☆Vol.2: Y'S GEAR Racing と#81と '07シーズンの Norick


 
  「実はYAMAHA内でも、81は欠番にしようかという声もあったんだけど、我々が『ぜひ同じ81でやらせて 欲しい』と頼んだんですよ。」
2007年12月9日の ”Norick メモリアールミーティング ”の会場で、ワイズギアレーシングの母体である 伊藤レーシングのオーナーでもあり'07のチーム監督でもあった伊藤 巧氏がそう教えて下さった。
 
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  全日本ロードレース選手権の2008年シーズンが開幕した。今年もワイズギアレーシングはゼッケン#81で JSB1000クラスに参戦している。今年のワイズギアレーシングの参戦体制がアナウンスされた時、去年と同じ #81で、というのに色々と思うところがあった方々もおられたかも知れない。筆者自身も、冒頭の伊藤さん の言葉を聞いていなければ、'07シーズンと同じゼッケンを使うということでチームの気持ちの予想はつく ものの、Norickご自身が熟考して決めた「#81」を他の選手が使うという報せを聞けば、正直、複雑な 想いを抱いていたかも知れない。(もちろんそれは、後任に決まった選手が云々、というレベルの話では ない。誰に決まろうと、”後任ライダー”は存在しても、筆者にとっては”Norickの代わり”など、 存在し得ないのだ。)
しかしこれは、「Norickとともに作り上げてきたワイズギアレーシングで再び闘いたい」という結論で、 あのとてつもない困難を 乗り越えようとチャレンジするチームの意向であったのだ。
 
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  拙掲示板に書き込んで下さったお礼をと声を掛けた私たちに、伊藤さんはその場でしばらく、Norickとの 興味深いお話を色々と聞かせて下さった。そこでのお話や色々な記事、チームスタッフの方のブログなど から窺い知ることができたこと、そしてまた我々が実際にNorickと話したことやこれまでの観戦等で感じた ことからNorickの2007シーズンにまつわる逸話を書いてみたい。

最初にゼッケンの話題を取り上げたので、07シーズンの第1戦もてぎで、この年のゼッケンについて直接 Norickから伺った話を少し。
この番号に決めた理由は最早説明不要であろうが、これも勿論ご本人が考えたものだ。そして「もし #17が空いていたらやっぱりそれにするつもりだったんですか?」との問いには 「そう、#17にしたかったんだけど空いてなくて、それで『やべえ!』って思って(笑)2週間くらい 考えさせてもらったんですよ。」 とゼッケンを決めた時のことを教えて下さった。

