森亜人《もり・あじん》
五
すみれは自分で荷造りをした。訓練所へ入所するときは母が荷造りをしてくれた。しかし、今回は自分で全てやった。母は必要な品を整えてくれただけで、手を出さないで、すみれのやるがままにさせておいてくれた。自分でやることにより、すみれは盲学校へ入学する決心を更に強固なものにしていったのだ。
四月初旬、すみれは母の運転する車に乗って盲学校へ出発した。既にすみれの入る部屋の戸の上に彼女の名が書き込まれてあるのを見て、すみれは嬉しく感じた。
―― これで、本当に自分は盲学校へ入学したのだ。 ――
と、意識を強め、将来は誰にも頼らないで生きていく道を必ず掴んでみせると、自分の名前だけ真新しいのがちょっぴり恥ずかしいと感じつつ、奥歯をしっかり噛んだ。
盲学校から送られてきた書類を、すみればかりでなく、家の者みなが確かめもしないで、式は午後からだと思い込み、途中で昼食を済ませてきたが、実際の式は午前中に終わってしまい、入学早々、すみれの早とちりが顔を覗かせ、部屋の皆を笑わせてしまった。
「校長の長話を聞かないで済んだんだから、木原さんは幸せだったわ」
と、先輩に言われ、
―― そんなものか。 ――
と、盲学校は案外自分の性格に合っているのかも、と感じると同時に、緊張してきた気分が先輩の言葉ですっかり緩み、元気よく荷物の整理に掛かった。
すみれは、寄宿舎の定められた部屋の押し入れに自分の荷物を納めた。知らないうちに母は帰っていったらしく、すみれが気づいたときにはどこにも母の姿はなかった。ちょっぴり寂しいものを感じたが、これでいいとも思った。
すみれにとって、盲学校の生活は、今まで経験したことのない世界だったので、大いに戸惑うことばかりだった。
日頃の習慣で、五時には目を覚ましていた。しかし、周りの人たちは寝息を立てて眠っている。布団を押し入れに仕舞いたくても、その前に人が寝ている。すみれは初めての朝を布団の中で一時間も過ごさなければならなかった。
朝食が待ちどおしかった。だが、食堂の台に並べられた食事は湯気も立っていない味噌汁や、それよりもっと冷えた飯が、プラスチックの食器にこてんと盛ってあるのを見て、すっかり食欲をなくしてしまったほどだった。訓練所の場合は、人数も少なかったこともあったが、所長さんの奥さん先生の気配りで、皆に冷えたものを食べさせるわけにはいかないと言って、皆の顔を見てから盛りつけを手伝わせて用意したので、いつも温かいものを食べられた。
とにかく、すみれの盲学校での生活が始まったのだ。一人前の職業を手に付けようと、訓練所へ出掛けていったときより、もっと強い期待感を抱いて第一日目の授業に臨んだ。
ホームルームが第一時間目の授業だった。そこで教科書が配付された。誰もいない盲学校を見学した日に、寄宿舎の棚に見た解剖学の教科書や、一般科目の国語・数学・理科・英語の教科書も配られた。
すみれは盲学校でもこんな勉強をするのかと、考えていなかっただけ、驚いたり、うんざりしたりして、配られてくる新しい教科書を一冊一冊、机の上に重ねていった。
小学校へ入学したとき、母は教科書を白くて厚い紙でくるんでくれた。あのとき、学校へ行くと、クラスの誰もそんなことをしていなかったので、すみれは恥ずかしくて、せっかく母がきちんとカヴァーをしてくれた紙を取ってしまったが、今度は自分で、あのときのお詫びに、これらの教科書を綺麗な紙で包んでやろうと考えていた。
全盲の生徒たちの机の上は、すみれの机の上に重ねられた教科書の高さの十倍はあった。解剖学の教科書だけでも数センチくらいの本が三冊もあった。
