星の散る夜 第3回


森亜人《もり・あじん》




あずさの自由席は満席だった。窪田時雄は新宿駅のホームに早くから並んでいたおかげで、窓ぎわの席に座ることができた。

山地を切り開いて宅地造成した団地らしく、家々の窓に映る光の筋が、ほとんど同じ高さに横一列に幾段も並んでいるのを、時雄は顔をほころばせながら眺めていた。

 東京出張四日間と言って出て来た彼には一つの目的があった。きょうは三日目だった。時雄の乗ったあずさは、まもなく郷里のK駅に着く。

 彼は、ある目的を果たすために外泊したことは一度もなかった。東の空がほの白くなろうとも、必ず朝食は家で取っていた。一日早く帰郷することは、妻の朝子も何となく気づいているらしかった。それでも今宵は家に帰るまいと決め、この列車に乗ったのだ。

 あずさはK駅の構内に入ると、明りばかりが目立つホームに停車した。時雄は階段を二段づつ飛んで外に出た。十二月なかばの郷里は、早くも北西の風が募る季節になっていた。おまけに、強すぎた車内暖房のせいもあって、彼には寒すぎるほどだった。

 彼は自分で始めた事業の成績が殊のほか順調に伸び、その収穫のよろこびで、いつものように駅前のネオンから顔をそむけたり、逡巡したりするようなこともなく、夜空をちょっと仰いだだけで、コートの襟を立てて家のある道とは逆の道を取った。

 彼は、知り尽くしている町の路地から路地と、人の目の届かない場所を選んで歩いて行った。半分地下になっている店からは、カラオケの音が狭い店内を食み出し、時雄の足を掬って来る。彼はその音を一つ一つ跨いで行った。

 自分の帰りを待っている朋子と、彼女との間に生まれたさゆりの住むマンションの四階に、なかば走るようにして歩いて行った。出張の成果の詰まったアタッシェケースと、二人へのみやげを包んだ紙袋が、彼の両脇で歩度に合わせて踊っていた。

 ブザーを押すと、「どなた」という女の控え目な声がした。その声には、扉の外に立っている者が誰であるか承知している自信と、それでもたしかめなければという警戒心とが含まれていた。

「俺」と、時雄は扉の透き間に口を寄せて低く言った。

 鎖の音、鍵を外す音。この音は、外に立っている時雄の胸にあたたかな感覚で伝わって来る。

 扉が内側に引かれると、そこに艶やかな黒髪を肩まで垂らした女が立っていた。目許の涼しい女で、オレンジ色の紅を引いた口許に笑みを浮かべながら時雄を見あげていた。

「お帰りなさい。お疲れになったでしょう?」

 朋子が東京にいたころは決して『お帰りなさい』とは言わなかった。この町に住むようになり、しばらくしてからそう言って出迎えてくれるようになったのだ。

「うん。さゆりは?」

「ごめんなさい。あの子ったら、どうせお父さんは遅くなるでしょうからと言って寝ているわ。でも、あなたが帰ったら必ず起こしてって言っていたわよ」

 時雄は、自分のために甲斐甲斐しく立ち働く朋子に身を預けていた。自分のコートや上着を押し頂くように抱え、欅材の洋服箪笥によじ登るようにしてハンガーに掛ける姿が愛おしかった。ここへ来るといつも着せてもらえる浴衣の糊を剥がしながら自分の背後に回り、膝を床について三尺を締めてくれる時などは、思わず振り向いて彼女を抱き締めたくなるほどだった。

『朋子、きょうのお前きれいだね』と時雄はそう言ってやりたかった。そんな言葉を口にしようとすれば、たちまち吃ってしまうことを知っている彼は、振り向きざまに朋子の顔を両の手のひらで掬いあげた。

 時雄の意を汲み取った彼女は、彼の手を押さえながら、

「いけないわ。さゆりが起きて来ますもの」

 と言って、時雄の腕のなかから滑り出るようにキッチンに逃げ込んでしまった。

 時雄は朋子を愛していた。日陰者にしてしまったという負目が、いっそう彼を朋子に近づけ、離れがたくしていた。

 時雄は、このあたたかい談笑を、窪田の家で持つことができなかった。妻の朝子をきらうわけではない。幼い夕美や綾を疎ましく思うのでもなかった。時雄にはどうしても朝子と心を一つにすることができなかったのだ。朝子を知る二年前、朋子に開いてしまった心は、彼の持つすべてだった。


