大和竣工までの連合艦隊の象徴
世界初の16インチ砲搭載艦にして、竣工以来大和の建造まで長いこと連合艦隊の旗艦となった2隻です。この2隻は交互に連合艦隊の旗艦を努めました。世界でも16インチ砲搭載艦は数えるほどしかなく、特に日米開戦では主力艦同士の砲戦で活躍することが期待されておりました。
技術的にも先進的な艦で、やや旧式化すると一番に近代化改装が施されました。
形状は改装によって新造時と改装後が大きく異なります。まず煙突改装で変わりました。新造時2本煙突で前の煙突が曲げて後ろの煙突に付くようになっておりましたが、改装により煙路が纏められて1本となりました。また、近代化改装により高角砲を増設、重量増加でトップヘビーになるのを防ぐためバルジを増設、艦首の形状を改良して凌波性を向上するとともに速力上昇に努めました。
大東亜戦役でも実戦に供されたことは少ないのですが、真珠湾攻撃の命令「ニイタカヤマノボレ1208」がこの長門から発信されたのはあまりに有名です。
以後はほとんど内南洋のトラックやパラオに投錨していました。
「あ」号作戦や「捷」号作戦でもほとんどが対空戦に終始し、「捷」号のサマール沖海戦にて大和などと共に敵母艦に砲撃を浴びせたのが最大の戦闘でしょう。陸奥に至っては「あ」号作戦の前に喪失してしまい、戦闘に加わることができませんでした。
また、一面に不運な面も持ち合わせています。陸奥は原因不明の爆発で失われ、終戦まで幸運にも戦闘可能な状態で残った長門もビキニ環礁沖で原爆実験の標的艦となりました。
陸奥の爆沈については現在に至るまで真相がはっきりせず、火薬庫の暴発説、或いは三笠のように乗組員のアルコールの不始末、某下士官の腹いせによる火薬庫放火など色々に言われております。
長門は先に記しましたとおり戦後ビキニ環礁で原爆実験に供されました。この実験では米軍側も多くの艦艇を実験に供しております。長門の近くには米軍の母艦サラトガがいました。一回目の昭和21年7月1日の実験は空中爆発で、距離があったこともあり、ほとんど無傷のまま終了しました。
2回目は7月25日長門の至近距離で行われました。サラトガが横で轟沈するなか長門は5度の傾斜で済み、沈没は免れたかに見えました。しかし注排水も防水もできない状態の長門は4日後の29日夜、誰にも看取られないままビキニ沖深く沈んでいきました。日本の造艦技術が輝いた最後の瞬間でした。
長門1923年次
長門
大正9年11月15日 竣工 呉工廠
大正13年12月 第1次煙突改造工事
昭和9年4月〜11年1月 近代化大改装
開戦時 連合艦隊旗艦 第1戦隊
昭和17年5月 MI作戦
昭和17年7月 第2戦隊
昭和17年8月 トラック進出
昭和19年6月 「あ」号作戦
昭和19年10月 「捷」号作戦
昭和19年11月 内地帰投 副砲撤去
終戦時 呉にて中破残存
昭和21年7月29日 ビキニ環礁沖で原爆実験により沈没
陸奥
大正10年10月24日 竣工 横須賀工廠