歩兵第二十九連隊:通称勇1303部隊 明治31年3月24日軍旗拝受 原駐地:会津若松
日露戦役(第1軍差出)、満州事変S6.4〜8.1、2・26事件、支那事変、ノモンハン、
大東亜戦役・ジャワ攻略・ガ島・軍旗紛失・連隊長戦死、パレンバン警備、
軍旗再拝受、三宅連隊長殉職、龍陵転進、1次・2次断作戦、
昭和20年2月明号作戦 仏印で終戦
激闘!緬甸戦線・援蒋ルート遮断
米軍の支那に対する補給はいくつかのルートがありました。当初は輸送機による空輸が主力でしたが、あまりにコストがかかるため、印度東部から重慶に至る地上ルートが急速に整備されてこれが主力となりました。空輸の何倍もの輸送物資や兵器が搬入できるようになり、これを受けて支那軍は北支・中支戦線で大規模な巻き返しにかかるようになり、日本軍を圧倒するようになりました。
この状況を打開するために援蒋ルート切断を考えました。すなわち緬甸側から陸上兵力で侵攻し、援蒋ルートの中間拠点インパールを占領するというものでした。この作戦は一般的に牟田口の第十五軍が強行したインパール作戦で有名ですが、師団は第十五軍には属さず、印度方面に進軍しました。このあたりは、自由印度仮政府が影響したのでしょう。
しかし緒戦とは違って火力の差・兵力の差は開き、作戦は頓挫してじりじりと押されるようになりました。ついにはタイからも後退して仏印にまで後退してしまいました。この間特筆すべきはメークテーラ会戦とイラワジ会戦で、師団は無類の奮戦をして一時は敵を押し返しましたが、弾薬の欠乏・損害の補充無く衆寡敵せず後退したのでした。
仏印後退後は日和見を決め込んだ仏印軍の武装解除をする明号作戦を実行し、そのまま仏印で終戦を迎えました。
歩兵第四連隊:通称勇1301部隊 明治8年9月9日軍旗拝受 原駐地:仙台
日清・日露戦争、朝鮮駐箚、満州駐箚、支那事変、ノモンハン事件、昭和15年秋復員
大東亜戦役・ジャワ攻略、ガ島、九号作戦、断号作戦、明号作戦
昭和20年8月15日サイゴン北西80キロホクモンで軍旗奉焼
ここでガダルカナルでの師団の損害と主な高級将校の損失を掲げてみます。
昭和17年10月24・25日の総攻撃で那須弓雄少将(戦死後中将)をはじめとして、歩兵第十六・二十九の各連隊長、11月3日には第四連隊長、以下すべての上級指揮官は戦死。損耗率は9割に上りました。こんな師団は滅多にないでしょう。
なにせ指揮官がいなくなったのですから、戦闘は大混乱だったでしょう。また、これは大きな教訓としなくてはなりません
大東亜戦役
昭和16年12月8日、日本は大東亜戦役に突入、国内師団は続々と南方へ送られていきました。第二師団も昭和17年3月第十六軍に編入されてジャワ攻略に投入されます。蘭印軍は有効な反撃もできずに壊滅、多くが降伏して数日で制圧してしまいました。その後は暫く同地の警備・匪賊討伐をしておりました。
悲劇のガダルカナル
ガダルカナル島の重要性に目をつけた海軍は、この島に小規模な陸戦隊と設営隊を派遣し、飛行場を設営し始めました。しかし完成の寸前に米軍が気づき、大規模な兵力で上陸を開始、圧倒的な兵力差に海軍陸戦隊は大敗、ガ島山中に籠もることとなってしまいました。
そこで海軍は、陸軍に奪回を要請、陸軍はすぐに川口支隊と、第二師団の第四連隊主力を基幹とする青葉支隊が上陸しました。しかし米軍の規模は陸軍の予想に反して大規模で、その兵力差を見抜けずに圧倒的火力で敗北、わずかに残った陸戦隊と共に山籠もりとなってしまいました。
立ち往生した川口支隊と青葉支隊を救い、ガダルカナルを奪回するために、ついに1個師団をガ島に輸送することとなりました。結局第二師団は青葉支隊だけでなく全力で上陸することとなったのです。しかしこの時点でも陸軍は相手の兵力を大きく見誤っておりました。せいぜい1個連隊ていどと軽く見ていたのです。これには理由がありまして、参謀本部が米軍の本格的な反抗は18年夏頃と判断したものを確信してのことでした。
上陸自体はスムーズに進み、物資の集積が終了したところで総攻撃の準備を整えました。10月24日、満を持した2万人あまりの兵力が総攻撃を開始。しかし師団には攻撃する方として決定的に不足していたものがありました。それは重砲です。船腹の関係と上陸の際の揚搭能力の関係上、どんなにがんばっても山砲、無理して野砲を輸送したくらいでした。
かくして圧倒的な火力差と当初考えていたよりも多い敵兵力に飛行場の一角を占領するも兵力が続かず頓挫、大きな被害を出して山中に撤退しました。はじめから斥候を出して綿密な偵察を行えば敵兵力が把握できて、対処法も違ったでしょうに。
被害は想像以上に大きく、師団司令部以外の高級将校は大半が戦死、中・初級幹部に至っては8割以上が戦・病死してしまいました。つまりどこの部隊でも指揮官が不足して、組織的戦闘ができなくなってしまったのです。更に飛行場が抑えられている上は、人員・物資ともに補給は不可能で、部隊のすべてが飢えるというとんでもない状況が発生してしまいました。
第二九連隊は特に悲惨で、連隊長戦死、真っ先に九割以上の将校を失い、将校に対する兵員の数が大規模になると言う恐ろしい統帥の破壊現象が起きました。しかも敵兵に囲まれて軍旗を奉焼、全員自決して部隊全滅となってしまいました。
これらは偏に、軍司令部の怠慢と無能をさらけ出した結果と言えましょう。
