さりげなく声を
あるMLで、視覚障害者が道で困ったときなど、みんなにエスコートを求めるサインとして、杖を少し上げて輪を描く運動を沼津市で繰り広げていることが話題になっています。
もう、20数年も前になりますが、タクシーを呼ぶのに、掌にタクシーと書いたカードを車道に向けて掲げる運動がありました。
丁度そのころだったと思いますが、広島市で胸のあたりで黄色いハンカチを広げてエスコートを求める運動も実施されましたが、最終的には全国に広まることなく、いつとはなく消滅してしまいました。
当時私が、当地の某高校へ週に2回授業で1年間行っていたとき、(生徒は少数でした)が、このハンカチやカードの件について質問をしてみたところ、生徒たちは異口同音に
「先生、それはちょっとねエ」
という答えが返ってきました。思うにおそらく生徒たちは、手を貸すのに躊躇してしまうと言いたかったのではと推察しました。
決して、杖で輪を描くサイン運動を否定するものではありませんが、視覚障害者とてプライドがあります。色々なサインの仕方があってもいいとは思いますが、どうみても杖で輪を描くことはスマートとは言えず、この方法が実用的とは考えにくく、私は杖を描く運動が定着するとも思えません。そのような運動を進める前に、視覚障害者を道で見かけたときは、さりげなく声をかけられる心を育てていくことこそ大事ではないかと私は思いますが、皆さんはどう思われますか?
ある小学校で、男子用トイレを撤去してしまったという報道がありました。学校の言い分では、男子生徒が大便に入るといじめられるという理由から、女性と同様個室にしていじめをなくすということですが、果たしてそうでしょうか!!これでいじめが解消されるとも思えません。男子が大便に入ってもいじめてはいけないということを教えることが大事であり、それが教育ではないだろうか。
店頭に並んでいる食品を手で触っている子供を注意するのに、親御さんがおばちゃんに叱られるから触ってはいけないとか、泣く子供をなだめるのに、通りかかった盲導犬を指して泣くとわんわんに噛まれるよと言ったりします。
これとて、男子生徒用のトイレの撤去とそれほど違いはないように思います。何が正しくて何がいけないことかと言う善悪を教えなければいけないのにどうして他人に責任を押しつけるような教え方しか出来ないのでしょうか。これでは、人に咎められなければ何をしてもかまわないということを教えているようなものです。生意気のようですが、戦後の日本は、根本的な教えを忘れてはいないでしょうか。
3Cという流行語が出来たほど、戦後我が国は経済的には急激な発展を遂げました。物的には満たされてたしかに、ハード面ではそうかも知れませんが、反面ソフト面では失ったものも多いように思います。
強盗や殺人・自殺・通り魔事件などがなんと多いことか、枚挙にいとまがなく、命の尊さ・大切さ、自分を愛し、人を愛する心が失われてきたように思います。
イギリスではデパートやレストランに入るとき、後ろから他人が来ると分かれば、その方が近づくまでドアを開けて待っていると、何かで聞いたことがあります。今すぐにでもイギリス人のように他人を思いやる心を持てとまでは言わないまでも、道で高齢者や身体障害者を見かけたとき、優しく声をかけ、手を差し伸べられる人々が育って欲しいと思います。
とかく福祉と言えば、金品に走りがちですが、他人を思いやり同時に、優しく愛することの出来る心の福祉があってもいいのではと思うのですが!?。