闇に溶けるまで その4



森亜人《もり・あじん》



 ミシェルの母親はアルジェリアの貧しい家庭の娘だった。ただ、彼女は美貌だった。彼女には五人の弟妹がいたという。その弟妹たちのために働かなければいけなかった。

 父親はアルジェリア運動民族復興の一員として戦いから戦いに明け暮れ、その居場所も彼女たちにもわからなかった。

 そして、カスバ、つまりアルジェリアの下町の一郭の酒場で身を売るようになった。そのときに彼女を見初めたフランス軍の将校が生ませたのがミシェルだった。

 ミシェルには兄がいた。兄の父親が誰であるかを語る必要もない。また、妹の父親についても同じことだ。ただ、ミシェルたちのような子どもはカスバの街角にいくらでもいたということ。そして、彼らの辿る道筋は誰にもわかっていないということだった。

 ミシェルがフランスへこられたのは、彼の父親が熱心なクリスチャンだったということと、軍隊の中でも上級士官だったということだ。

 しかし、それも父親が存命中の数年間のことで、やがて、父親はアルジェリアでゲリラによって死をもたらされてしまったのちは、ミシェルはフランスのお荷物となったのだ。

 後ろ盾の無くなってしまったミシェルは、十五歳のときから自らの口のために働かなければならなくなったが、敵対していた国の混血児のためにおいそれと仕事が与えられるはずもなかった。

 施設を転々として、リヨンの盲男子の家に移ってきたとき、おれたちが訪ねていったということになる。

 そして、ミシェルが盲男子の家を去った理由は、彼の妹の存在だった。

 彼の妹はどのようなルートでパリに辿りついたのか、モンマルトルの付近にある酒場で働いていた。パリに移動してきた時に兄の存在を知って、うまく逃げ出してリヨンまでやってきた。身も心もずたずたに切り裂かれて兄のもとへ傷ついた身を寄せてきたのだ。
「先輩はミシェルに対する施設や、神父たちの対応に許せないものがあったんだ。諺に、『窮鳥、懐に入れば猟師これを殺さず』というのがあるのにと言っていたっけ。結局、ミシェルはポニャール神父や、メゾンの人たちに迷惑を掛けたくなくて妹を連れて抜け出したらしいんだ。しかし、それから時を経ずして、ミシェルは死体で河に浮かんでいたんだ。むろん、妹の姿はどこからも発見できなかったらしい。」
「そうね。雅純さんは潔癖症だったから。それにクリスチャンだったでしょ。だから許せなかったのよね。」

 午後八時に近づいている。太陽はまだ赤々と燃えている。五年前、先輩と初めて盲男子の家の前に立ったとき、図らずも先輩がつぶやいたことが思い出される。
「なんだか終焉の地に着いたという感じだなあ。これから始まるところだというのに、変な気分だ。」
「先輩は、ミシェルの死後、神は何を見ているのかなあ、といったり、救いってなんなんだ、といって、じっと考え込むようになっていたよ。それに、歩いているときも考え込んでいるから勘違いしたんだろうと思っていたことが何回かあったんだ。」
「どんなことなの?」

 瑠美子は、ポシェットからハンカチを取り出し、ブルーベリーに染まっているおれの指先を拭いながら聞いた。
「すっかり慣れているはずの大学の廊下でもそうだったし、メゾンでも同様の勘違いをするようになっていたんだ。大学では教室へ行くために中庭を通り抜けなければいけないのに、まるきり反対のほうへなんのためらいもなく進んでみたり、メゾンでは、食事のあと自室に戻るだけなのに迷ったりするようになったんだ。」

 思えば、おれは安易に考えていた。独り言をつぶやいたり、方向を間違うのは思念を異にした世界をさ迷っているからだろうくらいに考えていたし、メゾンの住人の誰それとなく、よく道を迷ったりしていることを見掛けたので、視覚に障害があれば当然のことだと思っていたのだ。

 だが、それは安易なおれの考えに過ぎなかった。先輩は心を病み、精神を得体の知れない虫に食われていたのだ。

 夏の夕暮れだった。リヨンへ来て一年が過ぎていた。

 いつものように、七時に夕食のベルが鳴ったので、おれは下の建物に下りていった。

 駆け下っても一分とは掛からない石段は激しい雨で川になっていた。おれは雷が人一倍嫌いだったので、傘も差さずに駆け下った。ほんの一分くらいと思ったのに、下の建物に飛び込んだ時はずぶ濡れだった。

 最近、おれが呼びにいかないと先輩は食堂へやってこなくなっていた。食欲がないというのでもなさそうだった。ただ、自分の身体を移動させるためにかなりのエネルギーを必要としているように思われた。

 先輩の部屋を覗くと、彼はベッドにアグラを組んで何かぶつぶつ言っていた。

 それは言葉というより、人生の慟哭に近いもので、聞こうとして聞き取れるものではなかった。おれは背筋に悪寒めいたものを感じた。

 この思いは二度や三度のものでなくなっていた。前は思い出す程度のものだったが、ここ一ヶ月ほどは、大学へ通うバスの中でも歩く道でも、先輩の心を翻弄しているようだった。