話題はチーム結成初期のことに戻る。
色々な話から察するに、このワイズギアレーシングというチームは、Norickの為に急造されたチームの ようで、スタッフも、メーカー直系ともいえる全日本のトップクラスのチームでの経験はない人がほとんど だったらしく、スタッフご自身も”元GPライダー”と仕事をするということに対し、「どうなるんだろう」 というのが率直な気持ちだったようだ。
ちなみに、伊藤さんがNorickのR1での走りを初めて見た時の感想は、「なんだ、割と普通に乗るやん。」 (笑)というものだったと教えて下さった。かなり独特な乗り方をするライダー、という”世間一般の評価” を聞いておられたのだろう。
Norick側も未知数のチームに対する不安感はやはりあったようで、父光雄氏は、スタッフの動きを見て最初は 「正直『大丈夫か?』と感じた」と後にチームに語られたらしい。
”世界帰り”のNorickの要求は厳しく、もちろんご存知のとおり妥協もしないし、決して最後まで諦める こともない。百戦錬磨の経験と自信に裏打ちされたガンコさも持ち合わせている。ご自身もライダー出身で、 全日本500のレギュラーライダーも務め、WGP500の表彰台の経験もある伊藤さんでさえ、Norickの徹底した その姿勢に、正直「そこまでやるか」と感じたこともあったそうだ。「特にベテランになってくると、 『こんなもんだろう』くらいで済ます人も多いけど、彼は徹底してたね。」ともおっしゃっていた。
一方チーム側も、ワークスクラスのチームでの経験はないとは言え、スタッフはNorickのチームに選ばれる くらいの人材であり知識も経験も充分に持ち合わせているわけで、それ故、最初の頃は意見が衝突することも あったそうだ。そんな中、話し合いは徹底的に行われ、「じゃあ当面、全面的にNorickの意見でやっていこう!」 とチーム内で意思統一が図られた。
Norickの、可能性が少しでもあれば最後までやってみる、絶対に諦めない、という姿勢は徹底しており、よく 「なんで(最後まで)やらないんですか!やりましょうよ!」 とチームを鼓舞していたという。何か思いついた ことやアイデアがあれば積極的に意見し、少しでも良くしていこうという努力は惜しまなかった。
ある時などは、日中サーキットで伊藤さんと顔をあわせた時に 「あ、なんか言うことあったんだけど、なんだっけなぁ・・・。あとで思い出したら言います。」 と言っていてその日の夜中でも電話をしてきたり、 レースウイーク以外の時には、川崎在住のNorickと鈴鹿を拠点にしているチームの伊藤さんが、夜中に 富士あたりで落ち合い、4時間以上も話し込んだり、ということもあったそうだ。
最後まで諦めず徹底的に、という面で実際に目にしたことでいえば、第3戦筑波での決勝前、まだ自分の走りに 合った決勝用タイヤが見つかっていなかったNorickは、午前のフリー走行終了直後、まだ汗も滴り落ちる ツナギ姿のまま、伊藤さんと共にDUNLOPのオフィスに向かい、1時間以上も出てこなかったシーンを思い出す。 (ちなみに、その後予定されていたサイン会には、『時間がないから』とその姿のまま向かった。あのNorickが ツナギ姿のまま、普通に一般の通路を歩いて会場に向かう姿を目にした観客は皆驚き振り返っていた。)

実際にシーズンが始まり日程が進んでいくなかでも、当初はNorickの望むものに対しチームの動きは スムーズに対処できているとは言えなかったそうだ。「Y'S GEAR CLUB Vol.15」の記事によると、3位表彰台を 獲得した第3戦筑波の頃でさえもそれはまだしっくりいかず、鈴鹿300km、8耐という長丁場のレースを共に 闘った頃からようやく噛み合ってきたとのことだ。
メカニックの方たちは、ほんの僅かのことも見逃さないNorickの厳しい要求レベルに対して”ダメ出し” されないようになろうと、それをNorickとの「戦い(笑)」と言い、懸命に努力した。ヘルパーを務める シータカさんこと東さんは、周りに乱されることを好まないNorickの行動パターンにスムーズに対処できるように と、行動パターンや色々なクセ、食べ物の好み等までも記した「Norickノート」を作成した、と後にご自身の ブログに書かれていた。
そんな努力が実り、シーズン後半くらいから、メカさんたちにはNorickからの”鋭い指摘”もなくなり、 東さんはNorickの動きに対し、先回りできるようになってきたという。
もちろん、開幕戦いきなりの予選2位/決勝5位や筑波でのコースレコードでの予選2位/決勝3位表彰台と いった数字に表れる好結果のみに限らず、目の当たりにされるライダーNorickの実力は、スタッフをグイグイ 引っ張りやる気にさせるに充分であったことは想像に難くない。実際に、事実上初めて走ったといえる岡山での テストの時の、走るたびに尋常でないタイムの縮め方をするNorickを見て、「流石だ」「やはり違う」 「これが世界で走ってきたライダーの走りなのか」ということを身をもって感じた、とあるメカさんは 以前Web上で語っておられた。

要求は厳しく妥協はしないとは言っても、Norickは勿論スタッフへの感謝の気持ちも忘れない。ご自身のコラム等 でも語っておられたがレースは自分ひとりのガンバリだけではどうしようもなく、チーム全員が同じ方向を向き、 同じ気持ち・モチベーションで戦わなくては目標を達成できないことをより強く感じていたNorickは、これまでの チームでもそうであったように、チームワークやチームの雰囲気を非常に重視し、このチームでもレースウィーク の間に必ず1回はスタッフと食事を共にすることを欠かさなかったという。
GP時代の拙観戦レポートでも触れたことがあるが、走行時にピットから出て行く時に必ず後ろを振り返り、 マシンを押し出してくれるスタッフに『 Thank you 』と小さく頭を下げる姿や、 決勝日の夜にだいたいはスタッフと同じかむしろそれよりも遅くなることもあったNorickが、先にサーキットを あとにすることになった場合、(当たり前かもしれないが)必ずピットに立ち寄り、スタッフ全員に 「じゃあ、お先に失礼します。また、次の○○で!お疲れ様でした。」 と声を掛ける姿からも、チームとの関係を大切にするNorickの人柄が見て取れた。

