望郷 第4回


森亜人《もり・あじん》



「霄、ディエップへ来たらおいしい貝が食べられるわよ。あなたのふるさとには帆立貝があって? こんなに大きいのよ」

 ジャンヌは、小さく握った拳を顔の前でくりくりさせながら言った。帆立としては決して大きいとは言えなかったが、まぁいいかと、ぼくはにっこり笑ってやった。

 彼女との音信が絶えて二年になる。彼女も二十代半ばを過ぎた。もしかしたら結婚したかもしれない。この想像は、逃げ出した自分の行為を正当化させようとする欺瞞にすぎないことを承知しているのだが……。

 便りといえば、渡仏していた期間中、父や兄、そして姉からは季節の折々の便りをもらいもしたし、こちらからも出していた。しかし、母からは一度として便りを受けたことはなかった。

 姉の便りのなかに、『健康だけにはくれぐれも注意してお暮らしください』とお母さんが言っていますとあったくらいなものだった。それだって案外姉が気を利かせて書き添えたのだろうと、レストランの入口に立って、あらぬ方を見つめていた母の顔を思い出しながら、ぼくは思っていた。

 母と姉を家に残し、男たちだけで家を出て二十数年になるが、母から一通の便りももらわなかったことに改めて思考を傾けてみたが、ぼく自身それほど寂しいとも悲しいとも思っていなかったことにいまさら思い当たり、つい微苦笑を禁じ得なかった。

 あれほど母を慕っていたはずなのに、あれほど母にしっかり抱き締められたときに激しく心を揺さぶられたのに、この感覚はどうしてなんだろうと、心の内をまさぐってみた。

 母から疎んぜられたことからどれほど逃れようとしていたか。いや、疎んぜられているはずはないと、けんめいに否定し続けてきて、いまも否定している。あの空ろな表情を思い出しても、水中に投げ出された者が救いを求めて川草にしがみつくようなものだったかもしれないが……。

 自分の脆弱な魂の弱々しい悲鳴を、あたかも花園神社の樹木を吹き抜けていく木枯らしのように、ぼくの胸中を波立たせながら吹きすぎていくのだった。

 そんな愚かしい母との繋がりからすれば、ジャンヌとの別離は鼻の奥にじんとするものがあり、決して封印したり、邪険に心の奥へ叩きこんでしまいたいものではなかった。

 ラ ボエームの詩のように、ぼくたちは空しく別れたのではない。思い出の地を訪ねれば、そこにジャンヌはいるだろう。晩秋ともなると、彼女の育った町は、濃霧で姿を没してしまうと言っていた。

 その霧が、娘時代になって無性に心を陰鬱にさせたという。パリではなく、冬でも太陽が顔を除かせる南仏の大学へ行きたかったとも言っていた。

 その気持はよくわかる。ぼくの郷里も冬のほとんどが深い雪に埋もれてしまい、太陽などなかなか見ることのない地だ。山が海に迫り、谷が切れこんでいるところなど、エトルタによく似ている。

「ねぇ霄、これなどどう思って?」

 とジャンヌは言って、ページをくった。椅子から立ち上がると、大きく深呼吸をしてから、一つ咳払いをして読み始めた。


『マルセイユへ行く汽車が、いま、ジェノアを出たばかりだ。汽車は、岩だらけの海岸の長い起伏にそったり、海と山のあいだを鉄の蛇のように這ったり、小波(さざなみ)の銀糸でふちどられた黄色い砂浜をすべったりする。と、思うと、突如として、トンネルの真っ黒い大口のなかにはいってしまう。動物が自分の巣穴のなかにもぐりこむような格好である。』

―― 牧歌(idylle)  青柳瑞穂 訳 ――


「これだけで、列車がどんな環境のところを走っているかわかるのよね。この作品は、地中海の海岸線を縫うように走る線路だけれど、わたしのノルマンディの風景も海の色を別にすれば同じなのよね」

