惑乱 第2回


森亜人《もり・あじん》



 靴や下駄が散乱していた。

 リュックや風呂敷包みの口は開き、なかみが飛び出していた。それらのものと一緒に、幼稚園の子や小学校の生徒たちが倒れていた。

 頭から血を出している者、動かない子供を抱きかかえて叫んでいる母親。子供や女を引き摺って逃げようと必死になっている男たち。騒ぎを鎮めようとしている動物園の係りの人たち。

 孝平は、寺の薄暗い壁にかかっている地獄絵図を思い出した。

 美しい花園から手招いている如菩薩の元へ、我さきに駆けつけようとしている餓鬼ども。いざ菩薩の前に着いてみると、それは恐ろしい如夜叉で、慌てて周囲の者を踏み倒して逃げていく阿鼻地獄だった。

 孝平は、逃げ惑う人の群を一夫と一緒に見ていた。

 酒に酔った人が虎に酒瓶など投げなければ、こんな騒ぎにならなかったろうし、たまたま虎が咆えたとしても、男が何もしていなければ、これほどの驚きを示すこともなかったであろうに、と、孝平は、そう思いながら阿鼻叫喚の様を眺めていた。

 混乱の渦に向かって四方八方から人が駆けてくる。大人たちは逃げ惑う子供たちを鎮めようと声を嗄らして叫んでいる。

 洋子が少し離れた地面に左の頬を地につけ、こちらを向いた姿勢で倒れていた。孝平は、それを見るなり、下級生や、立ち上がろうともしないで泣き叫んでいる上級生の女の子の間を縫うように夢中で駆けていった。

 洋子は血を流していた。土足で踏みつけられたブラウスと対照的に、折り曲げた膝の白さが孝平の胸を締めつけた。

「ねぇ、洋子さん……」

 孝平は、彼女の傍に座り込んで名を呼んだ。夏の陽光が彼女の細い腕を焼き尽くすように照りつけていた。

 孝平は、彼女の上に覆いかぶさるようにして直射から彼女を守ってやった。血の匂いを嗅ぎつけた蟻が、洋子の腕や頬に這い上がってくるのを孝平は、払い落した。

 洋子をこんな目に合わせた酔っぱらいが憎かった。

 孝平は、虎の頭に酒瓶を投げつけた男の姿を目で追った。男は酒など飲んでいなかったように、確かな歩度で人の波にたちまち隠れようとしていた。

 孝平は、洋子が意識を失っていなかったら、男のあとを追っていって、彼が虎に示したとおりのことをしてやるのにと、人影の彼方を睨んでいた。

 孝平が厳しい顔つきで遠方に目を据えている間に、一夫が来ていた。一夫は、

「こうちゃん、洋子さんどうしたの?」

 と言った。

 孝平は、洋子がなぜ倒れているか彼女の胸や腹にべっとり付着している泥を見ればわかりそうなものだと思ったので、一夫の問いに返事をしなかった。

 城を囲む木々に、蝉時雨が激しく降っていた。孝平の耳の中にも得体の知れない音が満ちていた。洋子の高い声。虎の咆哮と、鉄格子に体をぶつけてきた激しい音。逃げ惑う子供たちの悲鳴が重なり合ってどよめいていた。その喧躁を無視でもしたように、虎の足の裏のピンク色が、鮮やかな形として孝平の脳裏に像をむすんだ。

 身動き一つしない洋子を前にして、孝平は、後悔していた。

 オウムのことなど彼女に聞かなければよかった。

 口も利かなければよかった。大人の人に笑われてもオウムの籠の前から逃げ出さなければよかった。

 そう考えると、孝平は、悔しさのため涙がこぼれそうだった。しかし、一夫には涙を見られたくない。一夫が泣くんなら自分も泣いてもいいと、焼けた砂を握り締めながら思っていた。

