森亜人《もり・あじん》
空襲という言葉を知っている兄ちゃんやふみちゃんでさえ、ナパーム製M69とか、エレクトロンなどという火の玉のことや、二、三メートルおきに焼夷弾の穴が地面に六角形の跡を作っていたという事実は全然わからないようだった。
利典は、薪割りをしながら以前から疑問に思っていたことをふみに聞いてみた。
「ここはほんとに日本なのか?」
ふみは利典の顔をまじまじと見つめていたが
「どうして? 利典さんっておかしなことを聞くんだ」
と言って、奇妙な顔つきをした。
利典は、ふみにそう言われても、自分が本当に可笑しなことを聞いているのかどうか半信半疑だった。
「だって、この町には焼け跡が一つもないよ」
と、利典が言うと、ふみは怪訝そうに何回も瞬きをしながら
「やけあとって? 家のやけあとのこと? それなら町へ行けば一つか二つくらいあるんじゃない。母ちゃんに聞いてこようか?」
と言って、利典が割り終えて積み上げておいたまきの束の上から飛びおりた。
利典は首を横に振って、走り出そうとしたふみを押し止どめた。
彼は、薪割りの手を休め、手頃の石に腰をおろした。ふみも戻ってきて、それまで座っていたまきの束の上に座った。根雪になりそうな雪が八ヶ岳の峰をすっぽり包んでいるのを二人はしばらく眺めていた。
利典は、ふみが溜めておいてくれた煙草の吸い殻を紙袋から出し、節くれだった指先でほぐして煙管に詰めて火をつけた。うまそうに煙を吐きながら、利典は、どうしてこの町が日本に思えないかを話してやった。
ふみは、利典の覚束無い話し方でも目を輝かせて聞き入った。東京の話を聞きたくても近所には誰もいなかった。東京に住んでいたことのある母親は忙し過ぎて話を聞く余裕がなかった。
ふみは、白い歯を見せ、上目使いに利典を見上げ、彼が話に躓くと、
「それで? それからどうしたの」
と、利典が話し易いようにしてやった。
利典は、自分の話を真剣な表情で聞いてくれているふみのあどけない顔に、やはり自分の話を最後まで聞いてくれていた京子の細い眉を重ねて見ていた。
目の前にいるのがふみではなく、京子ででもあるかのように、利典は話しつづけた。
小便に起きたとき、いきなり目の前に火柱が立って激しい音が家を揺すったこと。
それが東京の下町を総嘗めにした大空襲の始まりだったこと。
恐ろしさに川を幾つも越えて逃げたが、中には全身に火が燃え移って、地面を転げ回っていた人もいたこと。
真夜中なのに、目を近づけなくても腕時計の針も見えたし、燃え盛る紅蓮の炎の隙間から急降下してくる戦闘機も見えたこと。
火の塊と塊が川を挟んでぶつかり合い、水の上を火が走っていったこと。
膝を抱いて聞き入っているふみに利典は話してやった。
利典の心に再び京子が重く身を寄せるようになったのは、隠れん坊のふみちゃんの家に住むようになってからのことだった。それまで京子のことを思い出さなかったわけでもないが、空腹に攻められてばかりの毎日が続いていたので、しんみりと京子のことを思う余裕がなかったのだ。
利典は、ふみの家を起点に、部落内の家々を歩いた。ときには川を越えた区域にも行ったし、遠くは福島や真志野の方面まで足をのばした。
もとの色がどんなだったか、利典でさえ忘れてしまったほどのかけ鞄を肩にかけ、鉞を片手でぶらつかせたり、肩に担いだりして畦道を飄々と歩いていく利典の姿をあちらこちらで見ることができた。
背中に当たっている鞄の紐に、『薪割りの名人、北山利典』と記された布が縫いつけられていた。それが木枯らしに煽られ、利典の背中で吹き千切られそうにはためいていることもあった。
利典が再び京子のやわらかな重みを感じるようになった背景に、きょうの飯と、宿の心配がなくなったこともあるが、一番の原因は、ふみの母ちゃんだった。
