雪解け 第10回
森亜人《もり・あじん》
バシャとの関係が一線を越えていないこともあって、なおさら懐かしさと寂しさを含んだ風が心の中を吹き抜けていく。このどうしようもない気ままさが過去において自分をどれだけ危うい場所に追いやったかしれない。今も再び盲学校の敷地内にあるドームへ戻ってきた一室で、私は試行錯誤していた。
とにかく今はワルシャワ盲学校に迷惑を掛けた分だけ恩返しをしなければならない。その全てを成し遂げてから、とことん考えることにしようと、椅子から立ち上がった。
間もなくバシャがやってくる。きょうは彼女の誕生日。ついでに一週間後に誕生日を迎える私のもまとめてやろうということで、土曜の夜を共に過すことになっていた。
今夜、バシャとどんな過し方をするのか見当もつかないが、今でも独身でいるかもしれない彼女に義理立てするわけでもないが、やはり気持のどこかに、バシャとのあいだで一線を越えてはならないという思いがしきりにうごめいていた。
今なら彼女がどんな場合にキリストを私に先立って選ぶかくらいわかる。言葉数の少ない彼女が、自分の心の全てを語れなかったのが哀れだった。彼女の心情を汲み取れなかった己の了見の狭さが恨めしかった。
彼女がコルベ神父に拘る理由もこちらに来て、氷塊が崩れるように私の心から消えた。彼女の誕生日がコルベ神父の殉教した日と重なると知ったとき、私の心に焼けただれるような熱風が吹き抜けていった。どうしようもない悔いだった。
機会が得られないまま、まだバシャとニェポカラヌフへ行っていない。是非訪問したいと思っている。そこで自分を見詰め直せるかもしれない。別れてきた彼女の心に近づきたかった。そうすればバシャにも近づけそうな気がしていた。
病も癒えて盲学校の敷地内のドームに戻ったのがひと月前だった。五カ月の闘病生活はマイナスばかりではなかった。ポーランド語を学ぶには最高の条件だった。お陰で私の語学力は日常会話ではあまり不自由をしなくなっていた。
太陽が西の空でぐずぐずしている七時すぎ、私はバシャの家のサロンにいた。
テーブルの上には牛乳・赤蕪・ハムなどを使っての冷たいスープが置かれていた。
「改めてナ ズドロービエ!あなたの好きなフォドニックにしたわよ。まあ、あなたというより、わたしの好物かもしれないけれど」
「て言うことは、最後のデザートにナレニシキンが出るっていうわけ?」
「ご明察。あなたの言うとおりよ。白チーズ入りのクレープよ。それではおいやっていうことかしら?」
「おやおや、今夜は引っ掛かってくるじゃないか。どこか風の吹きまわしが悪いのかな」
「とんでもないわ。今夜のわたしは幸せそのものよ。だって、死ぬ死ぬと言っていたあなたがすっかりご丈夫になられたんですものね。もう少しすれば兄夫婦も顔を出すと思うわ。カシャのママもかなりいいみたい。これからは良いことばかりが続きそう」
私は自分の胸の奥がちくりと痛むのを覚え、思わず持ったスプーンに力を込めた。バシャは本当に今夜のパーティーを楽しみにしているようだ。何の疑いも持たないで、私との食事を楽しんでいる。もし、私の胸の中を見ることができたら、きっと彼女は悲しみのあまり、かちんと合せたグラスを放り出して隣室へ駆け込んでしまうだろう。
そう思ったからこそ、私の胸が痛んだのだ。決してバシャを欺いているつもりなどない。このまま彼女と結ばれてもそれはそれとして不満ではないはずだ。だが、やはり心のどこかに別れた彼女の存在が引っ掛かっている。どちらへ転んでも男として損はないなどという愚かな考え方をしたくないし、そんな結果を期待してもいけないのだ。それにもかかわらず、私の心のどこかに吹かれるままに生きていきたいという不確かな精神が横たわっているようだった。
一日も早く結論に到達しなければいけない。誰のためでもない。自分のためだ。自分の思念を固めなければバシャを悲しい思いに落してしまう。たとえバシャと深い仲になっていなくてもお互いに大人。求め合っていることは理解している。しかし、同じ理解でもバシャのそれと、私の思いとでは違っている。あくまでもバシャは純粋であり、私のそれは軽薄なものだ。
バシャも別れた彼女も真面目な人だ。それに比べ、何と私はいい加減な男だろう。いや、決していい加減というのではない。誰も傷つけたくないという思いから、却って人を傷つける結果を招いているのだ。
このやり場のない感情が、盲学校のドームに戻ってきたときから私を責め災難でいる。どちらかを選ぼうというのではない。別れた彼女の言動が、一つ一つ私の心に、まるで地面に打ち込む鋲となって刺さってくるのだった。
バシャと私は誕生日を祝うテーブルに着いていた。バシャは四十歳になるという。グラスを合せたとき、バシャは言った。
「この幸せが世界の人々の上に行き渡りますように」
バシャの言う、この幸せって何だろうか。二人を一つとして考えているのだろうか。それなら私も幸せでなくてはいけない。このままでも自分は本当に幸せなのだろうか。
私は道標を失っているようだ。自分は何を考えているのだろう。バシャに対して何を期待しているのだろう。バシャ自身は私と全く違う考えのなかにいるはずだ。ただ、私が今夜の結合を期待しているにすぎないのかもしれない。
――結合だって!――
私は顔から火の出る思いに、グラスに注がれたばかりのワインを一気に喉へ流し込んだ。その勢いに、思わず咳込んでしまった。
「大丈夫」
バシャがテーブルを周ってきた。いつもの甘い香りが私の官能を刺激する。私は夢中で彼女の首を引き寄せていた。そうしないと、何もかもを彼女に見すかされてしまうような気になったからだ。
私は、自分の心が右往左往していることを隠すのに苦労していた。何か言葉はないかと焦ってもいた。気の利いた言葉が見つからないのをいいことに、私はバシャの首を抱き、唇を求めていた。