要目 括弧内は装備改変後
主砲 :三年式12糎砲 2基(1基) 2門(1門)
副砲 :無し
高角砲:三年式8糎高角砲 2基 2門
機銃 :陸式三年式6.5粍重機関銃6基 6挺(後に廃止?)
九六式25粍単装機銃 2基 2挺
九三式13粍連装機銃 3基 6挺
九二式7.7粍単装機銃4基 4挺
排水量:725ts(竣工時) 956ts(バルジ増設時) 1110ts(性能改善後)
速力 :16.0kt
航続力:12ktで2500浬
軸馬力:1700馬力
主缶 :ロ号艦本式水管缶 2基(重油・石炭混焼缶)
主機 :直立式3気筒3段式膨張レシプロ蒸気機械 2基 2軸
燃料 :石炭235ts
全長 :71.7米 水線長:67.67米
全幅 :9.02米(バルジ装着後9.75米)
吃水 :2.29米(バルジ装着後2.27米)
乗員 :118名
大正9年度計画
大正10年 8月15日 横浜船渠で起工 艦名は「勿来」
大正10年10月11日 艦名を「安宅」と変更
大正11年 4月11日 進水
大正11年 8月12日 竣工 軍艦籍 二等砲艦に類別 母港佐世保
昭和 6年 6月 1日 砲艦等級廃止 砲艦に類別変更
昭和 9年 復元性能改善工事
昭和12年 兵装変更の特定工事
終戦時無傷残存
昭和20年 8月15日 中華民国により接収さる
昭和22年 5月 3日 除籍
大陸派遣砲艦隊旗艦として建造
大正期、帝国でも欧米先進諸国同様、支那に居留地を有しておりました。
当時の支那は清朝が滅亡し、混乱の中にあり、その多くの地域が列強の植民地支配下にあり、成立して間もない中華民国もまだ国内を完全に統一できるものではありませんでした。
以上のような事情から治安状態も良くなく、欧米列強と帝国は居留地に兵力を駐屯させ、同時に海上兵力をも常駐させていたのであります。
帝国も日本人居留区に少数の兵力を置き、揚子江流域には砲艦を中心とする小規模な艦隊を置いておりました。
大正時代中に支那沿岸に派遣された砲艦は宇治・淀・嵯峨など数隻ありましたが、どれも旧式でその上旗艦設備が不足しており、これを補うためにも安宅の建造が決まったのであります。
ここからは有名なお話しですが、さてこの艦、起工した際には艦名が「勿来」と決まっておりました。しかし、進水する前に「安宅」と変更されました。どちらも近世以前の関所の名前です。
この時期の砲艦は、旧式艦は内南洋、非航洋型や新型の砲艦は主に支那で行動します。支那では要地警備の他に、砲艦外交と呼ばれる現地での簡単な外交交渉などにも使われました。
「勿来」は支那語の意味で考えると「来る勿れ(くるなかれ)」となり、外交上好ましくないという判断が出てきたとのことです。増して砲艦艦隊の旗艦を予定しておりましたので、異例の艦名変更でした。
艦体は航洋型で、十分な耐波性を備えておりましたが、小さな艦体に旗艦設備や備砲など様々盛り込んだために、トップヘビーになってしまいました。
試験の結果、復元性に問題があったため、即バルジを装着、重い艦になってしまいました。
更に昭和9年の友鶴事件で復元性能の数値が厳しくなり、修理に佐世保を訪れた際にバラストを積み込み、更に重い艦となってしまいました。
その後航空機の進化に合わせて武装の一部変更も行われ、平射砲を1門に減じて高射砲を移設、機銃の装備も行われました。
大東亜戦役に入っても任務は揚子江警備のままで、希に沿岸の船団護衛を担任しましたが、ほとんどが警備任務でした。
終戦時は無傷で残存、後中華民国に引き渡され、更に中共匪賊の手に渡り、使われていたようです。