輜重兵第十五連隊 通称号:祭7372部隊 明治39年大隊編成 原駐地:京都
大正14年5月1日廃止 昭和13年7月連隊新編
戦歴:明治37・8年の役、韓国駐剳、宇垣軍縮で廃止
支那事變
大東亜戦役 昭和18年7月緬甸進出 インパール・盤作戦
泰国バンボンで終戦 1446名中46名復員
歩兵第五十一連隊 通称号:祭7370部隊 明治38年4月15日軍旗拝受 原駐地:名古屋→津 京都
当初独立第十三師団下、後に第三師団下
大正14年5月1日廃止 昭和13年7月14日再編
戦歴:明治37・8年の役・韓国駐剳 宇垣軍縮により廃止
支那事變・江蘇省溧陽駐屯・漢口攻略 江蘇省句容県移駐 蘇北・皖浙・浙贛各作戦
衢州東門外飛行場占領など、鎮江移駐
大東亜戦役 昭和18年6月ビルマ進出昭和19年2月レウ集結完了 インパールへ
インパール北方数十粁に進出も撤退 孤立下退却戦で約1800名戦死傷 盤作戦
泰国カンチャナブリ県ワンポウで終戦
師団長 | 司令部 |
歩兵第五十一連隊 | |
歩兵第六十連隊 | |
歩兵第六十七連隊 | |
野砲兵第二十一連隊 | |
工兵第十五連隊 | |
輜重兵第十五連隊 | |
師団通信隊 | |
師団兵器勤務隊 | |
師団衛生隊 | |
師団第一野戦病院 | |
師団第二野戦病院 | |
師団病馬廠 | |
鉄道第五連隊 |
通称:祭兵団
インパールの悲劇
歩兵第六十連隊 通称号:祭7368部隊 明治38年8月8日軍旗拝受 原駐地:金沢→豊橋 名古屋→京都
大正14年5月1日廃止 昭和13年7月15日再編
戦歴:明治37・8年の役・韓国駐剳 宇垣軍縮により廃止
支那事變・春季皖南・宜昌・江南・浙贛各作戦
大東亜戦役 昭和18年6月ビルマ進出 インパールへ サンジャックの戦闘で打撃
インパール北方数十粁に迫りながら撤退 残存600名強 盤作戦 泰轉進
泰国カンチャナブリ県タモアンで終戦
宇垣軍縮時
師団長 | 司令部 | |
歩兵第十七旅団 | 歩兵第十八連隊 | |
歩兵第六十連隊 | ||
歩兵第二十九旅団 | 歩兵第三十四連隊 | |
歩兵第六十七連隊 | ||
騎兵第十九連隊 | ||
野戦砲兵第二十一連隊 | ||
工兵第十五大隊 | ||
輜重兵第十五大隊 |
明治37・8年の役に於ける、緊急動員師団。名古屋で編成され、豊橋を原駐地としました。動員翌月の8月には出征して第二軍下に入りましたが、9月1日の休戦議定を受けて10月には後方に下がって韓国駐剳となりました。駐剳地は韓国北部。師団は明治40年3月に豊橋に復員しました。
大正14年、世界的軍縮の波と不況を受けて、師団は宇垣軍縮のもと5月1日に廃止されてしまいました。
支那事變による再編
支那事變が激しくなり兵力不足が見えてくると、次々と師団が復活したり新編されたりしました。十五師団も昭和13年4月4日編成下令、7月15日京都で再編、すぐに中支に送られて上海上陸後、南京・蕪湖一帯の討伐・警備に当たりました。
この間討伐・警備の合間をくぐって、昭和16年には高郵(蘇北作戦)・春季皖南・江南・浙東などの大作戦にも参加し、被害を出しながら勝ち続けたのであります。師団は再編後原駐地を敦賀に変えています。
大東亜戦役
大東亜戦役に突入しても、師団は中支活動しておりました。特に昭和17年5月浙贛作戦では大激戦を展開し、5月28日前線指揮中の酒井師団長が戦死するという異例の事態が発生しました。陸軍始まって以来の事例です。
インパール作戦
昭和18年6月、第十五軍下ビルマに進出、悪名高い牟田口廉也中将のインパール作戦準備が始まりました。
昭和19年3月15日強行された作戦で、師団は正面ルートを進み、チンドウィン河渡河ののちコヒマ-インパール間の街道を押さえるまでは快進撃を続けましたが、英軍の主力部隊と接触の後進撃は鈍り、補給が続かなくなってきたこともあり、インパールまで10㎞少しというところで師団長解任、撤退という事態が発生しました。この作戦では師団将兵の疲労・補給不足と英軍の追撃が速かったこともあり、前進時よりも撤退時の方が被害が大きく、将兵15280名中7521名が戦死傷・戦病死しました。
