惑乱 第3回


森亜人《もり・あじん》



 楽しみにしていた動物園の見学も、思わぬ出来事のためにすっかり暗いものになってしまった。

 孝平は、一夫と並んで学校へ戻る列の中にいた。テントの中で洋子から渡されたノートは、リュックの中だった。一夫はそのことを知っていたが口に出さなかった。ただ羨ましそうな目を向けただけだった。

 さっきは殴らずに済ませたが、洋子のノートのことをひと言でも口にしたら、今度こそ本当に一夫を殴ってやるつもりでいた。

 道々、孝平は、洋子のことばかりを考えていた。一夫の顔を見ると無性に腹が立ってくる。一夫も何を考えているのか口を利こうともしない。孝平は、黙っているほうがいいと思いながら、一夫が口を利いてくれないことに一抹の寂しさも感じていた。

 振り返ると、城の天守閣が輝いていた。さっきの雲が背を伸ばした姿で、孝平たちと同じ速度で進んでいた。孝平は、洋子が自分を恨んであとをつけているように思え、雲から目を離したいのに、数秒と離していられないでいた。

 雲の色は、後足で立った虎の胸に似て、純白の衣を見るようだった。洋子が裾を翻して、天から舞い降り、自分の罪を咎めるのではないかと疑いたくなるほどだった。

 怪我人を出さなかったクラスの生徒たちも浮かない顔で炎天下を歩いていった。受け持ちの先生も、周子先生も病院へ行ってしまった。

「かずちゃん、洋子さんは本当に大丈夫かなあ」

 孝平は、黙って歩いていることに耐えられなくなってテントの中で言ったことをもう一度一夫に言ってみた。しかし、一夫は何か言おうとしたが、唇を少し歪めただけだった。彼は列を離れ、道の端に落ちている空缶を拾ってきて、それを蹴り蹴り歩いていった。

 孝平は、一夫の誘いを拒否した。いつもは孝平のほうから缶蹴りに誘っていた。今は病院に運ばれていった洋子のことが気がかりだった。缶を遠くまで蹴ったり、電柱に命中させたりすることは、孝平の得意芸だった。

 一夫は、ひと蹴りしては孝平の様子を窺っていた。舗装されていない道路は、缶が転がるたびに小さな埃を舞い上げた。それも皆の巻き上げる土埃の中に吸収されてしまい、どの渦が缶のものか判別できなくなってしまうのだった。

 楕円形の缶は、一夫の思う方向に飛ばないらしく、何回蹴っても一夫を満足させないようだった。孝平は、一夫から缶を取り上げ、道の端に立っている道祖神の土台石に命中させてやろうかと思ったが、そんなことをしたらみすみす一夫の挑発に乗ることになるので、それだけは自分の心が許さなかった。

 何度目かに一夫が缶を蹴ったときだった。前方から走ってきたトラックの前輪に缶は潰されてしまった。孝平は、スルメのようになった缶を見て一夫の意思を潰したように思え、小気味よさを覚えた。

 轍の中の残骸をじっと見ていると、身内を走り抜けるような爽快さと、形あるものを破壊する痛快さが孝平の心を楽しませた。だが、それはつかの間の痛快だった。たちまち洋子の蒼白な顔が孝平の心を打ちのめした。と同時に、怒りが暴発して、

「やい、この缶を元どおりにしろ」

と、一夫の顔に憤怒をぶつけた。

 一夫は、気圧されたように反射的に身を震わせると、黙って潰れた缶を拾い上げた。

「明日までに元どおりにしろ。でないと洋子さんは死んじまうぞ」

 孝平は、洋子が倒れているのを発見したときから喉まで出ては飲み込んでいた言葉を口にした。一夫は怯えたように頬を痙攣させたかと思うと、手に持っていた缶を投げ出し、いきなり孝平に組みついてきた。

 孝平は、一瞬たじろいだが、自分の体の奥に滾る一夫への憤怒を一度に吐き出す勢いでたちまち一夫を地面に殴り倒してしまった。それでも一夫は倒れたまま孝平の足に武者ぶりついてきた。

