新島襄旧宅



新島 襄旧宅(安中市文化財指定)


【新島 襄旧宅
(にいじまじょうきゅうたく)
 明治の宗教家・教育者として名高い新島 襄の父母の家で、県内活動の拠点となった旧跡です。氏は江戸時代末期の天保14年(1843)、安中藩江戸上屋敷で生まれ、名を七五三太(しめた)と称し、数奇な生涯を送った事でも知られています。
 幕末の国内騒然とした中、藩主板倉勝明も認める聡明な青年となった七五三太は、函館武田塾への留学を申し出て函館へ向かった(1864)。2ヶ月後、米国船に乗り込んで脱国し上海へ渡り、更にそこから米国船を乗り継いでボストンに入った。この時の船長テイラーがジョーと名付けたことから、後に新島 襄と名乗る様になる。米国では、フィリップスアカデミーやアーモスト大学を卒業。

 明治5年(1872)岩倉使節団への通訳協力が要請され、これに先駆けて明治政府より脱国の罪が許され「米国留学免許」が発行されるという超法規的な手続きがとられました。後の教育使節団にも同行、米国内はもとよりイギリス・スイス・ロシア・オランダ・デンマーク、などヨーロッパ各地を視察しました。帰米後、アンドーヴァー神学校に入学して牧師試験に合格しています。

 明治7年(1874)に帰国して父母と再会、ディヴィス牧師を助けて京都に出、明治8年、京都旧薩摩藩邸跡を購入して同志社英学校(現同志社大学)を設立しました。
 明治23年1月、大磯の旅籠百足屋にて腹膜炎により逝去、享年47歳でした。

 旧宅内は資料館となっており、氏の感動的でドラマチックな生い立ちをたどれるものになっています。説明員も常駐しており、求めれば諸資料の解説を丁寧にしてくれ、米国留学許可状や脱国を許し通訳に任命された書面なども見ることができます。

 私見ですが、彼の脱国は通訳術取得の藩命だったのではないでしょうか?。また妻女(新島八重)が、幕府に信頼されている会津藩士の子であった事を考えると開国の準備であった事も考えられます。
 好戦的な地方藩と戦出世を求める浪人武士などによる暴徒的な維新がなければ、非民主化・軍国主義化そして原爆投下もなかったかも知れません。

 大勢の人夫を要する藩の船で函館に入ったこと。僅か2ヶ月でそこから出国したこと。後に都合よく日本使節団の通弁に任命されたこと。英学校を設立したこと。…なによりも次の歌がそれを想像させてしかたありません。

    いしかねも透れかしとて一筋に 
                 射る矢にこむる大丈夫
(ますらお)の意地

 そこには、どんな苦難にも耐えて藩命(幕命?)を貫徹しようとした幕末武士の誇りを読み取ることが出来ます。

所在地:群馬県安中市安中一丁目7番30号

道案内:
 安中市街地旧18号線の西端を南へ入る。道が細いので注意。
入館料: 無料
休館日: 月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌平日)
      年末年始(12月28日〜1月 4日)
開館時間:午前9時〜午後5時   冬期9時〜午後4:30

駐車場

トイレ

 ○

     
 新島 襄旧宅
 旧宅自体は、藁葺きの手前部分で、その先に資料閲覧室・準備室を一体となる様に増設したという。また平成19年には、駐車場・公衆トイレなどが整備さています。

 資料閲覧室
 資料館は西側に増設して設け、居宅部には手を入れない様になっています。
    
 新島 襄旧宅裏の古墳
 昭和39年、旧宅は西へ100m程移設され、同様に文化財であった安中六号古墳脇に付けられました。
 古墳上には、安中藩と新島襄に関する石碑が建っています。

 新島 襄氏
  肖像画で、晩年のものの様です。
    
 安中教会記念会堂
 新島 襄は明治11年、地元の求道者30名を洗礼、後に県内初となる教会を設立しました。
 記念会堂は大正8年、氏の30回忌を記念して建設されたもので、日本人の手で造立された日本で最初の教会とされています。(旧宅の東方約2キロメートル)
 安政遠足(とうあし)(侍マラソン)
 安中藩主「板倉勝明」が、藩士の鍛錬のために始めたとされます。
 安中城址から碓氷峠頂上の熊野神社まで走るもので、仮装マラソンとして広く知られています。
   毎年5月の第2日曜日開催

            ウィキペディア=  

ちょっと足を延ばして…赤穂四十七義士石像


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