冬の旅  Winterreise


世界初演
2001年12月16日  ハンブルク ハンブルク・バレエ団

音楽
  ハンス・ツェンダー
フランツ・シューベルト“冬の旅”のオーケストラとテノールのための編曲

振付  ジョン・ノイマイヤー

装置・衣装  ヤニス・ココス

主なダンサー(アルファベット順)

シルヴィア・アッツォーニ、ジョエル・ブーローニュ、オットー・ブベニチェク、ラウラ・カッツァニガ

服部有吉、ナタリア・ホレッチナ、カーステン・ユング、ニウルカ・モレド、アデラ・ポレルトヴァ
アレクサンドル・リアブコ、ロイド・リギンズ、セバスチャン・ティル、イヴァン・ウルバン
(以上はハンブルク・バレエ団のホームページに拠る。S)


     初演時は服部有吉はまだコールドでしたが、ニジンスキーに続く大抜擢でした。
彼は目撃者として最初から最後までほとんどステージの上にいます(その集中力は素晴らしいです)。
いわゆるストーリーを語ることはとても難しく、人々の出会いと別れ、生きることの苦しみ、哀しさが描かれている、
というしかありません。
ノイマイヤーのノートには、“冬の旅の中心になる役は一人ではない、今日ではさすらい人には多くの面がある。
例えば、洗練された女性、現代のジェームズ・ディーン、さすらうヒッピー、
眼鏡をかけた日本の若者である。”と書かれています。

彼らの心の痛みはそれを観るあなたの中にも必ずあるはずです。
(S)




Immediate and Urgent  ジョン・ノイマイヤー

“冬の旅”は2001年12月の初演に向けて、9.11ニューヨーク同時多発テロのずっと前から構想してきたことだった。この信じがたい大惨事が起こったことで私たちが心に感じたことが、私たちの生活を混乱させ変化させ、そしてシューベルトの音楽にすぐさま新しい意味を与えたのだ。シューベルトの“冬の旅”は、現在私たちが今強く感じている自信のなさ、信頼の欠如、緊張感を映しだしている。私たちが感じていることは、まるで病気に気づきながらも症状を感じることができるだけで、診断結果の深刻さや病気がいつまで続くのかわからない、という状況にいることだ。“冬の旅”が表現しているのは究極の流浪の形、すなわち未知―既知の世界における自分自身から逃れ彷徨う人々なのだ。
私は最初から、ハンス・ツェンダーにとってもそうだったように、今日の私たちに可能な限り“冬の旅”を近づけたいと思っていた。それゆえに、舞台美術担当のヤニス・ココスと意見を交わしたオリジナルの考えは、画家のカスパー・ダヴィット・フリードリッヒの絵画から得たインスピレーションを進めていくことだったのだが、最終的には間違っているように思えた。シューベルトの同時代人であるこの画家は、そこに描かれている人々が静かに瞑想にふけり、彼らを取り巻き映しだしている自然を非常に美しく魅力的に描いている。カスパー・ダヴィット・フリードリッヒから得たインスピレーションを使うことはひとつの観点から見ていることが明らかであるかぎり、この音楽が作られた時代を、音楽のビーダーマイヤー様式(型にはまった音楽)を強調することにもなる。わたしにとって、シューベルトの“冬の旅”は今日的な音楽なのだ。
今日的なイメージを探して、それはツェンダー編曲“冬の旅”が示唆していることでもあるのだが、ヤニス・ココスと私は別のアーティスト、クリスチャン・ボルタンスキを見つけた。ボルタンスキの外見上抽象的なインスタレーション(仮設展示)は忘れられた人間性の暖かさをとても今日的な方法で示していた。一列に並んでいる箱や一連の写真は、それらが表現している人々がそこにいないことを物語っている。舞台の背景の幕はバレエ団のダンサーの写真や彼らの子供時代の写真、彼らの両親の写真で作られているが、それは“家”をイメージしているー“冬の旅”の詩にとってとても重要な意味を持つ“家”だ。
私にとって“冬の旅”の中心人物は決して一人のダンサーではない。今日ではさすらい人はいくつもの顔を持っている:例えば彼らは都会的な女性、現代のジェームズ・ディーン、居場所がないヒッピー、眼鏡をかけた日本の小さな少年であったりする。
音楽を聴くと私はそれがどういう振付になるか視覚的なイメージが湧く。それは疑いもなく、わたしがある特別な音楽に振付けることを“心に思い描く”ことができる、ということではなく、私が動き出そうとする瞬間に音楽が私に教えてくれるのだ。ツェンダー編曲の“冬の旅”は直接的で簡潔な動きを、すぐに現実を認識させる動きを要求する。
振付においては、創り出された世界の完全なヴィジョンと動きがもっとも重要である。私はバレエを創りはじめる前にバレエの構想を練ることにだんだん興味がなくなってきている。私にとって振付は未知なるものへの挑戦だ。特に、“冬の旅”のようにいくつかのエピソードからなる作品においては、いろいろな状況に自分自身を立ち向かわせることが好きだ。例えば、傘を持ち黒いトレンチコートを着た謎めいた夢見がちな男が、だぶだぶのセーターを着て眼鏡をかけた小さな日本人の少年に出会ったとき、何が起こるか、ということだ。この状況で現実にどのような心の動きがあるかを見守るために、このシンプルな人間関係における演劇的な可能性を探ることは、私にとって未知なるものへの挑戦の本当に興味深い部分なのだ。
(以上はハンブルク・バレエ団のホームページによる。
訳者にはどうにか文章の意味がわかるようには翻訳したつもりです。何分にも難解なのでお気づきの点があればご教示ください。S、J

