明治37・8年の役から大東亜まで生き抜いた独逸製の船
明治27・8年の役を戦い抜いた大日本帝国は、その戦備を拡大して欧米列強の勢力と(とりわけ露西亜)互角に組めるように取り組んでいきました。 支那が列強に食い散らかされている状況は隣国の日本にとっても恐ろしいもので、次は日本という感覚があったのでしょう。
まだ軍艦の建造能力が劣っていた日本は、その大半を列強の造船所に頼っておりました。列強各国も日本への影響力強化の為盛んに売り込んでいた模様です。帝国海軍では主に大英帝国・独逸に発注しておりました。
八雲は明治28年度計画艦で、独逸フルカン社にて起工、明治33年に竣工しています。特に目立った性能はありませんが、装甲・打撃力共に申し分ありませんでした。
竣工後艦籍編入、第2艦隊第2戦隊所属、猛訓練の後明治37・8年の役を迎えました。戦役では黄海会戦・日本海海戦に参戦、日本海海戦では敵艦ウシャーコフを撃沈するなど活躍しました。その後第3艦隊が新編されて旗艦として樺太占領の際の護衛を果たしました。
大正3・4年の役では第2艦隊所属、青島攻略に当たりました。
その後は二線級の艦として練習艦隊に所属、兵学校の遠洋航海に従事して練習艦隊旗艦などを努めました。
艦は次第に旧式化していき、昭和6年についに巡洋艦籍から海防艦籍へと類別変更されてしまいます。
しかし大東亜戦役が始まると巡洋艦の數が足りず、この旧式艦に再び巡洋艦籍が与えられる時期がやって参りました。とは言っても海防艦の性質が変わった(対潜・対空の小型艦・従って軍艦籍から除かれる)ために類別上巡洋艦にするのが好ましかったからですが。
戦役中は大半を兵学校練習艦として過ごし外地へはあまり出ませんでした。昭和20年5月には長いあいだ主砲として存在感を示してきた20センチ連装砲が撤去され、12.7センチ連装高角砲が設置されて対空能力の向上が図られました。
呉の大空襲にも中破戦闘可能で生き残り、戦後は復員輸送に使われて、後解体されました。49年間も生き抜いた息の長い軍艦であったと言えましょう。
諸元 括弧内は終戦時
主砲: 20糎連装砲 2基(0基) 4門(0門)
副砲: 15糎単装砲 12基(4基) 12門(4門)
8糎単装砲 12基(0基) 12門(0門)
高角砲: 12.7糎連装砲 (2基) (2門)
8糎単装砲 2基 2門
機銃: 25粍3連装 (2基) (6挺)
連装 (2基) (4挺)
単装 (2基) (2挺)
雷装: 45.7糎水上発射管 1門(0門)
45.7糎水中発射管 4門(0門)
機雷: 若干
爆雷: 若干
排水量: 9646トン (9735トン)
速力: 20.5ノット 航続力: 10ノットで7000浬
主機: 直立4気筒3聯成 2基 2軸 軸馬力:15500馬力
主罐: ベルビール罐 石炭専焼缶 24缶 石炭:1242トン
全長: 132.4米 水線長: 124.5米
最大幅:19.5米 吃水: 7.24米
明治31年9月 独逸フルカン社にて起工
明治32年7月 進水
明治33年6月20日竣工
明治37年 整備終了・第2艦隊第2戦隊所属
明治37・8年の役参戦・黄海海戦・日本海海戦・樺太攻略など
大正3年 第2艦隊下大正3・4年の役参戦・青島攻略など
大正6年4月 遠洋航海練習艦となる
大正10年9月 一等海防艦籍に類別変更
大東亜開戦時 海軍兵学校練習艦として内海西部にあり
昭和17年7月 一等巡洋艦籍に復籍
終戦時 中破残存 戦闘可能
復員輸送に使用
昭和21年7月20日舞鶴で解体開始