 料理に使った胡麻の香りが、暖められた室内の空気のなかに拡散しているとみえ、時おり枕許まで降りて来る。隣室からは、健康そうなさゆりの寝息が聞こえていた。時雄と朋子は満ち足りた汗のなかにいた。

 今宵、時雄はタブーとしていた朋子親子との生活に触れたのだ。彼の帰宅した気配に起き出して来たさゆりに

「もうしばらくしたら一緒に暮せるようになるからな」

 と、彼は吃りながら言った。

 ちぐはぐな親子関係の真相を、娘のさゆりがどこまで知っているのか時雄にはわからなかったが、彼の言葉に、さゆりは土産の赤いコートをパジャマの上からはおったまま、身を踊らせて喜んでいた。

 朋子は一時間前、さゆりの眠ったことをたしかめてから、彼を咎めるような口調で時雄の軽率を戒めようと、体に触れて来た彼の手を押さえた。

 朋子の心を知った時雄は、荒々しく彼女の唇を覆ってしまい、何も言わせないようにしたのだ。そして今、朋子は一時間前の時と同じ目色に戻って時雄を見つめた。

「あなた、さっきさゆりに言った事ほんとなの?」

「本当だとも」

「だってその事は……」

 時雄は、彼女の鼻梁に浮いている汗が、ほのかな明りのなかで真珠のように光っているのを快い気分で見つめていた。妻の朝子とのあいだでは決して感じられない満足感の一時だった。妻とはいつも闇のなかでしか交わったことがない。妻がどんな目色で自分に応じているのか知らなかった。最初から最後まで闇のなかの沈黙が続き、やがて二人は身を離してしまえば何の感覚もあとに残らなかった。

 朋子は違っていた。十数年前、初めて夜を共にした時

「あなたの目を見ていたいの」と言われ、時雄は大いに困惑したことをきのうの出来事のように覚えていた。朋子が初めての女というわけでもなかったが、真剣な眼差しで見つめられながら言われたことに驚いたのだった。

 朋子は東京の場末で、母親とおでん屋を開いて暮しを立てていた。時雄は兄の経営する会社に勤めていたが、たまに兄たちと一緒に上京することがあった。兄たちは華やかな夜の町へ出て行ったが、時雄はそんな場違いなところへ行くことを望まなかった。むろん、兄たちも時雄など連れて行く気もなかった。

 時雄はネオンが夜空を明るく染めていない場所を選んで歩いて行った。そうして偶然に朋子と彼女の母親がほそぼそと営んでいる店を見つけたのだった。以来、東京へ出て行く度に時雄は朋子の店に顔を出した。彼はいつしか東京へ出て行くことを楽しみにするようになり、朋子も彼の誠実さに引かれ、彼のやって来るのを待つ人となった。

「俺、もう我慢できなくなったよ。最近では朝子も俺などいないほうがいいらしい。本人がそう言ったわけではないが、あいつの顔を見ればすぐわかることなんだ」

 朋子は、

「まぁ!」

 と言って、時雄の顔を両手で挟みつけた。

「多分、何かが起こるような気がするよ」

「何かって?」

「俺にもわからない。わからないがきっと何かにぶちあたるように思うんだ。現在の生活がそう長く続くはずがないよ。俺も朝子もぎりぎりのところまで来ているんだ。このことはお前とは何の関係もないんだから心配することはないよ」

 朋子は時雄の腕のなかで冷たい思いに心を震わせた。自分の弱さの結果、不幸になる人たちがいると思うと、心は塞がるばかりだった。

 今年の正月、心臓病で母を亡くし、さゆりと二人でどうにか生きて行こうと決心したのに、時雄の再三の懇願に決意はもろくも崩れ、さゆりの夏休みを待ってこの町に移って来たのだった。時雄の妻や子供たちのことを思えば、たとえ時雄に執拗に責められても来るべきではなかったのかもしれない。

「あなた、わたしたちのことはいいのよ。あなたの側に置いてもらえるだけで十分なの。それなのにあなたったら、さゆりにあんなことを言ったりして……」

 朋子は時雄の胸に顔を埋め、朝子への詫びと、彼への甘えという相反する心でむせび泣くのだった。

 時雄はそんな朋子をいとおしく思わずにはいられなかった。朝子と結婚して十二年になるが、朝子の泣いた顔を見たことがない。唇を噛み締めて青白い顔を引きつらせ、うらめしそうに自分を見つめている光景にしばしば出くわしたが、朋子のように身を投げ出し、体いっぱいで甘えて来るようなことは一度もなかった。

