暴れ木落し坂 第3回


森亜人《もり・あじん》




 春一の御柱は坂の上に迫っていた。坂の下から大地の唸り声のように聞えていた歓呼が、今は眼下に一望できる地点に達していた。

 転び落ちるような急斜面を下ると、百数十メートルのところに国道が横切っていて、更に下ると、泡沫を上げて砥川が流れ下っている。御柱の滑り落ちる斜面の両側には、上から下まで人が幾重にも並び、テレビ局の足場も幾つか見えていた。

 いつもなら、和田峠を越えて上田方面へ通ずる国道も、この三日間は車の往来もなく、今はそこも人で一杯に膨れ上がり、ガードレールの外側にまで食み出していたし、砥川の河川敷にも人があふれていた。無論、人が入り込めるところには必ず人の顔が上を向いていた。男女の見分けはつかないが、川の対岸の石垣の上にも人が鈴なりになっていた。

 信彦は目も眩む急斜面を見おろし、思わず呻いてしまった。じいさまや父を殺した御柱祭に対し、敵意と憎悪をいだきつづけてきた。特に父の場合は、柱の上に乗っている者たちを助けるために身を投げ出して死んだ。それなのに、笹木の家は呪われた家族だ、と言う者もいれば、御神木を汚した罰だとも言っていた。

 陰口を利く者たちの根拠は何もない。御柱の期間中に不幸があると、どの家であれ、周りからそう言われるのだ。だから、怪我をしても素知らぬ顔をし、御柱での怪我ではないように振舞うのだ。それだけ御柱祭に対する思い入れが強いのかもしれないが、不幸のあった家は泣き面に蜂だった。

 信彦は、そういう人たちの鼻をあかしてやりたかった。そうすれば、祖父も父も浮かばれるように思えた。子供の頃、父がどうしても木落しに乗ると言い出したとき、祖母や母は、頑固に乗ると言う父の前に子供たちを押し出し、最後には子供や自分たちを殺してから乗れとまで言って父を止めた。

―― 親父も今の俺と同じ気持だったのだ。俺たちが邪魔をしたんだ。子供たちがいなければ、ばあさまもおふくろも止めはしなかったろう。 ――

 信彦が父の死を目の前にしたように、父も祖父の死を目の前にした。信彦は十五歳だったが、父は十歳のときだったという。

 信彦は逢ったこともない祖父が見えるような気がした。自分や父と同じ角張った顔をし、逞しい肉体を持っていたのだろう。夕食の折、父は祖父の話をしてくれたものだ。

 父の死もそうであったが、祖父も父と同じような死に方をしている。それなのに部落の者たちのなかには神罰だと言う者もいるのだ。信彦はそれが悔しかった。


 昭和二五年五月十四日、五月晴れの最高の御柱日和だったそうだ。父は、当時まだ三十三歳だった祖母に連れられ、弟や妹と一緒に祖父の晴れ姿を見ようと春宮へ出かけて行った。日曜日だったことも手伝って、境内は人でごった返していたそうだ。

 父は最初から最後まで祖父の様子を見たかったので、大人たちのあいだを潜り抜けて、危険防止のために張られたロープのところまで出て行った。

 柱の先端は既に三メートルくらい上がっていた。若者に混じって祖父が上から二番目にいた。父は、「おおい、とうちゃん」

 と呼んでみた。すると、祖父はオンベを振って、

「おおい、昌やい、よく見ていろよ」

と応えてくれたそうだ。

 柱は五メートルまで上がった。そのとき父は見たのだ。祖父のすぐ上に乗っている若者が足を滑らせ、祖父の肩にしがみついていった。祖父は片手にオンベを持っていたが、それを口にくわえ、自分の腰にしっかり縛りつけてあった命綱を解いて若者の腰に巻きつけてやったのだ。