※ビーダーマイヤー様式  19世紀初期から中期にかけてドイツとオーストリアで行われた家具様式。軽蔑的に紋切り型の、型にはまった、成金の、という意味で使われる(ランダム・ハウスより)


ハンス・ツェンダー略歴
1936年11月22日、ドイツ、ヴィースバーデンにて生まれる。
1956年ー1963年 フランクフルトとフライブルクの音楽大学で勉強し作曲、ピアノ、指揮で学位をとり、ピアノの演奏活動をする。フライブルク市立劇場でキャリアの最初の年を迎える。
1963年ー1964年1月 ヴィラ・マッシモ(der Villa Massimo, Rom)奨学金を得る。
1964年ー1968年 ボン州立歌劇場の主席指揮者
1968年ー1969年2月 ヴィラ・マッシモ(der Villa Massimo, Rom)奨学金を得る。
1969年ー1972年 キール州立歌劇場の音楽監督
1971年ー1984年 ザールブリュッケン(ザールラント州の州都)のラジオ・シンフォニーオーケストラの主席指揮者
1984年ー1987年 ハンブルク・シンフォニカーとハンブルク歌劇場オーケストラの音楽監督
1985年 ハンブルク芸術アカデミー(der Freien Akademie der Kuenste Hamburg)の会員
1987年ー1990年 オランダ放送室内管弦楽団の主席指揮者、ブリュッセルの国立歌劇場の主席客演指揮者
1988年より フランクフルト音楽大学の作曲科教授
1989年 ベルリン芸術アカデミー(der Akademie der Kuenste Berlin)の会員
1994年 バイエルン州ミュンヘン芸術アカデミー(der Bayerischen Akademie der Schoenen Kuenste Muenchen)会員
1997年 フランクフルト音楽賞(Frankfurter Musikpreis)、フランクフルト・ゲーテ賞(Goethepreis der Stadt Frankfurt)
1999年より ドイツ内外で客演指揮者を歴任すると共にバーデン・バーデンとフライブルクのSWRシンフォニーオーケストラの芸術監督を務める。
1999年 ヴィラ・マッシモ(der Villa Massimo, Rom)の名誉客員
ザルツブルク音楽祭、バイロイト音楽祭、ウィーン現代音楽祭、オランダ・フェスティバル、ワルシャワ・オータム・フェスティバル、ベルリン・フェスティバルへの出演と数多くのラジオ、テレビ放送への出演等により国際的な名声を得る。
主な作品
オペラ “ステファン・クライマックス”(1979/84)、“ラ・マンチャのドン・キホーテ”(1989/91)
オラトリオ “シャー・ハシリム”(1992/96)
“シューマン幻想”(1997)
この他に俳句をテーマにした作品もあるようです。
(J、S)

