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週刊 富士河口湖 15号  2008年8月31日


妊婦検診への公費補助は5回


党・町委員会が町担当課に聞き取り


  日本共産党・富士河口湖町委員会は、7月7日、町健康推進課、保険課に、妊婦健診への公費補助について聞き取りを行いました。
 町の回答によると、富士河口湖町の公費補助回数は5回(一回の上限は6千円)ということでした。
 妊婦の方が医療機関で健診を受けると、1回あたり5千円から1万円ほどかかります。そして国は、出産までに14回程度、健診を受けることが望ましいとしています。  現在山梨県のすべての市町村で、5回分を公費負担しています。早川町(10回)、都留市(7回)などの5自治体は、独自に上乗せしています。 党・町委員会は、聞き取りの際、「わが町でも独自に上乗せできないか」と聞きました。
 回答は、「わが町は人口に占める子どもの割合が比較的多く、公費補助の上乗せは難しいが、町では、富士北麓で安心して出産できる体制づくりに取り組んでいる。」とのことでした。


誰でも安心して受けられるように


 昨年8月、奈良県の妊婦が救急搬送中、受け入れ先の病院がなかなか決まらす死産するという事件が起きました。この妊婦さんは、健診を受けておらず、かかりつけ医を持っていない、いわゆる「飛び込み出産」でした。 健診を受けることは、安全なお産のためにとても大事です。しかし、非正規雇用の拡大などにより、経済的に大変な人が子育て世代にも広がっています。 誰でも安心して健診が受けられるよう、公費補助の上乗せが、ますます求められていると思います。


妊婦健診の補助充実を

新日本婦人の会山梨県本部が県に要望


 新日本婦人の会山梨県本部は、7月15日、妊婦健診への補助充実を求める要望書を横内正明知事あてに提出しました。
 要望には6人が参加し、「①県独自の妊婦健診補助の実施②出産一時金増額など、出産費用への補助」を求めました。
 要望に子ども連れで参加したお母さんたちは、「上の子の出産費用やミルク代がかかり、医者から言われた回数の健診は受けられなかった」(3児の母)、「健診費用が心配で、出産ぎりぎりまで仕事した」(2児の母)など、実情を話しました。  荒木県健康増進課長は、「貴重なご意見を聞かせていただいた。さらなる公費助成は、利用状況を見てから検討したい」と話しました。 実は健診への補助は、県はまったく負担しておらず、市町村が負担しています。要望には、日本共産党の小越智子県議も同席し、「2、3回分だけでも県が負担すれば助かる人は多いはず」と訴えました。


国が14回分無料の検討を表明

  新聞報道によると、舛添要一厚生労働相は今月22日の記者会見で、妊婦健診の公費負担を拡充し、14回分を無料で受けられるよう検討する考えを述べたそうです。そして「来年度予算に組み入れ、できれば来年4月から実施したい」としています。  また舛添氏は、出産育児一時金(現在35万円)の改善についても検討する意向を示しました。

 

『戦争体験を聞く集い』が開かれました 

映画「日本の青空」富士北麓実行委員会主催『戦争体験を語るつどい』が、8月17日、富士吉田市民会館にて開かれました。

What's New

主催者あいさつのあと、竹内精一さん(富士河口湖町在住・写真)が、満州での戦争体験と戦後のシベリア抑留の体験を話しました。

満州にいた竹内さんは、17歳のときに軍に召集されました。満州では、兵士が竹槍と手りゅう弾を持たされ、戦車の下へ入って行かされ、その兵士たちは、1人も帰って来なかったそうです。
そして同時に、日本軍が満州で行った行為は、「侵略行為であり、許されることではない」と強調します。
また竹内さんは、難民となり逃げてきた子どもを連れた親の「あの悲惨な姿は今でも目に焼きついて忘れることはできない」と目に涙を浮かべて語っていました。
そして戦争が終わると、17歳以上の兵士はシベリアに抑留されます。その時16歳以下の子どもや女性は、満州に取り残され、身を守る術をもたず、悲惨な状況に置かれました。そういう中で残留孤児が生まれたのだそうです。
 最後に竹内さんは「戦争というのは、本当にやるべきではない」と強く訴えました。

次に中島辰和さん(山梨県原水爆被害者の会(甲友会)事務局長・鳴沢村在住・写真)が、広島での被爆体験を話しました。

What's New

中島さんは、10歳のとき、爆心地から2・5キロの自宅で被爆しました。同じ屋根の下にいたお父さんは、体じゅうに92か所ものガラスの傷を負ったそうです。
「父は原爆の話は一切せず、被爆者手帳の交付も受けなかった。父は職場の同僚や部下を皆死なせ、自分だけが生き残ったと、自分を責めていたんだろうと思う。」 お父さんが亡くなった後、中島さんは、「被爆の経験を語り継がなければ」と、被爆者手帳の交付を受けたそうです。
そしてお話の最後に、中島さんが尊敬するお医者さんで、当時治療にあたられていたという方の「治療できないような傷をつくる爆弾を平気で使った米国の行為は許すことはできない」という言葉を紹介。
また戦争責任をいまだ認めず、核兵器廃絶に背を向ける日本政府の姿勢も批判し、「核兵器廃絶、戦争放棄が実現することを祈っています」と述べました。 参加者の中から「今日お話を聞いて初めて日本軍の満州進出は『侵略』だったのだと知った」などの感想が出されていました。