 それなら誰の目にも異常者かというと、えっ?と反論せざるを得ない先輩だった。人との会話は流暢で、的外れなことなど一点もない。ただ、人との交わりを望まなくなったことは誰の目にも読み取れるらしく、しばらく会話を楽しんでいても、先輩の表情にわずかな変化を見つけると、先輩をそっとしておいたほうが無難かな? といった具合に連中だけの会話に移ってしまうのだった。

 おれは先輩の腕に手を添えて夕食に誘った。
「健介、人が人たらんとするとは何か? 人たらんとは何を示していると思う?」

 食堂へ向かう長い廊下を歩きながら先輩が言った。

 こんなことを言うのは珍しい。人にものを聞くこと事態が珍しいのだ。聞いてくれることは嬉しいが、おれに即答できる内容でないことは事実だった。
「おれもお前も人。ここの住人も人だ。で、その人が神という名において、殺戮し合う。こんなこと許せるのか?」

 おれはクリスチャンでもないから、先輩にまともな返事ができようはずもない。黙って彼の腕を取り、おれは食堂へ向かった。

 窓の外は激しい雷雨になっていた。メゾンの人たちの中でも視力のある人が、窓いっぱいにきらめく雷光に叫び声を上げていた。そのくらい激しいもので、窓の外は稲妻が走る度に木立が見えるばかりで、それ以外は闇の底に沈み込んでいた。

 食事中だった。いきなり先輩が
「そういえば健介に手紙がきていたっけ。ちょっと待っていて。」

 というと、おれが
「飯を食ってから先輩の部屋へ寄るよ。」

 というのも聞かないで食堂から出ていった。

 五分六分と時は流れたが先輩は戻ってこない。おれが心配しはじめたころ、メゾンの住人の面倒を見ているマダムの一人が食堂へ駆け込んでくるなり、
「健介、すぐ来て。」

 と呼び、ポニャール神父の耳許に何か囁いた。

 神父とおれがマダムの後ろから廊下を走っていくと、ほかのマダムが階段の下に声を掛けているところだった。

 間もなく独特の少し間延びしたようなサイレンの音がして救急車がメゾンの前に滑り込んできた。それも激しい雨の音で、すぐ近くへくるまで気づかないくらいだった。
「瑠美子さん、どうしてもおれは自分に落ち度があったようにしか思えないんだよ。今になっては後の祭りだが、あの時点で気づいていなければいけなかったんだ。」

 あれから五年という歳月が流れてしまった。先輩は雷雨の音のためなのか、それとも全くの単純な錯覚からなのかわからないが、三階へ上がる階段と思って階下へ下っていく階段へ一歩を踏み出したのだ。

 恰も、先輩と初めてメゾンを訪ねてきた日に、初めて見上げた時に感じた不安が現実になったのだ。大きな荷物を持って階段を登りつめ、思わず振り返った時に感じた不安も同じだった。

 階段の下で、先輩は身体を二つに折るように倒れていた。ドアの上に嵌め込まれたスキガラスに雷光が跳ね返り、地軸を揺すぶるような雨が先輩を押し流してしまうほどに、ドアの下の隙間から流れ込んでいた。
「おれには底のない闇夜のように思えたんだ。暗夜航路というのはあんな闇を歩んでいくことなのだろうかと、変なことを考えていたんだよね。」

 瑠美子と並んでおれはサン ジャン教会の庭のベンチに座っていることがやりきれないほど重く、思いは複雑だった。これで良いという思いもあるし、先輩に対してとんでもなく忌むべき行為のようにも思えた。

 夏の太陽は西の地平線で燃えている。明日には再びパリに戻る。そうすれば、瑠美子と共にヴァカンスを楽しめることになっている。それを実行するためにも先輩とのことはここで解決させておかなければいけないはずなのだが。

 そう承知しているはずなのに、おれの耳朶にあの日の激しい雷鳴と雨音が突き刺さるように聞こえてくるのだ。二度と声を発しなかった先輩の声も聞こえてくるのだ。昆虫の羽音のようでもあり、ガラスを金属製の尖ったもので引っかくような音でもあった。

 いや、これは先輩がつぶやくように言っていた言葉だ。
「あんなに陽気だったはずのミシェルの声なのに、甲殻虫類の羽音のようだ。そいつが神経を逆撫でするような軋み音のように聞こえてくるのだ。」
「瑠美子さん、おれは当分、先輩の幻影から抜け出せないかもしれないよ。でもね、必ずいつの日にか闇に雨音が吸い込まれていくように、先輩の呪縛から解放されるよ。それまで待っていてくれるかなあ?」

 瑠美子は少しおどけた表情で、しかも歌うようにフランス語で
「いつまでもお待ちしていますわ。」

 と言った。

 ―― 了 ――




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