それを見ただけで、すみれは全盲の人の努力が、自分の想像していることより、はるかに大変であると思わずにはいられなかった。針の穴に糸が通らないくらいで、親を恨んだことが羞恥を呼び起こさせた。
―― 自分は家で何もしなくても済んできた。でも、これからは、もし自分を必要としてくれる人がいたなら、心よく聞いてやろう。 ――
すみれは、窓の外に広がる明るい春の空を見上げながら思った。
何もかもが新しい経験の連続のなかで、すみれは生き生きと日々を送っていた。全盲の人が柱や置いてあるものを巧みによけていく姿を見て、本当に見えないのかと疑ってみたりした。そんなこんなで、たちまち三週間が過ぎてしまった。
すみれは久しぶりに見る思いで家のたたずまいを眺めてから、家に入った。たった三週間しか経っていないのに、数ヶ月も家を留守にしていたような気分だった。
相変わらず家の中には誰もいなかった。自分が家を出ていく前と違ったところがあるか、別に確かめようというつもりもなく、どの部屋の唐紙も開けて回った。両親の寝室にあったベッドが消えていた。畳の上に厚いマットレスが敷いてあり、その上に見覚えのある布団がきちんと敷かれていた。
「やっぱしベッドは腰によくなかったんだ」
すみれは独り言を言いながら奥の部屋から出てくると、廊下に手をついて中を覗き込んでいる弟の緊張した目と合った。
「なんだぁ! 泥棒かと思った」
「なんでぇ。わたしが帰ってくることくらい知ってたらぁ」
すみれは少し膨れっ面になって言った。自分がこの家の人間の一人であることを忘れられてしまったような気分だった。
「だって、先週もその前の土日にも帰ってこなかったじゃん」
今度は弟が膨れっ面になって言った。それで二人は前の姉弟に戻り、どちらからともなく、にっこり笑い合った。
その夜、夕食が済んだあと、すみれは母の背に回り、盲学校で習ったばかりのマッサージをしてやった。
「これが拇指揉捏でさぁ」
と言って、すみれは、固くなった母の肩に親指を立てて前後に動かした。
「それから、これが把握揉捏でさぁ」
と言って、手のひらで肩の肉を挟みつけるようにして手首を回した。
母は、すみれの説明を聞きながら、ただ、うんうん、と言っていたが、内心では、訓練所へ行ったときと違い、生き生きした声で話しているすみれに満足しているようだった。
すみれは、日曜日の夕方には学校へ戻ったはずなのに、夜中には再び家に戻ってきている自分を、どうしても信じ難く、何回も頬をつついたり、つねったりしてみたが、確かに自分は家にいて、しかも、白布を顔に覆った母の枕元に座っていることを認めざるを得なかった。
周囲は線香の匂いで満ちていた。元気よく母と別れて盲学校へ戻ったすみれを待っていたのは、母の急逝の伝言だった。
寮母にすぐ家に戻るように言われたが、信じられないまま、寄宿舎にいた。一時間前に元気よく手を振り
「それじゃぁ来週の土曜日に帰っておいで」
と母に言われた言葉が耳に残っていて、死んだからすぐ帰りなさいという伝言を信じられないでいたのだ。
しかし、二度目の電話で、兄に、
「おめぇ何してるでぇ。早く帰(けえ)ってこい」
と言われ、初めてそれが事実と知って、それでも半信半疑の思いで家に戻ってきたのだった。
枕元に座り込んで、母の顔をぼんやり眺めているすみれの周囲を、人が飛び回っていた。畑から飛び帰り、すみれを駅まで送ってくれた母。まだ畑をやり残しているから発車までいないよと言って帰っていった母。その母が口も利かない人になってしまったのだ。これが信じられようか。白布を覆っている姿を見てもふと疑いを抱いてしまいそうだった。
忍び足で歩いている音が耳に入ってくるほか何の物音もしない。母の寝かされている部屋は奥まった仏間だったので、なおのこと静寂が周囲を包んでいた。