 孝平は、トラックが缶を踏み潰したように一夫の頭を何回も踏みつけてやった。いつもは、一夫に対しこんな気持になったことはないのに、きょうの孝平は、一夫に言い知れぬ敵意を感じていた。

 一夫は、いつもと違っていた。何かにつけて孝平より劣り、無理な注文をされても黙って従ってきた。ところが、今は猛然と孝平に挑んできている。孝平は、抵抗する一夫に対し、心おきなくリュックの上から一夫の背に蹴りを打ち込んでやった。

 皆が口々に喧嘩を止めているところへ教頭先生が駆けつけてきた。孝平の足に武者ぶりついている一夫を引き離そうとしたが、一夫は頑強に抵抗して離れようとしなかった。

 孝平は、自分の足首が濡れていることで、一夫が泣いていることを知った。蹴りを入れる度に、一夫は奇妙な声を発しながら痛みに耐えているようだった。

―― 一夫は俺に殴られて泣いているのじゃない。さっきも洋子さんの倒れている横で、女のように声も出さずに泣いていた。 ――

 孝平は、めそめそ泣く一夫の頭をもう一度だけ思い切り踏みつけたかった。だが、必死になって自分の足に縋りついている彼の背中を見ていると、感情に任せて踏みつけたことが、弱い者をいじめているようで気分が重くなった。

 頭の薄くなった教頭先生と、クラスの二人の男の子が加勢して、やっと一夫を引き離すことができた。

 孝平の足首は、一夫の涙と鼻汁で光っていた。それは、洋子の頬に這い上がってきた蟻を潰したとき、指先に付着した蟻の体液の色に似ていた。蟻のそれは、洋子の命の一部分のように思ったが、一夫のそれは、洋子を辱めるもののように感じた。

―― 畜生! 誰もいなけりゃあの蟻のように一夫なんか潰してやるのに。 ――

 孝平は、今、弱い者をいじめたことで後悔したのに、またしても憎しみが体をむずむずさせ始めた。孝平は、手を出さないように後ろに手を隠し、涙と鼻汁と土埃に汚れた一夫の顔をねめつけてやった。一夫は孝平の凝視に砕かれ、いつもの追従者に戻っていた。

 孝平は、教頭先生にどうして喧嘩をしたか聞かれても黙っていようと腹の中で決めていた。一夫がどうして武者ぶりついてきたか孝平にはわかっていた。一夫が言うのは仕方ないが、自分の口からは言いたくなかった。


 孝平と一夫は、皆が帰っていったあとも学校の正門の横に立たされていた。

 静まり返った校内が暗い洞窟のように不気味に思え、孝平は、背後の校舎を振り返ってばかりいた。

 教頭先生が二人を詰問しているのだが、二人は申し合わせでもしたように口を固く閉ざしていた。頭上の桜の葉の木陰でカナカナ蝉が喧しく鳴いていた。その声の中に、教頭先生の声が優しくなったり、厳しくなったりしていた。

 孝平は、背後から忍び寄る冷たい恐怖から逃れようと、洋子のことや、隣に立っている一夫の、昨日までは見られなかった変化のことを考えていた。

 カメレオンの檻の前のときもそうだった。虎の檻の前でも縮み上がっていたが、決して泣きはしなかった。そうして、テントの中でのあの薄ら笑い。

 孝平は、一点に思いを集中してみた。

―― 一夫は、自分ではできないことを、担架を担っていた人が代わりにやってくれたと思ったのだ。白い花を置いてやることは縁起が悪いということを知っていたのだ。いや違う。あれは笑ったんじゃない。ベソをかいていたんだ。出っ歯のハチャ目だから笑ったように見えたんだ。俺のことを笑うはずがない。 ――

