星の散る夜 第4回


森亜人《もり・あじん》




「わたしね、あなたの好きな鮑の鮮度を見ていたのよ」

 朋子が耳許で話していた。

「どこかでわたしを見ている人がいるように感じてね、ふと目をあげると、少し離れたところで美しい人がわたしの手許をじっと見ていたのよ。わたし思わず、あって言ったかもしれないわ」

 時雄は、朋子の言う女が朝子のように思えて来た。きっと朝子も鮑を買い求めている女を朋子と思ったのに違いあるまい。肩を聳かせ、頭をあげて食品売り場から去って行く朝子の姿が目に浮かぶようだった。

「わたしって悪い女かしら?自分が恐ろしくなって来るわ」

 時雄は朋子の心中を痛いほど読み取れた。朋子との結婚を親や兄弟に反対され、どもりだうすのろだと罵られ続けて来た。自分までもそう思っていた。そんな時雄をまともに扱ってくれたのが朋子だった。

「俺は吃るんだぜ。緊張すると赤面し、何も言えなくなるくらいなんだぜ」

 と言っても、朋子は笑っているだけだった。たとえ吃っても彼女は時雄が話し終るまで黙って聞いていた。

 時雄は朝子との生活のなかで疲労して行った。朝子に真正面から見つめられると、昔のように体中の筋がこわばり、一ときも早く彼女の目の届かない場所へ逃げ出したくなるのだった。その思いは自然朋子へ向けられ、前より二人の仲は深まって行った。まして、朋子との間に生まれたさゆりは、朝子との間に生まれた夕美よりも不遇と思えば、なおのこと愛おしく思うのだった。

 時雄は、朋子から、

「時雄さん、たとえ上京してもわたしのところへこないで下さい」

 と何度も言われた。しばらくの間は時雄の求めにも応じなかった。しかし、それも三ヶ月とは続かなかった。悲しい思いを残されることを恐れつつも彼女は時雄の強引さに負けてしまった。

 夕美の下に綾が続いて生まれた時、時雄は決心して兄の会社を出た。それは七年前のことだった。その時も、兄たちに

「お前に独立してやって行く力はない。金をどぶに捨てるようなものだ」

 とさんざん口きたなく罵られ、退職金もろくに払ってもらえなかった。

 時雄はそれでもいいと思った。自分の周囲に親戚の影が映らない生活をしたかった。朋子やさゆりの顔が瞼の裏で彼を励ましてくれているように思い、今までやって来た建築業から一転して、神経の集中と精密さを求められる仕事に着手した。

 兄たちの下で大工をしていたとき、時雄だけは釘をやたらに打ちつけることをきらっていた。数を多くこなしたい兄に、鑿など使わず釘を打て、と言われ、悲しい思いで建築中の家を見あげていたものだった。それに、人との交わりをことさら避けたがる彼にとって、一ミリの狂いも許されないビス作りは最適な仕事だった。

 朋子は総ての預金を引き出し、それを彼に渡しながら

「何も言わずに受け取っておいて。これはあなたにあげるんじゃないわ。しばらく貸してあげるんだから」

 と言った。

 あれから七年、返済も滞りなく終り、家計も豊かになった。こうやって朋子とさゆりを自分の手の届くところへ連れて来ることもできた。そのことについても朝子に済まないとは思わなかった。むしろ、朋子たちを東京に置いていたことのほうが心苦しくさえ感じていたくらいだった。

 時雄は、ここマンションの四階にいる自分こそ本来の自分だと感じられた。窪田の家に帰った自分の姿をもし朋子が見れば、顔を覆って泣いてしまうに相違ない。妻の前で激しく吃り、顔を伏せている姿など、ここでは自分でさえも想像できなかった。

 そんな自分を朝子が冷やかな目で見おろしているだろうと思うと、男としての自尊心より先に、女王のように振る舞っていた過去のあでやかな姿に、身も心も萎えてしまうのだった。せめて子供たちにだけは父としての威厳を保とうとして声をかけるのだが、幼かったころの朝子がそこに現われ、たちまち吃ってしまうのだった。

 娘たちは下から時雄を見あげ、他人を見る目で『お父さんはいったい何を言おうとしているのだろう』とでもいわんばかりの顔を不思議そうに向け、首を傾けたまま母親の顔を見あげて困り切っているのだ。時雄は、どうしてさゆりには自分の話がわかり、夕美や綾にはわかってもらえないのだろうか、としばしば考え込むことがあった。さゆりにたいしても、夕美たちにたいしてもそれほど違いはないはずだ。だのに夕美たちにはほとんど自分の言っていることが通じないらしかった。朝子は父子の様子を見ていて