 改めて考えることもないのだ。二人の幼い日々は、朝子の心に焼きついているはずだ。

 時雄と朝子は従妹だった。朝子には兄が一人いた。時雄の上には兄や姉が幾人もいたので、朝子も彼女の兄もよく遊びにきていた。

 時雄は、彼女の乗った三輪車の前に四つん這いにさせられ、馬となって庭はおろか、道路までも這い回らされた。

「どもり馬さん、もっと急いで走りなさい!」

 高い声が窪田の家の庭に響く。朝子は、誰もが時雄を『どもり』と呼んでいるので単純にそう言っていたはずだ。だが、馬にさせられた彼の心は、屈辱感に満ちていた。

 朝子の細い腕から振りおろされる鞭は、時雄の痩せた背や尻に容赦なく食い込んだ。それを見ている六人の兄や姉。そして、朝子の兄も何も言わず笑っているばかりだった。その時のどもり馬に、朝子が甘えて来ることなど考えられないことなのだ。


 古い格式に縛られた窪田の家は、朋子との結婚など頭から受けつけてくれなかった。今日でも、髯を蓄えた時雄の父や長兄が町のなかを歩いているのを見ると、昔からの住人は頭を低くして通りすぎるのだ。町に合併されるまでは、父も、祖父も村長をしていた。世間を知らない若い時雄は、父や兄を押し切る勇気もなく、家を出ることもできなかった。

 朝子との縁談がにつまったころ、朋子は妊娠していた。彼女は、時雄のことを思ってそれを隠していた。だが、彼女は最初から彼の子を生むつもりでいたので、母親の反対を押し切り、一人遠方の地で産月を待った。

 子供が生まれてしまえば母親も折れざるを得なかった。朋子の母親は、娘と孫を黙って家に連れ帰った。

 時雄がそのことを知ったのは、朝子と結婚して二、三ヵ月ほど経った時だった。指を折って数えれば、朝子との結婚式の前後にさゆりは生まれたことになるのだ。その数ヶ月前から朋子は、時雄の近づくことを拒み続けていた。そのため、時雄には彼女の妊娠を知る機会がなかったのだ。彼は、朋子の仕打ちを恨んだ。朝子との結婚が決まっても、朋子への愛に変わりはなかった。朋子が自分に会おうともしないのは、朝子とのことで彼女が怒っていると思い込んでいたのだ。

 久しぶりに上京した時雄は、朋子の本心を知ってますます彼女を愛するようになった。その背景には、朝子との生活に息の詰まるものが存在していたことも事実だった。幼女期の朝子の顔が目の前にちらつき、時雄は妻となった朝子の顔を正面から見ることもできないでいた。

 朋子との関係を持続させるために、彼は、一日も早く兄の会社を出て独立することを真剣に考えた。そうなれば、朋子たちの生活いっさいの面倒も自分の力で見てやれると考えていたからだ。

 時雄は朝子との結婚式の写真を見て、心のわだかまりの一つが落ちる思いだった。真っ白なウェディングドレスにベールが映え、まぶしいほどの美しさだった。しかし、花嫁衣裳に包まれた朝子の表情は、形容しがたい憂いを含んでいた。

―― あぁ! この人も俺と同じだ。俺と同様不幸な人だ。朝子も強られた結婚をしたのに相違ない。俺も朝子も互いに貧乏くじを引き合ったのだ。 ――

 彼は妻に一種の哀みを感じないではいられなかった。だが、その反面、彼女の不幸は自ら招いたものではないか、という思いもあった。

 遠縁に当る朝子は、親戚の男たちからも一種の憧れに似た目で見られていた。時雄も親戚の集まりで彼女を遠くから眺めるだけで、他の男たちのように彼女と口を利くようなことは一度もなかった。誰の目から見ても朝子は親戚中の女王だったし、それだけのものを持っていた。

 時雄が兄たちと一緒に東京に出張し始めたころ、朝子も東京に憧れ、そこで恋をしていた。誰もが朝子はその男と結婚するものと思っていた。ところが、朝子は一年も経たないうちに、上京した時の面影もなく、すっかり憔悴しきって家に戻って来た。

 親戚の者たちは言い合わせたように何も言わなかったが、彼女が男に捨てられ、それを許せなかった彼女は、不起訴になったものの、小さな傷害事件を起こしてしまったのだ。

 親戚の者たちが固く口を閉ざしていても、小さな町のなかでは彼女の噂は旋風のように広まった。そのことがあってからというもの、降るようにあった縁談もぱたりと止んでしまった。

