十一年式軽機関銃
明治時代後半頃から火器の小型化が進み、機関銃の下に軽機関銃という兵器が登場しました。もともとあった大型の機関銃と区別するために重機関銃と軽機関銃に呼称が分けられたのであります。
それまでの機関銃は3人がかりで持ち運ぶ、威力は大きいが利便性が不便な物ばかりでした。これに対して軽量化が進んだ軽機関銃は多少威力が落ちますが1人で持ち運びできるという軽便さが各国で人気を博しました。
日本でも当初は輸入軽機に頼っておりましたが、独自開発の気運が高まり、大正11年に十一年式軽機関銃が制定されました。
当銃は当時主力となっていた三八式歩兵銃弾との互換性があり、資源小国の日本としては大変ありがたい造りでありました。
特に三八式歩兵銃の装弾子(クリップ:実包を5発ずつ挟んである)を本体定着式弾倉に6個入れる給弾方法で更に互換性が向上しています。つまり戦場で小銃編成の部隊と弾の融通ができるという点は画期的な物でした。その反面この独特且つ複雑な給弾方法は頻繁に故障を起こし、特に寒冷地などでは薬莢の焼き付きと相俟ってまともに動く銃の方が珍しかったと言えましょう。焼き付きの方は、機関底部に熱で張り付くというもので、これは後に上部の油壺から自動給油することによって改善されました。
銃身にも問題があり、当時は鋳造技術の低さから銃身命数が低く、300発の連続射撃で銃身の温度が300度にも上がり、腔綫の磨滅と焼蝕が著しく激しくなる為に使用が制限されました。
銃全体では手作りに近いほど仕上げが良く、命中精度は非常に高いものでした。
また、実施部隊の総評としては、命中比率・時間効率上、三八式歩兵銃2丁分と言われておりました。
九六式軽機関銃
十一年式はそれなりに性能の良い軽機でしたが、配備されたうち数挺に1挺という高い割合で使えない物がある、つまり稼働率が悪いということもあり、銃の機嫌を伺いながら使わなくてはならないという兵器として大きな問題がありました。軍用軽機としての評価も今ひとつでしたが、代替えのものもなく、15年も使い続けました。
しかし兵器としての信頼性という問題は非常に大きく、予算不足を押して新たな軽機を開発することとなりました。そこで開発されたのが、給弾方式が単純なバナナ型弾倉の九六式でした。弾倉自体は構造がやや複雑なのですが、工業力が向上したおかげで製造が容易になりました。
しかし部隊内では弾倉は消耗品の使い捨てではなく、常に回収して再利用しておりましたが…。
機関部は十一年式を踏襲、銃身は十一年式とは違って銃腔内にクロームメッキが施されました。これにより銃身命数は飛躍的に上がりました。その他ではプリズム式2.5倍の照準機が装備され、昼間だけでなく薄暮・薄明時の射撃も楽になりました。
銃口には消炎器が装着され、夜間の射撃でも場所が特定されずらいという改良もされております。
取扱の容易さ、射撃制度良好と、人気の高い銃となったのであります。
諸元:全長:1105粍
銃身長:483粍
重量:10.75瓩
銃口径:6.5粍
初速:750米/秒
発射速度:500発/分
射程:3000米
存速:25米先721米/秒
装弾数:30発
九九式軽機関銃
小銃が威力の弱い6.5粍の三八式からより大口径の九九式7.7粍に更新されたために既存の軽機関銃や重機関銃と弾丸互換性が無くなってしまいました。資源のない日本にとってこれは大問題です。そこで設計されたのがこの銃でした。しかし機関部の設計など多くの部分は、十一年式・九六式のものを踏襲しています。
機構は同じでも口径が増大したために、初速も大きくなりました。反動による命中率低下が指摘され、これには銃身下部にある変速機で対応することになりました。
銃身は九六式よりも交換性を良くしてあり、消炎器も装備されております。
照準眼鏡は更に進歩しており、暗視機能が付きました。
また新たに開脚前脚のみではなく握りの下に後脚も付き、伏射に大変便利な造りとなりました。
良い銃であったただけに工作精度も帝国で最高級、世界でも他国の同水準のものに比べれば最高であったといいます。
本銃は口径増大により運良くすれば航空機をも撃破できたと言います。
諸元:全長:1067粍
銃身長:550粍
重量:約9000瓦
初速:750米/秒
発射速度:550発/分
装弾数:30発
諸元:全長:1190粍
銃身長:550粍
重量:11400瓦
初速:720米/秒
発射速度:800発/分
装弾数:30発
この他に試製一式軽機関銃が有りましたが、正式採用されていないため割愛致します。