冬の旅編曲のノート      ハンス・ツェンダー

音楽の表記法が発明されてから、音楽は作曲家が書いた楽譜と、演奏家が実際に奏でる音に分けられるようになった。私は、得に自分が深く愛してやまないシューベルトの音楽に対しては、原典にできるだけ忠実な演奏をしようとして人生の半分を費やしたが、最後には原典に忠実な解釈というものはないと認めざるを得なかった。楽器、コンサートホール、傍注の大切さなど、当時とは多くのことが変わってしまったことは別にして、譜面に書かれた一つ一つの音符は、本来は演奏への挑戦であり、音についての明確な説明ではないということを知っておかねばならない。演奏家の創造的な努力や気質や知性は、時代の美学に影響されながら育まれた感受性とともに、心躍る生き生きした演奏を生み出すためには必要なのである。

歪曲だろうか? 私は創造的な変換と呼ぶ。音楽作品は劇と同様にすばらしい演奏によって活力をとりもどす・・・。

「冬の旅」のような作品は音楽の歴史の中のイコンであり、ヨーロッパが生み出した傑作のひとつである。そのような作品を、タキシードを着た2人の男性とスタインウェイのピアノと大きなコンサートホールという定番のスタイルで演奏することで今日では十分なのだろうか?。歴史的にみて作曲された時代の音に近づけて演奏を行うことをとても重要だと考える人は多い・・・。そして、そのことは良いことではあるのだが、その時代に使われた楽器を用いて演奏することで、演奏自体を音楽が作曲された時代の精神に戻せるという幻想に陥ってはいけない。私たちの聴き方、耳はあまりにも変わりすぎ、私たちの意識はシューベルトの時代以降に作曲された音楽の影響をあまりにも受けすぎている。「歴史的に正確である」演奏は、我々が慣れ親しんだ演奏と違っているからということでしばしば賞賛されている。

私の「冬の旅」の編曲では新しく表現上の意味を探ることはせず、すべての演奏家が直感的に自身に許している自由を利用した。つまり、テンポを速めたり遅くしたり、転調したり、もっと特徴があり変化にとんだニュアンスを見せようとしようとしたのだ。その次にくるのは音楽をどれだけ「読む」ことができるかということである。つまり楽譜の中の部分を入れ替えたり、音楽の一部分を繰り返したり、連続しているものを中断させたり、同じ音節に対する異なった解釈を入れたりといったことだ。私のバージョンではこれらのいろいろな可能性は構成上の訓練の対象となるもので、シューベルトの原典の上にかぶさって自立的で形式主義的な音楽を創りだしている。

歌詞と音楽の奇跡的な融合を行うために、それはシューベルトの後年の連歌集に特に明らかな特徴であるのだが、シューベルトは歌曲を作曲する際に音の「暗号」を用いた。すべての歌詞においての“キーワード”を萌芽ともいうべき音型にあてはめ、その音型から全体の歌が発展していくのだ。私のバージョンで行った構造的な変形はこれらの萌芽ともいうべき音型から来ているものではあるが、オリジナルなシューベルトの形態とはかけ離れたものになっている。様式と言う観点からすると、シューベルトの後期の作品は、それらが作曲された年から数十年経った時代のブルックナーやヴォルフ、マーラーに見られるような音楽的な要素を内包している。すなわち「冬の旅」の多くの曲は20世紀の表現主義を予示しているといえるだろう。私の「冬の旅」は、シューベルトの時代を先取りした考え方を明らかにしようとしているのだ。

「冬の旅」を作曲している間、シューベルトは友人たちの前に現れることはまれで、情緒不安定気味だったといわれている。「冬の旅」の初演時には、聴衆に歓喜をよびおこすよりもショックをもたらしたはずだ。私たちはクラシック音楽を聴く際にはもともと美しいものを聴きたいという気持ちがあるが、そういう期待を裏切り、今日では「冬の旅」の初演が起こしたショックを受けるような経験は現実的に不可能であるにせよ、シューベルトのオリジナルが持っていた最初のショックを再現することはできるだろうか?
(J)
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