母は車を飛ばして家に戻ると野良着に着替え、畑へ出てゆき、その場で倒れてしまったのだそうだ。あまりにも呆気ない死だった。脳幹出血だったことと、母が倒れたことに家族の者が気づかないでいたことが手遅れになったらしいと聞いて、すみれは激しく心を乱した。駅へ送ってもらいさえしなければ。そう思っただけで、すみれは横たわっている母に縋りついて泣いた。誰もいないことを幸いに、思う存分に泣くことができた。
父と兄がふだんとちっとも変わらない顔つきをして立ち働いていた。すみれと、床に横たえられた母だけが、別の世界にいるようだった。夜も更けたというのに、弟の姿を一度も見ていない。きっと弟なりに悲しみに耐えているのだろう。
ほとんどまんじりともしないで母の枕元に座っていたすみれは、夜明けを告げる鶏の声に顔を上げた。障子にほの白い光が差している。夜中まで賑やかだった家の中は眠り込んでいるのか、誰もいないほど静まり返っていた。
すみれは、とぼってしまった線香に火を点け、自分も少し眠っておこうと、隣室に敷いてある布団へ潜り込んだ。母の死そのものが実感されない。これから先、頼りつづけてきた母が、声を掛けても応答してくれないことが、実感として心に訴えてこないのだ。
すみれは眠りのなかで夢を見ていた。家の中から、人の起き出してくる音がしている。それらの音と交錯するように、すみれは吸い込まれるような眠りに落ちていった。夢は現実の出来事のようにも感じるほど、鮮明な形を整えていた。
母と二人、林檎の摘花をしていた。
「今年は豊作まちがいなしだわ」
と、母が明るく言っている。白い花が群がり咲いている中から、たった一つの蕾だけを残して、あとは摘んでしまわねば、秋に見事な実を結ばないのだ。枝から枝へ。木から木へと移りながら、花を摘んでいくのだ。
いったい自分が何歳ころの出来事なのかわからなかったが、すみれと母とは並んで花を摘んでいた。やがて、すみれだけ取り残される形になり、母は先へ先へと移っていってしまった。すみれは母に追いつこうと、花を摘む手を急がせるのだが、二人の間は離れるばかりだった。
やがて、すみれの視界から母の姿が消えてしまった。それほど離れたつもりもないのに、母の姿はどこにもなかった。それにもかかわらず、うたう声だけは手を伸ばせば届く辺りでしていた。
〈林檎の花びらが風に散ったよな〉
母の楽しげな声が聞こえる。小節をころころ転がしてうたっている。それなのに姿が見えない。すみれは目をこすって辺りを見回した。種蒔きの準備をしている畑に、五月の陽光がさんさんと降り注いでいる。
立ち昇るかげろうの中に、今まで摘花をしていたはずの母が立って、手を振っていた。すみれは両手を口に当てて呼んでみた。かげろうの中の母がもやもやと動き、虹色の光に包まれ、次第に姿を薄めていく。すみれは摘花の手を止めて走り出した。
母のあとを追ってどこまでも走りつづけた。周囲が七色に輝いている。全身に虹の光がぶつかり、そこを抜けると、再び虹の渦が自分を包み込んでくれた。
すみれは夢の中から夢の中へ入っていった。
母の死を直接的に感じている自分だった。どこを捜しても母の生きた姿は見られない。それなのに、自分はそれほど悲しんでいない。冷めた感覚とは違う。母の死によって、固定した何かを肌に感じた。精神の深い部分でも同様の感覚を味わっていた。
〈林檎の花びらが風に散ったよな〉
すみれは今度こそはっきり目を覚ました。今、夢の中で母がうたっていた歌を、自分で声に出してみた。親戚の者たちが困ったような顔をしていることにも気づいていたが、すみれは明るい声でうたいながら、顔を洗うために庭先の水道のところへ下りていった。