 孝平は、そう考えつくと、一夫を少し許してやってもいいと思えるようになった。

 教頭先生は、孝平の思わぬ抵抗に諦めたらしく、今度は、一夫に集中攻撃を始めた。ところが、たやすくしゃべってしまうと思っていた一夫も頑強に口を閉じていた。

 教頭先生に頭をこづかれようが、肩を揺さぶられようが、貝のように固く唇を噛み締めていた。そんな孝平たちに負けた教頭先生は、最後の手段に訴えてきた。

「そうか。お前たちは夕飯もいらないんだな。家にも帰りたくないんだな。今晩は学校の裏の道具小屋に寝てもらうことにしよう」

 と言うと、孝平と一夫の襟首を掴んで引き摺っていった。

 孝平は、小屋と聞いて内心ぎくりとした。なぜなら、夏になると、学校の裏の林にオバケが出ると聞いていたからだった。兄も見たと言ったし、上級生もつい最近の夜に見たと言っていた。

 孝平は、教頭先生に引きずられながら考えた。

―― 謝ろうか。それとも教頭先生の足に噛みついて、先生が放した隙に逃げようか。 ――

 体育館の白いコンクリートの土台が、のめって歩く孝平の視野に入ってきた。探検ごっこのときにはちっとも恐ろしくないのに、叱られて小屋に入れられると思うと、教頭先生に掴まえられている首筋のあたりが、ぞくぞくしてきそうだった。

―― 今なら間に合う。俺だけなら逃げられる。一夫のことなどどうでもいい。 ――

 孝平は、そう考えたが、自分と同様に首を掴まれて、泳ぐように歩いている一夫の姿を見れば、やはり彼も一緒に逃がしてやらなければと思った。

―― そうだ。小屋に着いたときにしよう。教頭先生は戸を開けなければならない。必ず首を一度は放すに決まっている。小屋の前からなら戻らずにそのまま走ればいいんだ。そうすれば砂場の横の塀の破れたところから外へ出られる。 ――

 孝平は、観念した振りをして体の力を抜いた。そのときだった。教頭先生の叫びと一緒に一夫が、

「こうちゃん逃げろ!」

と叫んだ。

 孝平は、走った。振り返ると、教頭先生が地面にしゃがみ込んでいた。一夫は教頭先生の股間に頭を突っ込んでいた。孝平は、走るのをやめた。近くに手ごろの棒の落ちているのを見つけ、それを拾うと駆け戻り、

「やい先生、一夫を放せ。早く放せ!」

 と叫んだ。

 孝平は、教頭先生が一夫を放さなかったら、本当に先生の禿頭を殴るつもりだった。しかし、教頭先生は素早く立ち上がって一夫を放してくれた。

「かずちゃん逃げろ!」

 孝平は、棒を投げ出して走った。一夫も孝平のあとに続いて走っていた。

 二人は砂場の横の塀の破れ目から校外へ逃れることができた。それでも二人は走った。汗が額を下り、胸を流れ落ちても走り続けた。背中でリュックが踊っていた。空っぽの水筒も激しく踊った。そうして、いつも遊びにくる川原の草の中に身を投げた。

 孝平は、リュックを草の上に放り出し、熱い息を吐きながらあたりを転がり回った。二つの川が合流し、広い川原になっているところだった。本流は激しく、小学生は近づくことも許されていなかった。中洲より岸に近いところは流れもゆるやかで、深さも数十センチしかない。孝平は、流れに向かって転がり、そのまま水の中に入ってしまった。

 燃える体の上を澄んだ水が流れていく。息を止めて水底に沈んでいると、一夫が心配そうに叢から首を出して覗き込んだ。孝平が水中から顔だけ出して笑うと、一夫も孝平の横に転がり込んできた。

 シャツやズボンの中に水が入り、自由に動けなくなると、二人は岸に上がって裸になり、再び水の中に飛び込んだ。

 いつもなら、峻険な峰から流れ下ってきた水は、七月の半ばを過ぎてもどことなく寒けを感じる筈だった。しかし、きょうの孝平にとって、冷たければ冷たいほど、体の芯まですっきりさせてくれそうに感じられた。