 やがて朝子も時雄たちの見守るなかで、二年三年と時が流れて行くうちに表面的ではあったが、次第に元気を取り戻して行った。そんな時期に時雄との縁談が、不承不承ながら窪田の家と朝子の家との間で話されるようになった。

 時雄は朋子とのことを兄や隠居している父母におずおずと話した。彼らは時雄に最後までしゃべらせなかった。目をむいた長兄に

「もったいない話だ。ありがたく朝子を頂戴しろ」

 と一喝された。


「あなた、奥さまはお元気?」

 時雄は朋子の声で、朝子との苦い追憶から引き戻された。

「どうしてそんなことを聞くんだ?」

「わからないわ。でもわたし、奥さまのこととても気になるの。きっと、自分がしあわせだからだと思うの」

 時雄は朋子の顔を優しく上向け、濡れた睫毛を指さきで拭ってやった。朋子の澄んだ声に鼻音がかかり、それが時雄の胸に『し・あ・わ・せ』となぞった。

「あなた、きょう奥さまに偶然会ったのよ」

「だって朋子は朝子を知らないだろうに。それとも朝子がここに……」

 時雄は朋子を少し引き放すようにして言った。

「いいえ。驚かなくても大丈夫よ。女の勘なのよ。デパートの食品売り場でそれらしい人に会ったわ。その方もわたしを見ていたわ。背の高い人ね。とてもきれいだったわ」

「それだけで朝子とわかるのか?」

「断言するつもりないけど……」

 時雄は、朝子も朋子と同じようなことを一度だけ言ったことを思い出した。

 新婚旅行から帰って来て二週間あまり経った夜のことだった。その夜の時雄は、会社の創立記念の祝い酒にしたたか酔って帰宅した。兄たちに朝子との関係をしつこく訊ねられ、あげ句の果てに、朝子の体をまだ知らないことまで白状させられてしまった。

 兄たちは、時雄を肴に笑い嘲った。そうして

「おい、哀れな弟のためにこれから時雄の家に行って、我らの愛すべき朝子をお慰めしようではないか」

 とまで言い出した。時雄は泣いて許しを乞い、逃げるように帰って来た。

 時雄は、床に着いている朝子を上から見おろしていた。兄たちの嘲笑を思い出し、猟犬が獲物に襲いかかるように朝子の体の上に身を投げつけた。彼女が小学校に入学する前、自分を馬がわりに三輪車を引かせた屈辱感を頼みに、夢中で彼女を抱いた。

 幼いころに養われた彼女への精神反応は、自分をいじけさせるだけで、今日まで男にさせてくれなかった。兄たちの罵声を鞭にし、妻に襲いかかるほかなかったのだ。時雄は、そのように自己弁護していた。

 朝子はそんな時雄に軽蔑の目をあげ

「獣と同じね。もう少しどうにかできないものなの。電気を消して下さい」

 と言って、身を伏せてしまった。

 時雄は、自分の体の下で身を固くしている朝子の黒髪を掴んで上を向かせようとした。

「あなた、あの人にもそんなふうにして自分の物になさったんですか?」

 朝子の声は冷やかだった。

「お酒の力を借りなければどうにもできないんですか?」

 時雄は、全身から力が抜けて行くのを覚え、思わず彼女の髪を放した。

「やはり私が初めてではなかったんですね」

 朝子の声はどことなく嬉しそうだった。

「どうして知っているんだ?」

 時雄は彼女の体から身を離しながら訊ねた。

「何も知りません。女の勘です。あなたが過去に女の人と関係を持っているか知りたかったの。御免なさい。あなたも私の過去をよく御存じでしょう。それが辛かったんです」

 時雄は朝子の言葉を噛み締めてみた。

―― 朝子は自分以外の女が俺にいようといまいと気にしていたわけじゃない。俺にも朝子と同じような過去があれば気が落ち着くわけでもないはずだ。ただ、自分の拭い切れない過去を自分だけが引き摺って生きていくことにやりきれないものを感じていたにすぎないんじゃないだろうか。 ――

 時雄は冷たい床の中で考えていた。酒の酔いが彼の思考を鈍らせたわけでもないだろうが、これ以上屈辱的な過去に捕らわれていることに耐えがたいものを感じ、朝子の冷視を払い落とすと、兄たちの挑発に反撃するように、朝子の床に滑りこんで行った。

 その夜、時雄は朝子と交わった。しかし、朝子の体は時雄にとって、あまりにも繊細でこわれやすいガラス細工の人形のようだった。





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