実はYAMAHA内でも評価が二分されていたというNorickの、この年の頑張りは、レースを消化するごとにYAMAHAを 「本気に(伊藤さん談)」させていった。そして筑波での3位獲得により、当初未定だった”Norick8耐参戦”が YAMAHA内で急遽決定されたそうだ。鈴鹿300kmの僅か1ヶ月前である筑波の時でさえ、ご本人が 「(300Kmも8耐も)まだ判んないですね。」 と言われていたのも、これで納得がいく。
拙観戦レポートには書かなかったが、我々は開幕戦のもてぎでもこの年の8耐参戦についてお訊きしていた。 実はこの時点ではNorickご自身は出るつもりはなかったようで、この時Norickは 「出ませんよ。オレ、へそ曲げたから(笑)。」 とおっしゃっていた。
それまで 「毎年ありましたよ。」 とご本人も言う8耐参戦オファーだったが、色々なタイミングや事情で参戦には 至らなかった。だが、'06はシーズン前からトーチュウ紙上でも意思表示するなど、参戦への意欲を見せていた。 結局、'06は参戦しなかったのだが、Norickのあの言葉からは以下のような前年の8耐参戦に関するゴタゴタが 推測できないだろうか。
− 出るからには勝ちを狙える、納得のいく体制で、というのが条件のNorick。 YAMAHAもその前提で交渉・準備が進められていた。そこに(同時に交渉・調整を進めていた?)芳賀・エドワーズ組 の参戦が実現。YAMAHAは”'96優勝ペア”を目玉とし、「10年前の再来を!」とそこに力を集中する。 社内事情なのか方針なのかは分からないが、トップクラスの体制は1チームのみしか準備できない(しない?) YAMAHA側は、Norick側に「都合で、トップの体制を用意できなくなった。これこれこういう体制で なんとかやってくれないか?」と持ち掛けるが、最良の体制が条件でそれまでYAMAHA側もその可能性を 示していただけに、そのつもりで準備を進めていたNorick側は「なんで今更?それなら参戦は No!」 −
これは、あくまでも筆者の推測に過ぎないことを改めてお断りしておくが、Norickのあの言葉から察するに、 当たらずとも遠からず、なのでは・・・と思える。
そんな経緯がありつつも、Norickはその次の年の07年に初参戦を果たし、素晴しい健闘を見せてくれたわけだが、 参戦後には各所で「キツかった」という感想を繰り返していたし、実際に決勝中もライダー交代の時に 顔を真っ赤にし、大汗をかきながら 「キツいすねぇ。」 と我々にもこぼしていた。 普段からトレーニングを欠かさず、体力には自信があり、鈴鹿300kmを一人で乗り切って、ご自身でも体力面を 含め耐久への手応えを感じていたNorickがそのような言葉を繰り返すのは意外に思える。 もちろん、300kmの時とは気温も走行時間も距離も異なり単純には比較できないし、実際に非常に過酷な条件である。 しかしNorickが、『300kmで大丈夫だったから』と本番をナメてかかったわけでもなかろうし、他の猛者たち と比べて体力面で劣っているなどということも、もちろんあるはずもなかろう。
実は、この時Norickは1週間ほど前から体調を崩していた。金曜日の夜にご本人からそのことは聞いていて、 確かに辛そうにしていたのだが、後に聞いた話では、相当酷い状態で、熱発・嘔吐を繰り返し、 食欲もないという、一般人から見れば「これでレースなんてできるの?」と思えるほどだったそうだ。しかも真夏の 耐久レースである。加えて、遠藤さんもライディングスポーツの「GPサーカス2」で書いておられたが、 腰痛の方もここ最近はかなり悪い状態だった。その記事によると、いつまで続けられるかどうか判らないと いうぐらい限界まできていたようだ。8耐でNorickがあれほど苦しんでいたのも、過酷な環境とか暑さに弱いとか いうことだけでなく、これらのことも大いにその要因になっていたことは間違いないと思う。
しかし、ご自身のコラムやインタビューなどどこでも、体調や腰痛のことについては筆者が知る限りでは一切 触れていない。言い訳になってしまうのを嫌ったのであろう、その姿勢・潔さには感服するし、 そのような状況下においても、あれだけのことをやってのける精神力は、本当に素晴しいものだ。
(腰痛について言えば、筆者も、「かなり良くない」という情報は前年くらいに得ていたのだが、我々の目の前では 一切そのような素振りも見せたこともなかったし、全くそれを感じさせることもなかった。 また我々も、ご本人が公表していなかったこともあり、そのことについてはお訊きすることも敢えて控えていた。 対ファンなど表向きには気付かれることが無いよう、相当の努力と苦労をしていた筈である。)