 傷ついている洋子を直射日光から守っていた孝平は、固く目を閉じたままの彼女の横顔を見ているうちに、恐怖を伴った疑問に思わず自分の胸を押さえた。小さいが、鉛のような塊が、胸の中に投げ込まれた感覚だった。

 孝平は、洋子の胸に抱かれたノートの文字を見つめていた。知っている文字なのに彼にはそれが何と書いてあるのか理解できなかった。何か恐ろしい呪詛のように感じた。それも、自分に向けて呪っているように思えた。

〈オウムは、えいごでもちゃんとおタケさんとしゃべります。孝ちゃんの言ったマネミズクイがそれです。でも、ほんとうはマイネミーズクインです〉

〈クジャクさんのおしりのはねは、ママのもっているまいおおぎとおんなじです。〉

 孝平は、洋子のノートに書かれている文字をそう読んだ。だが、文字の上を通り過ぎただけで、意味を理解する力を失っていた。洋子の上に自分の予想もつかぬことが起ころうとしているのではないかと、そればかりを考えていた。

 孝平は、自分が窮地に立たされようとしているのに、でくの棒のようにただ立っている一夫が憎らしく思えてきた。少しは洋子のことを心配して、彼女の身体に這い上がってくる蟻たちを潰してくれればいいのに、と思っていた。

―― カメレオンの舌のことでは自分のほうが正しかった。それなのに、一夫は怒って虎の檻のほうに歩き出したから、洋子さんも仕方なくついてきたのだ。もし、このまま洋子さんが死んだら一夫の責任だ。 ――

 と、孝平は、怒気を含んだ目で、横に立ったまま何もしないでいる一夫を睨んだ。

 孝平は、洋子の頬に上がってきた赤い蟻も彼女を殺しにきたように感じ、一夫が潰さないんなら自分が殺してやろうと力いっぱい潰してやった。べとついた液が指に付着した。

 孝平は、洋子の命が溶けて蟻の体に入ってきたように思い、洋子のためにそっとしておくべきか、それとも拭ったほうがいいのか決めかねていた。蟻の体液は直射日光にたちまち吸い取られてしまった。

 孝平は、先生の言葉を思い出した。

『蟻は益虫だからむやみに殺してはいけない』

 孝平は、不安になった。蟻は洋子を殺しにきたのだろうか? 孝平は、自分の心に浮かんだ不安を打ち消すような考えを捜した。

 象の鼻の孔から入った蟻たちはもう脳味噌の中に巣を作っただろうか。今、自分の潰した蟻が象の鼻から出てきたものなら、洋子の鼻の孔に入るに違いない。

 孝平は、洋子の頬に上がってくる蟻の群れを潰すのをやめた。蟻が益虫なら、洋子の体の中に入り込むことはないだろう。

 血の跡は蟻にとって道のようだった。細く続く赤道を蟻たちは登ってくる。一本は額から。一本は唇の端から地面まで伸びていた。今、大きな顎を持った赤い蟻が睫毛の陰に潜ろうと手足で溝を掻いていた。

 蟻は、洋子の顔の上を自由に歩き回っていたが、やがて、彼女の睫毛を掻き分け、抵抗もなく瞼の裏に入っていったようだった。

 彼女の瞼の裏に潜り込んだ蟻は一匹の筈だった。それなのに、彼女の目から赤い生き物が、流れとなって地面に下っていく。孝平は、象のところで思ったことが、洋子のところで現実となったことを知った。

 蟻は洋子の脳味噌を食い、巣を作ったのだ。だから、彼女の目からも鼻からも赤い蟻が川のように出てくるのだ。

 孝平は、糸のように流れ下る生き物に指を差し込み、潰してやろうとそのうちの一匹を摘まみ上げた。それは、孝平の指先に抵抗もなく、液体となって赤く付着した。

 孝平は、絶望的な思いに目を閉じた。頭の中で何かがウオンウオン言っている。やがて、耳の奥で惑乱していたさまざまな音の中から、一夫の声が聞こえてきた。

 孝平は、現実に引き戻され、怒りの目を上げた。

「こうちゃん、周子先生が来るよぉ」

 一夫は、虚をつかれたように顔を歪め、動物園の係りの人と一緒に駆けてくる洋子の担任の周子先生を指さしながら言った。しかし孝平は、一夫が全く違うことを言おうとしていたのではないかと直観した。

