太政官

八省を支配した国政の大本締め

 位置としては神祇官より下にありますが、実質的には神祇官より権力を持ち、すべての国政の方針を定め、上奏を受け、許可をし、命令を下しました。長官たる太政大臣が正一位で神祇官長官たる伯が従四位下(太政官の判官並・参議にも及ばず)であったことからもその力関係は窺えます。
 本来祭政一致の形態をとる我が國としては、求心力という点からも形の上で神祇を上位にする必要があったと思われます。
 以下、職掌を挙げて参ります。

長官(かみ)

 太政官の長官職は三職ありました。故にこれを三公と謂います。上から太政大臣・左大臣・右大臣となり、光仁天皇の御代に大宝令以来久しく絶えていた内大臣が復活して加えられました。
 三公という呼称は支那から伝わったもので、各王朝官職名は違えど多くが最上位に3つの位を置いていたことから起因します。例えば後漢では司徒・司空・大尉を以て三公としました。三公を以て儀同三司ということもありました。これも支那から来た呼び名です。

太政大臣
 則闕の官とも申し、特に仕事は有りませんが、総てを束ねるという意味でまた天皇の代理で職務を司るという意味で無くてはならない職でした。当初は皇太子が任ぜられておりましたが、平安時代も藤原氏が勢力を強くした頃から藤原氏が特に任ぜらるようになりました。
 実質的な仕事は無くとも絶大な権力を握り、位人臣を極めた官と言えましょう。

左大臣
 太政大臣が実質的な職務を持たないために太政官内の政務一切を取り仕切り、統領します。実務では、最高位にありました。故に大変忙しい職であったようです。

右大臣
 左大臣とほぼ同じ職掌を持ち、左大臣の欠缼を補い、左大臣が出仕できない場合は右大臣が政務一切を見ました。その他左大臣が関白の座にある場合も左大臣ではなく右大臣が政務を執り行いました。

内大臣
 大宝令以前は左右大臣より上位でしたが、大宝令成立とともに廃止され、光仁天皇の御代に復活しました。しかし序列は右大臣の下となり、長官の中で最も下位となってしまいました。この官は律令に記載されて居らず、令の定めにない、即ち令外の官として扱われます。

次官(すけ)
 次官は大臣と共に朝廷に出仕して朝議に参画しました。勿論発言権はあり、様々に奏上、賛否など進上しました。

大納言
 甘納豆ではありません。下からの奏上を天皇陛下に奏上し、陛下のご意見を太政官内各省や神祇官、各国に伝えるのが主な職掌でした。故に「天下喉舌の官」とも称せられありました。
 納言という意味は令義解によれば「下の言を上に納れ、上の言を下に宣ぶるなり」とあり、上下の言を納める役という意味でありました。
 定員は設置時は4名でありましたが、後に2名となり、宇多天皇の御代に権官が置かれて(つまり権大納言)3名となり、更に逐次増加して遂に8名にまで膨れあがってしまいました。数だけ多くてそれに見合う仕事もなく、後鳥羽天皇が合計で6名に定められました。後には仕事に比しての身分の関係か、正員はほとんど無く、大半が権官のみ任命されたようです。
 大納言の中での序列は、一の大納言、二の大納言という形になっていました。

中納言
 職掌は大納言と同じですが、一つ大きな違いがありました。それは内大臣と同じで大宝令にない官であるということです。大納言の定員が2名に減員された際に、職務の停滞を心配して設けられました。当初定員は3名。しかし大納言の如く少しずつ増え、最大10名にまでなりました。これも後鳥羽帝の御代に8名に固定されました。南北朝の頃には、この官も大納言と同じく大半が権官のみとなりました。
 設置時は能力ある臣を任じたものでしたが、後に参議・左右大弁・近衛中将・検非違使別当・摂関の子息でなくては補任されないというしきたりが成立しました。
 中納言は支那の官名に当てはめて、黄門と呼ばれることがありました。この有名な物が徳川中納言光圀です。ですから黄門というのは正式な官名ではなく、別名みたいな物です。支那の思想に凝った光圀公らしい一面です。

参議
 これも令外の官です。
 朝政に耐え得る者で四位以上の公卿から補任するという決まりがありました。職掌は朝議に参画して議案を討論するというもので、発言権はあれども取り纏めたり決定したりする権限はありませんでした。嵯峨天皇の御代に8名と決まり、以後めずらしくほとんど増減はありませんでした。と言うことは、あまり重要な位置づけではなかったのかも知れません。官位から見れば重臣であったのは、間違いないのですが。
 この官は蔵人頭・左右大弁・近衛中将・左中弁・式部大輔を経験したか、5カ国以上の国司を無難に勤め上げた・三位以上の位を有するということでなくてはなれませんでした。
 近衛中将も多年務めなくてはその資格を得ず、式部大輔もその御代の天皇陛下にご教授申し上げた者に限られました。

 
判官(じょう)

 太政官の判官は、少納言局と左右の弁官局の3つに別れています。少納言局がいくらか下位になりますが、詔勅に内印(天皇御璽)を押したり太政官布告や各省への通達に官印(太政官印)を押したりしました。総理府みたいなものです。また宣旨の清書や諸儀式、除目、叙位を掌り、文章に通じ、博識でなくては務まりませんでした。
 一方、弁官局は八省を左右で四省ずつ受け持ち統括していました。左弁官は中務省、式部省、治部省、民部省を、右弁官は兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省を管轄しました。
 職掌は、大納言を経由して下りてくる詔勅や太政官布告などを各省に実行させ、尚かつ太政官内に下る詔勅などを実行しました。
 これらの職はほとんどが大学寮の学生から上がってきた者でした。

