近衛野砲兵第二連隊:通称 宮3808部隊 明治18年7月1日編成 補充地:東京
明治6年近衛砲兵第一大隊、明治18年7月近衛砲兵連隊改編、
昭和18年5月14日近衛野砲兵第二大隊へ改編 機動九〇式野砲装備
日清戦役、台湾征討、日露戦役、震災、支那事変翁英作戦・賓陽作戦昭和15年11月自動車化
仏印進駐、大東亜戦役馬来・昭南攻略、スマトラ攻略・警備、アンダマン・ニコバル警備
スマトラ島で終戦
近衛歩兵第五連隊:通称 宮3804部隊 昭和14年10月25日軍旗拝受 補充地:佐倉
昭和15年12月4日動員、支那事変中山県警備、 自動車85両・自転車3200両
大東亜戦役馬来・昭南攻略、スマトラ攻略、爾後爪巴・馬来地域警備
昭和18年9月第1大隊を独立歩兵第二五四大隊へと改編独立(昭和19年1月改編完了)
スマトラ島ラビンチンギで終戦
昭和20年9月22日、ラビンチンギ西方バシランゴム農園にて軍旗奉焼
近衛歩兵第四連隊:通称 宮3803部隊 明治20年5月24日軍旗拝受 補充地:甲府
日清戦役・台湾征討・日露戦役九里島・哈蟆塘・鳳凰城・様子嶺・遼陽会戦・奉天会戦
支那事変南寧・石岐警備、仏印進駐、大東亜戦役泰進出・馬来・昭南攻略、スマトラ攻略
爾後スマトラ北部警備、スマトラ島アチェ州で終戦
昭和20年9月22日、メダン南方スンゲィビザガル農園で軍旗奉焼
在籍した有名な師団長はさすがに近衛師団とあるだけに多く、北白川宮能久親王、閑院宮戴仁親王、秋山好古、久邇宮邦彦王、林銑十郎、朝香宮鳩彦王、飯田祥二郎、西村琢磨、武藤章などがおりました。
師団建制
以後は目立った外征には、あまり出ていない。
大正12年9月1日、未曾有の大震災が東京を襲った際には、第1師団、憲兵隊と共同して東京の治安を護りました。
優秀な兵のみを集めた陸軍のエリート兵団
近衛師団の初陣
師団創設から3年がたった明治27年、明治27・8年の役に出兵しました。しかし、動員されて1ヶ月後に戦役が終わってしまい、出撃態勢が整っている上に無傷であることから台湾征討へと振り向けられました。師団のみならず台湾征討部隊は、その悪路と気候に大いに悩まされたようです。
明治の御一新と共に、新しい形での天皇陛下を守備する専用の部隊が必要となりました。
そこで、薩摩・長州・土佐の3藩から兵を集め、御親兵という名を付けました。それまでは宮中にも「左右近衛府」という役所がありましたが、幕府による予算の制限と、永く戦から遠ざかっていたために「役所の役人」程度の感覚しかなかったからでした。任ぜられた人々も、官位を有する貴族が中心でした。
この御親兵は、後の役所の再編で近衛府を廃して近衛師団へと統合されていきました。
すなわち明治5年5月3日、御親兵を近衛兵と改称、明治24年12月14日には近衛師団が置かれました。
師団として編成される前には、西南の役、佐賀の乱などにも出兵しておりました。
近衛輜重兵第二連隊:通称 昭和11年6月連隊昇格 原駐地:東京
明治24年近衛輜重兵大隊、昭和11年6月連隊改編、
昭和18年6月近衛輜重兵第二連隊へ改編
台湾征討、日露戦役、支那事変、昭和15年自動車3個中隊に改編、仏印進駐
大東亜戦役泰進出、馬来・昭南攻略、スマトラ攻略・警備
スマトラ島メダンで終戦
近衛工兵第二連隊:通称 宮3809部隊 昭和11年改編 原駐地:赤羽
明治8年近衛工兵第一小隊、明治11年近衛工兵中隊へ改編
明治26年近衛工兵大隊へ改編、昭和11年近衛工兵連隊へ改編
昭和18年6月近衛工兵第二連隊へ改編
西南の役、日清戦役、日露戦役203高地・奉天会戦、大正3・4年役青島攻略、西伯出兵、
震災、仏印進駐、大東亜戦役泰進出、馬来・昭南攻略、スマトラ攻略インフラ整備、緬甸進出
緬甸で終戦 スマトラ・爪巴方面では今でも連隊架橋の橋を使っているところもある
近衛歩兵第三連隊:通称 宮3802部隊 明治18年10月27日軍旗拝受 原駐地:東京
日清戦役・台湾征討・日露戦役・支那事変漢口・南寧・広東各攻略・警備事変中自動車化
南部仏印進駐、大東亜戦役馬来・昭南攻略、スマトラ攻略・警備 自動車80両・自転車3000
スマトラ島ビルンで終戦、昭和20年9月12日ビルンで軍旗奉焼
日露戦役の遼陽会戦では第一大隊長以下637名を失う大激戦を展開。
師団長 |
司令部 |
近衛第三連隊 |
近衛第四連隊 |
近衛第五連隊 |
近衛捜索連隊 |
近衛野砲兵第二連隊 |
近衛工兵第二連隊 |
近衛輜重兵第二連隊 |
師団通信隊 |
師団兵器勤務隊 |
師団衛生隊 |
師団第一野戦病院 |
師団第四野戦病院 |
師団海上輸送隊 |
大東亜戦役
大東亜戦役が開戦すると、近衛歩兵第一・二連隊を内地に残置して第二十五軍下に入り、馬来半島に上陸、自動車編成(歩兵は自転車)の機動力を遺憾なく発揮して、島田戦車隊が前進した後に残った残敵を駆逐、昭南に達しました。
昭南攻略後は蘭領印度支那スマトラに転進、難なく占領した後に同地の警備に当たりました。
昭和18年5月14日、長期の近衛師団主力不在と本土の防備強化の二つの影響を受けて、外地にいる近衛師団主力を近衛第二師団とし、残置した2個連隊を基幹に近衛第一師団、また新たに連隊を増設して近衛第三師団を新設しました。
近衛第二師団は、その後大した戦闘もなく、スマトラ島警備と海上機動訓練・陣地構築につきつつ終戦を迎えました。
支那事変
支那事変が起こってより各師団が続々と出征していきました。しばらくは近衛師団には動員命令が来ませんでしたが、戦線の拡大と共に兵力が不足し、遂に昭和14年11月に動員され、近衛歩兵第一・二連隊と近衛野砲兵連隊第三大隊が近衛混成旅団として編成されました。
旅団は直ちに華南へと送られて翁英作戦、賓陽会戦と連戦しました。
師団は年内に復員して、近衛歩兵第五連隊を増設し、国内の師団建制とは違う形が生まれました。
近衛歩兵第二連隊のみ、仏印進駐にともなって残置され、その近歩二連隊も程なく復員しました。
昭和15年に入ると、師団には再び臨時動員が下令され、漢口、南寧、広東と各地を攻略・守備しました。この間に師団の各部隊は優先的に機械化が図られ、文字通り日本で最精鋭となりました。
昭和16年7月には、南部仏印へ進駐しました。
その後の師団は、まず明治37・8年の役に出兵、明治37年2月に動員下令、明治37年3月朝鮮に上陸しました。運良く乃木の第3軍にはいることなく、第1軍の下で平地戦を戦い抜きました。主な戦闘は九連城攻略、遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦など激戦ばかりでした。特に後備連隊は増員を送るために対馬海峡を商船で渡海中に敵の巡洋艦におそわれ、兵は小銃で撃ち返しつつも撃沈され大被害を被るという悲惨な事件もありました。
師団長 |
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司令部 |
近衛第二歩兵団 |
近衛第三連隊 |
近衛第四連隊 |
近衛第五連隊 |
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近衛捜索連隊 |