 もし、そのことを言ったら孝平の怒りを煽り立て、自分に損失を招くと感知したように見て取った。だからこそ孝平の怒気を含んだ顔を見て、一夫は咄嗟に目に入った周子先生のことを口にしたのに相違ない。

「先生………」

 孝平は、先生の顔を見上げた途端、一夫への疑惑もかなぐり捨ててしまった。今まで張り詰めていた心の結び目がほつれ、急に悲しみが込み上げてきた。

 先生は地面に倒れている洋子の姿を見ると、孝平の目にもわかるほどの狼狽ぶりで、彼女の体を抱き上げた。先生は洋子の名を呼び続けていた。その真剣な顔つきに、孝平は、自分が地面にべったりと座り込んでいることも忘れてしまった。

 怒ったような顔をした動物園の係員が先生のあとからやってきて、洋子の体を奪うように軽々と担架に乗せてしまった。孝平は、慌てて洋子の手に触れてみた。彼女の手は氷のようだった。

 孝平は、弾かれたように洋子の体の跡がくっきり付いている地面に両手をついた。だが、地面は孝平の怯えを助長するような冷たさと、決して誰をも受け入れてくれそうもない色をしていた。

 孝平は、地面に押印された洋子の体の跡を撫でてやった。冷えた部分を温めてやることによって、洋子が元気になるように思えた。

「こうちゃん、洋子さんも先生も向こうへ行っちゃうよ」

 一夫がしゃくり上げながら言った。

 孝平は、声も立てずに泣く男は嫌いだった。まして、今はもっと嫌いだった。孝平は、

「勝手に行けよ」

 と、吐き捨てた。

 すると、一夫は、パチンコのゴムで弾き出された石ツブテさながら、洋子を乗せた担架を追って走り出した。

 孝平は、洋子の心臓が触れていたあたりの地面に耳を押しつけてみた。聞こえる筈のない彼女の鼓動が聞こえてくるように思え、なかなか耳を離すことができなかった。

 地面に頬をつけていると、一夫や周子先生の足だけが見えていた。それも雑踏の中にのまれてしまうと、急に不安になった。

 孝平は、彼等のあとを追って走り出した。

 仮の医務室は、病院へ運ばれる怪我人でたちまち一杯になってしまった。熱気のむんむんする中で、意識のある者は家族の名を呼んだり、痛さに体を捻ったりしていた。怪我人の中には口も利けない人も幾人かいた。洋子はその一人だった。

 洋子を乗せてきた担架は、それまでになん人もの怪我人を乗せて運んだため、血や汗や泥ですっかり汚れていた。

 孝平のすぐ横に老婆が座っていた。薄暗いテントの中で見ると、呪文を唱える人のように思えた。孝平は、老婆が何を見ているのか目で追ってみた。

 テントの中でも一番暗いところに、目をかっと開いたまま身動きひとつしない子供が寝かされていた。

 その子の顔は泥だらけで、男の子か女の子かわからなかった。その子が目を開いていることもほんとは見えなかった。老婆の落ち窪んだ暗い目の陰と同じような陰 が、その子の顔の一部分にあったので、そう思ったのだ。

 孝平は、洋子の顔を覗き込んでみた。妹の持っている人形のように、長い睫毛が瞳を隠していた。もう赤い蟻は出てこないらしく、血の流れた二本の筋だけが、事件の痛ましさを残していた。

 孝平は、洋子が老婆や奥に寝かされている子供のような目をしていなくてよかったと思った。しかし、人形なら起こしてやれば目を開いてくれる。洋子も起こしてやれば目を開いてくれるのだろうか。孝平は、ほんとにそうなるか試してみたかった。