 それを見た父は、一瞬ではあったが、背筋に冷たい水が流れ落ちたように思ったという。若者は額に汗をいっぱい浮かべ何か言っているようだったが、父には聞えなかったそうだ。ただ祖父がにこにこ笑っていたのが印象的だったと言っていた。

 しばらく同じ位置で止どまっていた柱が、再び開始された木遣りの声に励まされて一挙に一メートルほど上がった。祖父の上にいた若者がまた足を滑らせ、今度は祖父の肩に両足を乗せてきた。若者は滑った体を持ち上げようと、祖父の肩を蹴るように両足へ力を込めた。その瞬間だった。祖父は若者の尻を両手で押し上げながら自分は数メートル下の地面に向かって、両手で大地を抱こうとでもするような格好で落ちてきたそうだ。


 信彦は春一の御柱の上に立って、祖父や父が味わった屈辱をきょうこそ洗い落としてやらねばならないと、唇を強く噛み締めた。

 今回の春一の大総代は、祖父と一緒に四十二年前の春四の建て御柱に乗っていた人だった。しかも、祖父のすぐ下に乗っていた人でもあった。

 信彦はそのことを思い出して、父から聞かされた祖父の死の原因を語った。そうして、自分の父の死も柱の上の若者たちを助けるために、自ら身を投げ出したことを語った。

 大総代は、何回も足を運んできては繰り返す信彦の熱意に負けたわけでもないだろうが、最後には快く信彦の願いを聞き入れてくれ、叔父をも説き伏せてくれたのだった。

 春一の曳き子たちは左右の綱に掴まるようにして坂を下って行く。遥か下方、砥川の対岸にも人が群れている。信彦は上を仰ぎ見ている人たちのなかに母や弟妹。そしてまり子の顔はないかと捜してみた。見ようによっては、母であったり、弟妹であったり、また、まり子であったりもした。

 そういえば、妹の彼も若連として参加していると言っていたが、どの柱の係をしているのだろうか。春一なら坂を下っていく曳き子たちのなかに混ざっているかもしれない。顔を見たことがないので、たとえ自分の近くにいてもそれと知れるはずもないのだが、妹に繋がる人間がこの連中のうちにいると思うと、何となく親しみを覚えた。

 妹が来ているとしたら木落し付近は危険なところだから、国道のあたりにいるに相違ない。しかし、百メートルも離れていては誰が誰だかわかるはずもなかった。二十万と言われているきょうの人出のなかから自分の家族や、まり子を発見することは容易でないようにも思えたが、信彦は、この人の群れの内に彼らが潜んでいると確信していた。

 爆竹が連続して山々に響いていた。何百本も繋げたものに火を着けたのだ。その爆竹の音の間隙を縫うように子供の木遣りが騒然としているなかから湧き上がった。澄み切った声は、あたかも湖上に噴き上げる間欠泉の熱湯のように信彦の背後から降り注いできた。

 信彦は、少年の頃、自分も木遣りを歌っている子供たちのように、やがて木落しの柱に乗ることを夢に見ながら春霞の漂う空に向かって声を張り上げたことを思い出した。すると、さっきまで恐怖に震えていた体に熱い血が巡り、三十分後に迫ってきた木落しを待つ気持になった。

 消防団の進軍ラッパが高らかに鳴り響いた。いよいよ御柱は坂の上に少しずつ迫り出すのだ。春一の周囲は今までと違う緊張感に包まれた。

 信彦の立っている柱は、太い基綱で支えられている。柱の方向を定めるためには基綱係と、梃衆の腕の見せどころだ。柱の左右に立つ梃衆が互いに柱の下へ梃をかって調節する。信彦の持っていた御幣も坂の下へと運ばれていった。

 坂の上でも坂の下でも今までと雰囲気が違っていることに気づき、一瞬の静寂があった。誰もが一連のセレモニーが済まないと木落しは始まらないことくらい承知しているのだが、坂の上でちょっとした変化があると、「さあ落ちるぞ」と言って固唾を飲み込んで坂の上に思いを集中させるのだ。それに合せでもしたように、それまで集まってきている群衆のほうに向けていたテレビカメラが一斉に上に向けられた。