ふみの母ちゃんは、夕飯を済ませたあと、よく新聞を読んでくれた。一服つけている父ちゃんや子供たちに溜まった新聞のあれこれを拾い読みしてくれるのだった。利典が京子に聞いたように、ふみちゃんたちが母ちゃんに尋ねると、母ちゃんは少し気取って、小学一年生の子にもわかるように解説してやるのだった。
利典もふみの家族の仲間に入れてもらい、炬燵に足を入れ、ふみの父ちゃんから分けてもらった巻煙草を三等分し、その一つを煙管に詰めてうまそうに吸いながら聞いていた。
ふみの母ちゃんが読んでくれる新聞の内容は、社会情勢から身近な問題にいたる広い範囲のものだった。
利典の記憶に残ったものはほとんどないが、なかで一つ戦争の話があった。
利典は戦争と聞いただけで、猛火に追われた大空襲の夜のことを思い出すのだった。
昭和二五年十一月一日付の朝日新聞に載っているクラウヴィッツの総力戦研究の中にある『征服者は常に平和愛好者である』というのを、ふみの母ちゃんは気に入ったらしく、何度も呟いていた。
「父ちゃん、征服者は常に平和愛好者である、だって。こんなの変だよね」
「おぉ」
「父ちゃん、正月用に砂糖を配給してくれるんだって。一人三百グラムだそうよ」
「ほうけぇ……」
「父ちゃん、朝鮮で戦争が始まったんだってよ……。あれ、いやだぁ!」
ふみの母ちゃんはそう言って南信日々新聞の一箇所を示した。父ちゃんは煙草をくわえたまま覗き込んで、
「ほう、またけぇ」
とだけ言った。
きっと、ふみちゃんの父ちゃんの頭に、戦争の光景が浮かんだのだろう。利典も、戦争と聞いて、あの空襲のことをいやでも思い出してしまった。
『幼児三名も性病に。不衛生な諏訪の公衆浴場』
母ちゃんはふみに
「ふみ、お町のお風呂へ行ったら洗い場にお尻を据えちゃあいけないよ。汚いからね。お前たちも同じだよ」
と、男の子たちにも言い、
「利典さんもわかるわよね」
と、利典の目を覗き込むようにして言った。
「父ちゃん、いよいよ国の役所でも赤を追放することになったみたいよ」
母ちゃんは、十一月二日付の朝日新聞を取り上げて言った。
『農林省で、約二百四十名。電通で、二百名の組識破壊分子の一斉追放』の記事を大きな声で読み上げた。
利典は、薪割りの仕事がどんなに溜っていても五時半になるとラジオの前に飛んできた。鐘が鳴って音楽が始まると利典は膝の上に両手を重ねて目を閉じて聞き入るのだ。
『連続放送劇、鐘の鳴る丘』
自分は大人になっているが、自分と同じように上野や新宿の駅界隈に屯していた浮浪児たちのことを思い出すのだ。鐘の鳴る丘の浮浪児の中でもがんちゃんが好きだった。利典は、がんちゃんが出ると、涙を浮かべて聞いていた。自分と同じように吃りだったので、利典は己を見る思いだったのだ。ふみや、ふみの弟も鼻を啜りながら、利典の横に座って聞いていた。
利典は、ふみの母ちゃんが新聞を読んでくれた夜や、鐘の鳴る丘で、がんちゃんが出た日には、独りぼっちの部屋で涙をこぼすことがあった。じっと歯を食い縛っていると、京子の顔が瞼の裏をちくちく刺してきて、一層、寂しさが募った。
建てつけの悪い家らしく、ガラス戸が激しく鳴り、利典は寂しさと心細さから隣の部屋で寝ているふみの家族の誰ということなしに、「おおい、おおい」と呼びかけたり、境の板戸を指で叩きながら、「ふうみちゃん。ふうみちゃん」と呼ぶのだった。すると、ふみの父ちゃんがまだ目を覚ましているときは
「りっすうやい、もう寝ろよ」
と、子供に言い聞かせるような口調で言い、父ちゃんがおおいびきをかいて眠ってしまったあとは、ふみの母ちゃんが小声で、
「利典さん、もう寝ないと朝が辛いよ」
と言うのだった。
利典は、ふみの母ちゃんにそう言われると、胸が苦しくなり、子供のように声を立てて泣くのだった。そういうときの利典は、三十に手も届こうという大人ではなく、童児のように、京子を思って枕を濡らすのだった。
泣いた翌朝の仕事は、利典から働く意欲を奪ってしまうらしく、父ちゃんや母ちゃんが励ましても、うんうんと頷くだけで、手のほうはさっぱりだった。