「日本にもよく似たところがあるんだ。ぼくの生まれた地方は、まさしくきみが読んでくれたところなんだ」

「だからなのね」

 ジャンヌは本から目をぼくに向けてにっこり笑った。『だからなのね』にどんな意味を込めているか言うまでもない。彼女の意思を投影する青い瞳がしっかり語っていた。

 しばらく二人は見つめ合っていた。やがて、ジャンヌがふっと思い出したように

「ねぇ、わたしって少し変?」

 うん? といった顔をぼくが上げると

「『お前は本当にノルマンディの女なのか?』って大学の友人にも聞かれるのよね」

「そうだね。ぼくはノルマンディ出身の若い女の人といえば君しか知らないからなんとも言えないけれど、たとえば……」

 そう言って、ジャンヌの前に置かれている本を取り上げ、ふと浮かんだタイトル名を捜そうとページをくった。


『男のほうは腹に一物を蔵しているので、全身欲情にうずうずしながら、女のほうににじり寄った。彼女は言った。

「そういえば、かあさんにもずいぶんながいこと会わない。こんなにながく分かれているのは、やっぱり、つらいね」

 そう言いながら、彼女の夢みているような眼は、遠く空のかなたに向けられる。北の方、はるかに遠く、彼女がすててきた故郷の村に。

 男は、いきなり、女の首をつかむと、またしても抱きかかえた。が、女は拳を固めて、相手の顔をなぐりつけた。それがあまりにもひどかったものだから、鼻血が出てきた。』 ―― 田舎娘のはなし(l'histoire d'une fille de ferme)

  青柳瑞穂 訳 ――


「ちょっとちょっと待ってよ! わたしそんなんじゃないわよ」

 ジャンヌは、ぼくの読み終わるのを待ちきれないで、きゃしゃな体のわりには豊かな胸をバシバシ叩きながら、涙を浮かべて笑い崩れた。

「ほんとだね。ジャンヌはまるきり正反対だもんね。だからこの『田舎娘のはなし』を選んだんだよ。ぼくのイメージからすると、ノルマンディの女の人は、この小説に出てくるような女を想像しちゃうんだよ」

「ディエップの女性はそれほどでもないわよ。ルーアンや、ル・アーヴルのような都会があるからかもしれないわね。もちろん、Haute Normandie地方だから、霄が読んでくれたような女の人はいくらでもいるわよ。わたしの親戚にも……」

 ジャンヌは何を思い出したのか重ねた両手を口へ持っていってテーブルにつっ伏すと、再び笑い出した。身をよじって笑う姿があまりにもcharmanteで、あまりにもcoquetteだったので、ぼくは胸が痛くなるほどどきりとした。

 ジャンヌは涙を手の平で拭うと、本を修めていた袋に手を突っこみ、くしゃくしゃにまるめた布切れを引っ張り出すと、片手で勢いよく鼻をかんだ。日本の女なら部屋の隅に行って鼻紙を取り出して静かにかむのだが、 ーー 今の日本女性にはいないかも ーー

 どうもフランスの女の人は、平気で人の前でも鼻をかむのだ。それも盛大な音を立ててだ。

 最初はジャンヌだけかとも思ったが、長年のあいだに同じような光景を何回も見せられて、これはお国違いの風習かと考え直したくらいだった。

 身をよじって笑い転げるさまだけを見ていれば、いきなりくしゃくしゃにまるめた布切れを引っ張り出して鼻をかむなどということを想像すらできない。いまもジャンヌはまるめた布を無造作に袋へ押しこみ、そっと腕を伸ばしてぼくの頬を両手で包みこんだ。

 フランスへ来たばかりのときにそんなことをされたら、きっとぼくは相手の手を外しただろう。たとえジャンヌでも……。

 慣れとは恐ろしいもので、いまも鼻をかんだ手で頬を挟まれても前のように拒まなくなっていた。『qui m'aime aime mon chien. ー 惚れればあばたも笑窪 ー』と言われても仕方ないだろう。フランスへ来て十年近くになる時期だった。

 ぼくも彼女の笑う姿に心を揺さぶられていたので、彼女以上の強い思いで、火照っている頬を両手で包みこんだ。

 風習といえば日本人とずいぶん違うことをする。ぼくたち日本人は、雨が降っているかどうかを知りたいときなど、なんの気なしに手のひらを上に向ける。だが、フランス人たちは手の甲を空へ向けるのだ。

