主な艦歴
昭和18年2月1日 播磨造船所で起工
昭和18年6月27日 進水
昭和18年11月18日 竣工
昭和18年12月1日 連合艦隊付属に編入
昭和18年12月24日 南方進出
昭和19年2月17日 トラック大空襲で小破
昭和19年2月24日 パラオ入港 明石に横付けして修理
昭南・パラオ・ダバオで訓練、船団護衛
昭和19年10月6日 呉入港、整備、瀬戸内での爆撃訓練
終戦時 無傷で呉に残存
昭和20年11月10日 除籍 以後復員作業 後解体
年ごとに発達する航空機で、航行中の艦船を爆撃できるようにもなったため、これの訓練に充てる艦が必要になってきました。
これまで標的艦といえば、廃艦になった軍艦を砲撃訓練の用に供するか、他の艦が標的となる艀などを曳航するというものが一般的でした。
実際に廃艦となって標的になった戦艦には、「石見」「肥前」「壱岐」「薩摩」「安芸」「鎮遠」、巡洋艦で「千代田」「明石」「千歳」「対馬」「利根(先代)」「筑摩(先代)」「阿蘇」「津軽」などがありました。
しかし訓練の度に大事な軍艦を供するというわけにはいかず、増して航空機が発達、増加して練習の回数が増えると、耐弾性を有して何度も使える艦が必要になり、ちょうどワシントン条約で廃艦が決まった戦艦「摂津」を改造することになります。
当初は摂津も標的曳航艦だったのですが、本格的に装甲を施し、直接航行中に爆撃訓練ができるようになりました。
この摂津での経験と実績を纏めて、戦時追加計画に新造艦で標的艦が建造されることとなりました。
それがこの波勝です。
十分な装甲と速力を持っていますが、摂津や矢風とは違って無線操縦の設備はありませんでした。
また、この艦には独特の装備がありました。
甲板の両舷に幕を展張できるビームがあり、これを開くことにより巡洋艦とほぼ同じ艦幅を再現できるというものです。
速力が低い分、小型で小回りが効き、幅がある、なんか変な状況ですが、ある意味軽空母・巡洋艦爆撃の訓練に適していたのかもしれません。
耐爆撃甲板の下には普通の甲板があり、ここに短艇などを収納、最上甲板上には艦橋・煙突・マスト・機銃程度しかありませんでした。
艦は爆撃訓練に良く貢献し、本土から南方と、活躍しました。
また、爆撃回避訓練にも使われました。一石二鳥とも言えます。
南方進出時には前部の連装機銃を廃して12糎連装高角砲を配置したということですが、残念ながらその写真は確認できませんでした。
諸元 ()内は改装後
主砲:なし
高角砲:十年式12糎連装高角砲 0基(2基) 0門(4門)
機銃:九三式13粍連装機銃 2基(1基) 4挺(2挺)
九六式25粍単裝機銃 不明(10挺以上)
その他:なし
装甲 :22粍DS鋼板 4000米からの10`爆弾急降下爆撃に耐用
(実質的には4000米からの30`爆弾急降下爆撃に耐用)
排水量:基準1641ts 公試1900ts
速力 :19.3kt
航続力:14ktで4000浬
主缶 :ホ号艦本式水管缶 重油専焼 2基
主機 :艦本式オールギヤードタービン 2基 2軸
軸馬力:4400馬力
燃料 :重油330ts
乗員 :148名
全長:87.45米(93.50米) 全幅11.30米 吃水3.81米