少納言
 侍従を兼帯し、人払いをして天皇陛下に進言したり、内奏したりすることができました。しかしこの特権は蔵人所が設置されてから少納言が侍従を兼帯することも少なくなり、大きく制約されるようになりました。
 もっぱら内印や官印を押すのは少納言の仕事でした。
 大宝令成立の前には、他に員外少納言という官職がありました。これは侍従を兼帯しない少納言が充てられました。
 少納言の定員は3名ですが、ご多分に漏れず人数が膨張していきました。後に権少納言が置かれ、定員の内多くが権少納言で占められました。

左右大弁
 太政官内の綱紀を糺し、各省の宿直を監察しました。簡単に言うと各省への命令伝達機能の責任者であり、監査機能を併せ持っていたということです。定員は各1名。

左右中弁・少弁
 職掌は大弁と同じです。序列により大中少があったと思えばわかりやすいです。大弁を補佐しました。後に左右中弁に権官を置きましたが、右権中弁は廃止されました。やはり武家に政権が移ったことにより仕事量が減ったのが響いているのでしょう。よって弁官の数は7人となりました。

外記(大外記・少外記)
 この職は中務省の内記が作成した詔書を見直して筆削し、太政官から天皇陛下への奏上文章作り、先例を調べて引用推敲し、臨時祭や恒例祭の件を神祇官に回し、太政官主催の諸儀式を執り行うという、非常に多忙な職でありました。
 ですから漢籍に通じ、文筆に長じてなおかつ儒官である人が任命される例が多かったようです。
 そのような人はそうそういるものではなく、平安時代中期頃からは大外記は清原氏(舟橋)と中原氏(押小路)のみが補任せられ、世襲制になってしまいました。ある意味他の人がやりたがらなかったという側面もあるかもしれません。
 少外記は世襲に至らず、能力がある人間が就くことはできました。

左右大史・少史
 左右大少ともに2名ずつで、外記とは違い各省各国衙の文書を古例に則って推敲する職掌です。これも文章に通じた者が補任されました。
 無論のこと世襲制ではありませんでしたが、一条天皇の御代に小槻宿禰奉親が左大史に補任せられてから左大史職を代々世襲、ついには右大史職も兼帯するようになりました。
 少史は大史と同じ職掌で官位が低いという者です。
 左右大少各2名で計8名、これを8史と呼びました。この中から太政官の公文書を納めた左右の文殿の別当に左右それぞれ1名が兼帯で出向しました。これは毎年片方大少史4名から輪番で回ってくる役でありました。

主典(さかん)
四等官以下
史生
 少納言局・左右弁官局何れにも居りました。
 少納言局で定員10名。詔勅、布告、上申書など各種文書を書写し、これを整理する役でした。史生には直属の召使がおり、書庫の出納など処々の雑用をいたしました。
 左右弁官局の史生も各10名、うち左右2名ずつ文殿に公文預として兼帯出向しました。職掌は少納言局と同じですが、違うところは太政官内の書類ではなく各省などの書類を扱ったところです。

左右官掌
 各2名で、訴えを起こした者を調べ、使部を監察し、各省の職域を厳にせしめ、各省に仕事を回したり太政官内の仕事をやりやすくするという職掌を持っていました。
 左右2名ずつ召使が配されました。

左右使部
各80人居り、官掌を弼けて太政官内の雑役をこなしておりました。

太政官官位俸禄表
職名 太政大臣 左大臣 右大臣 内大臣
官位 正一位 正一位 従2位 従2位
封戸 2250戸 1500戸 1500戸 800戸
職田 40町 30町 30町 30町
資人 300人 200人 200人 200人
位田 80町 60町 54町 54町
位封 225戸 150戸 128戸 128戸
季禄 絁 疋 30 20 20 20
綿 屯 30 20 20 20
布 端 100 60 60 60
鍬 口 144 100 100 100
馬料 50貫 30貫 30貫 20貫
資人 100人 80人 80人 60人
長官(かみ)
次官(すけ)
職名 大納言 中納言 参議
官位 正三位 従三位 正四位下
封戸 600戸 300戸 60戸
職田 20町
資人 100人
位田 40町 34町 24町
位封 98戸 75戸
位禄 絁 疋 10
綿 屯 10
布 端 50
庸布常 350
季禄 絁 疋 14 14
綿 屯 14 14
布 端 42 32 22
鍬 口 80 60 30
馬料 20貫 20貫 7貫
資人 60人 60人 40人
判官(じょう)
職名 大弁 中弁 少弁 少納言
官位 従四位下 正五位上 正五位下 従五位上
位田 20町 12町 12町 8町
位禄 絁 疋
綿 屯
布 端 43 36 36 29
庸布常 300 240 240 180
季禄 絁 疋
綿 屯
布 端 18 12 12 12
鍬 口 30 20 20 20
馬料 7貫 5貫 5貫 5貫
資人 35人 25人 25人 20人
主典(さかん)
職名 大外記 大史 少外記 少史
官位 正六位上 正六位下 正七位上 正七位上
季禄 絁 疋
綿 屯
布 端
鍬 口 15 15 15 15
馬料 2500匁 2500匁 2500匁 2500匁
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