 二人は、テーブルの上のものに気を配りながら身を乗り出し、互いの心を読むように見つめ合った。

 「霄、来年わたしは卒業するわ。そうしたら一緒にエトルタへ行きましょう。そして、ディエップへ行かないこと?」

 ぼくは戸惑った。彼女の言った言葉の意味を日本風に切り替えるなら

「わたしの両親に会ってもらいたいの」

 という意味が込められているのではないだろうかと思ったのだ。

 戸惑いつつも心の深い部分では嬉しかった。即座にこっくりと首を縦に振ってしまうほど嬉しかった。男のほうから言わなければいけない台詞なのに。だが、女性、結婚と思いを進めていく途中で、どうしても母親の顔が迫ってきてしまう。そうなると、ぼくの心は 呪縛され、たちまち喜びは苦痛の波に攫われ、心の奥深いところまで怖気が広がってしまうのだ。

 ジャンヌの青い瞳の奥に、何とも表現しがたい憂いとも寂しさともつかぬ色が揺れているのを見ても、ぼくは、心のなかで、

〈je t'aime. je t'aime, c'est vraiment!(愛している。本当に愛している!)〉

 となんどもくり返していた。自分で自分をコントロールできないことにいらだつものの、繁華街の賑わいとは裏腹なレストランの前の母の顔や、ぼくを抱きしめて泣きながら叱ってくれた日のことを思い出すにつけ、あの母でさえそうだったんだから、という思いがバラのトゲとなって心を刺し貫いて来るのだった。

 ジャンヌを初めて抱いた夜、ぼくは詫び言をくり返しながら涙を流した。vierge(処女)を犯してしまったという悔いに涙をこぼしたのだ。三十にもなろうという男がと言われそうだが。ジャンヌもぼくの胸に頬をうずめて涙した。彼女の涙は喜びの涙だと言ってくれたが、ぼくは喜びより申しわけなさで、その夜は一睡もできなかった。


 花園神社の境内の外を酔っ払いの声が通り過ぎていく。その足音が消えた頃、男女がもつれ合うように境内へ入ってきた。女は髪の毛を金髪に染めている。境内を照らしている街灯のほの暗いところで二つの影が一つに重なった。ぼくは心に熱いものを感じた。

 Luxembourg公園の木かげで初めてジャンヌと交わした口づけ。ぼくもジャンヌも震えていた。かちかちと歯が鳴るのではないかと恥ずかしさに急いで唇を離したことも思い出した。見つめ合って、また恥ずかしくなり、夢中で互いの体を抱きしめ合い唇を激しく求め合った。

 ぼくは二十代も後半に近づいていたが、baiserを交わすのは初めてだった。ジャンヌが震えているのはなぜかは知らない。彼女もぼくと同じように初めてなのだろうか? まさか、フランス人である彼女が初めてだなんて考えられないところだ。でも、ぼくは本当に初めてだったのだ。

 のちに、彼女のアパルトマンに入ることを許され、夜をともにするようになったとき、彼女は思い出したようにリュクサンブール公園のことを口にした。

「霄、あなたは信じてくれないかもしれないけど、あのときのベゼ、わたし初めてだったのよ。もしかしたら?……」

 そのとき、ぼくは、料理をしていた彼女の横顔をデジカメで撮っていた。おかげで、カメラの陰に隠れることができたのだが……。


 夜も更けて木枯しが募ったらしく、花園神社の境内を走っていく木の葉が勢いよく宙に舞い上がって道路へと飛び去っていった。

 ぼくは左の胸をそっと押さえた。上着の内ポケットには今もジャンヌのphotoがある。彼女もmedaillonにぼくのフォトを入れているだろうか?