 約五メートルほど出したところで準備してきたセレモニーを行う。かなり前に迫り出しても御柱は追い掛け綱の強いナイロンロープで支柱に巻きつけられ、勝手に落ちるようなことはない。

 坂を下って行った数百人の曳き子が、木遣りの声に合せて、 「こーれはさんのーえー」

 と唱和し

「よいしょ、よいしょ」

 と言って、ぬかるんだ斜面に足を取られながら綱を上下に揺すって引き始めた。

 御柱は曳き子に引かれて坂の上に出て行った。五メートルほど頭を出したところで柱は止まる。ところが、そのとき後ろのほうで激しく呼び子が吹き鳴らされ、男や女の声が柱を追ってきた。

 止まるはずの柱は曳き子に引かれてどんどん坂の上に迫り出してゆき、頭が少し下方に傾き始めた。

 信彦は異変を感じた。予定してあったセレモニーの一つもしないうちに御柱は滑り出したのだ。追い掛け綱を切ってしまったのだろうか。見物人の歓声に乗って、御柱は勢いよく坂を滑り落ちていった。坂の途中にはカメラを構えてファインダーを覗いている人や、曳き子の連中がかなり残っていた。どの顔もぽかんとした顔だった。

 信彦たちを乗せた春一は国道に向かって突進して行った。信彦は御柱にしっかり掴まっていた。左右の人が後方へ迫り上がって行く。信彦は両眼を見開き、突進する前方を睨み据えていた。

 やっと異変に気づいた曳き子や見物人たちが、泥濘に足を取られながら左右に散った。四つん這いになる者や、引き綱に巻き込まれて横転しながら坂を転がっていく者が、御柱が滑って行くほどに増していった。

―― 俺のせいだろうか? ――

 一升瓶を傾けたときの父の顔が浮かんだ。「済まねぇ」と言ったときの父の情けない顔が浮かんだ。雨の滴をぽたぽた落として立っていたまり子の憂わしげな顔が浮かんだ。

 御柱は直進して行く。このまま滑って行けば最高の木落しになる。祖父の代から重くのし掛かってきた因縁も払い落せるのだ。信彦は、喜悦の波が全身を覆い、このまま御柱から飛翔していく思いだった。

 信彦は前方にやや大きな泥の塊を見た。数十センチの高さはあろう。あれにぶつかれば止まるかもしれない。それにはスピードがつきすぎている。正面にぶつかれば御柱は回転する。右か左か。

―― そうだ、この御柱は尻が跳ねていたっけ。くの字に曲がっていたんだ。 ――

 もし泥の山に少しでも斜めにぶつかれば柱は横に転がるだろう。正面だったら坂の状態によってどちらへ転がるかわからない。信彦は、柱がどちらに転がっても反対側に飛び出せるように両足のバランスを取った。

 信彦は目を凝らして前方を見た。上で見ていたより泥の塊は大きいようだ。それもかなり固そうに見える。風が耳許で唸っている。悲鳴や怒号が全山を震わすように大きくなっていく。信彦は見た。御柱が泥の山の右端に向かって突進して行くのを。尻は左に跳ねるはずだ。泥の山に衝突する寸前に右へ飛び出せば助かるかもしれない。信彦はそう計算した。

「おい、俺のあとにつづけ。右だぞ!」

 信彦は前を向いたままの姿勢で、すぐ後ろにいる若者に声を掛けた。この騒然としたなかでは、自分の声が後ろの若者に届いたか保証はない。だが、信彦はそのことを繰り返し背後の若者に叫んだ。そうして、ロケット発射の秒読みのように、

