あなたの一言が
あなたの一言が気分を良くしたり不愉快にもします。先日私は、長野県視覚障害者福祉協会の支部長会議で松本市へ出かけました。いつもお願いしている近所の方に駅まで案内してもらったときのことです。電車の乗降口ですれ違ったとき下車したその客は数年前まで私の患者さんであることが後でわかりました。しかもわたくしであることを知っていたと言います。電車の停車時間が限られているとは言え、声をかける時間はあったと思うのですが…。
数年前にも同じ駅で電車を待っていたとき、すぐ近くで聞き慣れた女性の声が聞こえます。電車がホームへ入って来たので私は、同伴者と一緒に乗り座席に座りました。先程の方も車中の客となって、通路を隔てた私と目と鼻の先の座席にすわりました。いつ私に声をかけるだろうかと興味を持って見守っていましたが、とうとう私が下車するまで期待した挨拶はありませんでした。私が下車するとき、その方に声をかけたところばつの悪そうな声で挨拶をしました。私も少し意地悪ですね。気付かぬふりして下車すればいいものを…。
上記の2例はほんの一齣に過ぎません。他の席上でも同様な場面にたまたま出くわすことがあります。悪意で避けているとは思えませんが、そこでなぜ勇気を出して、一言声がかけられないのでしょうか?
晴眼者は声が届かないところであっても、黙礼で挨拶を交わすことが出来ますが視覚障害者は隣に居ても、そちらから声をかけられない限り挨拶をしたくても出来ないのです。こちらが視えないからと無視されてしまえばそれまでですが、あなたの一言が気分を良くもしたり不愉快にもなります。
私は、あるボランティアサークルの皆さんと20年以上のお付き合いをしていて、いろいろな話をしますが、他のボランティアグループからも、視覚障害者のエスコートの仕方を指導してと頼まれたり、同町の小学校からも話をしてもらいたいと依頼があります。
中でも得に強調して話すことは、道などで視覚障害者と行き会ったとき、必ず一言声をかけて下さいとお願いしています。そうすることで、皆さんと視覚障害者が心のベルトで結ばれるからですと。
ヘレン・ケラー女史の有名な言葉に、「あなたのランプの灯をいま少し高く掲げて下さい。目の不自由な人々のために。」
私は、この言葉を最後に話しを終わることにしています。これを読まれておられる皆さんは、きっと視覚障害者に一言声をかけて下さるものと信じています。