陸軍兵器
三八式歩兵銃・九九式歩兵銃
三八式歩兵銃
 まずは、陸軍の主力歩兵科の基本兵器、小銃でしょう。
 いくら化学兵器が進歩して飛行機が飛び、戦車が蹂躙しようとも、最後に歩兵がいなくては都市や陣地の占領はできません。その主力たる歩兵が扱うのが、小銃です。小銃は近代歩兵の基本兵器であります。

日本の小銃概説
 我が国における小銃の始まりは、戦国時代まで遡ります。皆さんご存じの通り、天文12年(1543年)にポルトガル商人によって種子島に伝えられた火縄銃が最初であります。
 徳川家康が日本を統一した後は永い平和が続き、武器の発達はほとんどありませんでした。また、鎖国のために西洋諸国からの最新式の兵器も入らず、他国に大きな遅れをとっていました。もともと武士は刀を中心に考えており、銃は銃は卑しい武器と考えておりましたことも大きな要素でした。

 しかし欧米列強が世界の大半を植民地化したことにより、幕末には鎖国日本も欧米の植民地争奪に巻き込まれていきました。
 気づいたときには、大砲の性能は10分の1、小銃の性能は単純に考えて5分の1程度にまで差が開いていました。事に気づいた幕府と諸藩は、さかんに欧米の諸国から武器を買いあさるようになったのであります。欧米諸国も有力な各藩に影響力を持つことにより、維新後日本の植民地化・傀儡化を睨んで武器を売買していました。
国産化へ
 維新時に使用していた銃は主に火縄銃・スナイドル銃・ゲーベル銃・ミニエー銃などでした。問題は各藩ともに銃がまちまちで、その上員数を揃えるために同じ藩内で違う銃を使うなどと言うことがありました。貧乏藩などは哀れで、火縄銃以外のものは無いという藩もありました。これは大きな問題で、藩内各部隊で銃弾の融通ができなくなってしまいます。
 なんとか明治維新は成功したものの、今度は明治政府が困りました。西洋式の軍隊を調えることが急務でありましたが、その兵はすべて各藩から提供されたものであり、やはり小銃の種類がそれぞれ異なっていました。
 そこで明治政府は、村田経芳少佐を欧州に派遣して小銃設計を学ばせると共に、帰国後その設計に当たらせました。早速完成したものが十三年式村田銃でした。信頼性が高く、頑丈で故障が少ない銃で人気がありました。ただ一つの欠点は、単発であったことです。当時の兵器の発達は日進月歩で、明治時代後半には時代遅れとなってしまいました。
 そこで、モーゼルを基にして三十年式歩兵銃と、オーストリアのマンリッヘルを基にして三十年式騎兵銃を開発しました。これも信頼性が高い銃ですが、やはり連発銃ですから、今ひとつぱっとしません。しかしこの銃は日露戦争を戦い抜きました。
 更に欧米の小銃事情にあわせて、また苦戦した日露戦争の戦訓からも新しい銃の開発が求められました。

 かくして、世紀の傑作銃三十八式歩兵銃が南部造兵中将の手により生まれました。諸元は下に記しますが、五連発式で初速も申し分なく、なにより命中精度が良いのがすばらしい銃でした。
 重量は日本人の体格にちょうど良く、構造がそれほど複雑でないために水に浸かってもそのまま撃つことができました。また、6.5粍という口径は確かに大きいものではありませんが、実際の戦争では相手の戦闘能力を減殺することに要点が置かれますので、それほど問題となりませんでした。
また、命中精度の高さが買われて、特に弾道性がよいものはスコープをつけて九七式狙撃銃へと改造されました。
 また、アラビアンロレンスが使っていた小銃も三八式であったように、相当数の銃が輸出されました。
 
 因みに私が小学生の頃、ばりばりの北教組(北海道では北教組という独自の教員組合がある)左翼教師が「だいたい日本軍は、38式歩兵銃なんていう明治時代に作った40年以上前の銃で太平洋戦争を戦ったんだ!負けるに決まっている。」などと言ったことがあります。すると、私も当時から研究をしていましたので、「38式というのは銃の遊底や機関部が38式であって、寿命が過ぎれば個々の銃は廃棄されます。それは考え違いでは?」と反論したところ、黙ってしまい、突然「子供になにがわかる!」と怒鳴られたことがありました。あまりの無知に驚きましたが。
九九式歩兵銃
 欧米諸国の小銃は、年代と共に大口径化していきました。確かに大口径の方が殺傷能力は高くなります。しかし、命中精度の低下ももたらされます。弾丸の重さが大きくなるからです。直進性と命中精度を高めるにはより大きい銃を作らなくてはなりません。
 ともあれ日本も欧米の大口径化に引きずられて、昭和10年代から開発が始まりました。実は開発を進めた理由が他にもありました。それは小銃・軽機関銃・重機関銃の弾丸統一です。資源と生産力が少なかった我が国では、各種の銃にそれぞれの銃弾を用意すると言うことは大きな負担でした。
 しかし、開発中に大きな問題が出てきます。軽機関銃の機関部と弾丸の整合性がとれなかったのです。日本陸軍の歩兵火器は、それぞれその抗甚性、耐久性、信頼性が高かったのですが、これを統一しようとすると、特に軽機関銃は機関部の設計からやり直さなくてはならなくなったのです。そのコスト等から結局、軽機関銃だけ別な7.7ミリ弾とされました。

 九九式小銃は、機関部の構造には全く手を入れることはされず、口径のみが大きくなったものでした。言ってみれば「三八式歩兵銃改」です。
 銃身の方は、口径分長くしたかというとそうではなく、実は逆に短くなっています。勿論その分射程と命中率は落ちましたが、「トラックが一発で炎上する」と現場から好評でした。
 初期の製品は精度も良く、長短がありましたが短小銃の方でも世界でトップレベルでした。
 しかし次第に粗悪になっていき、命中率はがた落ちになってしまいました。

 九九式には後日譚があります。戦後朝鮮動乱が起きた際に、有り余る九九式を米軍が改造して”南”に供与しました。その数、実に13万挺に上り、更に警察予備隊にも使われていました。