空白の時 第2回


森亜人《もり・あじん》



 真吾は、高校を卒業すると習いに従って消防団に加わった。日常は家業のスーパーを両親と共に経営していた。学生時代から町のサッカー・クラブに所属し、若い情熱を発散させていた。ボールを追う闘魂の漲りはそのまま火事のときにも表われていた。真っ先に駆けつけ、火を睨む両眼は野獣のようだった。彼のひと睨みは水源を争う他の消防士らを寄せつけないほどだった。その真吾に不幸が突然襲った。

 寒い夜だった。彼は同年の者たちとスナックにいた。陽気に歌っているとき、店との連絡用に持ち歩いているポケットベルが鳴った。

 火事の伝達だった。

 真吾は酒の醸し出す雰囲気から一変して寒い通りに飛び出していった。いつどんなときに火事は起こるか分からない。彼は常に消防の法被を携えていた。

 真吾は走った。消防自動車の置いてあるところへ走って行くより、途中で掴まえた方が早いと思った。

 寒い夜の通りは、ネオンの瞬きに誘われて寄ってくる昆虫のように、男や女の組みが右へ左へと揺れながら笑い騒いでいる。そのあいだを縫うように真吾は走った。

 彼は広い通りで分団の車の通るのを待っていた。

 空に冬の星座が美しかった。上空は風が強いらしく、しきりに星が瞬いている。明るく光っている星を遮るように、飛行機が音もなく飛び去っていく。寝るにはまだ早い時刻。遠距離を走り抜けていく大型のトラックがジーゼルエンジンを吹かしながら周囲を震わせて通り過ぎていく。

 その閑散とした通りに、慌ただしい靴音が響いて、真吾の背に声がした。

「これお忘れになりました」

 若い女だった。街灯の灯に彼女の息が白く揺れていた。女は、手に持っていたヘルメットを真吾の手に渡すとそのまま駆け去った。

 真吾は、サイレンを鳴らして走ってくる車に気を取られ、女に礼をいう余裕もなく、急停止した自動車に飛び乗った。

 殺気立った車の上の人になった真吾は、つかのまの心の和みも夜の闇の中に消えてしまったように、星のことも飛行機のことも、自分のために長い距離を走ってきてくれた若い女のことも忘れてしまっていた。

 火事場は自分たちの分団区域ではなかったが、現場に到着したときは専門の消防士らと殆ど同時だった。

 真吾たちは燃え盛るアパートに勢いよく放水した。紅蓮の炎が夜空を焦がしていた。新建材の匂いが周囲に立ち込めていた。

 真吾は激しい勢いで吹き出すホースの先を仲間と二人で抱きかかえていた。人の舌のような炎が四方に拡がる中で、何かが爆発したらしい。彼らの頭上にばらばらと降りかかってきた。

 その中の一つが真吾の眼に突き刺さった。激痛に彼は思わずホースの筒口を離してしまった。眼球を焼け火箸で抉られたような衝撃だった。

 彼は、どんな状態に立たされても筒口を離してはいけないという鉄則を死守しなければならないことを、薄れて行く感覚の中で自分に言い聞かせ、勢いよく放水しているホースに武者振りついていった。

 真吾が意識を取り戻したときは病院のベッドの上だった。鋭く尖った金属の破片が瞳孔を貫き、眼球の奥にまで達していた。片眼の視力を失った彼は、周囲で考えていたほど精神的な打撃をあまり感じていなかった。退院してからも彼の生活は、前と比べて変化らしいものはなかった。

 真吾の残された片眼の視力が日を追うごとに減少していったのは、夏の燃えるような光線のためだった。彼が全く視力を失ったのは、その年の秋だった。絶望が彼を狂わせ、両親や兄妹に当たり散らす日が続いた。華やかな日々の中にいた彼には、闇の世界は想像することのできない恐怖の世界だった。

 外出を嫌い、友人たちの訪問を拒み、終日自室に閉じ籠もってばかりいた。自分の不注意から額や脛を打ち当てると、その物に拳を震わせて怒り狂うのだった。父や母の優しさが自分をいたわってくれるものと分かれば分かるほど彼の心は荒れるのだった。家族の者たちの心痛を理解しない訳ではなかったが、真吾は自分を制し切れないでいた。

 真吾が素直になれるときは、夢の中だけだ。サッカー・ボールを追って、センター・ラインを突破し、敵陣に深く攻め込んで行く光景を夢ではなく、事実のような気分で味わっているときだった。

