アイメイトと共に





毛布からはみ出した私の手を、ヒース君がおずおずと叩く。しかし、何時までも私が、ベットから起きあがらないでいると、やがて頭突きに変わる。とうとう悲鳴を上げて飛び起きる。それでもまだ、覚め切らぬ意識のまま愛犬の排便を済ませて、玄関を出ると澄みきった冷気が一度に私を覚めさせてくれる。ご近所もまだ、寝静まっていて物音一つしない早朝5時。「今日もお天気になりそうね。さあ散歩に行こう。」

 こんな生活が始まったのは昭和45年、夏も真っ盛りの暑いころだった。

覚悟を決めて上京したせいもあって、35度の暑さも、グランドから立ち昇る臭気も、仮の宿泊所に当てられた古びた事務所も一向に気にならなかった。合宿訓練第一期生だったのである。日々受ける訓練は、新しいことばかり、無我夢中だった。

失明以来依頼心が強く、自分の意見も遠慮していえず引っ込み思案だった私が、結婚に踏み切って8年。全盲同士のわが家にとって盲導犬はどうしてもなくてはならない必須条件だったのである。

私たちに新しい生き方を教えて下さったのは、まだ50歳前の塩屋先生と盲導犬育成事業に賛同するうら若い青年指導員であった。その後、盲導犬も「アイメイト」と呼ばれるようになったのである。

訓練を受ける仲間は、全国各地よりきていて、今までとは全く違った広い世界が私たちを待ってくれたのである。盲導犬と会話しながら、いつどこへでも自由に闊歩できる素晴らしさをどれほど感動してして味わったことだろう。子どものない私たちにとってまさにお腹を痛めて産んだわが子であり、掛け替えのない家族の一員となったのである。

外出の着替えをしている洋服箪笥を一緒に覗いたり、喜喜としてハーネスを着けてくれるのをじっと玄関で待っているアイメイト。歩行中に小さなあなぼこに足を落として、「あっ!」とおどろきの声を上げたら翌日から同じ場所へくると必ず注意を促して立ち止まってくれるいじらしさ。私たちの気づかないところで、どれほど彼らアイメイトに助けられているかしれない。

22歳おり腎臓炎で失明し、薬を飲んでいても200をさがらなかった血圧が、薬をやめてアイメイトとともに連日散歩や買い物に歩くようになってから、2カ月で血圧もすっかり正常値に下がり以来、医者とも全く縁がきれ今日に至っている。盲導犬との生活も四半世紀を超えた今、社会参加も積極的に取り組み生き甲斐のある人生を日々迎えられるのも、塩屋理事長はじめ、指導員の皆様。そして、盲導犬育成事業を支えて下さる関係者の皆様と、生き甲斐を与えてくれるアイメイトたちに衷心より謝意を述べたい。


長野県 小林礼子



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