雪の夜、初めて知った京子との交わり。利典は雪のように白い京子の肌に触れている錯覚に、つい恍惚感に時を忘れてしまうのだった。
「りっすうやい、もう働くのはおいやになったかい? お内へ帰りたくなったかな」
ふみの父ちゃんにそう言われると、利典は何の考えもなく、
「うん」
と首を上下させた。
利典は、ふみの父ちゃんの言った『お内』というのを京子のいるところ、と受け取った。すると、ふみの父ちゃんが、「待ってろよ」と言って、財布の中から百円を数枚と、五百円札を一枚抜き取り、利典の胸のポケットに入れてくれた。そうして、「またこいな」と、肩を叩いてくれた。
利典は、金をもらったことと、またこいな、と言われたこととで考えもなく鞄を肩にかけて、鉞をぶらさげて、ふみの家をあとにした。
出ていったところで当てなどあるはずもないのだが、ふみの父ちゃんに、
「またこいな。いつ来てもいいように薪を用意して待ってるでな」
と言われれば、何が何でも出ていかなければいけないように思った。
利典は、
『薪割りの名人 北山利典』
という布切れを風に靡かせながら城跡を抜けて百人も入れるという大浴場に行った。腰のあたりまでくる深さで、底にはつるつるする石が敷きつめてあった。
天井からは水滴があちこちに落ちていた。片倉の全盛期に建てられたというだけあって、建物は堅固でありながら、どこか西洋を思わせる風情があった。ふみの父ちゃんに連れてこられたとき、思わず泳いでしまったほど、なみなみと湛えられたお湯は、利典の体の芯まで暖めてくれた。以来、利典は一人でもこの風呂へよくきていた。
利典は二時間くらい風呂にいた。行く当てのない身には、急いで出ていく必要もなく、ずるずると湯につかったり、広い洗い場の隅で、何回も同じところを洗ったりしていた。入っているあいだには見知った部落の者が何人かやってきて、優しく声をかけてくれた。そんなときには、『やっぱりふみちゃんの家に帰ろうか』と迷うのだった。
風呂から出た利典は、夕暮れの迫ってくる町をまだ迷いながら歩いていた。体は芯までほかほかしているのに、心は寂しさでいっぱいだった。角を曲がっていくと、前方に広い通りが見えてきた。欅の大樹が枝を伸ばしている通りで、この町では古い並木道だった。
その通りへ出る一つ手前に小さな四つ辻があって、利典が町の風呂屋へ来たときには必ず立ち寄ることにしている小さな蕎麦屋があるのだ。利典は腹が減っているわけでもないが、『川内屋』と太い文字で書かれた暖簾を分けて入っていった。
店には客が二人ほどいたが、話に夢中らしく、利典の入ってきたことにも気づかない様子だった。主人は見知っている利典の顔を見て、愛想のいい笑顔を向けた。腰かけると、やたらにぎいぎい音がする椅子に利典は座り、「いつもの」と小声で言った。
利典の蕎麦の食べ方は、薪割りと同じくらい見事なものだった。腰のよく利いた蕎麦を無造作に割り箸で挟むと、ほんの少しだけ汁につけて一息に啜り込んでいくのだ。店の亭主は、初めて利典が来たときなど、その食べ方の見事さにすっかり魅了されてしまい
「よしきた! お客さん、きょうはロハにしておきましょう。こんなにうまそうに食べてくれるお客さんは久しぶりです」
と言って、利典の食べた十枚の笊の値段を、ふみちゃんの父ちゃんが食べた四枚の笊の値段と同じにしてくれたのだった。
きょうの利典には帰る当てがなかった。もらった金をみんな使ってしまってもいいが、宿賃のなくなってしまうことを気にして結局、きょうも笊を十枚にしておいた。
利典は金を払うと、木枯らしの吹く並木通りへ出ていった。白い線の入った青い色のバスが城跡のほうへ走っていった。
利典は、十字路に立って、バスの走り去っていった右へ行こうか、それとも左へ行こうか迷っていたが、ちょうど踏み切りを汽車が黒い煙を吐いて走っていくのを見ると、迷いを振り切るように、汽車のあとを追って左に曲がった。