濁り香 第5回


森亜人《もり・あじん》



      五

 翌年の夏休み直前、ぼくたちは警察に保護された。以後、ぼくは彼女に会っていない。

 博文とも彼の父親が他県に転勤していったことで疎遠になったきりだ。秋の人事異動で他県に移っていったのだが、真由美の家から身を翻して走り去っていったのは別離の悲しみを払拭してのことだったのかもしれない。

 ぼくはもう一度新聞に目を向けた。あの真由美が、という思いが心に広がる。記事によると二人の子供がいたというからには平凡な結婚をしたのだろう。どんな家庭を築いたのか想像もできないが、存外、普通の主婦であり、普通の母であったのかもしれない。

 これも新聞によるものだが、真由美の子供たちは上が女で既にどことかの会社に勤めているとあったし、下が男の子で、これも社会人になっていたというから、真由美は順調な結婚生活に入っていたのだろう。

 それにしても何という惨たらしい事故だったろうか。事故そのものに何か疑問を感じるのはぼくが真由美という女性の性格を知っているためだろうか。ぼくの蹴りを軽々と身を躱したあの日の光景が思い出される。

 全てが秘密のうちに処理されたはずなのに、どこから漏れたのか事件が発覚して十日も経たないあいだに全校の知るところとなった。それからのぼくは学校へ行くのも、通りを歩くことも辛いものになった。クラスの女の子たちのぼくに示す視線の奥に、ぼくがこだわってしまうのも仕方のないような色がありありと覗いていた。

 決してぼくたちは手に追えないほどの非行グループだったとは思っていない。真由美を頂点とした十数名のグループで、倉庫に集まってタバコを吸ったり、大人ぶって互いに抱擁のまねをしたり、エロ本を回し読みしたりする程度のものだった。

 誰かがはしゃぎすぎると、真由美は眉を顰めて彼らをたしなめる。どんなに皆が笑い興じていても真由美はどこか苦しいような表情を整った白い頬の陰に潜ませていた。はじめ、ぼくは彼女がどこか具合いでも悪いのではないかと思ったくらい、苦しい表情だった。

 そんなグループが補導された背景には、グループの一人の両親からの通報と、学校への圧力によるものだった。いつものように倉庫の中で皆が思い思いに楽しんでいるところへ訪問者のような顔をして婦人警官を先頭に三人の刑事が入ってきた。

 皆は青くなって口々に叫んでいたが、真由美はソファに座ったまま動こうともしなければ口を利こうともしなかった。どうして自分たちがやってきたのかという説明を刑事の一人から聞いた真由美は、なぜかほっとしたような表情を眉と口元に浮かべた。

 最初の日に感じた真由美へのおぞましさなど時の経過と共に剥奪され、ぼくは完全に真由美の操り人形化していたのだった。心の底ではもう真由美の家に行ってはいけないと叫びつつ、真由美の姿態を瞼の裡に浮かべると、たちまちもうどうでもいいという気分になってしまうのだった。

 真由美のグループとの交わりが警察の保護によって終止符を打たれ、両親の知るところとなった。姉などは当分のあいだ、さも汚らしいものでも見るような目でぼくを見ていたし、姉の持物に手でもふれようものなら、金切り声を張り上げてぼくを詰り、母に言いつけるのだった。

 父も母も姉ほどではなかったが、何か薄気味悪い感覚を持ち続けていたらしい。とにかく中学・高校と進むほどに両親の感情は和らぎ、いつとはなしに常の態度を示してくれるようになっていた。

 彼女の家への出入りを禁じられたのちもぼくは真由美の姿を求めて高い土塀の周囲を意味もなく歩きまわった。偶然に真由美と会えるかもしれないという思いだけで、雑木林の小道を辿ったことも何回かあった。

 それも叶わないと知ってからのぼくはとたんに部屋に閉じこもる少年になってしまった。自分は悪くないという思いの裏に、あんな乱れた遊びをしたんだから仕方ないかという諦めもないではなかった。

 中学に進学すれば全てが一新するものと思っていたが、小学校のときの顔ぶれとそう変わりないことがぼくにとって不幸だった。新しいクラスメイトの目も、担任になった若い女教員の目にもありありとぼくを蔑む色のあるのに気づいた。

 そんなことが影響したのか、パソコンゲームに興味を持つようになり、人との交わりを極力避けるようになっていった。パソコンなら煩わしい会話も精神の葛藤もいらないのだ。それが大学を卒業してのちの現在の職業にまで発展したのだった。

 ぼくは房子の声で我に返った。新聞を握り締めてソファに座り込んでいたのだ。庭から房子が手を貸してくれと言っているのだ。ぼくは何か無性に房子の手伝いがしたくなり、急いで庭に降りていった。

 ビーグルが犬舎の前のサルビアの下でのうのうと寝ている。隣家の庭木に付いたアメシロが網を破ってぞろぞろと這い出し、我が家の庭にも越境してきて彼女が大切にしている花に這い上がっていた。

 房子は割り箸で一匹ずつ挟んではビニール袋に入れていた。もう百匹近く取ったと思われるほどのアメシロがビニール袋の中で蠢いていた。子供のころにこんな虫はいなかった。アメリカから輸入されたとんでもない土産だ。

「ねぇ昇平さん、一緒にアメシロを取ってちょうだい。わたし一人ではどこへも追いつかないみたい」

 房子の言うとおりだ。ざっと眺めただけでも白い毛が陽光を弾き返している。築十年を経た我が家の庭にもそれなりに成長した低木があるが、そこにもアメシロの一群がたかっている。

―― こんなやつなら最初から退治することにも何の抵抗もないが、もしこれが美しい姿をしていたらどうだろう。 ――

 ぼくは真由美の少女時代の顔をふっと思い浮かべた。たとえ三十数年を経たとしてもあの美しさはそれほど変わっていないだろう。その彼女が、顔では見分けがつかないほどの損傷を受けるほどの事故に遭遇したことが、何かやりきれないもののように感じられた。

 気づいてみると、ぼくはニガヨモギの近くまでアメシロを追ってきていた。こいつもただの蓬なら春の香りとして草餅にするのにと、ちょっと匂いの強さに顔を背けながら思った。アメシロは桜のようにどことなくほんのり香りを漂わしているのを好む。ということは、ぼくもアメシロと同じだったのだろうか。

 ニガヨモギは健胃剤で房子も使っている。葉を乾燥させれば、頭を留守にしてしまうというところから名付けられた洋酒のアブサンの香料になるのだと、湯飲み茶碗を傾けながら苦そうにしていた房子が話してくれた。

 今朝、ビーグルの鎖に引かれて出かけた散歩のおりに出会ったパジャマ姿の女の横顔や、全身からこぼれ出ている色香に重なって、真由美の若竹のような手足や腰の感触が甦ってくる。

 ぼくは、中学・高校と進むほどに真由美の呪縛から逃れようと、コンピュータゲームに夢中になっていった。画面に精神を集中させているかぎり誰からも束縛も受けないし、非難がましい視線に苦しむこともなかった。その思いが変形してある種の人に対する恐怖心に育っていった。

 それはたしかにぼくの精神を歪めた。房子という人物が現われるまでは。展覧会場で房子を紹介された夜、ぼくは初めてといっていいほど心からほっとした気分で眠った。真由美も死という形を取ったことで久遠の安らぎを得られたのではないだろうか。何か事故の陰に彼女の苦しい生活の仕組みのようなものを感じたのだが。

「苦い遊びか」

 ニガヨモギを煎じて苦そうに飲む房子の表情が、ぼくの心に貼りついたように思わず微苦笑を浮かべてしまった。





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