 すっかり冷たくなった体を暖めようと、二人はよく焼けている一枚岩の上に腹這いになった。あれほど気になった一夫の眇も乱杭歯も、今では全く気にならなかった。

「かずちゃん、さっきは教頭先生に何をしたんだ?」

 孝平は、逃げるときから不思議に感じていたことを口にしてみた。

一夫は奇妙な笑いを口許に浮かべ、

「教頭先生のあそこんところに頭突きをくれたんだ」

 と言った。

 孝平は、一夫の奇抜な攻撃に感心した。前に一夫の石頭を腹に受けたことがあったので、頑固な教頭先生も負けるのは当然だと思った。

「凄いぞかずちゃん!」

 孝平は、動物園見学のときからの意地わるな心を詫びるつもりで一夫の行為を賞讃した。

「こうちゃんだって凄かったよ。俺が教頭先生の股に挟まっていたときにさぁ」

 一夫も頬を真っ赤にして言った。

 孝平は、漸く暖まった背を岩に押しつけるように仰むいた。西の空が夕日に燃えていた。彼は、自分がこんなところで水遊びなどしていてはいけなかったように思ったが、どうしていけないのか思い出せないでいた。ただ、自分を落ち着かせてくれない焦りに似たものが、心の中で入り乱れていた。

 孝平が一夫と別れて家に戻ったのは、太陽が西の山の頂あたりでうろうろしている時刻だった。玄関に飛びこんでいくと、母が孝平の新しい服を持ったまま立っていた。孝平は、母の険しい表情を見上げ、これはまずい、と直感した。

 母は不機嫌だった。孝平は、一夫と喧嘩したことや、教頭先生と戦ったことが母親の耳に入ってしまったのかと、幾分警戒ぎみに、

「どこへ行くの?」

 と、聞いてみた。

「病院よ。洋子さんのところよ」

 母は、孝平の着ている下着が濡れていることなど気にもしないで、新しい服をその上から着せながらそう言った。孝平は、洋子と聞いて全身に電気の走るような恐怖を覚えた。

―― そうだ! 俺は教頭先生と戦ったり、一夫と一緒に水遊びなどしていられなかったんだ。俺のせいで洋子さんは死のうとしているんだ。一夫が弱いくせに組みついてきたからいけないんだ。それに、いつものように早く謝ってしまえばいいものを、俺の真似なんかして黙っているからいけなかったんだ。 ――

 孝平は、洋子のことをすっかり忘れていたことに、腹の底から熱気が泡立つような思いに駆られた。

 教頭先生の手から一夫を救い出せたことや、水の快い冷たさに、自分のおかれている立ち場のことなどすっかり忘れてしまったのだ。孝平は、忘れていた分だけ取り返しのつかないことを想像し、そのため口も利けなくなってしまった。

 三年生は五クラスあった。各クラスから二名の母親が委員として選ばれ、学年の役員会を形成していた。孝平のクラスからは、一夫の母親も委員として選ばれていた。

 病院は孝平の想像していたものより遥かに大きかった。玄関を入っても病院のようではなく、どこかのホテルのようだった。孝平と一夫の親子が入っていくと、八人の母親と八人の子供たちが、神妙な顔つきをして待っていた。彼等の背後に、校長先生や教頭先生と一緒に、周子先生が、学年主任の眼鏡の厚いのをかけた男の先生と並んでいた。

 孝平は、目を大きく見開いて自分を睨みつけている教頭先生の顔を見て、思わず一夫と顔を見合せてしまった。何か言われるのかと、おずおず先生の前に出ていったが、教頭先生はただ睨んだだけで何も言わなかった。孝平にとってそのほうが恐ろしかった。きっと、洋子の上に恐ろしいことが起こったに相違ないのだ。