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近衛野砲兵第二連隊 |
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近衛工兵第二連隊 |
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近衛輜重兵第二連隊 |
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師団通信隊 |
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師団兵器勤務隊 |
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師団衛生隊 |
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師団第一野戦病院 |
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師団第四野戦病院 |
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師団海上輸送隊 |
師団長 |
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司令部 |
近衛歩兵團 |
近衛歩兵第三連隊 |
近衛歩兵第四連隊 |
近衛歩兵第五連隊 |
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近衛捜索連隊 |
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近衛野砲兵連隊 |
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近衛工兵連隊 |
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近衛輜重連隊 |
師団長 |
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司令部 |
近衛歩兵第一旅団 |
近衛歩兵第一連隊 |
近衛歩兵第二連隊 |
近衛歩兵第二旅団 |
近衛歩兵第三連隊 |
近衛歩兵第四連隊 |
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近衛騎兵連隊 |
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近衛野砲兵連隊 |
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近衛工兵大隊 |
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近衛輜重兵大隊 |
騎兵第一旅団 |
騎兵第十三連隊 |
騎兵第十四連隊 |
野戦重砲兵第四旅団 |
野戦重砲兵第四連隊 |
野戦重砲兵第八連隊 |
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高射砲第二連隊 |
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電信第一連隊 |
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鉄道第一連隊 |
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鉄道第二連隊 |
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気球大隊(連隊昇格) |
師団長 |
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司令部 |
近衛歩兵第一旅団 |
近衛歩兵第一連隊 |
近衛歩兵第二連隊 |
近衛歩兵第二旅団 |
近衛歩兵第三連隊 |
近衛歩兵第四連隊 |
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近衛騎兵連隊 |
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近衛野戦砲兵連隊 |
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近衛工兵大隊 |
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近衛輜重兵大隊 |
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師団弾薬大隊 |
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師団野戦兵器廠 |
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師団野戦病院 |
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師団野戦病院 |
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師団野戦病院 |
師団長 |
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司令部 |
近衛歩兵第一旅団 |
近衛歩兵第一連隊 |
近衛歩兵第二連隊 |
近衛歩兵第二旅団 |
近衛歩兵第三連隊 |
近衛歩兵第四連隊 |
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近衛騎兵大隊 |
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近衛野戦砲兵連隊 |
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近衛工兵大隊 |
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近衛輜重兵大隊 |
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師団弾薬大隊 |
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第一野戦病院 |
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第二野戦病院 |
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師団衛生隊 |