師団が昭和19年8月30日チンドウィン河渡河完了し、やっとイラワジ河まで到着したのは、昭和19年も末の頃でした。しかし英印軍の進撃は止まることを知らず、十分な戦力回復が済まないままこれを防ぐため盤作戦が展開してイラワジ会戦を戦うこととなったのです。
昭和20年1月、英印軍のイラワジ河渡河とともに幕を開けたイラワジ会戦は、弾薬が枯渇していた師団にとって厳しいもので、マンダレー死守命令を受けて市街戦を展開するも将校の戦死続出、各所で突破されて3月28日に作戦中止、爾後敵の攻撃をかわしつつ8月に泰への撤退命令を受けて泰へと退却戦を展開しました。
泰カンチャナブリで終戦。
明治38年7月18日編成 大正14年5月1日廃止
昭和13年7月15日再編完結
有名師団長:久邇宮邦彦王、山内正文など
戦死師団長:酒井直次中将
騎兵第十九連隊/騎兵第十五連隊 明治38年8月8日軍旗拝受 大正14年5月1日廃止
昭和13年7月15日騎兵第三連隊基幹で師団捜索隊として再編 昭和13年中に騎兵第十五連隊へ昇格
昭和14年6月16日捜索第十五連隊に改編 昭和16年歩兵團装甲車中隊に格下げ 昭和18年復員
原駐地:仙台→豊橋 京都
戦歴:明治37・8年の役、韓国駐剳、宇垣軍縮で廃止
支那事變・上海上陸後南京付近警備・討伐・各作戦従軍昭和18年復員解隊
野砲兵第二十一連隊 通称号:祭7378部隊 明治38年8月8日編成 原駐地:豊橋 京都
大正14年5月1日廃止 昭和13年7月再編
戦歴:明治37・8年の役、韓国駐剳、宇垣軍縮で廃止
支那事變
大東亜戦役 昭和18年8月上海発9月西貢 昭和19年2月インパールへ
盤作戦 泰国バンコク西方で終戦
工兵第十五連隊 通称号:祭7361部隊 明治38年7月23日大隊編成 原駐地:豊橋 京都
大正14年5月1日廃止 昭和13年7月連隊新編
戦歴:明治37・8年の役、韓国駐剳、宇垣軍縮で廃止
支那事變
大東亜戦役:昭和18年6月緬甸へ インパール・盤作戦・泰国で終戦
鉄道第五連隊 通称号: 昭和13年4月20日編成 原駐地:習志野
戦歴:支那事變、大東亜戦役 泰緬鉄道建設・インパール輸送支援 バンコクで終戦
歩兵第六十七連隊 通称号:祭7371部隊 明治41年5月8日軍旗拝受 原駐地:浜松 東京→敦賀
大正14年5月1日廃止 昭和13年7月15日再編
戦歴:明治37・8年の役・韓国駐剳・宇垣軍縮により廃止
支那事變・南京警備・宜昌・江南・浙贛各作戦
大東亜戦役 昭和18年8月上海発9月西貢着・昭和19年2月緬甸集結完了 インパールへ
コヒマなど占領、インパールへあと十数粁で撤退命令 戦死883名 戦病死661名 行方不明300名
盤作戦・泰轉進 泰国カンチャナブリ県で終戦
師団建制
編制時
師団長 | 司令部 | |
歩兵第二十九旅団 | 歩兵第五十七連隊 | |
歩兵第五十八連隊 | ||
歩兵第三十旅団 | 歩兵第五十九連隊 | |
歩兵第六十連隊 | ||
騎兵第十九連隊 | ||
野戦砲兵第二十一連隊 | ||
工兵第十五大隊 | ||
輜重兵第十五大隊 |
再編・支那派遣時
師団長 | 司令部 | |
第十五歩兵団 | 歩兵第五十一連隊 | |
歩兵第六十連隊 | ||
歩兵第六十七連隊 | ||
野砲兵第二十一連隊 | ||
工兵第十五連隊 | ||
輜重兵第十五連隊 | ||
師団捜索隊 |
南京警備時
師団長 | 司令部 | |
第十五歩兵団 | 歩兵第五十一連隊 | |
歩兵第六十連隊 | ||
歩兵第六十七連隊 | ||
野砲兵第二十一連隊 | ||
騎兵第十五連隊 | ||
工兵第十五連隊 | ||
輜重兵第十五連隊 | ||
師団通信隊 | ||
師団兵器勤務隊 | ||
師団病馬廠 | ||
師団衛生隊 |
中支→ビルマ時
師団長 | 司令部 | |
第十五歩兵団 | 歩兵第五十一連隊 | |
歩兵第六十連隊 | ||
歩兵第六十七連隊 | ||
野砲兵第二十一連隊 | ||
工兵第十五連隊 | ||
輜重兵第十五連隊 | ||
師団通信隊 | ||
師団兵器勤務隊 | ||
師団第一野戦病院 | ||
師団第二野戦病院 | ||
師団病馬廠 |
終戦時