「夕美、綾、パパはお疲れなのよ。こちらへ来なさい」

 と言って二人の子供を隣室に連れて行ってしまう。


 時雄は夜更けにふと目覚めた。朋子は眠っているようだった。手を伸ばして彼女の黒髪に触れても、深い眠りのなかに潜んでいるらしく、いつものように鋭敏な目覚めは得られなかった。時雄は反対の手を伸ばし、窓に掛かっているカーテンの裾をあげてみた。外は季節風が荒れているとみえ、どの星も激しく瞬いていた。なかでも北の空を守るように身動きひとつしない星が、時雄に挑むように光っていた。

 彼は一種の恐れを抱いてその星から目を逸すと、北天の輝きを覆すような強い光が走り昇るのを見た。それは近いところのようでもあり、遠いところの空間のようにも思えた。

 時雄は布団を出ると、カーテンと窓の間に立った。

「流れ星なら下に落ちるはずだが……」

 彼はそう呟いて、星の立った下の闇に視線をおろしてみた。

 深夜のせいか、櫛の歯が欠けたように数も減ったネオンの明りを前景に、幾つもの輝きが勢よく昇っては踊り、斜めに走っては闇に溶け込んでいた。

「火事か……。この寒い冬に……」

 と、時雄は呟いた。

「火事のようだね」

 時雄は、冷えた体を朋子の傍に滑り込ませ、答えなど返って来ないと知りつつも、彼女に囁くように言った。

「どこなの」

 朋子は時雄が布団を離れた時から目覚めていた。

 夕刻、デパートで会った時雄の妻らしい人が胸につかえ、時雄が安らかな寝息を立ててもなかなか眠れないでいたのだ。

 とろとろとしたと思うと目が醒めてしまう。それでも十分くらい眠ったであろうか。時雄が布団を出て行く気配で目を覚まし、じっと彼の様子を伺っていたのだった。

 今日まで彼の妻の顔も知らないでいた。それほど知りたいとも思っていなかった。それが、彼の妻らしい人の顔を知ったことで、今まで味わったことのない感情に、朋子は苦しいものを覚えはじめたのだった。

「遠いところなの?」

「うん」

「この寒い時に可哀そうね。怪我はなかったかしら?」

 枕許にあかりが流れた。朋子がスタンドをともした。時雄は明りに染まった艶やかな朋子の顔に吸い寄せられて行った。柔軟な肢体が彼の腕のなかで震えていた。

 時雄は朋子の黒髪を静かに撫でつけていた。一度もパーマを掛けたことのない豊かな髪が、時雄の手のなかで生き物のように感じられた。その時、東京へ出張する朝、妻の言った言葉を思い出した。

「あなた、四日間と言ってましたけど最後の日は何もないんでしょ?でしたら明後日の夕方には帰って来て下さい。大切なお話もあるし、綾のお誕生日でもありますから」

 時雄は朝子がそう言った時、大切な話という言葉にはそれほど心を動かされなかったが、綾の誕生日という言葉に心が痛んだ。妻もその点を心得ているらしく、綾という語と、誕生日という言葉に力を入れて言った。

 彼は、朋子がデパートで妻らしい女に遇ったと言ったことを信じた。と同時に一つの不安が心の奥から浮上して来た。思いつめたような声で言っていた朝子の大切な話のことだった。東京に出かける朝は軽く聞き流してしまったが、北の空を焦がそうと勢よく立った火柱を見て、彼は思わず床に座りなおした。

 スタンドの明りの届かない天井の隅に、悲しそうに目をあげている夕美や綾の顔が浮かんだ。その横に、眉をあげた朝子の蒼白な顔も見える。時雄の視線と合うと、彼女たちの顔からめらめらと火が噴き出された。


 灯油を十分に含んだ家は、たちまち猛火に包まれた。周囲の闇を焦がし、夜空に向かって燃え盛っていた。田んぼのなかにぽつんと建っている家のため、周囲に燃え拡がることもなく、舞台に舞う踊り子の火の舞いのようだった。舞いは人々の見ている前で狂乱の踊りに変わり、黒煙は苦悩の血反吐のようだった。

 朝子や子供たちの火の不始末とは思えない。近所の人に混ざって、時雄の両親や兄たちの声が炎の唸りのなかから切れ切れに聞こえて来る。朝子の家の者もしきりに朝子や娘たちの名を呼んでいる。この真夜中、どこから湧いて来たかと思うほどの人が、遠巻にしている。