 しかし、目覚めたときの虚しさは奥歯で空気を噛み締める感覚に似ていた。彼にとって目覚めは悲しく現実を認識しなければいけない苛烈な彼への挑戦のようだった。

 激しく真吾を襲った心身の痛みもときの流れが徐々に解消していった。失明してから四度目の秋が巡ってきた。彼の心に一つの灯が揺れ、それが次第に明るさを増していった。

 三年前から真吾の誕生日とクリスマスには必ず花束が彼の元に届けられるようになっていた。それには優しいメッセージが書いてあった。

 初めて花束が届けられたとき、真吾は、匂いしかない花に怒り、こんなものを贈ってくれた者に対し、とらえどころのない虚しさを払拭するように、一枚一枚をちぎり捨てた。

 彼には誰か分からないが、自分をからかっているとしか思えなかったのだ。二五回目の誕生日を迎えた夏、彼の心に初めて送り主を思う心が生まれた。

『北原温子』

 真吾には耳新しい名だった。美しい花束を送ってくれた人は一度も自分の名を書いてきたことはなかった。真吾の妹が苦心して捜し当てたのだ。

 温子はこの町の病院で看護婦をしていた。高校のころから真吾に憧れを抱いていたが、決して表面に顔を出すようなことはなかった。多くの女性たちの後に立って彼を見ている女だった。

 残暑の残っている九月初旬、温子は真吾の妹に伴われて彼の前に現われた。

 真吾は、震え声で話す温子に三年間の礼を言った。温子は感激のあまり、抑えようとしても胸が痛いほど高鳴り、舌が縺れ、喉を詰まらせてしまい、思うように口が利けなかった。そんな温子に彼は清純な香りを感じた。

 真吾は、温子の顔を思い出そうとしても、瞼の裏にも脳裏にも浮かび上がってこなかった。そのもどかしさに眼の見えていたころの自分が疎ましく、彼女に何か借りを受けたように思うのだった。

 温子は、慣れるにつれ、真吾のためなら時間を惜しまず動き回るようになっていった。

 やがて真吾にとって、温子は眼となり手となり足となり心となっていった。そうして、その年の十二月の半ばに結婚した。温子の両親は正面切って反対はしなかったが、娘の苦労を思うとすんなりとは賛成しなかった。


 真吾は、机の上に置いてあった温子からの便りを取り上げて、何度目かの読み直しを始めた。彼女との十年間は幸福だった。温子はあまり健康とはいえなかったが、彼の代わりによく働き動いてくれた。

 その温子が真吾の眼の前から忽然と姿を消してしまったのだ。彼の衝撃は失明したときよりも大きかった。くる日もくる日もベッドに身を投げ出して考え続けた。彼の思い当たることはただ一つだった。それは、自分の眼が治ってからの行動に原因しているのではないかということだった。だがそれ以上真吾には考えつかなかった。

 今、十五年間の空白を埋めるために温子を無意識の内に疎んじていたのかもしれない、という新たな思いが彼の心に浮かんできた。

「否…」

 真吾は自分の考えをいったん否定したものの不安が心を覆った。

 真吾は温子の逃亡など夢にも考えていなかった。自分のためなら命をさえ捨ててくれると思い込んでいたものだった。自分の元から逃げ出した温子に対し、真吾は火のような怒りを覚えた。自尊心を逆撫でされたような思いだった。自分の立場を踏み躙られた思いが彼をしばらくの間逆上させていた。彼女への恨みは今日の日まで続いていたといえよう。

 しかし、温子からの手紙と、眼の前の壁に掛かっている『瞳の無い女』の絵は彼に今までと異なった考えを突きつけてきた。温子に対しても、壁の絵の中の女に対しても真吾は考えを改めなければいけないのではないかと思い始めていた。

 温子の去ってからの五年間は真吾に多くのことを教えてくれた。己の高慢さからくる人間的な愚かさを知った。温子が自分を庇っていてくれたことを思い知らされたのだった。

 真吾は今日まで一度再婚していた。その女は温子より美しかった。教育も充分、身につけた女だった。ところが、結婚して数ヵ月で女は身を引いていった。別段真吾の素行が彼女の不興を買った訳ではなく、かといって彼が彼女に暴力を振るった訳でもなかった。彼女は真吾の人を人と思わぬ不遜な態度に女としての自尊心を傷つけられ、そのことに耐えられなかったのだった。

 真吾はその女を通して温子の人間性の豊かさをしみじみと感じた。今、彼女の手紙を目の前にして真吾は、幾分の恨みと多分の後悔で温子を思えるようになっていた。

 温子の封書には住所が書いてなかったが真吾はそこがどこであるか何となく分かるような気がした。彼はどうしてもっと前に彼女の居場所が分からなかったのか口惜しかった。と同時に自分の背後から脅かしていた瞳の無い女に対しても不思議なほど脅威を感じなくなっていた。


 真吾は最前まで心に重く伸しかかっていた壁の女に恐怖の薄れて行くのを感じた。再び壁の上の女に向き直り、女の両眼に瞳の無いことを思索する勇気が湧いてきた。

 モディリアーニの心に浮かんだ閃きが理解でき、温子の心情も分かるのではないかと明るい気分になった。

 真吾には美術としての絵を鑑賞する力はなかった。野獣的な感覚で描く絵がこれだといわれれば「ああそうか」と思うような頼りない観察眼しか持っていなかった。

 彼は、モディリアーニの作品を美学的に鑑賞しようとしているのではなかった。ただ、絵の中の女にどうして瞳が無いのか…、どうしてモディリアーニは女から瞳を奪ったのかを単純に知りたかったのだ。その単純なところに自分の学ばねばならない人間としての血の通った温かさを知ることが出来るように思えたからだった。