 そのとき、真っ白い服を着た男の人や女の人がテントの中へ飛び込んできた。大学病院の人たちだった。孝平は、洋子のところへ屈んで瞼をめくって覗き込んでいる若い医者の顔を見つめていた。彼の顔の筋肉が少しでも歪んだら、洋子は死んだのだと決めていた。

「腕が折れていますね。気を失ったのはショックのためでしょう」

 医者は周子先生の問いに答えてそう言うと、看護婦の一人に目配せをして、小声で何か言ってから、次の怪我人のほうへ行ってしまった。

 医者に何か言われた看護婦は急いで外へ出ていった。孝平は、がっかりした。医者は洋子の瞼をちょっとめくり、体のところどころに触れてみただけだった。しっかりした洋子が死んだようになっているんだから、ひどい怪我をしているに違いないと孝平は、思っていた。

「かずちゃん、洋子さんは本当に大丈夫かなあ」

 孝平は、不安をそのまま一夫にぶつけた。

「お医者さんが大丈夫って言ってたから大丈夫だよ。それに洋子さんは目をちゃんと開いているもん」

 一夫は横を向いたまま不機嫌そうに応えた。

 孝平は、洋子の顔を覗き込んでみた。黒い瞳が自分を見上げている。瞬き一つしないで自分を見つめている。

「こうちゃん」

 洋子の唇はそう言っていた。孝平は、洋子の口許に耳を寄せた。聞き取れないほどの声で、

「これ」

 と言って、洋子は胸に抱いていたノートを孝平に渡した。

 若い医者に何か言われて外に飛び出していった看護婦が戻ってきた。彼女は洋子の傍に座ると、

「おめめは閉じていましょうね。お口もよ」

 と言って、洋子の瞼をそっと撫でてやった。

 洋子は何も言わずに小さく頷くと、再び目を閉じてしまった。

 洋子がせっかく目を開いてくれたのに、看護婦は彼女の瞼を閉じてしまった。孝平は、非常に不満だった。でも洋子は口を利いた。ノートも俺にくれた。看護婦が邪魔をしなければもっと話もできた筈だ。

 長い時間が過ぎたようでいて、ほんの数秒しか経っていないようでもあった。洋子の傍にいた看護婦が、

「おやおや、この子もおめめを明けているわ。ちゃんとつぶっていなくっちゃね」

 と言って、奥に寝かされている子供のところへ手を伸ばした。孝平も釣られるように背を伸ばして奥を覗き込んだ。

 孝平の横に座っている老婆の目と同じ目をしている子供だった。老婆のそれは緩慢ながら動きがある。だが、奥に寝ている子供の目には全く動きがなかった。さっきはテントの中に入ったばかりでよく見えなかった。今は見える。大きく見開いた目。孝平は、打ちのめされるほどの感動を受けた。

「おめめは閉じていましょうね」

 と、洋子に言った看護婦の言葉だった。自分を見上げていた洋子の瞳と、奥の子のそれと同じではないだろうか。孝平は、極度の不安に襲われ、無意識で足元に生えている草をむしった。

 彼はむしり取った草を膝の上に乗せ、一本ずつ丹念にしごいた。むしった草の中に一本だけ白い花を持っているのがあった。米粒ほどの小さな花が三つ付いていた。孝平は、無意識にその草も指でしごこうとして思わず花のところで手を止めた。

 孝平は、日に焼けた膝小僧の色と花の白さとを何回も見比べていた。

 テントの外で大きな声がして、動物園の係の人たちが慌ただしく入ってきた。彼らは、さっきの看護婦の指示に従ってまっさきに洋子の担架を持ち上げた。孝平は、手に持っていた白い花を洋子の頬の横に置いてやった。それまで一言も口を利かないでいた老婆が、

「そんなことをしちゃいけねぇ。縁起でもねぇに」

 と、初めて口を利いた。

 孝平は、老婆の厳格な声に驚き、反射的に担架に飛びついた。担架は孝平の重みにかなり傾いた。後棒を担いでいた男が、いきなり孝平を張り倒した。孝平の体が一夫にぶつかり、ひと弾みして周子先生の足元に飛んだ。