 火力に弾き出された残骸が、田んぼのなかほどまで飛び散って炎をあげた。新建材特有の有毒な煙が漂っている。家を取り巻く人々は、家の者たちの名を口々に呼んでいる。朝子も二人の娘も、猛火のなかで固く目を閉じているだろうと時雄は思った。

 火の手は納まったり勢いを回復したりしながら時雄の家を舐め尽くして行く。時雄は、自分のすべてが灰になって行く様を創造しても、まるで絵空事として感じていた。たった数年間で築いた財に何の未練も残っていないというわけではない。それ以上に、朝子との過去の悔いを引きずって行かなくてもよくなると思うと、目に見えるものを失おうとしている今、何か肩の荷がはらりと取り去られたように感じるのだった。

 燃え盛る炎の裂け目は、時雄に向けられている朝子の冷然たる視線と思えた。火の色が鮮やかであればあるほど、炎の空隙は底知れぬ深遠な朝子の心でもあった。

「これでお前も自由になれるだろう。俺のような男と結婚しなくても済んだはずなのに。たとえお前が過去に拭いきれない傷があろうとも俺には高価すぎた。お前の身も心も俺のような粗野な者には貴すぎたんだ。俺は、お前と結婚できることなど夢にも思っていなかった。むろん、望みもしない。どんなに傷ついてもお前は俺にとって星と同じなんだ。親戚中で一番の愚物と結ばれたなんて、お前はほんとに不幸な星の下に生まれたものだね」

 時雄は組んでいた膝に力を入れ、天井の隅に目を凝らしていた。

「朝子、俺は結婚してからきょうまで心の安まる日は一日たりともなかった。朋子という女をお前より先に知り、子供まで生まれていたんだ。それを隠すために心が安まらなかったんじゃない。お前も承知のとおり、俺は親戚中の者からばか呼ばわりされて来た。お前もそう見ていたことは俺が一番よく知っている。だが、朋子はそうじゃない。俺を男として、人として見つめていてくれたんだ。たしかにお前は礼儀もあり、俺を立てていてくれた。だが、お前の目には光もなく、俺のためにロボットのようだった。お前が妊娠したことを俺に告げた時の目は憎悪で潤んでいたね。俺はそんなお前に憤慨する前に、お前に済まないと思ってしまったんだ。お前にとって、俺に征服された証のようなものだからね。俺はお前がいつも明りを消していてくれたことを反面で喜んでいた。俺は女の子が生まれた時、飛びあがるほど嬉しかった。男の子なら俺に似るかもしれない。女の子ならお前に似るはずだからね」

 時雄は立ちあがって窓のところへ行ってみた。カーテンの間から空を焦がしている火の色が見える。彼は夜空を仰いでみた。星が一つ長い距離を走って闇のなかに消えた。

―― そうだ、朝子は賭を俺に挑んだんだ。きょう、俺が帰って来るかそうでないか。そうして、朋子らしい女をデパートで見かけてすべてを察したのだろう。しかし、朝子はそのことを口にして俺を咎めるような女ではない。賭の代償はいったい何だろう? ――

 考えをそこまで進めて来た時、時雄は愕然と膝を折った。彼の脳裏を果物ナイフの鈍い光が走った。十数年前、東京で同棲していた男に向けられた刃が、自分に向けられているような恐怖だった。

「朝子、俺の敗けだ。お前は俺を殺さないで自らの命と子供たちの命を奪った。そうすることで俺たちに一生の苦痛を負わせたんだ。朋子という女が、人の死の上に座っていられる人間でないことをお前は見て取ったんだね」

 焼け落ちて行く家の上空に小さな星が二つ瞬いていた。遥か北の空には北天の星が輝いている。動くはずのない星が横に走り、潤んだように瞬くと、たちまち朝子の後ろ姿に変わった。それはデパートの食品売り場から、朋子に背を向けて歩み去って行く姿だった。

 彼は窓枠に手を掛けて立ちあがると、総ての想念を払うように

「そんなばかな真似をするはずがない」

 決して和合することのなかった朝子との生活。二人のあいだに生まれた子どもたちを通せば和むと思って、それなりに努力したこともあった。しかし、それらの努力は乾いた砂に水を撒くようなもので、決して潤うことはなかったのだ。

 彼は、しばしば朝子の言っていた言葉を思い出して口の中で呟いてみた
「切れた糸の先端を合わせても同じじゃないのよ」

時雄は、

「本当にそうかもしれない」

 と呟き、冷えてしまった背筋を暖めようと、心配そうに見上げている朋子のぬくもりに求めていった。





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