水雷艇 千鳥型

 ロンドン条約により補助艦の保有トン数に制限が付けられたことから、大型艦艇の建造に支障を来すこととなりました。
 しかしどんな条約にも抜け道があるもので、この条約では600噸未満の艦艇は含まれていません。
 多くの植民地を抱える英国などでは、植民地の警備に小型艦艇を使用したからというのもあったのでしょう。

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千鳥 昭和8年11月20日 舞鶴工作部で竣工 昭和9年11月友鶴事件に伴う性能改善工事完了
       開戦時、第二十一水雷隊 台湾にあり 昭和17年5月よりほんどから船団護衛任務
               昭和19年12月21日御前崎付近で敵潜タイルフィッシュの雷撃により喪失

友鶴 昭和9年2月24日 舞鶴工作部で竣工 昭和9年3月12日佐世保港外で荒天下訓練中転覆
       昭和10年7月1日復旧完了
       開戦時、第二十一水雷隊 台湾にあり 昭和17年3月以降南方進出、船団護衛など
               昭和20年3月24日沖縄近海で敵機の爆撃により喪失

諸元 ( )内は性能改善工事後

主砲:三年式12.7糎連装両用砲          1基(0基)   2門(0門)
    三年式12.7糎単装両用砲          1基(0基)   1門(0門)
   (三年式12.7糎単裝平射砲)          3基(2基)    3門(2門) ()内は対空増備後
雷裝:八九式53糎連装発射管            2基(1基)   4門(2門)
機銃:毘式12.7粍単裝機銃                      1挺(0挺)
    (九六式25粍連装機銃             2基       4挺)対空増備後
    (九三式13粍単裝機銃                       3挺)対空増備後
爆雷:投射機                       1基 (3基)対空増備後
    (投下軌条                     2条)対空増備後
その他:パラヴェーン                  1対
     礼砲                       1基

排水量:535噸(600噸)
速力:30kt(28kt)
航続力:14ktで3000浬     重油120トン
軸馬力:11000hp
主機:艦本式蒸気タービン            2基    2軸
主缶:ロ号艦本式水管缶             2基

全長:82.0米  水線長:79.0米  最大幅:7.4米(8.1米)  吃水:2.0米(2.3米)

 帝国ではその抜け道を利用して小型重武装の水雷艇を開発する方向となりました。
 そうしてできたのが、本艦型の千鳥型と雉型でした。

 実際に千鳥型は小さな艦型の割に駆逐艦並みの兵裝を持っておりました。
 しかしその小さな艦型の上に大量の武装を詰め込むと言うことは即ちトップヘビーになるということです。
 案の定公試運転の際、急転舵で30度前後の傾斜が起こり、問題となりました。

 問題発覚後にバルジを装着、応急の改修をしました。
 しかし復元力不十分は根本的には解決せず、3番艦友鶴の転覆事件へと発展します。
 有名な「友鶴事件」です。

 この際に徹底的な調査が行われ、やはり重心位置とそれに伴う復元性能の不足と判明しました。
 この問題は、当時の多くの艦艇に及ぶと考えられ、しばらくは在籍艦船全ての検査・改修に追われました。
 設計者の藤本喜久夫造船少将は失脚、艦船設計では平賀譲の天下となってしまいました。

 本格的な改装は四番艦初雁から始められ、雷裝を半減、バルジの追加など重量に影響が出て、速力は低下しました。

 大東亜戦役では艦隊決戦の場はなく、本艦型は小回りがきき、使い勝手がよいことから船団護衛などの裏方に回った感があります。

真鶴 昭和9年1月31日 藤永田造船所で竣工 昭和9年11月友鶴事件に伴う性能改善工事完了
       開戦時、第二十一水雷隊 台湾にあり 昭和17年5月より本土から船団護衛任務
               昭和20年3月1日那覇で敵機の爆撃により喪失

初雁 昭和9年7月15日 藤永田造船所で竣工
       開戦時、第二十一水雷隊 台湾にあり 後南方に進出、船団護衛など
               終戦時残存、英軍に引き渡される