師団はガダルカナルに駐屯する間再建することもできずに、戦力をすりつぶし、昭和18年2月に撤退、比島へ送られて再編成に着手しました。再編成の基幹は、ガ島で実戦を経験した下士官でした。
ガダルカナルで壊滅した悲劇的師団
歩兵第十六連隊:通称勇1302部隊 明治17年8月15日軍旗拝受 原駐地:新発田
日清・日露戦役、満州事変、
国境事變で第一大隊977高地占領・第二大隊は機甲部隊と激戦、戦死183名・戦傷99名
支那事変、
大東亜戦役・ジャワ攻略、ガ島、インパール、断作戦、イラワジ会戦、メークテーラ
龍陵、昭和20年7月仏印転進、明号作戦 仏印で終戦
野砲兵第二連隊:通称勇1307部隊 明治17年5月24日砲兵第2大隊を改編 原駐地:仙台
日清戦役、台湾征討、日露戦役、朝鮮駐箚、満州駐箚、満州事変、支那事変、ノモンハン事件
大東亜戦役・蘭印作戦、ガ島7割喪失、龍陵、断作戦、仏印で終戦
ガダルカナル前〜終戦 |
師団長 |
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司令部 |
第二歩兵団 |
歩兵第四連隊 |
歩兵第十六連隊 |
歩兵第二十九連隊 |
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捜索第二連隊 |
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野砲兵第二連隊 |
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工兵第二連隊 |
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輜重兵第二連隊 |
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師団通信隊 |
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師団衛生隊 |
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師団兵器勤務隊 |
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第一野戦病院 |
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第二野戦病院 |
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第四野戦病院 |
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師団防疫給水部 |
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師団病馬廠 |
関特演次 |
師団長 |
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司令部 |
第二歩兵団 |
歩兵第四連隊 |
歩兵第十六連隊 |
歩兵第二十九連隊 |
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捜索第二連隊 |
第二砲兵司令部 |
野砲兵第二連隊 |
独立山砲兵第一連隊 |
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工兵第二連隊 |
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輜重兵第二連隊 |
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第二師団通信隊 |
在籍した有名な師団長としては、乃木希典、南部辰丙、東久邇宮稔彦王殿下、秦真次、梅津美次郎、岡村寧次、丸山政男、宮崎繁太郎などがいました。
通称:勇兵団
第二師団の前身は明治4年8月に創設された東北鎮台でした。全国に四鎮台を置いたうちの一つです。本営を仙台に、また広い範囲を管轄とするために青森に分営を置きました。青森に分営を置いた意味は大きく、まだ飛行機が開発されていない時代の津軽海峡守備は大変重要であったことを示します。明治6年1月には仙台鎮台と改称されて、兵力も逐次増強されていきました。やはり露西亜の南下に備えたものでありましょう。
明治21年5月14日、全国6鎮台が師団に改編されると、第二師団の名を冠して第七師団が編成されるまで北方の守りの主力をつとめました。
第二師団の初陣は、明治27・8年の役でした。仁川に上陸した師団は北上して威海営の攻略に参加、大きな損害もなくこれを占領しました。爾後しばらくは威海営周辺の宣撫にあたりました。戦役の後半頃には、乃木が師団長をつとめています。
ついで明治37・8年の役(日露戦争)に出兵、第一軍に所属して当初から大激戦を展開、兵力を大きく消耗しながらも九連城攻略、遼陽会戦、沙河会戦、奉天回線を戦い抜きました。しかし作戦後半には弾薬が底を尽きかけ、それ以上の前進が危ぶまれたところで講和となりました。