 一夫が薄ら笑っていた。孝平は、一夫がどうして笑ったのか不思議だった。いつも自分に負けてばかりいるので、仕返しができたと思ったのだろうか。眇で乱杭歯の一夫をからかうことはあっても嘲笑するようなことは一度もなかった筈だ。その自分にたいし薄ら笑ったことが許せなかった。

 孝平は、一夫の前に立ちはだかった。孝平の威圧に圧倒され、一夫は、顔を歪めた。そのいじけたような笑いに唾を吐きかけてやりたかった。だが、クラスの連中から軽視されている一夫にそこまではできなかった。

 洋子の様子がはっきりしたとき、それもどんな形であれ、必ず一発だけ一夫を殴ってやろうと決め、黙ってテントを出ていった。

 外は烈火の太陽が燃えていた。人影の間から洋子の担架が運ばれていくのが見える。孝平は、どこまでも洋子のあとをついていきたかった。そうしないと彼女に許して貰えないような気がした。そのうえ、テントの中で老婆に言われた言葉が気がかりだった。

 園内は再び平静さを取り戻し、動物の平和な鳴き声や人の呼び合う声で溢れていた。孝平は、騒ぎを起こした虎の檻を見ようと背伸びをしてみた。だが、大人の体が邪魔になり、それらしい屋根を見つけ出すことはできそうもなかった。

 孝平は、自分の両眼がテントの中の老婆と同じように空洞になっていく気配に、想像の意識を預けてみた。心の中に渦を巻いている得体の知れない恐怖も、空洞のような目で見つめれば、それほど恐怖を感じないで済みそうだった。

 孝平は、空を見上げてみた。視界の一郭に細い雲が浮かんでいる。地面に倒れていた洋子の姿勢によく似ている雲だった。あれほど心に痛みを覚えた洋子にたいし、今は傍観者でいられた。

 雲は孝平の頭の上を通り過ぎるとき、エビのように曲げていた腰を伸ばし、勢いよく逆立ちをしてみせた。体操の時間に、洋子が得意にしている倒立だった。拍手をしてやれば、つんとすましてくるりと一回転するほどきれいに浮かんでいた。

 そんな雲の流れを見ても孝平は、無感覚でいられた。動物園全体のざわめきが、自分とは無関係の存在だった。

「こうちゃん、あの雲、洋子さんみたいだね」

 いつの間に来たのか一夫が上目づかいで言った。

 孝平は、忌ま忌ましい目で一夫を見おろした。

―― 畜生! 一夫が来なければ普通でいられるのに ――

 孝平は、空洞になったばかりの両眼に、感情の波が湧いてきたことで、再び心を痛めなければならないかと思うと、一層、一夫が憎らしかった。

―― さっきは人のことを笑ったくせに。あの雲は俺が見つけたんだ ――

 孝平は、一夫までも自分と同じように、雲を洋子と思っていることが許せなかった。

「似ちゃいないわい。あれは蛇にそっくりだぞ」

 と、孝平は、一夫を睨んでそう吐き出した。一夫は不安そうに瞬いていたが、

「ほんとだね。お宮の木の穴に隠れていたやつとおんなじだね」

 と言って、顔を歪めた。

―― ふん。あの蛇だって、俺が最初に見つけたものだ。一夫だけにこっそり見せてやったものじゃないか。 ――

 孝平は、拳を固めると、それを腰のところで構えた。べつに一夫を殴るつもりではない。そうしていないと自分の意思とは無関係に、拳が勝手に一夫の顔に飛びそうだった。だが、一夫は孝平の態度に恐れをなし、彼には珍しいほどの素早さで飛び退いた。

 孝平は、落ち着きのない目を自分に注いでいる一夫の顔を見ているうちに、本当に殴りたくなってきた。





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