を破壊する生物はいない)、 一体全体、今まで破壊しまくられた環境が改善していくのであろうか。改善されるとして、どの程度の スピードで改善されていくのであろうか。
 もし、微々たるスピードでしか改善されないのであれば、いくら環境に”優しい”施策をとったとしても、 もはや不可能であろう。我々人間が、今の快適さ、楽しみのレベルをを維持していくだけで、膨大な環境 を破壊しているのであるから。お金儲けの世の中である。我々の生活レベルが今のままで停滞 するわけがない。お金儲けのため、さらに快適に、さらに楽しいサービス、商品をどんどんと世に送り だすことであろう。遮二無二環境破壊をしながら。
 そう、今の我々は生きていくだけで、多大な環境破壊をしているのである。これは、環境保護を訴えている 人達ですら、例外ではないであろう。

 この前、ある自動車会社の人間と話をした。彼らは、環境に優しい車を作ろうとしていることに誇りを 感じているようであるが、環境破壊の元凶から、「来週の予定の死刑執行を再来週にできるように俺達は 頑張っている。どうだ、偉いだろう。お前達も環境保護をしろ。」と言われても、ピンとこない。本人達は 真剣に、環境のために頑張っていると思っているようであるが。

 まあ、とにかく我々は身勝手な存在である。自分がやるのはいいが、人がやると腹が立つ。人は、人を 非難する時には万人が聖人君子になる、とはまさに至言である。
(平成17年11月27日記)

歩く哲学者
 私は歩く。とにかく毎日歩く。
 誰だって歩いているさ、と言われるかもしれないが。歩く距離が違う。一般の人の万歩計 のレベルではない。
 この十年以上、平均すると、多分、一日20キロ前後は歩いている。もちろん、日によって 歩く距離が違う。一日10キロ程度の時もあれば、20キロ程度、30キロ程度の時もある。さらには40キロ以上 歩く時もある。一年分の距離を365日で割り平均して、一日20キロ前後の距離になると思う。

 何故毎日これだけの距離になるかというと、よっぽどのことが無い限り電車に乗らないからである。
 大阪には、東京の山手線を 縮小したような環状線というものがある。この環状線内はもちろんのこと、大阪の天王寺区を拠点にして、 北は江坂という場所辺りまで、南は堺辺りまでの距離であれば往復歩く。
 平日でも、これだけ歩く私であるが、別に運動靴にトレーニングウエアを着て歩いている わけでもない。背広にネクタイ、ビジネスシューズといでたちで、何十キロとあるいている。
 また、休日には散歩をする場合があるが、この距離も半端ではない。4時間や5時間歩くのは当たりまえ、 大阪から暗がり峠を越えて奈良までも、年に何回か歩く。
 地球一周が4万キロとして、今までで、地球をゆうに3周以上した距離を歩いているのではないかと思う。
 私は今40代であるが、20代の頃はもっと歩いていた。日本国内だけではなく、海外にも足をのばし歩いた。100日強の日数をかけ 4000キロ以上の距離を、熱風が荒れ狂う真夏の砂漠地帯を突破して歩いたこともある。 海外だけで1万キロ以上は自分の足で歩いている。
 このような私は、多分、マラソン選手を除いては、今の日本で、自分の足で移動する距離が最も長い 人間ではないかと考えている。どこかのシューズメーカーがモニターでシューズでも持ってきて くれないかと考えたりする。

 こんな私であるから、自分自身を「歩きの専門家」または「歩く哲学者」と呼んでも差し支えないと考えている。 別に歩くことでお金を儲けているわけではないので、「歩きのプロ」ではなく、やはり「歩きの専門家」で あろうと思う。
 私が自分自身を「歩きの専門家」と呼ぶには、歩く距離以外にも別の理由がある。
 今まで何十年もこれだけの距離を歩いてきたのであるから、歩いている間に様々なことを発見している。 様々なテクニックという方がよいかもしれない。
 歩くことにより、自分の心を制御する方法。または、自分の心を制御するための、歩きながら行う トレーニング方法。歩きながら集中力を養う方法。落ち込んだ心を高揚させる方法や、興奮した心を 静める方法。他にも沢山の歩きながら行う訓練方法やテクニックを発見している。