「五、四、三、二、一、それ」

 と声を張って、大きく右に飛んだ。後ろの若者がつづいて飛んだかどうか信彦にはわからなかった。左へ落ちさえしなければ助かるはずだ。信彦は飛び出した勢いで、泥の上をごろごろと転がっていった。

坂道は雨でぬかるんだところへもってきて、多くの人の足跡で一層泥田になっていた。信彦は転がった。転がる度に広い空間と、泥んこの大地が交互に現われ、その景色を囲むように、人々の顔が回転していた。両手を広げて何かに掴まろうとしても手に触れるものは泥ばかりだったし、足を突っ張ってみてもただ空気を蹴るばかりだった。

 信彦には死の恐怖というものはなかった。生と死の間をこうして擦り抜けようとしているのだ。祖父や父の仇をこれで見事に討つことができる。家族の者にも顔向けができるし、まり子との約束も果たせる。

 転がる信彦の体の上を、悲鳴が波のようにうねって彼を坂の下へと運んでいった。どのくらい転がったか覚えてもいないが、信彦の転がって行く反対の斜面を、御柱の尻になぎ払われた曳き子が丸太でも転がしたように、足掻きもしない生き物のように転がって行く御柱を追って行った。

 御柱は完全に横倒しになったまま、十数人の氏子たちを巻き込み、滑り始めたときと同じ勢いで転がっていった。信彦は十数メートル転がってようやく止まることができた。目といわず鼻といわず、口の中までも泥だらけだった。

 春一は遥か下方に転げ落ち、そこで停止していた。その柱に向かって、周囲から若者たちが飛びついていくのが見えた。呼び子の鋭い音、ガイドスピーカーで柱に近づくことを制止している女性の声。救急車のサイレンの音。見物人たちの怒号。子供の泣き声。それらが絡み合うように坂を這い上がってくる。

 御柱の尻に払われた曳き子たちもようやく止まったらしい。ほとんどの者はえぐられた泥に埋まるように倒れていた。ざっと数えて数人はいるだろう。その周囲は下の騒ぎに比べると、真空地帯に迷い込んだと思われるような静寂さが、他のものを受けつけまいとする、何とも言いようのない雰囲気のなかに包まれていた。

 そのとき、倒れている一人の曳き子に女が駆け寄ろうと、泥に足を何回も取られながら皆とは反対に、坂の下から駆け上がってくるのを見た。実際は、人が入り乱れていて若い女が倒れている男のところへ駆け寄ろうとしているかわかるはずもなかったのだが、信彦はそう直感したのだ。

 信彦は胸を突かれる思いで目を凝らした。

「そんな馬鹿な」

 気を取り直すように目をこすった。

 思いも掛けていなかった。妹が曳き子に取り縋っていた。信彦は足元を気にしながら坂を横切っていった。人の近づいてくる気配を感じたらしく、妹は倒れている若者に縋ったまま顔を上げた。

 いつも喧嘩を吹っ掛けてばかりいる甘えん坊と思っていたのに、自分を見上げている妹の顔は、思わず唾を飲むほど深くとぎ澄まされていたし、目は青い空よりも深い色をたたえていた。その両眼から溢れる涙のひと粒ひと粒までもが輝いていた。

 信彦は、空に向かって大きく息を吐いた。妹の涙には若者への愛慕ばかりでないものが込められているのを感じた。信彦の耳に、妹の躍起になって自分を責める声が聞えてくるようだった。

 部落の誰かがこの妹の姿を見ているに相違あるまい。払拭しきれない因縁のようなものが喉を突き上げてくる。大地を転がりながら感じたあの解放感はつかの間の気休めだったのだろうか。

 信彦は小さく呻いて視線を外した。雨に洗われた空に、大きな鳥が悠然と飛んでいくところだった。

 信彦は視線を感じて振り返った。固く閉じていた若者の目が開き、妹の熱い視線とぴったり合っているのを見て、信彦は思わず肩の力が抜けた。よかったという思いを胸に、信彦は静かに坂を下っていった。





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