速射砲

時代に取り残された対戦車兵器

 帝国陸軍には対戦車砲という言葉がありませんでした。では、戦車に対抗する砲兵力は?と言うと、速射砲ということになります。ではこの速射砲という言葉、連続射撃に適した砲かというと、また意味が違ってきます。確かに古き良き明治時代には、海軍に速射砲という砲があり、これは名前の通り大口径の射撃速度が遅いものに対する名前でした。しかしこの陸軍の速射砲は、初速が早いという意味合いが強いものでありました。
 高初速だと貫徹力が飛躍的に上がります。(弾種によりますが)その意味で対戦車用と位置づけられました。

 我が軍は制式の物だけで3種の速射砲がありましたが、確かに九四式の完成当初は世界的にも遜色ない砲でした。しかし機甲に対する認識の甘い陸軍では敵の戦車を見くびり、それ以上のものを造ることをしていません。歩兵科があまりに強かった故でもありましょう。結局旧式化して威力不足の砲で国境事変を戦い、また大した発展していない「新兵器」で大東亜戦役を戦い抜きました。砲兵科や速射砲部隊は筆舌に尽くせぬご苦労をされたことと思います。


九四式速射砲の開発
 従来は対戦車には、野砲や加農砲が充てられておりました。しかし戦車の発達と共にそれでは間に合わなくなり、また世界の趨勢を見ても対戦車砲が出現したのを受けて昭和八年に設計が始まりました。これは早くもその年の12月に試作砲が完成、即試射に入りました。しかし初めての経験で、加えて海軍と違って高初速の砲をあまり持たない陸軍の速射砲、不具合が多数出ました。これに改修を重ねて昭和11年やっと正式採用になりました。昭和11年は九六式のはずですが、これは昭和9年に仮採用になったために九四式と命名されたのであります。制式当時、貫徹力・威力共に世界水準から見ても全く遜色のある物ではありませんでした。
 砲の設計自体は大変良く、反動も少なく、各兵科で珍重されておりました。派生型も多く、騎兵用に運搬車上から砲撃ができるもの、橇を着けて寒冷地仕様のものなど様々に改造されました。
 しかしこの砲が苦戦する時期は意外に早くやってきました。それは国境事変です。赤軍匪賊の戦車の装甲を正面から貫けないと言うことが露呈しました。正式採用からたった3年の事です。もっともこの時は、歩兵の肉薄攻撃により赤軍匪賊にも多大な被害が出て痛み分けとなりましたが、対戦車性能が既に旧式化したと言うことがはっきりしていました。陸軍はそれでも顧みることなく新型砲の設計に入りませんでした。
 下って大東亜戦役に入り、やはりM−4戦車に大苦戦し、その非力さを顕したのでありました…。


一式三十七粍速射砲
 九四式では大半の敵戦車を撃破できないことが判明して、はじめて開発した砲です。急いだために砲口径を大きくして改設計する余裕はなく、砲の尾栓を改良・補強して強装薬で初速を増すことに重点が置かれました。しかし何分にも37粍なわけですので、殆ど役に立たないどころか尾栓の脱底をよく起こして評判は良い物ではありませんでした。生産数はごく少数に止まっております。(当然か…。)

一式(機動)四十七粍速射砲
 当然37粍では威力不足を理解していた陸軍では、一回り大口径な47粍砲を開発していました。たった10粍とはいえ、高初速で10粍大きければかなりの威力アップになります。M−4の正面装甲は当然打ち抜けませんが、よく引きつければ側面から撃破できました。
 砲はパンクレスタイヤを装備した「機動」タイプと通常の砲架のタイプがありました。また、緊急時据え付けから発砲まで40〜80秒で展開できたのは兵員の練度もさることながら砲の性能にも拠ります。
 沖縄では小兵ながら大奮闘して敵の心胆を寒からしめました。


 

九四式三十七粍速射砲
諸元:口径:37粍    砲身長:1706粍    砲身重量:67.2瓩
    初速:700米/秒   射程距離:6700米
    高低射界:−10〜25度  方向射界60度   放列砲車重量:327瓩

    製造門数:3400門

一式三十七粍速射砲
諸元:口径:37粍    砲身長:1850粍
    初速:760米/秒    射程距離:
    高低射界:−10〜35度   方向射界:60度   放列砲車重量:335瓩
    製造門数:極少数

一式四十七粍速射砲
諸元:口径:47粍    砲身長:2530粍(54口径)   
    初速:830米/秒   射程距離:
    高低射界:−11〜18度   方向射界:58度   放列砲車重量:816瓩
    貫徹力:1000米で50粍

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