盲導犬と31年




 盲導犬の先駆者塩屋賢一氏に初めてお会いしたのは、昭和44年の夏のこと。故伊藤千春氏の閑静な応接間でした。

 私が一念発起して、盲導犬導入を決意したのは、日ごとに老いていく母の姿に気づいたからでした。この母をいつまでも当てにしていてはいけない。母が丈夫な内に、私自身が独立独歩できるようにならなくてはと…。おりもおり、盲導犬になる訓練を終えて帰ってきたばかりの伊藤家の愛犬「ベル」に、対面することになったのでした。

 ベルは、何と雄雄しく逞しく私の目の前で、「はっは」と荒井呼吸をたてている艶の良いシェパードで、とても立派にみえました。その魅力にすっかり取り付かれてしまった私は、協会から連絡をいただいて、翌45年不安と期待を胸に上京。他県から来た3人とともに、いよいよ一ヶ月間の訓練に入りました。

 このアイメイト協会(元東京盲導犬協会)は練馬区にあって、単に視覚障害者に盲導犬の扱い方を指導するだけではなく、障害者の生活そのものを考える所で、例えば、服装・テーブルマナー・音楽会や・観劇会に盲導犬を伴った場合をはじめ、協会内部のメンタルマップ・ハーネスの持ち方・歩き方・排便のさせ方・取り方・命令の仕方、30近い命令後も英語で覚え、辻ごとに止まり、乗り物はエスカレーターまで乗り降りの訓練を受けました。

 盲導犬のスピードは、晴眼者歩道の2倍といわれ、風を切って闊歩するときは、見えるようになったかと錯覚しました。が、犬に気を取られていると、叱ることを忘れたり、道を横断のタイミングを外してしまったり、悪戦苦闘の連続でした。

 最後のテストは、人混みの銀座を歩き、ゴールまで無事にゴールインして合格。お祝いのインド料理をいただき、覚え建ての電車・バスを乗り継いで生還。

 富士登山・羽田空港見学、このころには、パートナーともすっかり息が合って、私をご主人と認めてくれたのか嬉しいときは、尻尾を振りふり、手や顔をたっぷりなめてくれました。

 埼玉のIさん・石川のSさん・大阪のTさんと男女4人は、盲導犬使用証をしっかりと胸に家族の待つ故郷へと愛犬とともに協会を後にしました。

 私のパートナーは、シェパートの雌でファーナーといいました。非常に心遣いの細やかな犬で、雨が降ってきても決して走らせず、水たまりもきれいに避けてくれました。叱られると頸を垂れ、褒められると目を輝かせてすり寄ってきます。郵便局や町役場はお手の物で、銀行なども空席へ案内したり、足元に行儀良く座っている姿を見ては称讃されました。

 買い物や散歩は毎日の日課で、遠くは兼六園の桜見物・長崎のクラス会には、主人を伴ってジェット機にも乗りました。

 51年には、仲間とバス・ハイヤー・タクシーなどに、盲導犬と乗車許可を長野県バス会社へ陳情。国に先駆けて許可され、その後、会議中の県議会を訪れ、労働委員会に盲導犬育成事業の実施を陳情をしました。

 交通安全週間には、長野の県民文化会館へファーナーとと一緒に出席、スピーチもしました。

 こうして、盲導犬普及運動に奮闘してくれたファーナーも癌に侵されて入院、この間に2頭目の訓練を受け、スカーレットを迎えました。ラブラドール・レトリバーの雌で、茶目っ気たっぷり。彼女は、シェパードのような精悍さがないためか人気ものでした。

 河野やすとさんのチターと盲導犬の夕べに招待され、朝日生命ホールで皇太子殿下御夫妻(今の天皇陛下)・三笠宮智仁殿下御夫妻方と御一緒にチターを楽しみ、休憩時間には、お話し相手も勤め、スカーレットは美智子様に頑張ってねと頭をなでていただき恐縮してしまいました。

 協会へ寄贈される資金のために、私たちがパイロットクラブ出向いたこと、スカーレットも活躍してくれました。

 3頭目はラブラドールの雄で、このヒースはずば抜けて頭が良く、いつも一言で反応し、専ら保育園・小中学校など、岡谷市から茅野市までの学校を十数回訪問、盲導犬の講演をさせていただきました。

 思えば、この盲導犬との31年は、私にとって素晴らしい人生でした。この盲導犬たちがいてくれたお陰で、趣味の詩吟の稽古にも通えましたし、昨年最後の犬をリタイアするまで意義深い人生でした。

 今、それを一層実感しています。アイメイトたち本当に有り難う。


下諏訪町 小林 礼子



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