吹雪 第3回


森亜人《もり・あじん》



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 七月も下旬、シャモニーも暑い日が続いていた。俺たちは木陰で昼寝をのうのうと楽しんでいた。ここいらは一年を通じて今が一番暮しいい時期だといえるだろう。

 俺たちが寝そべっているところは、山に向かう街道より少し小高いところだったので、木間隠れに山へと向かう車の列が一望できた。

 俺は少し働きすぎていたので疲労が重なり、つい深く眠っていたらしい。五月の救助の夢を見ていた。やわらかな香りの有紀さん、そして元気なきみちゃん。眠りのなかで記憶を呼び醒ましてくれた彼女の香り。そのときの香りが眠っている現実の俺の鼻孔をくすぐってきた。

 俺は知らない間に立ち上がっていた。ぼやけている意識をはっきりさせるために全身を激しく振った。空が高い。モンブランの峰が美しい。街道を車が途絶えることなく山へ向かっていく。俺は、自分の意識が夏空のように冴てきたことを確認してから、ゆっくり歩き出した。

 ラバやパッキーの昼寝を妨げないように忍び足で周囲を歩いてみた。しかし、俺の記憶を呼び醒ましてくれた香りはどこにもなかった。本当に夢を見ていたのかもしれない。自分の嗅覚を疑ったことなど今まで一度もなかった。

 たしかに車が残していった排気ガスや、色とりどりの草花の匂いのなかに、あの香りはあった。

 俺はミュゾー、つまり鼻面を空に向けてみたり、地面にすりつけてみたりしたが、眠りのなかで嗅ぎ取ったあの香りはどこにも漂っていない。俺は自分の嗅覚に絶対の自信があったので、この事実にたいして心が乱れ、意味もなく辺りを歩き回った。

 一陣の風が密生した枝葉を鳴らして通りすぎていったとき、俺の不安は消えた。あの香りがルシアン親父の家のほうから流れてきた。

 俺がいかつい顔を玄関先に出すと、ドアの陰からいきなり有紀さんが飛び出してきて俺の首を抱きしめた。有紀さんは懐かしそうにやわらかな香りを俺の体に押しつけ 「元気だったのロッシェ。黙って帰ってしまってご免なさいね」

 と、俺のわかる言葉で、涙ぐみながら早口に言った。

 俺は懐かしさに鼻声を出し、ミュゾーを有紀さんに押しつけた。有紀さんは俺の首を抱き締めて声も立てず、じっとしていた。そうすることで、五月に黙って帰っていたことを詫びていたのかもしれない。

「ロッシェ、皆さんはどこにいるの?」

 しばらくして有紀さんは立ち上がってそう言った。

 無論、言葉として理解したつもりはない。俺なりに理解したのだ。俺は有紀さんのスカートの裾をくわえ、ルシアン親父の家族が働いている農園に引っ張っていった。

 俺と有紀さんは楽しい気分で家の裏の農園に出ていった。ルシアン親父やマルセルは山に登っていて家にいなかったが、おかみさんや、嫁にいくことが決っているエレーヌ、そしてベルティー、イボンヌ、末息子のアントワーヌは農園で働いていた。

 俺はおかみさんの後ろへきて小さく吠えた。おかみさんは驚いたように目を大きく開き、有紀さんの面にしばらく視線を当てていた。そうして、泥だらけの手を拭わず、いきなり有紀さんを抱きしめた。

 少し離れたところで、野菜についた虫を取っていたエレーヌが駆け寄り、母親の手を有紀さんから引き離した。

 もし、母親がそうしなかったなら、エレーヌも同じことをしただろうにと、俺は青空にミュゾーを向けて思っていた。

 有紀さんは白いブラウスを泥で汚されても全く気にもせず、次から次と皆の頬に接吻をしていった。アントワーヌは恥ずかしそうに真赤になって農園の奥へ駆けていった。

 その夜。俺は有紀さんの傍らを離れようとしなかった。

 皆が揃ったサロンは祭りのようだった。パッキーの野郎が俺に睨みを利かせたが、俺は無視していた。きゃつにしたって、喧嘩になれば俺に勝てないことなど百も承知だった。だから少し離れたところから、誰にも聞えぬ含み声で呻ったにすぎなかった。

 ルシアン親父もマルセルも嬉しそうだった。

 その夜の食卓は日頃の賑やかさに輪を掛けたようで、お陰で俺たちもうまい肉料理にありつけ、有紀さんの足元でたらふく食った。

 俺は有紀さんを含め、過去八人を救ったことになる。こうやって訪ねてくれたのは有紀さんが初めてだった。しかも、俺の記憶しているかぎり、有紀さんが最も俺の好みに合っていたといえる。


 列車は雄大なピレネー山脈から次第に離れていった。デュマの三銃士に出てくる田舎貴族のダルタニアンのガスコーニュ村、そしてバイヨンヌはピレネーバス県の都会だ。

 マダム・アモーの話も終りに近づいた。彼女は降りる支度をしながら、視力の乏しいわたしの手を取って言った。

「是非シャモニーへいらっしゃい。ロッシェや、嫁の有紀もきっと喜びますよ」

 二年前に行ったことのあるソブリッグ村へ行ってみようと夜行列車に乗ったときには想像もしていなかった人との出会い。どうしてこの列車に乗る気になったかさえも定かではない。無性に独りぽっちになりたかった。人と語る言語すら空虚に思える毎日だった。人間そのものに嫌悪を感じ、自分の全てが空しくなり、リヨンを離れてバイヨンヌまでやってきた。列車に乗ったとたん、ある種の諦めに似たものを覚え、窓枠に頭をもたせて眠った振りをしていたのだ。

 ところが、マダム・アモーの話を聞いているうちに、自分なりに明るい光を心の隅に見たように感じたのだ。もしかしたら、全身の気だるさを払拭できるかもしれない。

 これから行くバイヨンヌ。ローカル線に乗換え、ソブリッグ村まで行く。そこで何かを見つけ出せるかもしれない。

 リヨンのAVHに職を求めて働いているうちに、福祉の一片を見たように感じたものの、それもいつとはなしに馴染んでいく過程で、色あせてしまっていた。

 バイヨンヌの空は青一色だった。わたしは、自分の心に住んでいるどうにもならないシミが、マダム・アモーの話を聞いて、いったい自分の心に何が残って、どのように消化されていくか考えもつかないが、たしかにわたしの心に芥子種くらいの光がともったことは間違いのない事実だった。

 マダム・アモーとの出会いは、彼女が無意識のうちであろうとも、わたしの心に植えつけていった火種の行く末に、ほのかな期待めいたものを残していってくれた。

 バイヨンヌの駅に彼女の娘が迎えに出ていた。ここでもマダム・アモーは、自分の娘にわたしを紹介することを忘れていなかった。どっちみち、乗換時間が二時間ほどあったので、わたしは、彼女の住むアパルトマンへ立ち寄ることにした。こんな気持になったのも今までの自分には考えられない所作だった。





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