その後明治43年から明治45年まで歩兵第四連隊と野砲兵第二連隊を朝鮮駐剳(朝鮮半島守備のために駐留すること)に差し出しました。
輜重兵第二連隊:昭和11年6月輜重兵第2大隊を改編 創設時は明治21年輜重兵第2大隊
日清戦役、日露戦役では奉天会戦時第三糧食縦列渾河河畔で敵小部隊と遭遇、
攻撃して中佐以下150名を捕虜とする奮戦
朝鮮・満州駐箚、満州事変、支那事変、
大東亜戦役・ジャワ攻略、ガ島、断作戦、仏印で終戦
工兵第二連隊:通称勇1308部隊 昭和11年工兵第2大隊を改編 原駐地:仙台
当初は明治16年仙台鎮台工兵第一中隊、明治22年工兵第二大隊
戦歴は歩兵連隊に準ず 仏印で終戦
騎兵第二連隊:明治29年11月19日軍旗拝受 昭和15年捜索第二連隊に改編
日露戦役で大活躍をする
戦歴は歩兵連隊に準ず ビルマ戦と断作戦で兵力はほぼ壊滅。仏印で終戦
明治37・8年の役次 |
師団長 |
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司令部 |
歩兵第三旅団 |
歩兵第四連隊 |
歩兵第二十九連隊 |
歩兵第十五旅団 |
歩兵第十六連隊 |
歩兵第三十連隊 |
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騎兵第二連隊 |
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野砲兵第二連隊 |
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工兵第二大隊 |
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輜重兵第二大隊 |
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師団弾薬大隊 |
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師団野戦兵器廠 |
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師団野戦病院 |
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師団野戦病院 |
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師団野戦病院 |
満州事變次 |
師団長 |
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司令部 |
歩兵第三旅団 |
歩兵第四連隊 |
歩兵第二十九連隊 |
歩兵第十五旅団 |
歩兵第十六連隊 |
歩兵第三十連隊 |
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騎兵第二連隊 |
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野砲兵第二連隊 |
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独立山砲兵第一連隊 |
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工兵第二連隊 |
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輜重兵第二連隊 |
創設時 |
師団長 |
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司令部 |
歩兵第三旅団 |
歩兵第四連隊 |
歩兵第十六連隊 |
歩兵第四旅団 |
歩兵第五連隊 |
歩兵第十七連隊 |
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野戦砲兵第二連隊 |
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騎兵第二大隊 |
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工兵第二大隊 |
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輜重兵第二大隊 |
明治37・8年の役が終わると、満州には国内の各師団が順に駐剳することとなりました。第二師団も昭和6年に駐剳しました。駐剳してすぐの昭和6年9月18日に満州事変が勃発し、師団はすぐに奉天の北大営を攻略、長春会戦、斉斉哈爾、哈爾濱と戦い続けました。昭和8年には内地に復員しましたが、昭和12年に再び派遣、その7月には蘆溝橋事件を受けて支那事変へ突入していきました。つくづく事変に縁がある師団です。所詮3流である支那軍に師団は圧倒的な優勢を誇り、チャハル作戦、徐州会戦でも快勝を続けました。
支那事変が連戦連勝の昭和14年、満州・蘇連・蒙古国境でノモンハン事件が起きました。満州にあった第二師団も出動が命じられましたが、関東軍予備としてあり、停戦直前に歩兵第十六連隊が投入され、第二大隊が敵機甲旅団と激戦、戦果を挙げつつもより大きな損害を受けています。