 情けない。ぼくのことを忘れてほしいとあれだけ言ってきたのに、自分同様、彼女もぼくの写真を持っていてくれたらなどと思うなんて。これでも三十半ばになろうとしている男なんだろうか。ぼくは、足元にころがっている『caillou(小石)』をしっかり握り締めた。それを投げることもできないまま……。

 彼女も面と向かって、ベゼが初めてだなんてぼくに言えなかったのだろう。恥ずかしいけれど、彼女としてはそのことを言う機会をいつも摸索していたに違いない。

 きっと、ノルマンディの女が、モーパッサンの記した主人公たちばかりではないことをぼくに言っておきたかったのだろう。

 ぼくにしたって、ジャンヌを見ている限り、ノルマンディの女が誰も彼もが小説のなかの女みたいだなんて思っていないことは知っておいてほしいくらいだった。

 そこまで彼女のことを思っているくせに、どうしても一歩が踏み出せないのだ。ベゼのときは後悔などしなかった。だが、初めて抱いた夜の結末には年甲斐もなく悔いもし、彼女に済まないと思ったものだった。

 日本を離れれば母の呪縛から逃れられるように思っていたが、それは大きな誤りだったらしい。女性にたいして恋心を感じるのだが、結婚という二文字の前に立つと、とたんに怖気てしまうのだ。われながら情けない限りだ。

 境内の男女はまだ離れない。ぼくは立ち上がりたかったが息を潜めて木の根に座り続けていた。手の中のカイユーが自分であるかのように、それを捨てることもできずに、じっと見つめていた。

 ジャンヌに逢いたい。無性に逢いたい。母に会いたい。三十半ばになろうとしている男のくせに、なんとも不甲斐ないと思うのだが、過去のくびきから開放されるためにも母に会わなければならない。そう、会わなければこの先のぼくには道がないように思うのだ。

 この御しがたい感情は、母だけからのものではない。あらゆる点でまさっている兄や姉からもきているのだ。社会的にみても上級クラスだ。世間から見れば、ぼくなども五本の指に入る私立大学を出ている。なのに、我が家では劣等性だった。それがずっと糸を引いていると思う。

 少年期に父に言われたことはぼくの成長段階で何か役に立ったのだろうか。もしあるとしたら、社会的に弱者と称されている人達に対し、出来もしないのにどうしても手を差し伸べたくなることくらいなものだろうか。

 強いものより弱いもの。出来がいいものより劣るものにぼくの心は傾いてしまう。日本にいた時もフランスにいた時も、捨てられた子犬や子猫を見ると、それらの前を黙って通り過ぎることができないぼくなのだ。

 母は無類の猫嫌いだった。おかげで拾ってきた子猫を見つけられてどれほど叱られたか知れない。その点、フランスにいた時はアパルトマンのコンシエルジュも住人も文句ひとつ言わなかった。

 それなのに、ぼくは母に会いたい。もう六十路を過ぎたはずだ。母に会えばジャンヌへの思いもふっきれるかもしれない。むしろ、もっとぼくを追い詰めてくるかもしれない。後悔という足かせにぼくはジャンヌにも会えず、かといって、凛々しく頭を高く持ち上げて進むこともできないかもしれないのだ。どちらにせよ、一度は母に会わなければ前に進めないのだ。

 ジャンヌがノルマンディの女にふさわしくないといってもノルマンディ人に相違ない。別れてそろそろ二年になる。きっと、ぼくの存在したことなど、猛り狂う怒涛の彼方へ放り出してしまっているだろう。女々しく心のなかでうろたえ、セーヌの流れのように蛇行させているのはぼく自身だけなのかもしれない。それならそれでもいい。母に会って自分を見つめなおそう。

 男女の小暗いところでの抱擁がいつ果てるともしれないと思っていたが、突然、男女は互いの体を抱きあうように境内から出ていった。ぼくは、二人の姿が見えなくなるのを待って立ち上がった。

 自分の意にそわない母だが、やはりぼくにとっては望郷なのだ。一度は原点に戻らなければ先に進めないのかもしれない。本当に情けないことだが……。ぼくは、手の中のカイユーと決別するように木立の中へ放りこんだ。

 イノック・アーデンが足を引きずりながら郷里へ戻っていったように、ぼくも過去を引きずって一度帰ってみよう。すべてを一新させるために。心の奥に隠蔽している本音のために。二十年余も会っていない母と対決するのだ。





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