 病室がずっと並んでいる廊下を静かに進んでいくと、一つの病室の前で、目にハンカチを当てた洋子の両親と妹が、孝平の知らない大人たちと立っていた。

 孝平は、その姿を見た途端、テントの中で言われた老婆の言葉を思い出した。不吉な予感に、孝平は、母の背に身を隠してしまいたかった。

 皆は洋子の両親のあとについて階段を降りていった。夏でも冷たい空気が澱んでいるような地下室だった。普段なら汗をかいた肌に冷気は気持がいい筈だった。しかし、孝平にとって、静寂な冷気の澱みは耐えがたいような寒気を覚えさせた。

 孝平が母の袖に掴まって震えていると、白衣を着た二人の男が、エレベーターからストレッチャーを押して出てきた。四本の足の下に付いている車が、異様な軋み音を室内に響かせて止まった。

 孝平たちはひと固まりになってその様子を見ていた。洋子の両親が白衣の男たちに頭を下げていた。男たちは目礼を返しただけでエレベーターのほうに歩いていった。

 室の真ん中に置かれたストレッチャーの上には、白布を顔にかけた小さな体が横たえられていた。

「洋子です。みなさんありがとうございます」

 洋子の父親が声を詰まらせてそう言った。孝平の周囲から鼻を啜る音が起こった。それが波のように広がりながら高まっていった。中でも洋子の母親の声が地面に吸い込まれていくほど重く耐えがたいもののように室内を圧していた。

 孝平は、あれほど洋子の怪我が自分の心を翻弄していたのに、洋子の寝姿を見たとたん、涙も出なくなっている自分に驚いてしまった。

 洋子の顔を覆っている白布に、自分の目玉が縫いつけられていくような痛みを感じた。目に食い込んでくる針の先から逃れようと、目玉をけんめいに動かしても、針は孝平の瞳の周囲を猛烈な勢いで縫っていく。

 孝平は、隣に立っている筈の一夫がどうしているか知りたかった。しかし、首を動かせば、針の先が瞳を貫いてきそうで、首を動かすこともできなかった。

 洋子の母親が皆のところから離れ、崩れるように座り込むのが視野の端に揺れていた。その背に洋子の妹が顔を押しつけて、小刻みに肩を震わせていた。孝平は、左の肩に微かな震えを感じた。

―― 一夫だ。一夫がまた泣いている。 ――

 孝平は、無性に腹が立ってきた。教頭先生からうまいこと逃げられたときは、二人とも仲よくなったのに。明日の日曜日の約束もしてきたというのに。孝平は、自分の心模様が二転三転することに苛立った。

 一夫の泣き声は肩を接しているのに全く聞こえない。ただ、肩の震えだけが、彼の泣いていることを知らせてくれる唯一の印だった。孝平自身も一夫以上に震えていた。それは泣いているためではない。自分でも抑制できない震えだった。

 洋子の父親がストレッチャーに近づき、洋子の顔を覆っている白布をそっと持ち上げた。孝平は、思わず息を飲んでしまった。白布の下の顔は、ほんのりと赤みがさし、珊瑚のような唇からは、澄んだ歌が流れ出すのではないかと思えるくらいだった。洋子は、地面に倒れているときよりも安心して見ていられる顔色をしていた。

 孝平は、彼女から貰ったノートの一節をはっきり思い出した。

『ほんとうは、マイ ネーム イズ クイーンです』

 という言葉だった。

 最後のクイーンだけは孝平も知っていた。正月に家族でやるトランプの中にそういうのがあった。

―― ほんとうだ。洋子さんはクイーンだ。 ――

 孝平は、洋子の額に垂れている黒髪や、室内の蛍光灯に光の輪を作っている豊かな頭髪を見て、激しく感動した。そうして、神秘的なその光の輪にほのかな期待を抱いた。だが、耳の上に白いものを発見すると、思わず意味のない言葉を絶望的に発してしまった。