こうしてシーズンを共に戦ってきたNorickとチームは、シーズン後半くらいからどんどんうまく噛み合う様に なってきた。2ヒート制の最終戦を前に、チャンピオンを充分狙えるポイント差でのランキング3位と好位置に つけ、本気でチャンピオンを獲りにいこうというモチベーションでチームは一丸となっていた。 チームみんなが(来年への展望も含め)「すごくまとってきた」「これから!」と感じていた。伊藤さんとも 「狙っていきますよ!」 と話していたそうだ。
ちなみに最終戦といえば、伊藤さんとNorickの間で、最終戦にはお互い家族を呼ぼうか、という話もしていた そうだが、先述した遠藤さんの記事では、「自分の最後のレースには家族を」とNorickは考えていたこと、 「来年良い体制ができそうだからもう1年やりますよ」ということだったので、 この年の最終戦鈴鹿ではそれは実現していなかったのかも知れない。

ところで、「チャンピオンを狙う!」といえば、Norickとの会話でとても印象に残っていることがある。 再び第3戦筑波の話になるが、件のDLオフィス内での決勝タイヤ選びの時のことを決勝後に少し教えて下さった 時のことだ。自分の走りに合ったものが見つからず本当に苦しい思いで窮地に立たされていたNorickは、 DLのスタッフとあらゆる可能性を探っていた。 「最初想定してたタイヤならせいぜい10位前後がいいところなんで、それだったらすごくグリップのいい タイヤを選んで10周くらいブッちぎってリタイヤするかと。 その方が(目立たないところを走り続けてるよりは)強く印象付けられるかも・・・って話も出たんです けど、オレ、チャンピオン狙ってるんで、そんな、レースを捨てるようなことはしたくなかったんで、 『それはダメだ』って言ったんです。」 と教えて下さった。 この時筆者は、Norickの口から直接 「チャンピオンを狙ってるんで」 と聴けてとても嬉しかった。もちろん、参戦するからにはそれを目指して闘うことは常々Norickも口にしているし、 我々もNorickが一番をめざして常に全力を注いで闘っていることも知っているし、これだけの実績・実力の ある選手がトップチームに所属して参戦する以上、それを目指すことは当然ともいえることなのだが、 この年に立ち上がったばかりの新しいチームであることや、パッケージの現状・・・等の諸々の厳しい現実が 立ちはだかっていることも事実なわけで、そういう状況でも・・・というか、とにかくご本人の口から 目の前で直接その言葉を聴けて、なんか嬉しかったのだ。

また、来年('08)に向けて、ということに関して、第5戦菅生でNorickから非常に興味深い話を聞かせて 頂いたことがある。 勿論、実際はどうなっていたか判らない(ライダーが代わったこともあるだろうが、結局、チームは'08も 引き続きDLを使っている)が、「来年タイヤメーカーを替えるかも」という、その時には書けなかったような 重要な話をして下さったのだ。
「DLユーザーで自分だけがもたない、グリップしない」と苦悩しており、それでもあれだけのパフォーマンスを 見せてくれたNorickが、あの走りにビシっとハマったタイヤを得たら、いったいどういうことに なってしまうんだろう!?と、それを聴いた時はニヤけるほど楽しみだった。