 これらの方法は折りに触れて、知人に教えてあげているが、沢山の テクニックがあるため全てを教えることはなかなかできない。
 この間も、「悩みがあり、休みの時には、気分転換に散歩でもしようと思うが、散歩をすると 余計にぐちゃぐちゃと考えてしまい、かえって疲れてしまう」という知人に、自分の心を制御して 歩きながら、精神的疲れを取り除く方法を教えてあげた。
 また、その方法を普段の生活でも歩く時に 行うと、ぐちゃぐちゃと考えてしまう頭の中のどうどう巡りや、心の中の不安などを取り除くよい トレーニング方法ともなる。この方法などは歩いている時以外にも実行できるのであるが、 どうせ通勤や通学その他で歩くのであるから、その時のついでに行えばよいものである。

 一般的に歩くことは気分が壮快になると言われているが、悩みや不安、ストレス等のある場合には、 散歩することにより逆に精神的に疲れてしまう場合がる。この理由は、歩くということが、 単調なリズム運動であるというところにある。
 単調なリズム運動の繰り返しでは、ある時間行うと、自分の思考があっち飛び、こっち飛びして 様々な思いが頭の中に湧き出てくるものである。 単純作業や単純動作の繰り返しをしている時に、気が付けば他のことを考えながら行っていた、という 経験が皆さんにもあると思われる。これと同じことである。

 多くの動作の要素を含む運動であれば、その違う動作毎に集中するので、他のことを考えながら 行う、ということはあまりないが、散歩(歩く)という単純なリズム運動の場合は、気が付けば 他のことを考えている場合が多い。しかも、自分が悩んでいることや、思い煩っていることが あれば、ついついその事を考えてしまう。気分を変えるために行った散歩が、かえってストレス をためてしまうことになり、これなら家でテレビでも見ていた方がよかった、ということになって しまう。
 これは、自分の心を制御して歩きながら、不安やストレスを取り除く方法(テクニック)を知っているか どうかである。歩きながら行うことができる様々な方法やテクニックを知っていれば、どのような時にも、 歩くということは非常によい運動であろうし、また肉体的にも精神的にもよい トレーニングとも方法ともなりうる。

 多くの人が歩いているのを見かける。運動のために歩いている人も多い。
 しかしである。歩きの専門家である私から見ると、わざわざ健康を害するために歩いているという 人も多く見受けられる。いや健康を害するどころか、バカになる歩き方をしている人も多い。
 歩けば歩くほどバカになる。これは悲劇である。
 また、わざわざ自分の心を暗くさせる歩き方をしている人も多い。これは一般的にいう、 うつむいてとぼとぼと歩く、という歩き方なのではない。前を見ながら歩いている人でも、 自分の心を暗くしてしまう歩き方をしている人が多い。
 なにやら「うつ」の人が多いと聞くが、毎日行う歩くという行為で、自分の心を 暗くしてしまっている人も多いのではないかと考える。これなどは、歩き方を変えれば 元気が出て来るものであり、それが習慣となるものなのであるが。

 これだけ歩いていれば、街中で様々な人にでくわす。中でも多いのが、こちらが 追い抜かそうとすると競争する手合いである。
 こちらは、長い距離を歩くので、自分の一定のリズムで歩いている。しかし、追い越され そうになって競争する連中は急にスピードをあげる。そして先に行くが、何百メールかすると 必ずスピードが落ちてきて、こちらが追い抜き返すことになる。
 この手合いにはいつも思うことであるが、何故追い抜かれそうになるとスピードをあげて 競争しようとするのであろうか。
 負けず嫌いというよりも、多分、神経質なのではないかと考えている。いや神経質 というよりも、今までの人生の間に何かに囚われてしまったのであろう。

 この何十年の間に発見した多くの歩きのテクニックや方法であるが、何らかの機会があれば、 様々な人に教えてあげるのもいいかなと考えている。
(平成17年11月28日記)

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