 花は萎えていた。それにもかかわらず、白さは薄暗いテントの中より眩しかった。孝平は、自分がこの場に倒れてしまうと思った。痺れる頭の中を、老婆の言葉が回転する。

 固着した眼球を抉り取るように、白い花は穿孔機となって、回転しながら目の中に入ってくる。

―― 白い花を置いたから洋子さんは死んだんだ。 ――

 孝平は、母の腕を求めた。掴まっていないと本当に倒れてしまいそうだった。

 灰色に近い冷暗室に閃光が走った。輝くような原だった。色とりどりの花で編んだ冠を頭に戴いた洋子が、ひらひらと手を振っていた。

 冠の横に挿してある白い花が、鮮やかな光沢を誇らしやかに見せていた。突然、それが冠から発射され、白い花と同じように孝平の眼球に突き刺さってきた。

 次から次へと花は眼球の中に押し入ってくるが、もう痛みは感じなかった。体が目に見えない炎に包まれているようだった。洋子が孝平を手招いている。彼女の輝く顔を妨げるように母らしい顔が目の前に現われた。

 他の顔も幾つか孝平の前に現われた。どの顔も洋子のように輝いていなかった。不思議なものを見るような目をしていた。孝平は、自分が無意識に何かを言っていると思ったが、それが何を意味しているのか自分にもわからないでいた。ただ、洋子の姿を邪魔するそれらの顔が疎ましかった。

 花の咲き乱れる野を洋子が駆けていく。孝平は、彼女を追って走り出した。たくさんの手が蛇のように孝平の身体に巻きついてきた。孝平は、その内の一本を食いちぎって突進した。

 彼の前に立ち塞がっていた総ての想念が晴れると、目の前に美しく化粧をした洋子の顔が現われた。孝平は、彼女の髪に刺してある白い花を取ろうと手を伸ばした途端、口の中にある肉の塊を床に吐き出し、その上に自分も倒れ込んでいった。







     後書

 さて、小説を書くという作業がどれほど精神を傷つけるかを知り始めた頃の作品集をまとめてみました。

 作家の皆さんが、よく一つの作品を書き上げると、何もしたくなくなると言っておられます。私の所属している同人たちも同様のことを言っています。

 筆が黙っていても進む頃には、

「おいおい、何を言っているのだろう」

 と、生意気なことを思っていたものですが、この作品集は、作家の皆さんや、同人が言っていることを生身に感じた頃のものです。

 どの作品も私が四十代から五十代に書いたものです。それぞれに思いを込めてあるつもりです。

『森 亜人作品集 一』として、七編をここでは選んでみました。

 最初に載せた、『暴れ木落し坂』は、視覚障害者の作家、中川童二氏の記念賞を頂いたもので、諏訪の御柱がテーマになっています。

『星の散る夜』は二つの作品からなっていて、どこにでもある家庭の出来事をテーマにしたものです。

 夜、炬燵に足を入れて家族がテレビを見ているとき、ふと耳にした消防自動車のサイレンを聞いて生まれた作品です。

 あとの作品もラジオやテレビを聞いていて頭にふっと描かれた図形のようなものに色を塗り、形造っていったものばかりです。それぞれのテーマの中で、人間を書いたつもりですが…?

 これらの作品集を下諏訪町立図書館さまのお力添えにより、『やまびこの会』の音声訳奉仕者さまのご努力によって完成したものです。

 特に、朗読に当たっては、宮坂美佐子さまには字句や読みの点でご苦労をお掛けしました。ここに厚く御礼申し上げます。

 文字化に当たって、山本晴美さまには、

「この場合いはこの漢字のほうが良くありませんか?」

 と言って、ご協力頂きました。ここに厚く御礼申し上げる次第です。

 特に、人の目に触れてもそれほど恥ずかしくないようになれた蔭には、蠍同人の仲間の優しい(?)かったり、苦言であったりする助言を得たものと思っています。

 ほかにも名前を挙げて御礼を申し上げたい方々はたくさんおりますが、まとめて、ここで皆さまに心から敬意を評する次第であります。どうもありがとうございました。

平成十九年 十二月吉日  森 亜人