チームがいい感じに纏まってきて皆が「これからだ」と感じ、2ヒート制で充分逆転チャンピオンも狙える条件で 迎える鈴鹿の最終戦も、ご本人も伊藤監督もお父さんも、関係者が皆一様に「いい体制ができそうだ」と 口を揃えた'08シーズンも、本当に本当に楽しみだった・・・。
 
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  Norickが、全日本500ccに参戦していた時から親交が深かったというツルリュウさんこと鶴田竜二選手が、 Norickはよく、 『人生短いから常に急がないとダメなんですよ』『僕には時間がないんです、だから急がないとダメなんです。』 と言っていたとブログに書いていらした。17歳の時からの口癖だったとも。 他の何人かの方も同様のことを発言されていたのを見聞きしたように思う。  
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  伊藤監督は「まあ偶然かも知れへんけど、それまではウィークで1回だけだったのが、岡山の時は 木金土と3日とも一緒にメシ行ったんですよ。なんか不思議でね。」と教えて下さった。  
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  SHOEIのスタッフの現場担当として今も世界を周られ、Norickとは昔から個人的にも親交があるKILROYさん こと長谷川さんは、「今年はほとんど会うことはなかったけど、たまたま9月の終わりか10月の始めごろに 電話があって久しぶりに一緒にメシ行ったんだよね。」とおっしゃっていた。 (ちなみに、その時ではないが以前Norickとプライベートで食事に行った時のおもしろいエピソードを 聞かせて頂いた。「焼肉行こうよ」となったのだがその時に 「じゃあオレ今からシャワー浴びてきますんで、ちょっと待ってて下さい」 とNorick。「どうせ匂い付くのに?(笑)」と言っていたのだが、店内でなんと 「阿部さんですか?サインと写真いいですか?」と声をかけられたそうだ。 (もちろんNorickは快く応じたそう。プライベートでもさすがです!) 「さすがスーパースターは違うね〜!」と笑っていたそうなのだが、やはりスーパースターは、 そういうシチュエーションも想定して、プライベートでも常にビシっとキメとかないといけないのだ。)  
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  世界中を飛び回っておられ、Norickとは”ジャーナリストと選手”というよりもう友人のような 感じだったと見受けられる遠藤さんは、「日本にいるなら絶対来て下さいよ」とNorickに言われ めったに姿を見せない全日本の岡山に来られていた。  
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  本音の部分では自分のキャリアは世界で終わりたかったというNorickが、「日本のファンの前で走りたい」と 全日本復帰を決断してくれたおかげで、これまでせいぜい年に1回か2回くらいしか会えなかった我々も この年には何回もお会いすることができた。筆者は、これまでサインは数知れず頂いたが、この年の筑波で 初めて名前を入れて頂いた。

・・・・・これらのことは、もちろん結果論だし、だからどうこうと言うつもりはない。 だが、こじつけかも知れないが、なにか不思議な感じがするし、そう感じている方々も多いのではないか とも思う。
筆者にとっては、この年にそれまでよりも多くお会いできたり、サインに名前を入れて頂いて 本当に良かったと思っている。

次はいつ会えるのだろうか・・・。
 
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  '07開幕戦のもてぎで現行モデルのヘルメットにサインを頂いた。その時Norickに 「ゼッケンはどうしますか?」 と訊かれ「あ、今はいいです。左の数字がなくなってから頂きますね。」と答えたら、Norickは 「あぁ、#1ですね。」 と静かに笑って下さった。

筆者の部屋には、サインの脇にまだゼッケンの入っていない SHOEI X-ELEVEN NORICK TC-1 が、 それが描き入れられる日を待ちわびているかのように今も飾られている。
 
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  《 出典 》
Y'S GEAR CLUB (Vol.15) 
鶴田竜二ブログ
RAINBOW JAPAN (シータカさんblog)
ライディングスポーツ https://www.ridingsport.com/