 真吾は、懸命に考え続けた。自分の眼が悪かったときのことを思い浮かべ、視力のないことが人格にどれだけの影響を与えるものか思索した。十五年間の失明時期が彼に与えた多くの苦しみを、彼は視力を快復したとたんに忘れてしまっていることに気づいた。

「俺は十五年間一体何をしていたのだろうか。まるで今になって考えると十五年という時間が全くの空白だったように思える。そんなばかな…。俺は失明してあれほど苦しんだではないか。あれほど悲しんだではないか。あれほど皆に迷惑をかけたではないか…」

 真吾は、壁に向かって独白するのだった。

「俺は盲目のときの方がより人間らしかったように思える。なぜだろう…。温子だって俺が開眼しなかったら今も俺の傍らにいてくれたであろう…。ところが視力を取り戻してからの俺は十数年前の俺に戻り、活発に動き回った。温子はそんな俺を嫌って逃げ出してしまった…。違う。俺が見えるようになったから逃げ出したのではない。そういえば、温子は、俺によく注意してくれた。見えないときは俺も温子の言葉に耳を傾けていた。視力を快復したとたん俺は変わってしまったのだ」

 真吾は、次第に己の軽薄さに気づいていった。

「この壁の女はどうして憂いの表情を俺に向けているのだろうか。瞳を奪われたことが悲しいのだろうか。俺だって悲しかった。悲しいなんていう言葉で表現することもできないほどだった。瞳がほしくてこんな表情をしているのだろうか」

 真吾は、壁の前を離れて窓に寄っていった。二階の窓から見下ろすと広い平野が一望できる。高台にある真吾の家からは丘を上ってくる人がよく見える。

「そうだ、俺はこの窓から一度も温子の帰ってくるのを見たことがない。見えなかったころはそうでなかった。見えもしないのに俺は窓際に立って、温子の眼に触れるように半身を乗り出していた。下から温子が『真吾さん危ないわよ、中に入っていてちょうだい』というのを聞いて安心したものだった。毎朝温子が出勤して行くと、もう二度と彼女は帰ってこないのではないかと日が暮れるまで心配していたものだった。あのころの俺はどこへいってしまったのだろう…」

 真吾は、開眼してから一度だけそのことを考えたことがあった。彼は

「見えなかったんだから当然なことさ。弱い人間になっていたからな…。でも今は違う。俺はもう自分で何でもできるんだ」

 と豪語したことだった。

 ところが、真吾は、新たな発見に気づいたのだ。温子に向けていた自分の態度が非情であったことを知らされた。

 彼は、どこを向いても自分の疎ましさを見るように思え、助けを求めるように空を見た。白い雲が筋を引いたように細く長く伸びていた。彼は、輪郭の美しい雲が温子の眉によく似ていると思った。こんな雲なら今までも随分見てきたはずなのに…。

 真吾は、自分の心が感傷的に傾斜して行くのに耐えられなくなって、ベッドに身を投げ出した。

 真吾は、視力のある眼を手で覆ってみた。消火のおりに傷ついた眼は真の闇だった。彼は何も見えない眼で辺りを見回してみた。闇がどこまでも続いていた。突然真吾の脳裏に火事のあった夜が蘇った。

 それは、分団の消防自動車を待っていたときのことだった。空に星の瞬いているのを見上げていると、スナックに忘れてきたヘルメットを届けようと息をはずませて駆けてきた若い女のことを、真吾は思い出した。

「そうか!俺は忘れていたんだ」

 真吾は、見える片眼をしっかり押さえたままベットに座り直した。手を離すとあの夜の女の笑顔が消えてしまうように思え、彼は手に力を込めた。女は、少女のように顔を染め、町のほかげの向こうに走っていった。

 真吾は、懐しさと温子への愛惜の情に思わず立ち上がった。

 真吾は、半ば、小走るように窓際に歩いて行き窓から顔を出してみた。秋の穏やかな光が彼を包んでいるのが分かった。爽やかな風が彼の全身を包んでいるのも分かった。

 真吾は、下を見下ろすように半身を乗り出してみた。何も見えないはずなのに彼の眼に人が坂を上ってくるのが見えた。隣の家の庭に、子供たちが秋海棠の花影でママゴト遊びをしているのが見えた。

 彼は、ゆっくり手を離してみた。

「モディリアーニはあの女から瞳を奪ったのではないんだ。瞳の無いことによって彼女により多くのものを見させてやろうと思ったのだ」

 真吾は、モディリアーニが這い寄る死の影に脅え、酒や麻薬に身を滅ぼしていったのではないことを知った。死んだ後も残された絵の中の女に、彼自身の見ることのできなかった多くのものを見せてやりたかったのではないだろうか。

 真吾は、壁の上の女の憂いを含んだ表情に、明るさを呼び戻す手段をしっかり把握できたように思え、女に大きく頷いてみせた。

 彼は、振り返って、空に浮かんでいる細く長い雲に向かって手を振った。





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